七月の憂鬱、空虚。過去編
#1いじめ
何げない日々が続いていた。とまあ、普通の日常だ。教室に奏でられる何げない会話。舞浜海憂は平凡な中学2年生。夕凪砂利という友人がいる。その子は大人しいけど、どこか腹黒そうで、スクールカーストでいえば中の上あたりだろう。
理由なんて特に無い。だけど、ギャル風な雰囲気を醸し出し、更には話上手だ。私の話も聞いてくれる。
「みゅー、はよ」
「おはよー、砂利。」
こんなふうに挨拶をして、1日は始まる。
チャイムが鳴って、授業が始まった。
つまらない授業。(早く終わってくれないかなー)と私は思った。
苦手だし、社会人になっても全てが活用されないってテレビで言われてるし、今、やってるところは絶対会社なんかで使わないよ。
溜息を吐く。
「溜息吐いてても、幸せは訪れないよ」と後ろにいる子に言われる。
いや、言われなくても分かってるし。幸せなんてないじゃん。そう私は思っていた。
あの時までは……。
そうして、一日が終わった。
一週間が経過しようとしている。もう木曜日だ。なんか楽しいこと、ないかな~と胸を踊らせていると、1人の女の子が目に入った。
めっちゃ可愛いじゃん。しかも、もてはやされている。ああ、幸せそうなその顔が憎い。地獄にでも堕ちてくれないかな……
そこで、海憂はある思いつきをしたのだった。この子の不幸を味わってる表情を見る為に、どんな手段でも使ってやろうと。
*************
放課後、中庭に出た。植物が蔦のように巻かれている。砂利を呼びだしたのだ。
「ねえ、天光結架って子、いるじゃん?」
「あー喋ったことないけど、知ってる。それがどしたの?」疑問げに聞いてくる。
それは関係無かったら当たり前の反応だ。いきなり、友達でもない人の名前が挙がっても、へ?と返すほかない。
「あの子さぁ、いっつも楽しそうで幸せそうにしててムカつかない?」と投げかけた。
「みゅーの言いたいことも分かるよ。でも、うちはそんなに……てゆうか何とも思わないわ」
「そうなんだ」
「こり、つ、させてみない?」と海憂は提案する。
「でも、どうやって?」と砂利は返した。
砂利の言う通り、孤立はさせようと思ってできるものでもない。少なくとも容易ではないだろう。かなり難易度が高い。
それに、結架はクラス内での人気も高かった。成績優秀で、とってもモテるわけでもないけれど、数人の男子からも好かれている。
その非の打ち所の無さも海憂にとっては目障りだった。
「じゃあさ、麗奈と綾乃をまず結架から引き離そうよ」
「そうだね」と砂利が納得する。
「でさ、結架が実はメンヘラで、陰では超性格悪い、このクラスを嫌ってる人に仕立てあげて、結架がどれだけ実は嫌われてるかアンケート用紙作って、全員分の机に入れておこうよ」あははと海憂が笑いながら言った。
その笑顔に砂利は安心した様子を見せた。ここ最近、海憂はずっと憂鬱そうで、楽しそうなそぶりを見せなくて、つまらなそうにしてたから、友人としては少し嬉しいのだ。
人をいたぶることによって、こんなに笑顔になれるのだと砂利は気づいてしまった。
*************
次の日、金曜日。海憂は作戦通り、朝休みに麗奈と綾乃に聞こえるくらいの耳元で「消えて」と言った。そして、ロッカーを蹴ったりした。
さすがに、これには周りの生徒達も何があったの?と海憂のほうを向いた。
ただ、海憂は「なんかロッカー閉まらなくなっちゃったみたいで……」とそのまま作り笑顔で嘘を吐いた。
それに麗奈と綾乃は「違うよ」と否定したが、海憂と砂利に「さっき、うちらにロッカー閉まらなくなっちゃったって言ってたじゃん。」「黙ってたほうが身のためだよ。」とひそひそ声で制止された。
その時、結架はトイレに行っていて、いなかった。
なんか悪い予感を感じ取ったようで、昼休み、麗奈と綾乃は俯せになって泣いていた。その様子に挙動不審になりながら、結架は(何があったの?)と二人に寄り添っていた。
そんな三人をクラス内の半数は冷ややかな目で笑っていて、それを見ていた砂利は「ちょっと初めからやりすぎちゃったんじゃない?」と海憂に聞くけれど、海憂は無視して結架の戸惑いぶりを冷酷な顔でニヤリとほくそ笑んでいたのだった。
そうして、休日は罪悪感を覚えることもなく、これからの結架の反応ぶりを予想しつつも、楽しみにしていたのだった。お風呂では鼻歌を歌っていた。学校に行くのが楽しみになっていた。
「お姉ちゃーん、まだぁ?」妹の明依の声が聞こえる。
「もうすぐだから、あと2分。」
そう言って、風呂場から出る。
*************
休日はあっという間に過ぎ、月曜日がやってきた。綾乃の姿はない。
今日はただの風邪かなと海憂は思っていた。
そして、休み時間、麗奈に結架には「ちょっと、ごめんね。」と言い、麗奈と話をした。
「あのさ、結架って麗奈の事、陰で罵ってたよ。それにああ見えて裏の顔、酷いよ。このクラスを嫌ってるし、何より男子に対する扱いの酷さ。これ見て?」そう言って見せたのは裸で麗奈の彼氏と写る結架の姿だった。
思わず、麗奈な絶句して身を震わせた。
勿論、合成画像だが、麗奈は信じているようだ。
次に見せたのが、他の男子を蹴る動画で大勢の男子達が蹴られている。結架のことが好きな男子達ばかりだ。それなのに、その男子達は結架のことをなぜ嫌わないのだろうという疑問が生まれたが、それも含めて結架のことが好きなんだという気持ちを海憂と砂利が言ったことで解消はされた。
麗奈の彼氏は他のクラスにいる。でも、他のクラスだからそんなに騒ぎにはならないだろうと踏んだから、彼氏へのとばっちりはあるだろうが、どうでも良かった。
「これは酷いね。それにあたしの汀に手を出すとか最低、許さない」
「あたしでも、裸の付き合いまではしてないのになんでこうなってんの?ほんとお」
麗奈は怒り100%だ。
もう私たちのグループに入ってくれるのかと企んだのか、海憂は「結架には近づかないでね」と言い、それを当然のように「分かってるよ、あんなクソ尼」と侮辱した。
麗奈は割と信じやすい性格だった。その為、使えるかなと砂利が計画していたら、案の定まんまと騙されて、仲間になってくれたようだった。
すぐに火の粉は結架に飛んできた。休み時間が終わる直前。
「ちょっと、あんたさぁ、ふざけないでくれない?」怒り口調で物申す。
「何?麗奈ちゃん、目付き怖いよ……」
「あたしの汀と陰でエッチしてるとか意味分かんない」
そんなこと知らないという顔をする。
「私のほうが意味分からないよ。そんなことしてないもん」と結架は言った。
「嘘吐かないでよね、もう友達やめるから。それに陰で男子達をいじめてることも知ってるんだから」と言いきった。
そして怖い休み時間が過ぎた。
授業中、麗奈はずっとモヤモヤしていた。先週からのロッカーが蹴られた不可解なこと、彼氏との画像、結架の暴行動画、全てが結架が関わっていると察した。
全ては結架のせい。こうなったのも結架のせい。そう信じていた。
そして、そのモヤモヤを払拭する為に結架にプリントを千切って、そこに悪口を書いて、結架に届くように送った。
その紙を見た結架は暗く、机に向かって下を見ていた。
*************
昼食はいつもは麗奈と綾乃と結架で食べていたが、その日は結架は一人で食べていた。
麗奈は分からなかったが、誘われたので海憂と砂利と一緒に昼食を食べた。結架の陰口ばかりしていた。
計画通り、結架への孤立化作戦は成功したのである。
あとはアンケートだけである。
アンケートでどれだけの人が結架を嫌うか。そこに懸かっていた。
直筆で『死にたい。生きてても楽しくない。このクラスにいても楽しくない。成績悪いし、正直、私のレベルとは大違い。滅びてしまえばいい。』と書かせようと海憂はしていた。
この文の“生きてても楽しくない”は海憂の本心だった。
放課後、海憂と砂利は結架を呼び寄せ、誰もいない教室でこういうふうに書けと命令して、書かせた。途中、恐怖と緊張で泣いていたけれど、涙で用紙が濡れてふにゃふにゃになってもいけないので、泣き終わった後に何度もリトライさせながら書かせた。
そして、終いには所持していたカッターで砂利は結架の腕を切りつけ、両腕を切り裂いていった。
「痛い」そう言うがやめてはくれない。
後ろから海憂に押さえつけられていた。
抵抗することはほぼ不可だ。
リストカットの痕のように手首をカッターで深く切られる。
いいところまでいったら、ようやく、やめてくれた。
自殺したい少女風に仕立てあげる為だ。秋といってもまだ最初の頃なので、半袖だ。隠すこともできない。
そのアンケートは2~3日でコピーが完了した。結架直筆なので、本人の物であるのはもちろん、それを「こんなふうに皆のことを思ってるんですよ、天光結架さんは。どう思いますか?裏ノートに書かれていたものです。偶然にも先生は見つけてしまいました。教卓にアンケートの回答は提出して下さい。」と添えられているため、自演と疑われることも確率は低くなりそうだ。
