10月のサナトリウム
9/29 0 sending a letter(館長)
バーカウンターに重たげな木箱が置かれた。
大きさは広げたノートパソコンを入れられるほど。寄木細工のように角は丸まっていて、強迫的なまでに隙間というものがなく、唯一蓋と思しき側面に投票口さながらの穴があいている。
この箱こそ、10月の招待状の投函箱だった。10月31日…あるいは第四週の日曜日…には、アトラクションで好成績を残したゲストへの称賛と、なにより案内人たちへの労いを兼ねた催しが毎年開かれる。案内人たちはそれぞれ好敵手と認めたゲストへ手紙を送り、この催しへ招待するのだ。ゲストたちも全員が参加できるわけではないが、それでも例年、多くが招待に応えてくれている。
カウンターに座った男は投函箱を揺らし、そこそこかな、と微笑みを浮かべた。
「例年の通りかい?」
「仰る通りでございます。」
笑い合う相手はといえば、カウンター越しに立つ初老のバーテンダー。彼は山羊髭と同じ色の白い眉毛を片方だけ吊り上げて、いれていない方々もですよ、と囁いた。
ともすれば同い年ほどにも、けれど光の加減によっては彼の息子かと言われてもおかしくない歳にも見えるが、男に対するバーテンダーの接し方は上役に対するものである。二人で含み笑いを交えながら囁き交わして、不意に、男が振り向くことなく声を張り上げた。
「諸君、今夜が締め切りだぞ!」
途端、彼の背後で悲鳴やら物音…椅子に躓いたか机にぶつかったか…それに悪態…驚いて書き間違えたのかもしれない…あるいは時間の猶予をねだる声が飛び交った。
聞き慣れた悲鳴だね、と聞こえよがしに言う男の眼下へ、一枚の手紙が差し出される。
いつの間にか隣へ腰掛けていた青年が差し出したのだ。いつもの面子だけではないよ、と、照れ笑いを浮かべているせいで、妖艶なはずの面差しが原型なくほころんでいる。
赤い封蝋でとじられたそれを受け取りながら、男が目を丸くした。
「侯爵どのまで?」
男爵で構わないと言っているのに。冗談めかした調子で男をたしなめ、青年は肩を竦める。招待状など…などと男が珍しげに呟くが、青年は首を横に振った。
「ただの臣民相手でないだけで、ずいぶん心持ちが違うものでね」
手にしたグラスを口に運ぶこともなく揺らし、一転して物憂げな顔で何か言いかける。それを、アブサン!と低い声が遮った。無遠慮に割って入った細い腕に続き、体に合わないだぼだぼのシャツの袖が視界で揺れる。そろそろおよしになった方がいいのでは、とゴブレットを出しながら…けれど一緒に並べたのは牛乳と卵とブランデー…バーテンダーが嗜めるが、けれど、矮躯の男は唸り返すばかりだった。いいんだよ、大丈夫だから…そう返す彼へ、横から男が口を挟んだ。
「君もまだなはずだね」
男の指先が木箱をつつく。胸ポケットのそれは?とでも言いたげな目からは視線を外しつつ、矮躯の男は酒精で赤らんだ目元を吊り上げた。
「どうせ仕事だなんだって来やしねえさ」
「だからってねえ」
家鳴りのような軋んだ声だった。それと同時に枯れ木のような指が頬をかすめる。古木を人の形にしたような怪人が、いつの間にか彼らの後ろに忍び寄っていたらしい。胸ポケットからはみ出す手紙を通りすがりに見咎めたのか、勢いよくそこに手を差し込んだのだ。矮躯の彼はといえは驚きが優って動けずにいる。
怪人はそれをいいことに、これ見よがしに封筒を電灯にかざしてみせた。
「これはまた随分書いたねえ」
しっかり折りまとめて圧縮していたとして、魔物の眼力には敵わない。何枚書いたって関係ねえだろ、と耳まで赤らめて噛みつけば、そんなに何枚も書き連ねたのかい、と怪人のにやけ顔がさらに深まった。
「一枚にびっしりよく書いたもんだなって言ったつもりだったんだがね」
かまをかけられたと気付いた時にはもう遅く、怪人の長い手が封筒を投函し終えている。今年のエキシビションで当たったらてめえ覚えてやがれぶっ殺すぞ八つ裂きどころじゃねえんだからな…そう吐き捨てても後の祭りで、瞬きの間に呪いの言葉は相手を見失っていた。
それでもなお牙を剥いて唸る男に、それで、と。涼しい顔でバーテンダーが訊ねる。
「景気付けのアブサンとお休み前のナイトキャップ、どちらをお飲みになられます?」
10/1 1 Holding Hands(リトルローズ)
ええご機嫌よう、と返したきり、彼女が動く気配はなかった。
頬杖をついて、いつも以上に意地悪げに微笑んで、私のして欲しいことなら分かって当然よね、と言わんばかりに目を光らせている。
手指や首などの節々に球体関節を示す隙間を持つとおり、彼女は人形である。それゆえ動かない方が自然であるはずなのだ。けれどその自然さこそが不自然であるし、なにより…それさえ無ければどんな人形博物館でも唯一無二のお姫様になれそうなほどの可憐な面立ちをすべてぶちこわしているといっても過言ではない…禽獣じみた眼光がひどく恐ろしい。儚げな金髪の巻毛も、上品な薄紅のドレスも、水色のストライプが可愛らしい帽子すら、素晴らしく似合っていて素敵なはずなのに…それすら不穏に感じてしまう。
