帰ることはできない
褒めていただこう、とわたしは留美に口づけをした。これでは道化だなと思いながらもいつも通りに儀式を開始する。
「さあ、朝だよ。今日はとても天気が良いようだ。起きよう。一日が始まった」
「ん〜。なんなの?もう一日が始まったの?」留美はあくびをしながら聞いた。
「そうだよ。僕達はこれから散歩に出かける。太陽の下でゆっくりと歩こう。途中、コンビニによってコーヒーでも飲もう」わたしは留美のオデコにキスをして言った。
「ありがとう。あなたのキスってなんだか物語性があって大好きだわ」
「そうかな。そんなに凝縮されたキスってなんだか重過ぎやしないかい」
「いいえ、そんなことないわよ。薄っぺらなキスなんかいらない。わたしはいつでも濃厚で甘美なキスを望んでいるの」留美はあくびを押し殺しながら言った。
「そうか…、それは良かった。それじゃあ外に出よう」
朝の太陽が我々二人を照らした。空気が涼やかに鼻腔を撫でつける。青草と土の匂いが微かに感じられる。秋の季節が心を温めた。二人して手を取りながら歩いていると季節がわたしたちを呼んでいるような感じがするものだ。枯葉がアスファルトを撫で付ける。なんて素敵な音を奏でるのだろう。
向こうからベビーカーを押した若い夫婦がやってきた。玉座に座るような威厳に満ちた赤ちゃんはピンク色のお洋服を着ていた。
「こんにちはベビーちゃん。これから散歩ですか」
「こんにちは。いい天気ですね」
人生は物語のようでなくてはならない。そう思わせる一日の始まりだった。
帰ることはできない