そのアンケートに書かれている文章が無理やり書かされているので、嘘なのは当然だが、友人にも見せていない初公開なものなので、戸惑う生徒も出てくると思う。
結架の字は成績優秀だったので、テストの終わりなどに「見せてー」とか「結架ちゃん、何点だった?」とか言われていたから知っている人は多い。結架の字は丁寧で美しい字だ。
だけれど、こんな状況で書かされたのでいつもよりまっすぐな線が歪んでいたりする。でも、気にする人はそんなにいないだろう。
それに文面の内容も辻褄が合っている。
アンケートは金曜日の放課後に海憂が全員分の机の中に入れておいた。週末明けの月曜日に机に入っていたというドッキリみたいなものだ。
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今週の水曜日の昼休み、麗奈は汀を問い詰めにD組に駆け走っていった。
「ねえ、汀!私に隠れて結架と付き合ってたってどういうこと?しかもヤってたとか」と憤慨した。
「知らないよ、俺」
「結架とはろくに話したこともないし。」
汀は自分の疑惑を晴らすために、無実だと説得しようとする。
だが、麗奈は信じてくれないので、ついには、「もう、汀とは別れる」と別れを告げてしまった。
「俺は麗奈が好きだ、今もその気持ちは変わらない。だから、お願い。待ってくれ」と追いかけようとしても逃げてしまった。
そして、麗奈と汀は今件の影響で別れることになった。これは二次被害だ。
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そして、ついにこの日が来た。教室内の生徒らは騒いでいた。結架の腕や手首にはまだ傷痕が残っており、アンケート用紙を持つ生徒が何人もいた。
期日は今日が終わるまでと紙に書かれていた。あとは回収するだけだ。しかし、海憂と砂利が制作したものだとは知られてはいけない。いかに教卓の上のアンケート用紙を回収するかが唯一の難点だ。
バラバラに置かれていたアンケート用紙を集め、砂利がこういうのが得意だったので砂利に任せた。砂利は海憂じゃない友達と喋っているふりをして教卓からさっと後ろに隠して、喋り終わったら自分の席に着いた。
「ねえ、砂利ちゃんー結架ちゃんがいきなり自殺願望を口にして、悪口書いてたの知らない?」と女子生徒が言う。
別の女子生徒も「あー机の中に入ってたよね。ちょっと怖かったっていうか不気味だった。私は破って捨てたわ。」と口にした。
(破って捨てた?)驚愕な表情を砂利はした。破って捨てる人もいるのだと。そしたら、正確な嫌われ度が分からないじゃない。
その直後、砂利は何事もなかったかのように「うちの机にも入ってたよ。自殺願望は知らなかったけど、悪口書くのは結架にもある事じゃない?だってああいう子に限って裏の顔がヤバいじゃん」と無表情で言った。
実際、海憂と砂利の机の中にはアンケートなんぞ入っていない。ただ、嘘を吐かないといけない為、砂利はそのように言った。
「ほら、見て!あそこ、結架の腕!血が固まった痕があるよ」そう、砂利は指を指す。
「ほんとだ、死にたかったのかな……」
「病んでるね」
砂利らがやったと気づかせないように平然を保つ。作戦通りに行けば、メンヘラな結架の印象を与えることができる。
「陰でいじめられてたり、成績優秀だったから悪口言われたりはあったんじゃない?」と砂利。
「確かに」
「知らなかったんだけどそうなんだ。砂利ちゃんが言うなら、説得力ある気がする」
みな、結架への関心はそんなにないようだ。あと、砂利は“ちゃん”付けされることを毛嫌いしている。もともと砂利はじゃりとも読めるし、親が適当に付けた名前だからだ。親からの愛情もあまり感じられない。まだ、呼び捨てにされたほうが砂利的には良いらしい。
海憂は担任が教室に入ってくるまでに置いてある全てのアンケート用紙を回収した。
だが、もう一つの問題も浮上してきた。
「せんせー、結架の裏ノートってどこにあったんですか?」
「アンケートってせんせーが作ったんですか?」
次々と疑問が投げかけられる。朝のHRの時間だ。
「何の話ですか?天光さんがどうかしましたか?アンケートなんて作っていません」担任の先生は毅然とした態度を取る。
「みんなー静かにー」海憂が言った。
(これじゃあ、バレバレじゃん)と砂利は思ったが、声には出さなかった。ここで言っても仕方がない。担任に飛び火するだろうと予想は立てていた。
謎のアンケートは謎のまま、回収だけすればいいやと思っていた。だから、生徒の数人は半信半疑でいた。
デマを信じてしまう生徒もいるので、その生徒をターゲットとして仕掛ける。あとは取り巻きの人に加わるかどうかが問題だった。
そうして、授業が続き、海憂は窓を見つめて黄昏ていた。これからどうしようか……。
デマのアンケートを配った背徳感と高揚感と達成感に溺れていた。
週が明けた今日も綾乃は学校に来なかった。先週の今日の曜日から一度も姿を現さない。
(こうなるとは思ってもいなかった)と海憂は思っていた。
休み時間や昼休みにもちょくちょく、アンケート用紙が提出されていた。
用紙を見て、うわあ凄い嫌われ率と思った。それに余白の自由に書いていいです欄には裏切られたとか信じられないとか天光さんは成績優秀で優しい子だと思ってたのにショックなどの声が寄せられていた。
アンケート用紙には普通という選択肢は無く、好きか嫌いかという単なる質問だった。いじめの策略なども記されていない。そして、本人―すなわち海憂と砂利―はいじめだと認識していない。
*************
帰りは砂利と一緒に二人で帰った。下駄箱付近で、「あのさ、結架の靴、隠さない?」と海憂は言い始めた。
「え、それじゃ、帰れなくなっちゃうじゃん」と砂利は言った。
まだ、砂利のほうが優しい心を持っていた。
「でも、いいじゃん。そのほうが面白いし。靴、持って帰っちゃおうよ」と海憂は悪戯な笑みを浮かべながら、結架の靴を手に持った。
「え、うちは止めないけど……」砂利は引いている。すごく地面に落ちている虫の死骸を見下ろすかのような目で海憂へと視線を向けていた。
「その靴、どこに仕舞うの?」
「袋の中、でバッグに入れればいいじゃん」当然のように軽率に海憂は言う。
その様子を見ていた砂利は「何が起きても知らないからね」と言葉を投げ捨てた。
学校を出てから海憂と砂利はあまり喋らなかった。
最初に口を開いたのが砂利だった。
「で、アンケートの結果、どうだったの?」と急に聞いてきた。
アンケートが今日が終わるまでだったので、部活がある人を待つためにずっと遅くまで待っていた。
クラス内の結架以外の生徒が帰るまで、靴の数や教室に置いてあるカバンをチェックして、海憂と砂利は帰らずにいた。
結架はというと最終下校時刻が終了するまで絶対に帰らないでねと脅しておいたので、結架は言われた通りに帰らなかった。結架は人思いで、純粋を象ったというそんな人物だった。
だから、命じられた通りに行動していた。いじめの対象にされてもおかしくない、弱い人間だろう。
「アンケートは嫌い率、47%だった。さっき、計算した」
「本当?みゅーの計算ミスとかない?あとさ、アンケート破って捨てたとか言ってた子もいたよ」と砂利が言った。
「だから、生徒数おかしいなと思ってたんだ~やっぱり、変だよね」と海憂は納得の表情を見せた。
確率で言えば47かもしれないけれど、本当はもっと嫌われているかもしれない。
「それよりさ、学校の近くにあるクレープ屋、知ってる?パフェも食べれて美味しかったよ」話題を逸らしてきた。
「知らない。美味しそうだなぁ」と海憂は言うけれど、美味しそうだなぁの口調が棒読みだ。
「じゃ、寄らない?」
「いいけど、私、お金持ってないよ?」
「それに夜、遅いじゃん。親に心配されない?」と海憂が言った。
が、砂利は「うちの親、共働きで夜遅くにしか帰ってこないから」とぼそぼそと哀しそうな目で吐き捨てた。
砂利は小さい頃からあまり両親の愛情を感じてこない家庭環境で育ってきた。20時頃までの留守番なんて慣れたもんで、母親はパート(非正規社員)だが、夜遅くまで遊んでいるのだろう。育児放棄といっても過言ではない。事実、子供は望んでいなかったらしい。一人っ子だ。きっと長い間、寂しい思いをしてきたに違いない。留守番中、ひとり泣いていたこともあった。だけど、弱い部分を人に見られたくない性格なので誰かに悩みを打ち明ける事もなかった。
海憂はお金を持っていないが、砂利が数万円を手にしていた。
「うちがスった金で足りるでしょ?」
「スリ、ってえ、犯罪だよ」
「大丈夫だよ。スリってスリルがあっていいよねー、ダジャレみたい」笑いながら言っていた。余裕な表情だ。
「まあ、うちのお小遣いも少しは入ってるよ」
あっという間にクレープ屋というかお菓子屋に着いた。