ええと…なんて言い淀みかけて、慌てて彼は口をつぐんだ。一瞬とはいえ不機嫌を隠しもせず尖った唇の通り、彼女はそういうだらだらした"紳士らしくない"言葉遣いを好まない。うっかり口にしていたら、今頃その十倍百倍の皮肉が礫となっていたことだろう。
それをよく知っているだけに、彼は世間話で時間を稼ぐ。庭の木香薔薇がよく咲いているようだとか、街では宝石みたいな石鹸が流行っているのだとか、職業柄事欠かない些事雑事で紛らわしながら、注意深く、そしてそうとは気付かれないように…これもまたあからさまにやったなら"嫌な人"等々どころでなく舌鋒の切れ味が鋭くなる…彼女を観察する。帽子は、その飾りは新しいものではなかったか。髪の巻き方は前回と違っていやしないか。手袋、リボン、ブローチは果たして…。けれどその全てに見覚えはあって、だったら特別褒めたものを身につけているのだろうかとさらに頭を悩ませる。
そうして、ふと、思いついた。
「今日は特別ご機嫌でいらっしゃるのですか」
そう…あからさまに"初っ端から人間大なんですね"とか言うわけにはいかない、まして"今日は大きいですね""身長が高いですね"なんて言った日にはこの部屋が直に三階層へぶちこまれるだろう…訊ねれば、裏表のない満面の笑みが返ってきた。彼は内心で快哉をあげる。そうなのだ、普段の一階層では彼女を抱いて運んでいたのだから、始まりは腕に収まるくらいの大きさであるはずなのだ。
彼女の顔の邪悪さ、もとい意地悪さはなりを潜めて、コケティッシュな上目遣いの微笑みが浮かんだ。
「そうね。爵位がなくとも、及第点の殿方であれば連れ立って歩いてもいいくらいには…ええ。機嫌がいいと言えるでしょうね」
私みたいな淑女から誘うことはありませんけれど…だって、はしたないもの…それで?
そんな言外の注文をありありと顔に浮かべて、爪でも眺めるように…ここで"手袋に気になるところでもおありですか?"なんて訊いたら全てが潰れる…頬杖をついていない方の手を緩慢に揺らす。求められているものは明らかで、本心から顔を綻ばせ、彼が前に進み出た。
「もし良ければですが…不肖の身ながら、私を散歩にお連れいただけませんか?」
僅かに屈み、少しだけ見上げるようにして…これもまた完全に膝を折ってはいけない。体勢が苦しくとも、楽をした日には"子どもを相手にしてるつもりだったようだったから"なんて根に持たれて三階層で地獄を見ることになる…手を差し出せば、間も無く小さな掌が重なった。豹か虎かと思えるほど残忍に光ることもある眼は、日なたでクッションに埋もれた猫の目元もこうは蕩けないだろうと言えるほどに喜色に緩み、形よく微笑んでいたはずの唇はといえば、笑みで持ち上がらないように引き結ばれて…それでも口の端は上を向いて…いる。それになにより、よくってよ、と応える声のか細いこと。また自分で仕掛けておきながら照れているのだと察して、けれどそれについてはおくびにも出さないようにと努めながら、彼は小さな白磁の手を握った。
10/2 2 Cuddling Somewhere(マッシュルーム)
思いきり息を吸い込むと、苦いとも香ばしいとも知れない薫りが鼻腔に広がった。
チェックインを終えて気が緩んだのだろう。入室直後に寝落ちしたらしいことを思い出して、フライトの疲れが思った以上に溜まっていたのだと痛感する。身を起こせば部屋は思った以上に散らかっていて、倒れたトランクや脱ぎ捨てられた上着に閉口した。
とりあえず体を清めて、明日の準備がてら片付けをして、それから寝直そうか。そんな段取りを考えながら、抱いて寝ていたらしい枕へ手を伸ばす。けれど手は空を掴んで、代わりに胸元を這い登る何かがあった。
声にならない悲鳴を上げながらも、視界では胸に張り付くものを捉えていた。起きたならここは自分の特等席ですし、とでも言いたげなくらいこれ見よがしに揺れる白い菌糸の頭に、安堵のため息が漏れる。
真っ白な巨大エリンギが胸元に陣取っていた。人の2歳児くらいの大きさで、シメジよろしく両脇から生やした同色のキノコを手のように使ってシャツにしがみついている。
ふかふかとした臀部…歩く大茸に尻があると、足…に見える可動部…の付け根を尻と呼んでいいものなら…を腕に乗せるように抱えなおしながら、「おまえ…」なんて恨み言を漏らそうとして、思い出した。
チェックインに際してロビーを通った時、ちょうどアトラクションを終えたマッシュルームと鉢合わせたのだ。腕に飛び込んできたのは受け止めたものの、すでに朦朧としていたものだから「いつもありがとうございますね」「いえいえとんでもないです」なんてやりとりのままこれを抱えて、おそらく荷物が何かを抱えているような気持ちで部屋へ入り…。
