凍露 序章


 町角には人魚がいる。
 それは、生身の人魚ではなく、その容姿をかたどった彫像だ。人魚は、人間の娘の麗しい顔と上半身をみせ波うつ長髪を腰へ流し、魚の尾鰭をゆるく撓らせて風を受けとめている。町角の像はこの町が、人魚の伝説を宿す土地である表れだった。
 その彫像の手前、一本裏になる通りを駆け、ベルガは家へ飛びこんだ。
「ただいまっ」
「おかえり」
「おかえりなさい、お疲れさま」
 楡の下に建つ家屋の扉を開ければ、二つの声音に迎えられる。台所にいる祖母の声と、居間で椅子の背に衣服をかける姉の声だ。
「ただいま、姉さんも早かったのね」
「ええ、早上がりさせてもらえたの、今日はお祭りだからって」
「やっぱり? そういえば去年もそうだったんだっけ」
「ええ」
 姉がやさしく微笑む。ベルガは鞄を下ろし、室内を見回して、
「あれ、マナは? まだ?」
 妹の姿がないことを問う。すると、答えより早く祖母が肩をすくめたのが目へ入る。姉もそれを見て、
「いるわよ、帰ってきてる。お風呂にいるの」
 微笑したまま、いくぶん眉を下げて言う。祖母は手を拭きながら、
「あの子の長風呂には困ったもんだ、ベルガ、もう上がって支度するように言ってきとくれ」
 やれやれと口元を動かしたが、
「おばあちゃん、むだよ、さっきわたしが言いにいったけど、あの子ったら返事ばっかりよくって全然上がってこないんだもの。恋する乙女には通じないってやつね」
 姉のデルフィナは両手を広げる。ベルガが次いで口を開こうとした矢先、
「おねーちゃん、髪の毛乾かすの手伝って、」
 妹のマナが出てきて声を上げた。
「あ、ベルガおねーちゃんおかえり、ねえ、髪乾かすの手伝ってえ」
「マナっ、あんたねえ」
「お説教はあとできくから手伝ってってば。早く髪乾かして、そんでかわいく結びたいの、教会のアネッテがいつもやってるみたいに」
「マナ、ベルガだっていま帰ってきたのよ、自分ばっかり長風呂してその上そんな、またわがまま言って」
「もー、お説教はあとできくってあたし言ったでしょ、デルフィナおねーちゃん、今日はお祭りだよ? あのひとに会えるかもしんないんだから気合い入れたいの!」
 マナが瞳を光らせ、語気を強めると床へ水滴が散った。花の香りの洗い髪から垂れる雫は、部屋着の裾にも肌にも伝わっている。
「全く、今に始まった話じゃないとはいえ困ったもんだね、マナのわがままには……いいかい、マナ、これはそんな、ちゃらちゃらした祭りごとじゃあないんだよ」
 祖母が嘆息すると、かすかにマナの頬が引きつった。だがそれでも、妹の目から光が削がれることはなかった。