そこでクレープを食べて、勉強も少しして、テイクアウトまでして帰った。砂利に罪悪感なんてものはないのかと疑問を覚えたがそこには触れなかった。
ケーキやパフェを買って帰った。
だが、砂利は問題ないけど海憂の家は寄り道なんて許されない家庭なのでバレたら母親に怒られる。
海憂が家に帰ると「こんな遅くまで何やってたの!」と怒る母がいた。
そして、袋で寄り道していた事もバレた。
「あっ!お姉ちゃん、ケーキ!それにパフェもあるー」と明依が輝いた目をして言ってきた。
「もう、今回だけだからね。寄り道も砂利ちゃんとでしょ?今度、砂利ちゃんの親とも話すから」とキレた口調で呆れ混じりに言い放った。
*************
海憂と砂利がクレープ屋に寄っていた時、結架は制靴が無い事に気づき、焦っていた。どうやって帰ろうかと。誰かが隠していると嫌な予想をした。仕方なく、運動靴で家へと帰った。
家へと真っ暗闇の中、一人で帰ると幻聴みたいなものが聞こえた。
《結架ちゃん、ひとりぼっちだね》
《みんな、最初から結架ちゃんのこと、嫌いだったんだよ》
《死ねばいいのに》
《このクラスからいなくなって》
(嫌だ……やめて!)街中で泣き出してしまった。嗚咽しながら。それに街を歩く人々がぎょっと見て、失恋でもしたのかなと思われていた。
家に帰ると海憂とは違って、怒るというより、抱きしめてくれる母がいた。何故なら泣いていたからだ。心配をかけたくないという想いから涙を必死に拭おうとするが、涙は次から次へと零れ落ちてくる。
それに制靴ではなく、運動靴で帰ってきている事にも気がついた。
「学校で何かあったんじゃないの?」
「なんにもないよ」
「いじめられてるなら、早めに言ってね」と結架の母は優しい言葉で包み込んだ。
(制靴を無くしたことは確かだ……でも、隠されたという確証はない)と結架の母は考えていた。
それに腕にある傷痕、手首の傷痕、それにも母は気づいていた。自分でやったのか他人にやられたのか、分からない。
すぐさま、結架の母は学校と教育委員会に問い合わせをした。
今日の夜、結架は泣いてばかりいた。お風呂でも悔やんで、自分の何が悪かったのか考えて、泣き続けていた。
*************
次の日、学校に行くと案の定、デマを信じた集団に罵られ、自殺の練習をさせられた。
他にも「優等生ぶってる」とか「消えろ、死ね」とか「性格悪い、男子可哀想」などの悪口や暴言を言わせられた。
ポニーテールだった髪も引っ張られながら、切られて、教室の床に落とされた。シュシュやピンも外され、「ハゲ」や「髪の毛の長さへ~ん、揃ってない」と言われ、嘲笑われた。
「死にたいんでしょ?死ねば?」と言われながら、ベランダへと連れていかれ、校庭に向かって身を乗り出される。
リストカットの痕も目に見えて分かる。筋が通っているいじめに加担する人も増えた。
麗奈も噂を広めたのだ。
「麗奈の彼氏奪っておいて、反省の色もないのかよ」と女子生徒に言われる。
「こんなのが友達だったなんて、未だに信じられない。嫌になってくる、早く気づけばよかった」と麗奈が言った。
麗奈の彼氏とあんなことをしていた事はクラスを跨いで知れ渡っていた。
「麗奈、かわいそー」
「ほら、麗奈に謝れよ」と別の女子生徒にも言われた。
汀もまた、浮気していたという件でいじめの被害に遭っていた。虚偽の事柄だが、汀が否定してもそれを信じる人は現れなかった。別のクラスでの事だ。あの写真も麗奈がグループLINEで流したので出回っていた。おかげで「キモい」などの悪口を浴びせられることになってしまった。
結架の机には罵詈雑言を含む、卑猥な言葉も含んだ落書きが乱雑な字で殴り書きされていた。
授業が始まり、HRも始まるので消しゴムで消そうとしても消えない。雑巾を使って、水で湿らせた後に消そうと考えたけど、雑巾もまた汚かった。便のようなモノが付いており、カビていて、緑色に変色していた。
これも海憂と砂利と麗奈らの策略なのだろうか。
水に濡らそうとすると雑巾に泥水をかけられ、蛇口を止める女子生徒が周りにいた。
(これではもう無理だ)と思ったのか、結架は諦めた。
こうして、落書きが書かれたまま、授業が始まったのだった。
*************
月日は過ぎ、9月が終わり、10月に入るとさらにいじめはエスカレートした。
ちょうどその頃、結架の母が問い合わせをした内容の返事が学校からも教育委員会からも返事が寄せられてきた。しかし、証拠不充分としていじめの捜査などはしてもらえなかった。結架の母はいじめが原因で娘が死んじゃうかもしれないんですよ!と再度連絡したが、力にならなかった。
もし、厳密に調べられたとしても、いじめが認められても、加害者が退学させられるわけでもない。つまり無意味だ。
物が隠されたりは日常|茶飯事、結架は殴られたり、蹴られたり、平手打ちを喰らったりで、とてもいたぶられていた。
さらには制服を鋏で切られたりという被害にも遭っていた。
男子達の見世物にするためだ。それを見て楽しむ男子もいた。結架の事が好きな瀬戸内湘と双子である碇にとってはご褒美のようだった。じーっと見ていた。
庇おうと思ったけれど、とても勇気が出なくて言動には移せなかった。
二人は結架に恋愛感情を抱いていたが、どうすることも出来ず、悲しんでいたというか、虚しさだけが残って、自分に嫌気が差していた。そういう姿を見てつらいと思っていたけれど、いじめられている結架が一番つらい。早く終わってくれないかなとだけ密かにこの気持ちを心に留めていた。
双子だけれど、同じ人を好きになるなんて偶然だ。似た者同士なのかもしれない。
授業中、(いじめに負けてはいけない。このせいで成績を落としては勿体ない)と思っていた結架は集中して真剣に取り組んでいた。
が、途中消しゴムやシャー芯のような細い棒のような物が頭に当たってくることもあった。
だけれど、それでも授業には集中しようとしていた。
別の日の昼休み、トイレに行こうとして、用を足し、手を洗おうとしたその時だった。
バケツに入っている泥水を頭からかけられた。洗面台の目の前だった。これをしたのは麗奈とその他いじめっ子メンバー達だ。海憂も砂利もそこにいた。
結架は吃驚して、これまで出したことのないような悲鳴を上げた。
「きゃーぁあああー」顔も泥だらけだ。洗面所の水で顔を洗う。切られた制服から新しくした制服も着替えなければいけない。
嘲笑う声が女子トイレ内に響く。
「ほんと、やめてよね」
「大きな声、出さないでよ。目立つじゃない、バーカ」
どうやらこのいじめは麗奈の彼氏との裸の付き合いを嘘だと証明して、許してもらわない限り、永遠に続いていくのだ。厄介でしかない。
火種を蒔いたのは海憂と砂利の二人だ。
いじめを計画したのは海憂で、主犯格も海憂だが、麗奈がしていることは海憂を越える酷さだった。
10月の終わり頃、海憂に命じられて、砂利と麗奈は結架のカバンに砂を入れていた。麗奈とはあまり距離が取れないでいた。海憂と砂利は親友だったが、麗奈とは友達ですらなかった。たまたま仲間に加わってくれた子だ。
「もう、腕疲れた」と砂利が嘆く。
「は?まだまだだよ。もっともっと。ていうか、体力無さすぎじゃない?」と海憂が立ちながら言った。
「だったら、あんたがやってよ」とスコップを持ちながら、嫌そうな顔をした。砂利はそこまで体力が無いわけではない。普通だ。
砂利と麗奈はしゃがんでいる。
麗奈は蟻を潰して、それをカバンに入れる係だった。麗奈は名前と比例するかのように虫が大の苦手だった。
「きゃあああー」麗奈は足に蟻が登ってきたので叫喚を上げた。
いきなりの悲鳴に驚いた顔を見せつつも、麗奈をそんなんでビビってんの?というふうに海憂と砂利は見下した。
「大丈夫だよ、ちっちゃいし。潰せば死ぬよ」と命を重んじず、殺生を勧めるように砂利は言った。
「だって、怖いよ。痛いし」泣きそうな目で訴える麗奈。
二人は指差しながら、冷やかしをまじえ、笑っていた。
これでは海憂と砂利が麗奈をいじめているみたいだ。
麗奈は足に登ってきた蟻を手で潰した。そして、手を洗って帰ってきた。
「砂利ちゃんって三つ編みにツインテールでかわいいよね」ふいに麗奈が話しかけてきた。麗奈は砂利とは仲良くなれば、優しくしてくれるのだと思った。実際、砂利は第一印象も関わっても怖いイメージだ。
ギロリと鋭い目つきで麗奈は砂利に睨まれた。
「え、あたし、何か変な事言った?」
戸惑った様子で麗奈は聞いた。
「砂利はちゃん付けされると嫌がるからやめたほうがいいよ」と海憂は言った。
「この際だから、渾名で呼び合おうよ」と砂利が提案した。
「うちが“さり”で海憂が“みゅー”で麗奈が“れーな”ね」と言い、渾名で呼び合うことになった。
「さ、砂利その髪型って自分でやったの?」と麗奈は聞いた。
「そーだけど。」
「いつも大変じゃない?」と麗奈に聞かれる。
「そうかな、これが普通。ささっと慣れれば出来るよ」平然と答える。