一瞬で目が冴える。アトラクションの終了時間は近かったとはいえ、終わっていたわけではない。これはお気楽にしているけれど、もしまだシフトが残っていたなら…。
勢いよくベッドサイドの電話に飛びつく。急な動きに抗議の…とはいえ菌糸の手などミトンで叩かれるようなものだから、叩いているなあ、くらいの感触でしかない…殴打を受けながら、「おまえのことなんだからな…!」と声を低めつつダイヤルを回す。そうしてロビーに繋げれば、深夜にも関わらず快い声が応じた。
急なお客様もありませんでしたから、と愉快げに応えて、それよりも、と言葉が続く。
「お客様、夕食を召し上がらずにお休みになられたでしょう。もしよろしければ、軽く夜食などをご用意させていただきますが…」
迷うより早く、シメジめいた手が髪を引っ張った。ぺぺぺぺ、と勢いよく受話器を叩くものだから分かったと応えないわけにもいかない。ありがとうございます、と答えた電話の先で小さく歓声が挙がった気もするが、それはさすがに気のせいか、あるいは偶然タイミングが一致しただけだろう。
「食堂に…」
向かえばよろしいですか。そう言うより早く、そうだからさっさと動いて、と首を無理矢理ドアの方へ押しやられる。
「今しばらくお時間はかかりますから、三十分後にお出でいただけましたらちょうどよろしいかと存じます。」
漏れ出た呻き声で察したのか、急かすものじゃありませんよ、と笑み混じりの牽制が飛んだ。
シャワーを浴びて、身支度をして。それらを終えてちょうどいいだろうか。居心地よさげに体を預けるそれを一旦下ろせば、早く行って早く帰ってこいとばかりに、菌糸の掌が背を押した。
10/3 3 Watching a Movie(丘の騎士)
何度目かの悲鳴が重なった。
見れば彼女は頭をしっかり胸元に抱え込んでいたものだから、劇中の悲鳴に反応して叫んだだけなのだと知れた。「ああああの坊ちゃんが殺されたのですね」と尋ねる声はしっかり震えていて、あまりに予想通りの反応で破顔してしまう。並んで解説役を務めている人物は、テレビの内外から悲鳴が響くたびに笑えてしまうのを、もう隠す気すらないらしい。
頭を抱える。その文字通り、取り外されて…生きていれば呼吸すらできないくらいにはしっかりと、胸に鼻が埋まるくらい…抱きしめられた頭は、はたからは波打つ赤毛のカツラでも抱いているようにしか見えなかった。普段は鈍色の鎧に群青の外套を翻し、連銭葦毛の首無し馬を駆りながら身の丈ほどもある両刃の剣を振り回す。そんな彼女が
「異国の弟分を見て差し上げようではないですか!」そう言って鑑賞前に胸を張っていた姿を思い出し、撮っておいてよかったと…観賞後にそれを見せながら感想を聞こうと…画像をこっそりクラウドへも保存する。そうして、なんなら首の位置の推移も撮っておけば、と後悔した。
初めこそ頭を首にきちんと乗せて観ていたというのに、ごくごく序盤で目を覆うようになり、首を外して抱え始め、位置が胸元から膝の上へと下がってきて、今ではもう腹部と鼻先とが離れなくなっているのである。
見えていないだろうに台詞と物音だけで察して悲鳴を上げるのだから、さすがは妖精、あるいはさすが騎士さまだと言うべきだろうか。
「いっそ殺してください!一思いに!あなたは一体何を遊んでいるのですか!」
彼女の叫びに応えるようにして、劇中の騎士が脇役に斧を振りかぶる。空を切るその音にまた悲鳴が上がり、それに解説役の笑い声が…わずかには控えめに…重なった。
こうも叫んで、何を考えているのかと不思議になる。そもそもこの観賞会だって、発端は彼女の自慢ゆえなのだ。
「映画の首なし騎士より怖いとお褒めいただいたのですよ」
どんな方かは存じませんが、と手紙にあったものだから、それはものすごく称賛されているということなんですよ、なんて伝えられればと持参したのに、当の本人がこうも怖がるとは思ってもみなかった。
「そんなに怖いなら消しましょうか」
「いいえ!」
間髪入れずに答えられて、解説役が妙な顔になる。嬉しげな、けれど気遣わしげな。それを察してか…劇中は昼になったから恐ろしい場面はしばらく無いのもあって…彼女が首をテレビ側へ向けた。
「あなたが持ってきてくれたから、というのもありますよ。でも、それ以上に気になるのです。観客を怖がらせることばかりを目的に作り上げられた方が、どんな行動や性質を備えているのだろうって…」
私は手練れの騎士ですが、お化けとしては見習いですからね。異国の弟分とはいえ習うべき部分は大いにあるのです…。
頭の乗っていない首が前に傾く。小さくため息をつきながら、彼女が首を付け直したのだ。「見れます?」なんて問えば、「生首なんて生前は日常ですよ!」と勇ましげな声が返ってくる。ジンジャーエールを一煽りしてから姿勢を正し、腕を組んで笑ってみせる。その姿に…生首は慣れたとして、もうすぐ来る老婆には耐えられるのだろうかなどと…解説役は笑い返した。