「おばあちゃん、じゃあ、行ってきます」
 夕方、どうにか支度を終えて家を出た。デルフィナが用意してくれた揃いの衣服を纏い、三姉妹並んで町の本通りへ向かう。往来は賑わい、菓子の焼ける匂いと草花の芳香が西風に絡まっていた。
 町角の人魚像へ近づけば、通りは一瞬、押しあうような人だかりになる。だが混雑はじきに緩み、人波はやがて、像の左右に分かれていく。この人魚の記念祭へ町じゅうから集まる人々は、人魚像へ礼拝したのち、左右の道沿いに構えられた無数の屋台を巡ることを楽しみにしているのだった。
「さあ、お祈りしましょう」
 眼前の混みあう塊がばらけ、花壇に囲まれた人魚像の正面に着くと、デルフィナが跪いて祈った。ベルガも妹もそれに倣ったが、その横をもう、礼拝を飛ばして屋台へ向かっていく人たちもいた。
 この日の人魚像は、すみずみまで有志の手で拭き清められ、頭と尾鰭を犬薔薇の蕾が挿された花輪で飾られている。台座の前にも咲き初めの野花や、魚のかたちの焼き菓子が供えられ、葉と花びらが風にそよいでいた。
 敬虔に祈る姉の隣で、ベルガはそっと目をずらす。
 妹のマナは両手を組み上げてはいたものの、ちらちら左右を窺ってばかりいる。癖のある前髪がその目線の彷徨を隠してはいるがごまかしきれないほど、忙しなく左を見ては右を覗き、やがて、つまらなさそうに唇が突きだされてきていた。
 ベルガは妹の視線を追って思う。マナは町じゅうの人間が集う記念祭なら、再会を望む想い人に鉢合わせできるかもと期待をかけていたのだろうが、礼拝に並ぶ頃合いは人にもよるし、だいたいこれほどの人出だ。現にまだ、知りあいの顔ひとつ見つけられていないぐらいなのだから、そう都合よくひとりの人物を発見できる方が奇跡ではないか。
「お祈り終わった? 行ってみましょうか」
 けれど、そんなことを口で説いて諭しても、今の妹が聞き入れるわけもない。
 そもそも、想い人といったって、名も年もわからない相手なのだ。ただ妹が働く宿屋に一度泊まった旅人で、しばらくこの町に滞在すること、しかしその翌日からは別の宿をとったらしいこと以外、マナは何も知らずにこうものぼせているのだった。
「あーあ。どこにいるんだろ、あのひと」
 立ち上がった妹は唇を曲げたまま、ベルガと姉が二人がかりで編みこんでやった髪に手を当てた。
「マナ、そんな顔しないの。何かおいしいもの食べて機嫌直して、おばあちゃんにおみやげも買っていかなくっちゃ。ね?」
 姉のデルフィナが背中をたたいても、マナはつややかな頬を膨らませてしぶしぶ進みだすのみ。ベルガは妹の右手を取り、
「マナ、ほら、元気出しなって。まだ会えないって決まったわけじゃないでしょ? そのひとも、屋台で何か食べてるかもよっ」
 取った手を繋いで、振りながら笑いかけた。
 どんなにわがままでもききわけがなくても、この世にたったひとりの妹にはずっと笑顔でいてほしかった。その恋とも呼べない片想いだって、叶うものなら届いてほしい。
「……そうかなあ?」
「そうだよ。ねっ、何食べる? 今日はぱーっと食べちゃおうよ」
「うん!」
 ようやくマナが笑った。デルフィナもマナの空いている左手を握り、それから、ベルガへそっと目配せをしてくれた。

「よう」
 三人手を繋いで右の道沿いに屋台を眺めていくと、人波を縫って呼びとめられた。
「よう、じゃないってば、なんで捜してるひとには会えないのにあんたたちには会っちゃうのよう」
 すぐにマナがむくれるが、
「しょうがないだろ、こっちだって好きでそっちと出くわしたわけじゃないぞ」
「捜してるひとってあれか、例のマナの『宿屋の君』か?」
 ばったり行きあったのは、隣家に住む幼なじみの兄弟二人だ。マナの態度にも慣れっこの彼らは、かえってにやにやとあたりをつけてくる。
「そーだけど……」
「この人混みだもんな。まあ、どっかにはいるんだろうけどよ」
「どっかにはな。あ、スリとかもいるっていうから気ぃつけろよ」
「そうなの? 物騒ねえ」
 デルフィナが目を見張り、
「なあに、あなたたちもう帰るの?」
 兄弟がすでに包みを抱えているのを見て訊く。
「おう、これじいちゃんの晩飯にするさ、こっちはおふくろの夜食」
「おやじにも食わしてやりたかったけど、今年もこの時期いないしな」
「そっか……わっ、」
 ベルガはうなずいた直後、足元に何かを感じて見下ろし、驚いた。皆も続いてびっくりする。
「ベルガおねーちゃん、この子って確か」
 ベルガの足元にいたのは、親指をくわえたひとりの女児。ベルガをじっと見上げて瞬きをしている。
「アンちゃん」
 名を呼ぶと、女児は親指を口へ含んだまま笑う。ベルガが勤めている町の食堂の、子だくさんな店主夫婦の末っ子だった。
「お祭りで食堂も混んでたから、この子、ひとりで出てきちゃったのかも」
「でもこいつ、ちゃんとベルガのこと見っけてすごいな、」
 幼なじみが感心し、
「ベルガ、おれたち帰るとこだから、食堂までこの子送ってっか?」
 そう申し出てくれたが、ベルガは首を振った。
「ありがと、けど、私が送ってく。お店でも気づいて心配してるかもしれないし」
「ああ、そうだよな、ベルガが連れてった方があっちも安心するよな」
「うん」