「凄いね」と麗奈。
「そーかな」
砂利はとてつもなく手先が器用だ。
「じゃ、髪、ゴム外したら結ってあげるよ」
「え、本当?嬉しい」
で、結局、麗奈の髪を編み込みにして最終的にはポニーテールにしてあげた。
「可愛い、上手く出来てる」と後ろから見ていた海憂が褒めた。
「触ってみて、丁寧に結わいてくれたのが分かる、ありがとう」と麗奈が礼をして言った。
「それは良かった。どういた」と砂利が言った。
「鏡あればいいのにー」と麗奈が理想を口にした。
「ほい」カバンから鏡を差し出した。
「砂利ちゃん!」
「あ゙?あんだって?」怒りを砂利は露にする。
「ごめん、つい……。砂利、怖い」思わず、麗奈は本音を口にしてしまった。
「わかるー」海憂も賛同する。
「あんたまで殺されてぇのか」と言いながら、砂利は海憂の頬をつねる。
「いたたたた、素でこれだからね」と海憂は教えた。
「そうなんだ」素直に麗奈は納得した。
砂利は手際良くスコップで砂を入れていった。その表情はどこか楽しそうだ。昔、砂利は小学生だった頃、名前が原因で複数人に砂をかけられ、いじめられていた過去があった。
(なんか、腕が進むなぁ……楽しいなあ、やばい。気持ち良い)
砂利は自分の過去の体験を再体験することで快感を得ていた。
「砂利、疲れてそうに見えるけど楽しそうだね」と海憂が言う。
「だね。めっちゃ気持ちいいわ。」運動してきた後の水を顔に浴びたような爽やかな面持ちをしていた。
「これ、どのくらいまで入れればいいの?」
「七分目まででいいよ」と海憂が言った。
「おーけー」
そして、砂はカバンを埋めつくすまでに入っていた。そして、蟻の死骸も中に紛れこんでいた。
麗奈は海憂と砂利に「彼氏とかって作らないの?」と聞いた。
海憂は「作る気もないし、恋愛のどこが楽しいの?」と言った。
「え、楽しいじゃん。私は汀とキス出来て幸せだったなぁ~あんなクズだと知るまではね」と夢見心地な表情で語る。
幸せをぶち壊しにした二人は俯きながら、黙りこむしかなかった。
「砂利は?」と聞いたが、「うちのペースに合わせてくれる人じゃないとねー正直、今まで出会ってきた人に当てはまる人はいなかったから」と呟いた。
「あーそっか。言ってる事は分かる気がするけど、砂利は性格がキツいからね。難しいかも」と麗奈は返事した。
「なんだって?」とキレ気味で砂利はツッコむ。
そうこうしているうちに、七分目まで入れおわり、どうやって運ぶか考えていたが三人で協力して教室の結架の机まで運ぶことになった。
運び終わった後、麗奈が砂利の話題を振ってきた。麗奈は砂利の事が好きなんじゃないかと思えるくらい詮索してくる。興味は持ってくれているようだ。
「砂利って、何でもそつなく物事を片づけていけるイメージあるよね。それに苦手なもの無さそう……」
その言葉に異論がある海憂は「砂利、ジェットコースター苦手だよ。物事をこなしてるように見えるのは錯覚か勘違いだよー」と言った。
言ったほんの数秒後に足を蹴られた。
「あのさ、あんたさ、タイマン勝負でもしたいってか?失礼すぎじゃねーの。うちは一対一で張り合いたいならいつでもウェルカムだけど」
「砂利ちゃん、落ち着いて」と麗奈が諭す。
だが、砂利は更に眉間に皺が寄った。
「お前は黙ってろ。あと、ちゃん付けするなって言ったよな?」と砂利は麗奈に向かって言った。
「もう、そんなに怒らないでよ。許してちょ」と海憂。
「ウザい。許したくねーわ。」
「許して。絶交とか早まらないで」と海憂は焦りつつ、せがんだ。
「まあ、分かったようで分かってないけど、そうやって秘密を親密じゃない相手にベラベラ言いふらさないで。次はないからな」と砂利は言った。
「失礼な発言したのは悪かったけど、ジェットコースター苦手なのは本当なんだよ」と海憂は追いうちをかける。
「だ~か~らー追いうち、かけんなっての」と砂利がぼやく。
「もしかして、一番、言われたくないのそれだったの?」と海憂が聞いた。
「そうだよ。秘密にしてって言ったじゃん」と砂利は恥ずかしがりながら言った。
「言ってたっけ?」海憂は忘れたかのようにきょとんとした顔をした。
「まあ、いいけどさ」
三人は授業をサボっているのだ。専科の授業だった。あたりは夕焼け色に染まっている。もう5時間目の授業が終わる頃だった。もちろん、教室の鍵は砂利の手柄で所持していた。
「そういえばねー聞いて!れーな。砂利はね、去年、一緒に遊園地に行った時、ジェットコースターが怖くて、さっきのれーなみたいに悲鳴上げて泣いてたんだよ。砂利が泣くとこ、その時初めて見た。それっきり見てないし、もうこれっきり見れないのかな」と麗奈に向けて言った。
「あんさあ、さっきうちが言ったこと、覚えてる?次はないって」気づいた時にはグーで殴られ、後ろに尻もちを付いて、スカートの中を蹴られていた。太ももや足首も蹴られた。
「ゆうな!!!」砂利は思いっきり叫んだ。
廊下中に叫び声が響く。
「痛っ、マジで痛い……。本気で暴力振るわなくていいじゃん。しかも何でそんなに怒るの?もう、れーなも友達じゃん」と痛みを必死で抑えながら言う。
「人をあんまり信用しすぎるな」小声で海憂にそう呟いた。
「それって、みゅーが砂利を泣かせたんじゃなくて?」と麗奈がひとりでに言った。
「それな」
教室に着いた。結架の席の机の上にカバンを置いた。秋色の葉がひらりと舞い落ちる。それは教室の窓からも見えた。非常に美しい光景だった。いじめという愚かな美しくない行為とは対照的に。
「重かったぁ」口を揃えて三人が言う。
ひと仕事を終えたようだった。
だが、授業が終わっても結架は専科の授業から帰ってこなかった。その授業でもいじめられて、怪我をして保健室にいるようだった。
当然、カバンのチャックは閉まっている。
作戦は難航していた。
放課後、結架は保健室から帰ってきて、カバンのチャックを開けたが、リアクションは薄かった。もう慣れたようだった。6時間目の授業の担当の教師もカバンの存在にも目もくれず、結架がいないことにも特に心配する様子はなかった。
カバンの中には蟻の死骸とともに枯れ葉やどんぐりも入れておいた。
教室のベランダからカバンの中身を篩い落とした。砂も同時に払った。嘲笑う生徒達の声。その声を無視して、結架は感情を捨てるかのように怒りをぶつけるかのように落としていた。
*************
「あ、そうだ!今度三人で遊園地に遊びに行かない?」海憂が二人に提案した。
「なんでそうなるんだよ、死ね」砂利は猛反対している。
「いいねー、それ」麗奈はノリノリで行こうよと賛成している。
「砂利もね、行こ!」と強引に麗奈は嫌な顔をする砂利に誘う。
そうして、多数決で遊園地に行くことになった。
10月下旬の連休、砂利は嫌がっていたが、海憂と砂利と麗奈で遊園地に行った。砂利はメリーゴーランドを意外にも気に入っており、嫌々ながらジェットコースターにも乗らされた。
悲鳴を上げていたけれど、泣きはしなかった、流石に。
最後に観覧車に乗り、乗り終わった後、記念撮影をした。スリーショットの隣に白文字でR・S・Mと書いた。三人のイニシャルだ。皆で来た記念にもなったし、良い思い出にもなった。息抜きにもなって肩の力も抜けたことだろう。砂利は怖がっていたけれど、海憂と麗奈がいるから大丈夫だと暗示を掛けた。砂利は高所恐怖症なのだ。
11月に入っても結架へのいじめは続いた。
9月や10月にしてきたものと同じ、物隠しや暴力や自殺の練習やら机の落書きなどだ。
黒板に結架の単純な悪口や汀との裸の付き合いに関連した卑猥な事まで書いてあった。
*************
11月の中旬、とうとう結架は家出した。学校にも姿を現さなくなった。
一つのメモを残して。
学校には“天光結架です。皆に嫌われています。嫌われた原因も私が悪いのです。麗奈の彼氏とはあんなことはしていません。嘘です。信じて下さい。酷いことをもうしないでね、みんな。せめて一人くらいには好かれる人でありたかった。麗奈と綾乃と最初、仲良かった頃は楽しかったです。ごめんなさい、許して下さい、神様。学校からはいなくなります、さようなら。みんなは楽しい学校生活を送って下さい。先生もありがとうございました。”と。
家には“お母さん、お父さん、迷惑ばかり心配ばかり懸けてごめんね。学校で酷い目に遭っていました。これは本当です。家からもいなくなるけど死なないから。生きているから、捜索願いとかはかけなくていいからね。産んで育ててくれてありがとう。また逢える日を楽しみにしてるからね。とにかく心配かけるけどこれからも見守っててもらえると嬉しいな。それじゃ、バイバイ。”と。最後に名前と日付をいれて。
その頃、結架は一人で川が目の前に流れる芝生がある位置に座って佇んでいた。
佇む少女を見た30代くらいの男性は結架に声をかけた。傷だらけの身体を見て、心配してくれたのだ。当然ながら下心は無い。