とはいえ、展開を話してしまっては面白くない。「楽しみです」とだけ伝えて、解説役も画面に向き直った。
10/4 On a Date(よどみの水馬)
朝靄が晴れてゆく。客人を乗せた水馬の背のほかには木々や草地の緑すら朧げにしか見えなかった視界も、だんだんと鮮やかさを増してきた。靄の水気で重みを増した外套を抱え直して、冷たくなった鼻をこする。たてがみを離したからか、水馬が小さく振り向いた。
「明るくなってきたね」
感嘆して惚ける身体が馬上で揺れる。騎手は気の利いた感想じゃないな、なんて後悔したが、水馬はその賞賛を読み取っていた。満足げに鼻を鳴らして、夕方もいいけれどさ、と笑う。
「夜が近いとはしゃぎだす奴らがいるだろ。その点、朝なら静かで。ね?ただ、きれいじゃないか」
水辺が一番すてきで、まで言いかけた水馬が口を噤む。気遣わしげに首を叩けば、今日はもちろん行かないよ、と鼻を鳴らした。
「うっかり君のはらわたを食いちぎりたくなったら困るからね」
冗談めかして…けれど騎手はアトラクションで何度も体験したために青ざめて…二人が笑う。代わりに森を行こう、と。脚を速める水馬に合わせ、騎手も姿勢を改める。
サナトリウムを背に丘を降り、街へ続く森へ駆けていく。街へ続く森とはいえ、それは単に地続きであるというだけの話だ。舗装はおろか獣道すらできていないような、原生林の木々の間をぬうようにして走る。けれど落ち葉や下草に水馬が脚を取られるようなことはなかったし、騎手の頬や肩を枝葉が掠めることもなかった。
まるで木々が自らこちらを避けてくれているような。そんな錯覚を覚えて、騎手は蕩然とする。水馬の動きに合わせて身体を揺らし、ただ前を見続けるだけで万事うまく進めるのであれば、彼以上に優れた馬もいないだろう。昔話の英雄も欲しがるわけだ、と想いを馳せたのを察したのか、もしかして褒めた?と水馬が笑った。
駆け足が緩み、やがて歩きになる。その頃には森の中に立ち並ぶ家々が目立つようになり、どこからか焼きたてのパンの匂いが鼻をかすめた。
「実はね、朝ごはんを頼んであるんだ」
得意げに鼻を鳴らした水馬の言う通り、集落の奥、森の境に位置する食堂のテラス席にはクロスが敷かれ、よく冷えた果実水が…水馬のためにはバケツ一杯分も…用意されている。席に着けば、間も無く食事も運ばれてきた。熟れたいちじくののったヨーグルト、ほどよく焦げ目のついたベーコンとジャガイモのガレット、ゆで卵に焼き立ての丸パン、生クリームをたっぷりのせた甘めのホットチョコレート…。
いただきます、を言うより早くホットチョコレートで一息ついて、騎手が水馬の視線に気付く。ばつのわるそうな「いただいてます」には意地悪げに「おいしい?」と応えて、肯き返せば満足げに水馬が嘶いた。
10/5 5 Kissing(キラーポップコーン)
それらは特別な機器で誕生したから怪物であるわけではなく、自身の性質…呪いのようなものなのだろうか…をただのポップコーンの素に伝染させて増殖したものなのだ。そう知ったのは最近のことだった。
そもそもポップコーンから手紙が届いたことが驚きであったろう。ああはいはいあいつらか、なんていそいそと手紙を開封したものの、おいおい待てよイタズラだろ?と二度見せずにはいられなかった。
キラーポップコーンたちから、というのは信じられないかと思いますので…。とは仰るとおりで、館長の字で同封されていたメモには写真が留められていた。そこには何匹かで破城槌のようにタッチペンをくわえ、スタンドに立てた携帯端末をつつくポップコーンたちの姿が写っている。同封の写真はもう一枚あり、そちらにはキーボードをバター塗れにしながら…このあと叱られてタッチペンにもちかえたのだと経緯が書かれていた…ノートパソコンの上を飛び跳ねて文字入力をする姿があった。
愉快としか言いようのない写真に反して、招待状の文面はとても礼儀正しく…タイプミスらしい誤字を除けば手紙の教科書のようだった…普段はプンとかポンといった鳴き声しか聞いていない身としては、人の言葉にするとこんな風に話していたのか、なんて思われて妙に見直してしまった…。
そんな話を語りかけながら、アルミホイルで包んだフライパンを前後に揺する。これは独り言でも錯乱しているのでもなく、彼らを増やすための作業の手伝いだった。
彼らは性質をただのポップコーンの素に伝染させて増殖する。その恐ろしさといえばアトラクションの…ポップコーンマシンから波浪のごとくかれらが溢れ出すのはまさに悪夢だ…それが示す通りだが、ポップコーンである以上、湿気やカビや消化には…体内で暴れないように噛み砕いてしまえば、ただのポップコーン同様においしく食べることができる…弱いのだった。よく乾燥した時期であっても、乾燥剤でも背負っていない限り、保ってだいたい1週間ほどだろうか。完全に湿気たりカビたりするのに伴って意思は絶え、ただのポップコーンに戻ってしまう。それゆえ一定量の群れを保つためには、こうして定期的に増やさなくてはならないのだと館長は語っていた。