 思いがけないことだったが、ベルガは皆と別れ、幼子の手を引いて店へ向かった。
 姉と妹には、すぐ戻るから人魚像のそばで待ってて、と告げてある。沈む気配さえ見せない太陽の下を進むと、開け放たれた食堂の戸口から店主が声を張りあげていた。
「アン! いやいや、ベルガ、連れてきてくれてありがとうよ、いつの間にかいなくなっちまってたんだ、」
「びっくりしました、屋台見てたらアンちゃんが私のとこに来てて」
「そうかそうか、いやほんとに助かったよ」
 店主が「心配したんだぞ」と膝をついて両腕を広げると、アンはベルガの手を離れて飛びついた。
「そうだ。ベルガ、申し訳ないんだが」
 娘をしっかりと抱きあげた店主が、片手で額を拭って言う。
「ちょっとだけ、ついでに店番しててもらえんだろうか。アンがいなくなったってんで、うちのやつと上の子たちが捜しに出ちまって、呼んでくるからさ。すぐ帰るから」
「それはいいですけど、お客さんは、」
「ああ、さっきまで混んでたがもうそんなに来ないだろう、今も誰もいないから……あ、ひとりいるが、もうお帰りみたいなんだ、もうお代ももらった」
「それなら……」
 ベルガは諾い、店主の肩越しに食堂の中を窺った。なるほど、出入口そばの席に、いま立ち上がったらしき人影がひとつある。
「じゃちょっと行ってくる、ベルガ、すまないがよろしくな、ありがとうよ」
 娘を抱いた店主が小走りに去っていく。その腕の中からアンが手を振ったが、ベルガは目に映るものから焦点を外せなくなっていた。
「地元のひとかな」
 低くふしぎな艶を帯びる声が、わずかな癖を宿す響きで言葉を為した。その声が、言葉が、自分へ向けられた問いかけだと理解するのに少し時間が要った。
「え……」
 席を立った人影にしか見えなかったその姿が、食堂を出てこちらへ近づいてくる。視線をそらせないまま、ベルガは問いに見あう答えを返すべく唇を開く。
「あ……はい、ここで働いてるものです。今日はもう上がってたんですけど、その……」
「ここはいい町ですね。今日初めて来ましたがとても気に入りました」
 一歩、また一歩と、静かにそれは近寄ってくる。ベルガは視界の真正面にその姿を捉え、なぜか心音が速くなるのを遠く感じた。かろうじて訊く。
「旅のかたですか、」
 並び立てば相手はかなり背が高かった。年はデルフィナよりいくらか上くらいだろうか、すらりとした若い男だった。
「ええ、今はこの国の中をまわっています」
 そうだろう、と思った。
 旅人の装いは、この辺りで目にする服装とはあまりに違っていた。からだを覆う布地は黒色に見えたが、日の光の下でその黒は深みと風合いを変化させ、灰色にも紺にも転じた。幾重にも纏われた生地そのものも、何でできているのか、ベルガが見当をつけられる素材ではなさそうだった。旅人の着衣はしっとりと身に沿い、その長身と線の細さとを際立たせている。
「この国に着いてから、北のネレスや東のスリガ、それに王都もまわりましたが、ここが一番いい町ですね。この海風の匂いも波の音も全て美しい」
 ベルガは思わず旅人の顔を凝視した。
 意識したことがなかった。海の匂いを持たない風を、波音がしない土地を、ベルガは知らずに暮らしてきた。海風の匂い。波の音。そんなものは、この町に生まれ育ったベルガにとって、するのがあたり前であるのがあたり前で、それがいいか悪いかすら考えもしなかった。
 それを、この旅人は、「美しい」と言ったのだ。
 沈黙が落ちれば、路地の向こうで続く祭りの賑わいと、そのさらに遠くに波の響きがはっきりと聴こえた。そして、どんな暑い日でも吹きさえすればいつでも冷たい、絶えず潮を孕む風も皮膚へ届いた。
 これが普通だと、当然だと思っていた。家族とも幼なじみとも、波音や風の匂いについて話題にしたこともない。それなのに。
「どうかしたかな」
 旅人は微笑し、まっすぐに眼差しを返してきた。その濃紫に見える双眸はさらりとした黒髪に隠され、柔い目線に思えたが、見つめあう格好になればひどく鋭利だった。
「いえ、」
 ベルガは急いで目を背けた。
 これ以上、瞳を向けられていたら、ばれてしまう。
 胸の下で恐れと不安と、高鳴りつづける鼓動が相争って、初夏の日光の下だというのに肌が震えた。
 目をそらしても、潮風の下で宙に焼きついたように鋭い双眼の残像は揺れつづけていた。

凍露 序章

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凍露 序章

猫宮ゆりの一次創作小説『凍露』の本編序章部分。全文公開しています。人魚の伝説が残る北の町に暮らす三姉妹の次女ベルガが、記念祭で旅人と出会うまで。『凍露』は架空の北欧風ダーク寄りハイファンタジー・2020年11月22日新刊オンリー(オンライン同人誌即売会)発行/テキレボEX2や自家通販で頒布中です。なお、本編の序章以外のweb公開予定はありません。

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更新日
登録日
2020-10-04

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