「大丈夫?もう夜、遅いよ。家族心配するよ」と優しい声で投げかけた。
「家族はもういいから。ここで寝るの。」グレた少年少女のようだ。
結架には体力も生きる気力も無い。
「とりあえず、今夜は俺の家に泊まっていって。そんな所で一夜を過ごしたら風邪引いちゃうし、今後の事はこれから考えよう」そう言われ、男性の家に行った。今晩は泊まり、招かれた家の中には20代後半くらいの女性が一人いた。結婚しているのだろう。いや、結婚している。
男性は警察にも児童相談所にも通報しなかった。救急車も呼ばなかった。結架が望んでいたからだ。そしてそれを男性は察した。当時は虐待も疑われていただろう。でも、今は学校での事を話し、それを信じてくれている。
女性は最初、男性の言ってる事を受け入れてはくれなかったが、経緯を話し、やっとの思いで受け入れてくれた。一晩だけと許してくれた。
その後も住まわせることになったけれど、自然と結架は溶け込んでいった。
誘拐だと警察に思われては元も子もない。18歳になるまでと約束した。学校には行かせなかった。高校も当たり前だが行かなかった。
5年経った今もこの家にひっそりと住んでいる。19歳になって遠方の職場で働いている。これからこの家を出て、別の家に住む予定だ。
*************
結架がいなくなったことにより、いじめのターゲットがいなくなったから海憂はまた空虚な日々が続いてしまうと溜息を吐いていた。
そんなある日のこと。結架が好きだったという瀬戸内君二人に、海憂と砂利と麗奈の三人は声をかけられた。
「ねえ、そこの三人?」
「何?私達の事?」
「呼んでる?」
「そう」二人は冷静な表情で頷き、言った。
「て、てゆうか見知らぬ顔だね。誰?」
「僕らは瀬戸内湘と碇で双子だよ」
その返事に「あ、あぁ……」と麗奈と砂利は呆気に取られていた。
瀬戸内双子は結架に好意を寄せていたという噂が立っていた。海憂は情報を仕入れる量が少ないのか知らなかった。少なくともいじめグループ側の人間ではない。結架に好意を寄せていようと見向きもしなかった。いない存在として砂利は扱ってきた。
「何?今更、うちらに用があるわけ?」と砂利は言う。
「用は無いけど、いじめられなくなっちゃって、今つまらないでしょう?」
「はぁ?いじめてないし」三人は口を揃えた。
「まあ、僕達の話を聞いてよ」と三人を誘う。
「何?手短に終わらせてね」
「了解」
「ムカムカしてもモヤモヤしても気持ちよくなれる薬があるの。持ってるけど、飲む?」と紹介した。
「え、何それ?」物珍しそうに三人は見ていた。
麻薬の説明などは学校の授業で受けていた。
だが、三人はそれが麻薬だとは気づかなかった。
「それに、どんなに嫌なことがあっても、今までの嫌な過去も全て忘れられるよ」と双子は唆す。
その言葉に砂利は食いついた。嫌な記憶でもあるようだ。
「本当?嘘だよね、飲んでから決めるわ」
「飲むんじゃなくて、吸うんだよ」その声は低く、深く、どことなく闇に満ちたダークだった。
「舞浜さんも毎日が憂鬱なんでしょ?気持ちよくなれるよ。気分が晴れるみたいに」と誘った。
「じゃあ」そう言って、カプセルを手にした。
麗奈も釣られて薬を口の中に入れた。
ムワァっとした空気が流れる。麻薬の匂いが学校の自動販売機裏に漂う。
「本当だ!頭がほわほわして気持ちいい。もう1個ちょーだい」
そうしてどんどん依存していく。
*************
そして別の日。麗奈は瀬戸内の双子に呼び出された。
「あの、舞浜さんと夕凪さんに見せられた、あなたの彼氏さんとの画像、デマだったんだよ。そんな事も知らずに下劣な行為、天光さんによくやるよね」
「ほら」そう言って証拠の合成だと分かる画像を見せる。
「あ、なん、で??」
「嘘でしょ!!!」
結架は不貞行為なんてやっていなかった。
麗奈は信じ込みやすい性格もあってか瀬戸内の双子が見せた画像の方を信じた。
「ごめんなさい……」
「謝るのは僕らじゃなくて、天光さんにでしょ、もういないけど」
この画像がきっかけで、麗奈グループのみんなは結架の罪を無かったものにした。
麗奈は当然、海憂と砂利を恨んだ。
汀にはきちんと謝った。が、もう一度付き合うなんてことにはならなかった。
綾乃はずっとあの日から不登校だ。
結架には家に1枚の手紙を送った。自分がしてきた酷い行いのこと、許してはくれないと分かっていても謝った。そして今の心境も綴った。
『ごめんね、結架。たくさん、言葉にできない程、傷つけちゃったね……もう酷い事はしないから、帰ってきて。お願い。信じやすいあたしが悪かった。全部。皆も結架の事、許してくれたよ。あんなことはしてないって。』
「ごめんね……」謝っても、もう遅い。掠れた泣き声と麗奈の声がコンクリートで敷かれた登り坂の斜面と左右に建っている家々に響く。空は夕焼け色に染まっていた。
その頃、海憂は抑鬱状態で、砂利は海憂の鬱病に付き合いきれなくなったのか、敬遠するようになっていった。
海憂は空虚な日々を送り、砂利は一匹狼になっても、友達が出来ても、性格から人に遠ざけられても、至って変わらない態度や振る舞いで過ごしていた。
砂利が心配なのは悪い試験の成績だけだ。高校に上がったら留年の可能性も浮上していた。
中学3年に上がると海憂と砂利はクラスが違くなってしまった為、さらにお互いの距離は遠ざかっていった。
砂利は話上手だから、友達もある程度はいたが、海憂は只管孤独な学園生活を送っていた。
*************
高校に進学すると海憂はずっと一人ぼっちでいた。いじめられることは無かったが、つまらない日常に戻ってしまったみたいだ。
高校も砂利や麗奈と同じ高校に通った。
綾乃は別の高校に進学したらしい。今は、きちんと通えている。
高校に進学した後も麻薬は使用し続けていた。砂利が一番依存していたようだ。麗奈は瀬戸内君二人が状況を把握していたので依存度も低く、比較的に優しい麻薬を吸わされていた。だから中毒にはならなかった。海憂も麻薬を吸い続けて、鬱を沈めては悪化させの繰り返しだった。
そして、海憂の心の病気は更に深刻化し、現代編に至る――
#2溯夜の過去
地面に二人の影が映る。真夏のコンクリートはギラギラと照らされた太陽により、熱くなっている。今にも燃えそうな熱さだ。
現代編から続き、翌年の夏、溯夜と明依は高校1年生になった。もうキスはしたらしい。溯夜からだった。真冬の屋上で。
二人は海沿いを歩いていた。恋人繋ぎをしながら、向こうのオレンジ色の夏空を見ていた。そう、その手は離さずに……。
当然、今も溯夜と明依は付き合い続けている。高校は通っていた公立の中学からの中高一貫校で、その高校でも良かったが、姉が自殺した事もあってか別の私立高校を希望し、その高校に二人は入学した。
明依は勉強が苦手だったが、友達と溯夜の教えやアドバイスもあって、見事に一発合格した。
明依が受験をすることは咲花や水音には内緒にしておいた。卒業式で明依は泣いていたけれど、いつものことだと思って気づかれなかった。ただ、連絡先を交換していた事もあり、受験していたのはすぐにバレた。
溯夜と同じ高校に行っているのも知れ渡っている。
だけど、近い距離にいて、いつでも会える仲だ。
数分歩き、右横に堤防が見える位置まで着くと知らない若い女性に話しかけられた。
その人は茶髪で腹部くらいまで伸ばした髪が目に飛びこんできた。
「久遠じゃーん!おひさ~、ずいぶん顔立ちも整って、イケメンになったね。身長も伸びたし、大きくなったね」明るいトーンでその女性は語りかけてきた。
「あれ?その隣の女子は友達?というか彼女?」
(久遠?なんで俺の本名知ってるんだ?)溯夜は焦った。彼女に知られてもマズいし、この状況をなんとかしないとと思っていた。
「私は溯夜の彼女ですけど、久遠って方、誰ですか?人違いじゃありませんか?」赤面しながら明依は答えて問い返したが、女性はその言葉に一歩引き下がった。
「え、溯夜?改名したの?」吃驚した表情でその女性は言った。
溯夜も「そうですよ。俺の彼女の言う通り、久遠君って人と顔が似てるってだけで、人違いじゃないですか?あの、俺らはデート中なので、あまり話しかけないでもらえますか?俺の名前は九十九里溯夜です」
溯夜は白を切るつもりだった。
「じゃあ、なんで教えてもないのに久遠が男の子だって分かるの?あたしは正真正銘の久遠の姉なのよ。まさか、本当に記憶無くしちゃったの!?お母さん殺して、どこかに連れてかれちゃったよね?少年院からはもう出たんだ」この女性は溯夜―別の名・久遠―の実姉だった。
「それは久遠って名前だと男性名だって判断したからです、あと俺には母はいません。殺してもいません」淡々と溯夜は答えた。
「ああ、そう。でも、あたしの知ってるくーちゃんに顔が似てるもの。そうやって、自分を偽り続けても、いずれハッキリするわよ」
(今あるこの幸せを手放したくない……)溯夜はそう強く願った。