規則正しい動きに惚けかけたとき、フライパンが大きく跳ね上がった。気付けば中でプンプンと鳴く声も増えてきているようで、これは無事に増えたということなのかもしれない。中のかれらが焦げる前に、とミトンに手を伸ばす。けれど、蓋がわりのアルミホイルを剥がすよりかれらの方が早かった。
ぽん、とアルミホイルを勢いよくポップコーンが突き破り、鼻先に当たってコンロ脇へ着地する。次いで、ぽぽぽ、とその穴から逃げ場を探したポップコーンたちも飛び上がり、大挙して口元へ激突したあと、同じくコンロ脇へと着地した。
バターの香り、すこし焦げた香ばしさ、それからちょうどいい塩辛さ。一口では物足りないと、唇を舐めながらつい目を向けてしまう。
けれど…そういうふうに、ひとに都合のいい意志を持つ食べ物として作られたからか…食欲を察知してさらに彼らは喜んで、プンプンと騒がしくコンロ脇で跳ねてみせた。
10/6 6 Wearing Each others' Clothes(アングゥイス)
「人のように見えているよ。」
向かい合う大蛇がレモネードを啜りながらこう言った。器用に椅子の背もたれに巻きついて、スープ皿に似た浅い器に沈めた下顎の上…頬と言っていいのだろうか…その部分がくぷりと膨らむ。あまり酸っぱくはなく、と注文をつけたレモネードは口に合ったようで、テラス席からはみ出した先、芝生で日光浴をしている青銀の尾がゆるりと脱力した。
もちろん他のはらからは分からないけれど。そう言い足して、大蛇は次いで器用にジャムサンドを一飲みにする。このぶんだと味覚も人とおなじだろうか。そう思ったのを見透かしたように、ぴろぴろと舌が波打った。
「嗅覚は人以上なのでね、ものを味わうということにかけてなら、人の中でも一握りの、より優れた料理人以上さ」
どうだい?と…小さく突き出した舌をぴろぴろとさせるのは相手をからかうときの彼の癖だ…得意げに含み笑って、ふと、静かになる。客人を捉えたまま数度瞬きして、大蛇が身を乗り出した。
「よければ、なってみるかな」
何に、と問えば、蛇に、と返ってくる。
あからさまに信じられないと…疑念や冗談に笑い返すそれではなく、ただただ呆気に取られて…目を丸くする客人に大蛇が言う。
「後世ではやれ麻薬だの、やれ宗教的恍惚だのと伝わってるようだけれど…私のは本当に蛇に変えることができるのさ。とはいえ、君はただの人間だから…まあ…成れたとして、私ほど大きくなることはないだろうけれど…」
物は試しだよ。大蛇が言うが早いか、客人の視線を捕らえてその目が明滅した。目が眩む…そう思った瞬間にジェットコースターの急降下に似た落下感が襲い、直後、ひやりと冷たい滑らかな地面へ着地していた。
「これはまた…」
やけに小さくなったものだ!大蛇の哄笑に驚いて塞ごうとした耳に手が届かず、それどころか声の源へ視線をやって、その大きさに震え上がる。自分などその鼻先に乗れるのではないか…そんな巨きな顔が客人を見下ろしていた。立ち上がって逃げ、距離を取ろう…とした身体は、次いでものの見事にひっくり返る。起き上がろうとした勢いのまま、跳ねた身体が受け身も取れずに床に叩きつけられたのだ。再度、今度はすこし抑えた笑い声が届く。巨きな顔…見覚えのない、黒い髪の男のものだった。欧州人にしては浅黒い肌に、青灰色の上着を着た痩躯の男だ。けれど声は聞き知ったとおりの大蛇のそれで、陽光を受けて赤緑の燐光を散らす瞳も同じに見えた。床に叩きつけられたまま、呆然とそれを見上げる。どういうことかと身体を…腕も足もうまく動かないのである…悶えさせていると、男の手が客人を掴んだ。
「暴れるんじゃないよ、ご覧」
持ち上げられるままに宙へ浮かび、前を向く。テラス席と屋内とを仕切るガラス戸に男の手が映りこんだ。そしてその手は紐状の…ミミズか何かかと思ったが目が二つある…ならば…男の指ほどしかない小蛇を摘んでいた。まさか、と。唯一自由に動く頭を上下に振ってみる。するとガラスに映った小蛇も同様に頷くのだった。
「どうかな、蛇の体は」
レモネードのいい香りはここですら分かるけど、動けないしなんか寒いし、瞬きだってうまくできない…。
小首を傾げる男にそう言おうとして、口を開閉するかぱかぱという音しか出せずに閉口する。とはいえガラスに映ったままの小蛇の顔は変わらない。シュゥ、とため息まじりに出せた威嚇音でわかってもらえるだろうか。そう考えた直後に頭上で男が噴き出した。
「いや、悪いね。おなじ反応なものだから」
いつの頃も人は変わらないね。笑い声を挟みつつ、途切れ途切れに男が言う。滲んだ涙を拭きながら、ちなみに瞬きなら下瞼を持ち上げる感覚だそうだよ、と男が指で客人…だった小蛇の頬を押した。