「逃げるぞ、明依」そう言われるがままに私は手を引かれ、まっすぐ、真夏の暑い中、直進していった。
「って、え!話はまだ終わってません。溯夜って本名じゃなかったんですか?久遠ってあなたのことですか?こんな暑い中、走るなんて、もう無理です、限界です。」明依は、はぁはぁと息を漏らす。
「もうちょっと、頑張れ」
方向音痴な彼が行く方向は全然、道が知らないさっきの海の反対側のほうだった。
「ここ、どこですか?」
「もう、追い付けないだろう」
「って、人の話、聞いてますか?」
彼には人の話を聞かないという困った欠点がある。
「もういいです。溯夜、いえ久遠は足、速いね」
「まあな」
余裕の表情を見せる。
「あのさ、俺の事、久遠って呼ばないでくれる?溯夜だから。前みたいに溯夜さんでもいいよ」
恋人になってからは名前で呼び捨てにしている。
「でも……」
丁度その時、さっきの溯夜の姉と称する女性が走って追いかけてきた。
「久遠ーちょっとーー走ってどこ行っちゃうの?走るの大変だったんだから」
「あの、今からあなたをストーカー規制法違反で逮捕、通報しますよ。俺の義理の父親、警察官なんで」と溯夜は述べた。
「もう~久遠ったらー昔から人見知りで、シャイで、照れ屋でクールなんだからっ」とその実姉は言い、抱きついた。
「っ、強制猥褻罪で今すぐ通報しますよ。やめて下さい。」そう言いながら、携帯電話を取り出し、110番を押す。
「知らない女性にいきなり抱きつかれ、困っています。助けて下さい」と通報した。
すぐに警察が来た。
「あのー通報があったのはこの辺で、通報者は貴方でいいのかな?九十九里溯夜君。」
「はい、そうです」
「知らない女性って面識はないんですか?」
「はい」
「いいえ、あたしは久遠の姉です!ちょっと!弟がストーカー呼ばわりするから抱きしめてあげただけです」
警察官はぽかんと顔を上げている。
「お姉さんは身分証見せて下さい。溯夜君は学生証見せて下さい。」そう言われ、差し出した。
「雨岸永遠さんと九十九里溯夜君。どう見ても名字も学年も違いますし、面識が無さそうですね。彼が嫌がっているので、今すぐに抱きつくとかキスしたり等はやめてあげて下さい。じゃないと、書類送検して、連行してもらう事になりますよ」
「はい、分かりました」と永遠は認めた。
「久遠、ごめんね」
そうして、警察官は去っていった。
だが、警察側は妙な点があったのか後付け捜査をし、戸籍を確かめたら、養子として九十九里溯夜という名に学校等で普段使う時はその名前にし、戸籍上の名前は雨岸久遠だということが判明した。
*************
プルルル、プルルルル……。
携帯電話が鳴る。
溯夜は電話に出る。
《もしもし、九十九里溯夜ですけど》
《さっきの女性、貴方のお姉さんで合ってました。でも、情報や履歴書によると手術で10年前の記憶が無いとか。それは仕方ないですね》
《嘘だろ。あ、すみません。もう結構です》
そう言って通話を切った。
「だから、私の言った通りでしょー」と永遠は言う。
永遠はそんな溯夜に近づいた。
「近づくな、や、め、て……」
永遠の白くて柔らかな両手が溯夜の顔を覆うかのように一歩一歩と近づいてきた。
「やめてくれ!近づくなって言ってんだろ!!」
『バシッ、パンッ』溯夜は思い切り永遠の右頬を掌で叩いた。
「溯夜、そんな事しちゃ駄目だよ!」明依は注意するが、永遠にも「溯夜さんが嫌がってるからやめてあげて下さい」と言い放った。
明依は心配そうに、そして怒っているかのような目つきをしていた。
永遠は呆然と遠くを見つめながら立ち上がっていた。
「溯夜って、もしかして女性恐怖症なの?」と明依が聞く。
その質問には無視をした。
溯夜は座り込みながら永遠を見上げている。
両頬を触られるかのように包まれそうになった両手を思い出し、「怖い、怖怖、」と発していた。心の中で(助けて……)とも思っていた。
だが、こんな姿を明依に見せまいと必死に堪えていた。
「久遠ーもう大丈夫だからね」と永遠は慰めの言葉をかける。
「おしおき、」溯夜は呟いた。
「おしおきって何ですか?」と何も知らない明依は頭にクエスチョンマークを浮かべながら、聞いた。
永遠は雨岸家の長女で久遠が幼稚園児の年齢の頃に性的虐待をしていた。性器を触ったり、舐めたり、更にはセックスまでしていた。永遠は処女だったから痛かったけど、可愛いし、神に許されるためにと、わけのわからない理由で久遠に酷いことを繰り返してきていた。
永遠がその都度、言う台詞が「可愛い子にはおしおきしないとね~」だった。
溯夜が言っているおしおきというのは多分その事だろう。
永遠が何故、溯夜に今更会ってお話しているのかは分からないが、謝りたいのか、別の事情があってのことだろう。普通なら挨拶で済ませて帰ってもいいのに。
怖がる溯夜を安心させる為に永遠が頭を抱き締めると突然、彼の脳内では【ジリリリ】【ドンッ】【ビリッ】と音がなり、何かを思い出したようで「怖い。いやぁぁああ」、「誰か助けて」、「僕を殺さないで」と叫び、その場に倒れ込んだ。音がしていた時、溯夜はゾクッとして寒気がした。
「溯夜ぁー!どうしちゃったの?」心配そうな顔で声をかけた。だが、返事は無い。その目は自動車に轢かれた彼氏を起こすようだった。
「溯夜、溯夜!!溯夜さん、九十九里さん!」どんな呼び方をしても呼びかけに応じない。
「あたしは何もしてないけど」と永遠は言う。
「取り敢えず救急車、救急車呼びましょう」明依の言葉に頷き、永遠は119番に連絡した。
そして、すぐさま救急車が来て溯夜は搬送された。
搬送先の病院で窓から太陽が射し込む個室に入院することが決まった。脳の損傷が激しいらしい。意識不明の状態だ。説明曰く、PTSDらしい。養子縁組の当時担当だった組員と脳の手術を担当した医師も付き添いに加わった。
話は溯夜――久遠が生まれる前に遡る。
とある家庭の悲しい現実。妻は夫に日常的に一升瓶で殴られる日々を送っていた。妻は無職で家事をしていた。夫はアルコール中毒だった。怒ると乱暴になり、理性を取り戻すと普通のサラリーマンに戻る。典型的なDV(ドメスティック・バイオレンス)者だった。
その家庭こそが夫と妻であり、母である人と子供の長女の永遠と次女の悠久と長男の久遠の5人家族であった。雨岸家は近所でも噂される程、荒んだ一家だった。子供全員の名前は“永遠に幸せな日常が送れますように”という想いからだった。夫が結婚した当初、よく口にしていた。最初は良い人だったのだ。ところが、生活を続けていくうちに、急に豹変してしまった。仕事場で何があったのかは分からない。けれど、結婚して間もない頃の優しさはもう無い。
一升瓶で殴られる毎日を送っていたが、その時は久遠を妊娠中だった。そんな中、夫に女ができ、そのまま蒸発してしまった。いわゆる、不倫だ。もうその日からは家に帰ってこなくなった。
一升瓶で殴られていたのを永遠も悠久も見ていた。止める事も出来ずに……。
とうとう、12月15日に久遠が生まれた。そう不幸で悲惨な家に。生まれて間もない頃は必死に母だけで育ててきたけど、子供3人を一人で育てるには精一杯。半育児放棄状態でもあった。でも、一生懸命さは伝わる。久遠がミルクを吐こうとも夜中に泣き出しても、悠久が遊んでくれないと喚き散らして大泣きしても、永遠がワガママを言っても、めげることはなかった。
経済的にも困難な状況。お菓子さえ、滅多に買ってはもらえなかった。
「おかあさーん、遊んでー」
「おかあさーん、3人でレールで遊ぼ」
「ごめんね、忙しいから」
「じゃあ、仕事行ってくるね。お留守番よろしく」
――――――――――――――――――――
「お菓子買ってー」
「本当にお金足りないの。我儘言わず、我慢して」
「今度は買ってくるって言ったじゃーん、なんでぇ?」
「今回限りで許して」今にも母親の目から涙が零れそうだった。
こんな毎日を繰り返していた。
通勤中、久遠らの母は電車の中で揺られながら子供なんて産まなきゃよかったと思っていた。ましてや、あの人との子供なんて。私に育てられる自信なんて無いと自分を悲観的に見ていた。涙すら流せず、悲しみを通り越して、不憫な思いをしていた。
母は風俗業も夜はやり、色々なパートを掛け持ちし、正社員としても仕事に追われていた。そして、子育てとの両立。それが、まさに大変だった。
永遠と悠久は小学校に上がっていた。同じ公立小学校に入れさせていた。永遠は久遠と8歳差で悠久が久遠と5歳差だった。
仕事を必死にして、帰ってきたある日、2歳の久遠が廊下の床に座って泣き出した。車の玩具が遊んでいたら壊れたらしい。そんなことはつゆ知らず、仕事で疲れ果てた母はストレスにより、平手打ちしてしまった。これが初めての暴力だった。そして、咄嗟の暴力に母は耐えかね、大泣きする久遠に「ごめんね」と言い、抱き締めた。頭を撫でるけど泣き止まない。母も混乱して気が動転していた。