「そのかわいい体でできることは限られている!それになにより、そう長く変わっていられるわけじゃないんだ…残りの半生を蛇として生きたいのでもなければね!」
そういうわけで、今日はこの格好で君に色々お伝えしよう。とりいそぎ、味覚からためしてみるかい。
客人の使っていたストローがレモネードに浸かる。その先に溜まった滴を口に含めば、いつも以上に濃厚なレモンの香り…そしてそれ以上に強く弾ける炭酸が口腔を満たした。思わず飛沫を噴き出せば、また愉快そうに男が笑い転げる。
よくまあ平気で飲めていたなと思う反面、よくも飲ませたな。そんな視線を向けた先で、じゃあ次はどうしようね、と男があたりを見回した。
10/7 7 Cosplaying(矮躯の獣)
足の付け根までを覆う紺色の上着に黒いベルトを締め、頭にはヘルメットに似た帽子、ベルトからは警棒が下げたその姿はといえば
「ホームズの時代の警察みたい」
こう言えば、「みたい、じゃなくて、そうなんだよ」と目の前の彼が自慢げに片眉をつり上げた。珍しさと目新しさとで、言葉もなく、つい見入ってしまう。そうして上へ下へと視線をやるうち、初めこそ誇らしげに広げていた腕がだんだん落ちてきた。
「なあ、おい」
どうなんだ。一転、声が低く震えたのに気付いて我に返る。
いまの彼は女性とそう変わらない小柄さであるが、ひとたび無毛の獣に姿を変えれば、競走馬ほどに巨きくなる。それゆえ普段は獣の大きさに合わせ、裾も袖も何重に折り返しただぶだぶの服を着ているのである。それが今日は体に合った…そして似合う…服を纏っているものだから、ついじっと眺めてしまったのだ。それだけなのに、彼はといえば居心地悪そうに目を宙に泳がせていた。次いで深い嘆息を吐き出す唇が尖る。気遣わしげな視線からすら、逃げるように瞳が下を向く。
「…やっぱり、仮装みたいなんだろ」
娼婦どもにもすぐ気付かれたもんだったし。
帽子を外しながら男が唸った。背が丸まり、余計に体が小さく見える。けれど、会話の相手は男が言うようには思ってなどいなかった。ええ、そう?と苦笑し、当時の警察の人から追い剥ぎした服だと思ってたんだけど、なんて言葉が続く。
「アトラクションもその服で来られたら大変だよ。うっかり近付いてすぐ捕まっちゃう」
あなたは見るからに硬派だし、女の人たちはそこ見てたんじゃないかなあ。この言葉には不服そうに鼻を鳴らしたものの、男の姿勢はすぐ元どおりにしゃんと伸びた。そうしてくるりと背を向けて、後ろ手に背面の首の付け根を指で差す。
「お前にしてはよく分かったじゃねえか」
その意図を理解しかねて、客人はそこへ向けて目を凝らした。じれったげに指が上下するあたりへ向けた目が細まる。僅かに盛り上がったような…線状のものがあるような。けれど根拠はないままその線を追う。そうしてようやく大きな繕い跡であるのだと…随分腕のいい仕立て屋の手技だ…見つけて、驚きに声が上がった。ここ!これ!なんて思いがけずいい反応を受け、男も破顔する。
「俺が食い破ったところを繕ったのさ」
曰く、彼を討ち果たした追手がいたのだそうだ。妖物の世界のことなど全く馴染みのない身の上で、けれど超常的な犯罪者として彼を見咎め、その上で追い詰めた相手だという。
「こいつは近いうちに手強くなる…なんて思ったから先に殺そうとしたんだけどな」
けれど、妖物側の…とはいえ彼とは違って本性を明かしてはいない…助力者たちの援護のために、上着一枚得たのみで取り逃してしまったのだそうだ。下手打った、と懐かしげに縫い目を摩って、思い出したように男が袖をひらつかせる。
「ほら見ろ、100年前の布だぞ」
博物館で見れても触ったことはねえだろ。そうやって差し出された袖に手を伸ばせば、けれど
「触らせてやるとは言ってねえぞ」
などと躱して、男が意地悪く笑った。唱えた異議を笑い飛ばして、彼が応える。
「アトラクションで一度でも弾を当てられたら、その時は触らせるどころか着せてやるよ」
そしたらこれにふさわしいだろうさ。
売り言葉に買い言葉、今日にでもやってみせると言い返せば、はやくそうなってほしいもんだな、と。青緑の目が輝いた。
10/8 8 Shopping(廃園の貴婦人)
黒い爪が袖をつまんだ。
これも似合うのではなくて、と囁かれる声がこそばゆく、客人は妙な形に唇を引き結ぶ。
黒い爪は横の女性のものである。青白いどころか紫がかり、盛り上がった傷跡ほどに顕著に血管の浮いた手に形よく備わっていた。客人が見上げた先で、同様に所々血管の浮いた顔が微笑み返す。プラチナブロンドで覆われた半分と、滑らかに…目と鼻の穴のみを残して蝋で覆ってしまったような…産毛の一本すら生えていない平らな半分とが、客人と商品棚とを行き来した。
「これかあ…」
神妙な顔で客人が覗き込むのは、心臓のかたちをした赤黒い腕飾りである。飾りからはワイヤーが伸びており、それはどうやら動脈と静脈を模しているらしかった。
「血も増やしてくれるそうよ」
片手にカタログ…店の奥から借りてきたのだろう…を広げて女性が囁く。たしかに失血死を防げれば悪あがきの時間も増える、けれど彼女のアトラクションで使うことを考えると…。
「そもそも痛いのはなあ」
そう応えると、そうよね、とささやきが賛同した。
二人がいるのはホラーハウスのゴール地点、昼はカフェ、夜はバー、あるいはホテルのラウンジとして利用されている食堂の一画だった。そのバーカウンターの側に併設されているのがホラーハウスの土産物売り場である。並んだチケットホルダーや同社の映画パンフレットなどの市販品の他、各案内人をイメージした装飾品などが並んでいる。それらは本物の護符であり、アトラクションにおいては…実感できるような場面には出くわさないから、持ち歩いてても日常でどうかは分からないけど、と彼女は笑っていたが…抜群の効力を発揮するのだと、他の客人が教えてくれたのだ。
これは誰の護符かとカタログを覗き込む。二人して文字を…彼女はずいぶん分かりやすく教えてくれていたらしく、言葉は分かっても意味が分からない部分が多い…追えば、想定アトラクションの文字がある。
「…絢爛の処刑、台?」
「男爵さまよ。吸血鬼のかた」
それなら確かに血が足らなければ話にならなそうだ。小さく笑い合い、再び二人で棚に目を戻した。
例えばアラベスクを思わせる意匠の…草花と思いきやエノキダケらしいキノコである…刺繍を備えた布マスク。
例えばくぬぎの実を模した、アクリル製の小さなランタン。
例えばヴァニタスの様式の胸像で飾られた指輪。
「効果だけで選んでみようか」
カタログと棚とを交互に見ながら、考えあぐねた客人がため息を漏らした。ふと、その視界の端で白いものが揺れる。黒い爪が棒状の毛皮をなぞっていたのだ。黒い指を模した金具で留められたそれは、半分はふわふわと毛に覆われ、もう半分は滑らかに鞣されている。触り心地はよさそうだし、細い鎖で下がっているところを見るとキーホルダーか何かだろうか。持ち歩きやすそうだと手を伸ばしかけて、黒い爪が再び袖を引く。今度は客人の手を阻みながら、"うさぎの後脚"…幸運のお守りよ、と彼女が言った。とはいえフェイクファーで作って、詰めたハーブと魔法で同じ効果にしているだけみたい。
これいいなあ、ふわふわだし。そう言ってさらに指を伸ばすが、今度は指を絡め取られてまで彼女に阻まれた。見上げれば、似合わないわ、と彼女の眉が八の字に垂れる。
「もっとかっこいいのが良くてよ」
それと言うには、金具なんてゴスな感じで特にかっこいいんじゃないだろうか。加えて幸運のお守りなら、彼女のアトラクションでも通用しそうだ。そう?と肯くふりをしながら、けれどもう一方の手で"うさぎの後脚"を掠め取る。カタログを持つ手は急に動かせず、またそういうことをして、と彼女が悔しげに唸った。
10/9 9 Hanging out with friends(憑依の劇団長)
芝生の上には何枚もの布が敷かれ、所狭しと人形が座っていた。思い思いに場所をとり、饗応役らしい人物がもてなすままにティーカップや皿を囲んでは、ピクニックでもしている風情である。ちょうどランチボックス…好天の野外で食べてはどうかと食堂の面々に持たせてもらった…を片手に建物を曲がってきた客人は一瞬足を止め、そのまま来た方へ身を翻した。何もおかしいひとがいるから危険を感じて逃げたわけではないし、なにより客人は饗応役のことを知っている。先客がいるなら邪魔するわけには。ひとえにそう思ったからであるが、饗応役はそう捉えなかったらしい。
「これはお客様!」
ご機嫌麗しく、とは穏やかな言葉ながら、弾丸のように鼻先へ人形の一人が飛んでくる。眼前に迫るのは頭のないタキシード姿の人形で、空中でひょろ長い布の体がふらりと揺れた。おぼつかない四肢から伸びた半透明の糸を辿って見上げれば、人ひとりぶん高いところで、それを手繰る彼女がにたにたと笑っている。
「まあなんと奇遇でしょうね。いえいえ言わずとも分かりますよ、世の中で合縁奇縁と申します通り、わたくしめとお客様はやはり惹かれあう運命なのでしょう!」
声がするのは上からであれど、目の前の…首がなくとも…人形が喋っているのではないかと思えるほどに合った動きで、彼女は人形を操って客人の肩を抱く。ワルツのペアを回転させるように優雅に、けれど布とは思えないほどの力で強引に背を押す。ささ、こちらへ。そう言われて敷き布の端に腰掛ければ、今度は人形も他の敷き布も一斉に動き出し、たちまちのうちに客人を囲いこんだ。
「ようこそお客様」
「あなたとご一緒できて嬉しいわ」