そして、永遠に小学生ながらも仕事をさせてしまう。労働基準法により、違法だ。だが、永遠は積極的に仕事をしたいと言い、難なく受け入れた。けれど、社会は永遠が思っていたより、遥かに厳しかった。学校があるから夕方からの勤務となり、夜勤をすることもあった。休日もほぼ、仕事が積み重なっていた。「疲れた」とか「辞めたい」とか言っていたけど、母はやりなさいと頭に叩きつけ、言う事を聞いてくれなかった。
いつしか永遠が幼稚園児に上がる年齢になった久遠に男性器を触ったり、舐めたりという行為をするようになった。仕事のストレス発散だったのかもしれない。久遠はお金に困っていて尽きるから、幼稚園には行かせてもらえなかった。
「可愛いねぇ~」と言いながらソレを撫で回す。一緒にお風呂にも入っていた。悠久も一部始終を見ていたが、引いてはいたけど止めなかった。
性的な悪戯はある程度の年齢になるまで続いた。
「やぁ、めえ、ひゃあ……」
「もうちょっとで終わるから我慢して」
そうして残酷な一日が過ぎる。忘れられない出来事になった。
別の日。
「とわねえ、なにするの?」
永遠は久遠の男性器を自分の女性器に入れようとしていた。
「痛い、か、な……」
「痛いなら止めたほうがいいよ」と久遠は諭すが、
「するから」と永遠は真面目な顔をした。
そして、血を出しながら性交渉は終わった。
母親が父親にされていたのを目撃していたのだ。真似したくなったのだろう。
*************
とある日の休日。母が海に連れていってくれた。久しぶりだった。息抜きにもなったと思う。
一面見渡すと海だ。右に道路が走っており、左にはトンネルもある山があった。山の小脇に小山もあり、岩もあり、その岩には海水がザブンと打ち付けられていた。
岩にかかる海水を4人はぼぅーっと見ていた。
それぞれ違う思いをしていただろう。静寂な時間とさざめく波音。そして、海の香りがそこら中に漂っていた。
「ここから下りましょ」そう母に促され、3人は階段を下りた。
砂浜に着いたが、人は誰もいなかった。田舎だからか4人以外、見渡す限りいない。どこを見渡しても、広がっているのは景色だけだ。何故だか、船が一船置いてあった。
水着は持ってきていなかったけれど、水を掛けあって遊んでいた。小さい子供だからまだいいだろう。
「きゃはは」笑い合う声。
3人とも楽しそうだ。
もう夕暮れ時だった。日が地平線に落ちそうになっている。
「くーちゃん」
「何?とわねえ」 永遠は貝殻を手に持ち、見せてくる。 「見て、綺麗でしょ」
「ほんとだ。僕も巻き貝拾ったよ」
「くーちゃん、スゴい。私はカニ捕まえた」
悠久もそう言って自慢してくる。
「海、綺麗だね」
「ね。」
「もう、こんな時間だし、帰りましょう」
3人は母にそう言われ、この海を後にした。
もう二度と来れないことをみんなその時は知らなかった。
*************
2歳の時に初めて暴力を振るったが3歳頃から10歳まで、母は久遠に自分がされてきたのと同じように一升瓶で殴ったり、蹴ったり、日に日に暴力が増していった。その手は娘達にも及んでいった。
「おかあさん、怖いよー」
「やめて、痛い」
“ガンッ”
鈍器が割れたような音が響く。
泣き叫ぶ声と暴力の音が近所で噂されるくらいに有名だった。苦情や通報も寄せられていた。
そして、毎年祝ってきた3人の子供の誕生日会も6歳の久遠の誕生日が最後になってしまう。冬の寒い日。窓にも白い雪がしとしとと落ちているのが見えた。柊の葉も白い塩のような雪に染まっていた。
誕生日席に座ると久遠はふーっとロウソクの火を吹き消した。
“はっぴ ばーすでー とぅーゆー”
“はっぴ ばーすでー とぅーゆー”
“はっぴ ばーすでー でぃあ くーちゃん”
“はっぴ ばーすでー とぅーゆー”
と子供だけで歌を歌った。
母も拍手をしている。
久遠はにっと笑った。久遠が笑ったのはこの瞬間が最後だった。そして、ケーキを食べ、誕生日会は無事終了した。
「くーちゃんも来年から小学生だからね」と母が言う。
「小学生?」きょとんとした顔をした。
「小学校という所があるのよ」
久遠は幼稚園に行かせてもらえなかった。だから、普通の子より少し遅れている。
「怖い所じゃないから、安心してね」
「うん」
「幼稚園に行かせられなくて、ごめんね」
「いいよ、まま」優しい笑顔で許す久遠。我が家を照らしてくれる光のようだった。
来年の春、小学校に入学した。痣などの傷が増えるようになっていたが、小学校でいじめに遭うことはなかった。
小学校のテストで名前を書く欄に久遠と書くはずが苦怨と書いていた。暴力が増す度に自分は呪われた人間なんだと思うようになっていった。
学校から帰るとすぐに暴力を振るわれる。そんな毎日だった。陶器の置物で頭を叩かれたり、階段から落とされたり……。骨折する事もあった。包帯でぐるぐる巻きにしながら学校に行く事もあったので、当然目立つようになってしまった。怪我が増えたことで、学校側から児童相談所に通報がいく事もあった。
家では永遠が従順な奴隷、悠久がいない子の消失者、久遠が生贄の被害者という構図だった。
悠久は暴力を目の当たりにして、一言も喋らなくなってしまった。体育座りで目が無表情で死んでて、下ばかり見ていた。
永遠は中学校に上がっても、仕事を続けるのが日常だった。学校と仕事の両立で疲れが溜まっていた。
久遠は泣く事も忘れ、無抵抗で痛みに耐えていた。勉強で苦労する事はあまり無かった。
*************
“パチッ”見上げると天井。
「溯夜!」叫ぶ明依の声が病室に響く。
一週間ぶりに目が覚めたようだ。心配する看護師や医師、それから義父、つくもと明依、そして永遠の姿があった。
「俺、どうして……」
「ずっと、眠っていたのですよ」明依は優しいまなざしで頬に触れた。
「お姉さんの名前やお母さんって叫んでて、痛いとかも言ってたので、心配しました」
「発狂してて、だいぶ怖かったです」怖じけづいたようにそう告げた。
「そうだったのか……ごめん。発狂してたか」
「寝てる間、どうでした?」と明依が聞くと、溯夜は「ずいぶん昔の夢を見てた」と魂が抜けたように言った。
そして、また眠りに就いた。
*************
久遠が10歳の頃。母は包丁を突きつけ、暴言を吐き、阿鼻叫喚になりながらも襲いかかった。その時初めて、抵抗し、「お母さん、怖いよ。ごめんね、僕が生まれてきたせいで。ぎゃあぁぁあー!」と叫びながら久遠は母のお腹、胸辺りを何度も刺し、殺してしまう。夜の7時過ぎくらいの出来事だった。その様子を姉二人も目撃していた。
そして、警察が来て、逮捕されるはずだったが、小学生になってから児童相談所に学校側からも通報があった事から、正当防衛が認められ、年齢も幼かった為、罪にはならなかった。だが、残された娘達にも何らかの心傷が生まれ、久遠は発狂と意識障害を繰り返すようになった。そして、脳の手術をする事になり、記憶も無くなり、頭が良くなって、新たな透視能力が使える脳にリセットされた。そして過去の記憶は当然失い、二度目の人生がスタートした。
そして、姉達とは引き離され、久遠は九十九里家という場所に養子として迎え入れられた。多分、姉二人は児童養護施設行きだ。
九十九里家は母親が、つくもという一人娘が生まれてすぐに病死し、父親と二人暮らし。この話はフィクションだから出来るのであり、現実では認められていない。
その家に預けられ、溯夜という名前を記憶が無い為、分からないから取り敢えず付けた。そうして、九十九里溯夜という人の新たな人生が始まった。
ちなみに手術して、目覚めた日が6月15日なので、誕生日も本人はその日だと認識している。その手術というのが難しく、非常に時間が掛かった。
後々、家庭環境が悲惨だったことも知り、手術の詳細も書類(カルテ等)で分かり、生年月日や本名等の戸籍も溯夜の中では把握してある。
でも、感情が希薄な設定に手術でしてある為、心的ダメージもない。女性に対しては一定以上の距離になるとたまに拒絶反応を起こす。だから明依と最初に会った時も失礼で冷酷な態度を取り、近づけないようにしていた。友達を作らないのも関心がないから。そういう風に脳内プログラムが仕組まれている。
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「うわぁあああぁーっ!!!」
起きたかと思えば発狂だ。当然、周りの人々は吃驚する。
天井に向かって手を伸ばしていた。謎だ。母親に襲われる夢か幻覚でも見ているのかもしれない。
喚き散らす声。病室中に響き渡る。
「これは鎮静剤打たないと、ダメかもしれませんね」冷静に医師は言った。
そして、溯夜は注射を打たれた。少しだけ落ち着いてきた。
「溯夜、苦しくなくなってきた?大丈夫?ここは怖くないからね」と明依が慰める。
「うん」全てを受け入れて見透かしたかのような目で窓の外を見つめた。もう外は黒一点だった。
恥ずかしい姿を見られてしまったという羞恥心と悪夢の後のような恐怖心で、しばし固まっていた。
「九十九里さんの寿命は長くても5年だと思われます」と医師は告げた。
「ど、どういう事ですか!?」明依は理性を見失っている。
「弟はもうすぐに死んじゃうの?寿命5年ってどういう事!」と永遠は平静を崩した。
「九十九里さんは透視能力を持っています。それ故、寿命が縮まります。そして、脳に損傷があります。治してもあと僅かだという事です」と無表情で冷静に医師は言った。
「そんなー」悲しそうな表情をして明依は言った。
そうして、一夜が更けていった。
翌朝。見舞いに行くと永遠が先に来ていた。溯夜は相変わらず、目を閉じている。
「なんで今更、溯夜、いえ久遠さんに会って近づいたんですか?あのまま、やめてあげてれば、こんな事にならなかったでしょうに。」明依は怒っている。
「理由なんてないわよ」そう永遠は言い捨てた。
溯夜はまだ眠っている。オレンジ色の眩しい光がベッドを照りつけていた。
永遠は一瞬、間を置いてから哀愁漂う目をしてこう言った。
「あの子には苦労をかけたくないの。幸せに生きてほしいと思ってる。会えたら謝りたいとは思っていたわ。でも今更、許されたいとは望んでない。親を殺された恨みだってあるわ……手術の事も知らなかったし、今頃どうなってるんだろとは感じてた。まさか、彼女ができてたとは思ってもいなかったけど。しかもあんなに笑えるくらい幸せだったなんて。まさか、あんな事になるとは思いもしなかった。ごめんなさい。」
「もう、自分を許してあげてもいいんじゃないですか」と明依は諭す。
はっと目を見開いたような顔をした。向かい風で永遠の髪が靡く。心がそっと救われたようで、鳥肌が立った。
「それで、傷口を抉るようで申し訳ないですが、さっきの話は本当なんですか?」
「本当よ……。性的虐待も小学生の頃から仕事をさせられていたのも暴力を振るわれていたのも。嘘っぽいでしょ」一粒の涙が永遠の頬を伝う。
明依はすかさずハンカチを手渡した。永遠は嗚咽していた。泣き声で溯夜が起きそうだ。
外から熱い風が吹いてきた。室内も温度が熱くなってきている。溯夜はまだ目覚めない。
「溯夜!起きてー」と明依。
「久遠、お願いだから目を覚まして!」二人は叫んだ。
すると……
眠っている溯夜の手が微かに動いた。そして、目も開いた。明依はその手を軽く握った。
「長い間、苦しめてごめんね……明依さんと幸せに生きて」そっと頭を撫でた。
コクリと溯夜は頷いたのだった。
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昼ご飯の時間になった。溯夜は入院してから、食欲が減っていた。眠っている間は当然、食べていなかった。痩せ細った体が目に見て分かる。
今日は学校が休みで、つくもが来てくれると聞いていた。
ドアを開ける音。さっさと小走りする音も聞こえてきた。
「兄様、今日は特製ハンバーグを作って持ってきたのだぞ。感謝したまえ」ハンバーグは溯夜の大好物だ。
「ああ、ありがとな」そう言って、手に取り台の上に持ってきてくれた皿を置く。
「兄様、最近叫んでばっかで怖かったぞ。たまには元気だせ」つくもはそう言うとフォークを溯夜の口に入れた。
「お、美味い」感動の声を上げる。
「だろ?拙者が徹夜して作ったのだ。勉強はサボった。その分、テストは0点だ」とつくもは言った。
「何だって!?」
「まあまあ、つくもちゃん頑張って作ったんだから。褒めてあげて」と明依は言った。
「それはそうだけど……」溯夜はなんだかなーという顔をした。
喋っているとあっという間に時は過ぎ、気づけば夕日が窓から射し込んでいた。
「もう旅立つ時間だな」
「そうだね、つくもちゃん。バイバイ」と明依は手を振った。
「つくも、そういう時は“旅立つ”じゃなくて、帰るだろ?旅立つって言ったら死ぬみたいじゃねーか」と溯夜はツッコんだ。
「余命5年のお主には言われたくないんじゃ」
ははっと溯夜は笑った。明依も永遠も釣られて笑った。
そして、つくもと溯夜の義父は帰っていった。
お見舞いの帰り道。二人はのんびりと歩いていた。オレンジ色に染まった雲が美しく見える。
「つくも、大事な話があるんだ」と溯夜の義父は言う。
「何じゃと!父上」
「溯夜は本当のお前の兄じゃないんだ。今まで黙ってて、すまなかった」
「えっ!」仰天した顔をした。
「ということは拙者と兄様は大人のカンケーになれるというわけか」とつくもは悟りを開いた。
「そういう事じゃない。酷い家庭で育ってきたんだ」と言うと、
「だが、拙者は薄々感づいていたぞ。兄様とは顔も違うし、妙に距離ができていたように感じた」と真面目な顔をして言った。
「もう分かってくれたようなら、帰りにプリンでも買っていくか」と溯夜の義父は安堵の様子を示した。
プリンはつくもの大好物だ。
「わーい!」嬉しそうな表情を浮かべる。
そんな二人をそっと光が輝きを与えてくれているようだった。
別の日。もう溯夜の退院日まで3日をきっていた。
「溯夜って本当の名が久遠で、殺人者だったんだね」と明依は悲しそうな目で呟いた。
「そうだよ」溯夜は全てを受け入れる覚悟で相槌を打った。
「こんな俺でも好きになってくれるの?」
「もちろん。そういう家庭で生まれてきたからでしょ。立派な正当防衛じゃん。だけど、お母さん死んじゃってつらかったね……当たり前だけど、好きだよ」そっと頭を優しく撫で下ろした。
二人の間を温かな風が通っていった。
電気を付けなくてもまだ明るい。
「俺の過去を知っても全てを受け入れてくれますか?」と上目づかいで明依に問う。
「はい、もちろん」
二人きりの病室。明依が言った瞬間、背中を押され、顔に近づけられた。鼻が微かに当たる。吐息が混じる。ドキドキする。こんな体験久しぶりだ。顎をクイと上げられ、唇が重なった。舌が絡め合う。チュ、チュパッという嫌らしい音が病室外に漏れ出す。太陽はいずれも二人を包み込んでいた。
「俺達、結婚しないか?」溯夜からの突然のプロポーズだった。
「えっ……」急に固まった。
明依は驚きの余り、窓に頭をぶつけた。
「それは……いいですけど」
「でも、あと5年しか生きられないんですよね……」と明依は確認した。
「未来は誰にも分からない」と溯夜はキリッとした表情で断言した。
「そうですね!あと何年かしたら……じゃなくて、仮結婚しませんか」と宣言した。
そうして、二人は結婚することになった。
その様子を永遠はドアの隙間から見ていた。
「って、お姉さん!」
「あ、ヤバい」
気づいた時にはもう遅かった。
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残された5年をどう生きるかは二人次第だ。けれど、人は死ぬまで悔いなく生きていこうと思っている人が多いはずだ。
溯夜と明依の高校生活はまだ始まったばかり。
退院後は高校に復帰するのは難しい。けれど、彼は明依のサポートの許、復帰できるように頑張っている。
晴れて登校できるのは冬になってのことだった。
「溯夜ー早く学校行かないと遅刻するよー」
「分かってるって。ってわあっ」目覚まし時計を横目で見る。
「ヤバいな、これは」
彼は登校許可が出て、すごい久しぶりの学校なので、普段の起床寝床サイクルでいた。だから今、大変、焦っている。
「もう、溯夜ったらお寝坊さんなんだから」
明依は呆れている。
明依はあれから治療のサポート役として、同居することになった。ほとんど同棲と言っても変わらない。
明依の母も、溯夜と付き合っている事を知っており、同居している。いなくなった母が戻ってきたようで、一同は喜んでいた。
夜も一緒に寝ている。つくもは半べそかいているが、治療の保護として、しぶしぶ受け入れた。
当時、溯夜の手術をしていて、あの騒動の後、治療を担当していた医師は逮捕されることとなった。
溯夜の義父が、「あなたのやっていた事は違法な治療でした」と言い、そのまま現行犯逮捕された。
苦渋の決断だった。もう発狂していた久遠にはそうするしかなかった。手術しなければ彼はずっと苦しんでいただろう。
明依は彼と残りの5年をどう生きるかを常に考え、彼に寄り添っていた。
溯夜は自分の過去と向き合い、いつものように、とぼけながら日々を送っていた。治療にも専念し、彼なりに頑張っていた。勿論、明依にも感謝している。
真冬の屋上。登校許可が出てから、抱き締めあったり、キスをしたり、一緒にお弁当を食べたり、充実した日々を送っている。
降りしきる雪を手のひらの上で掬っていた。
「あ」二人の声がハモった。
二人の両手がくっついたのである。
雪の結晶のように綺麗な恋人は笑顔を絶やさなかった。
学校に降り積もる雪は学校そのものを綺麗にしていった。学校には様々な景色がある。
学校がより美しくなりますように……。そして、溯夜及び久遠が一年でも長く生きられますように……。二人がいつまでも幸せでありますように……。
七月の憂鬱、空虚。過去編