大仰に腕を広げたり、肩を抱いて頬にキスを…首があったならそうなっているような動きを…するのはそれぞれ鮮やかなペールピンクとレモンイエローのワンピースを着た人形で、年若い少女の甲高い…なぜか二重に重なって聞こえる…笑い声が上がる。アトラクションでこうなったのなら破滅しか待っていない。それをよく知る客人は早くも力を抜き、捕まってしまったからには、と苦笑してレモンイエローの人形を抱きしめ返した。
眼下の光景に劇団長は笑みを深めて、その背にセーラー服の少年を抱きつかせる。
「ねえそれなあに?」
そう訊ねながら、ランチボックスを取り上げさせられたのは恰幅の良いスーツの男。追いかける客人の手から更にランチボックスは遠く運ばれ、赤い毛糸のベストの青年が受け取った。
「ねえなんだったの?」
舌足らずの少年の声とともに、客人の視線も青年の背で見えない中身を追いかける。けれど群がる人形は更に増えて、赤いベストの青年に加え、緑のベスト、青のベストの青年と、焦げ茶のコーデュロイの上着の女性、それに白いシャツの猫背の男までもがランチボックスを囲んで騒ぎはじめた。いくつもの声が重なるのを見守る客人の胃が小さく鳴る。
けれど、その眼前で。
「オレはベーコンとたまごのサンドイッチ!」
「あたしはトマトもらうから!」
「フルーツサンド!カスタードクリーム見えなかったのぉ?」
「僕はコールスローをもらおうかな」
四つの手が思い思いの食べ物を掴み、包み紙をあけて口へ…人間からそれがある場所へ押し込んだ。けれどもちろん空を切り、なんでだ、どうして?と不満が上がる。口ってどこだったかな…なんてまるで頭頂部でトマトを上下させたり、あるいは、ねえお前それ耳に突っ込んでるぜ、なんて互いに手を出し合って食べようとする様に、最初こそ堪えた客人の口から笑いが漏れた。
「こら!アンタたち!」
それお客様のでしょう!と現れたのはエプロン姿の女性である。額…のあるあたりを順繰りにはたかれて四人は悲鳴を上げ、ひとしきり叱られてからしょんぼりと客人の前に並んだ。それでも手には大事そうにランチボックスを抱えたままで、さらに彼らの後頭部へ鉄拳が落ちる。
「いいから!早く!返してやんなさい!」
そうしてやっと、渋々といった体でそれぞれの食べ物が差し出された。差し出されたのではあるが。
「これはちょっと…まってね…。」
客人が小さく噴き出したのも当然のこと、トマトは眉間に、コールスローの乗ったスプーンは鼻先に、サンドイッチは右耳あたりと左顎にとそれぞれ差し出されたのである。オレたちが食うの我慢してるうちに早く食えよ!そんなやけっぱちの声を出されても、顔をひねればサンドイッチに耳がぶつかるし、スプーンにかぶりつけばトマトが額に衝突するだろう。あのね、と呆れ笑いはしながらも、客人が上を向く。
「ちゃんと食べさせてもらってもいい?」
劇団長は肩を竦めて、けれどにやけ顔は隠しもせずにこう応えた。いやあ、自分にはどうしようもないですねえ。
「彼らに指示してくれたらいけると思うんですけど」
そうして、3センチ上げて、に、顎から額まで持ち上げられたり、拳一つぶん右に寄せて、へ、爪一つ分だけ動かされたりと、昼食を食べきるだけでへとへとになった頃。
「他のを後ろに下げさせて、一つずつ食べたら楽だったと思うのですけれど、まあ」
楽しんでいただけたみたいで何よりですねえ。
そう意地悪に最適解を告げられて、客人はただ笑うしかなかったのだった。
10/10 10 With Animal Ears(地獄のコーヒー)
こちらへ、と通された隣の席には、動画が流れっぱなしの端末が置かれたままだった。
音を聞くに、ラテアートのやりかたを説明しているらしい。とするとバーテンダーが流していたのかとも思ったが、それにしてはどうして画面が席へ向けられているのか。
そう訝しんだ時、視界の端で何かが跳ねた。
「できそうですか?」
バーテンダーが半身を傾ける。思わず客人もまた、それに合わせて顔を向けた、その先。
「そろそろ掴んでまいりましたからねえ!」
溺れながら呟くような、ごぼごぼと泡立つあぶくを含んだ男の声が応えた。
動画を流していたのではなく、通話だったのか。端末を覗き込んで、けれど映っているのはラテアートの説明を行う動画だけである。目を疑う客人の前で、端末の前に置かれたコーヒーカップがごぽりと泡立つ。
「さあどうぞ!」
溺れる声とともにコーヒーから二本の水柱が盛り上がった。飛行機へ旗を振る手を思わせるそれを合図に、ボールペンほどのそれが指した位置へとバーテンダーがフォームドミルクを注ぎこむ。
突き出た二本の水柱はというと、盛られた泡を粘土細工のようにすばやく整形していった。泡はカップの持ち手側に集められ、雪だるまのように形が変わっていく。雪だるまから離れた泡はというた水柱に掴み取られ、さらに雪だるまに載せられた。
「…くま?」
「猫のような気もしますね…」
動物の胸上をかたどりはじめた泡が何か、客人とバーテンダーがそれぞれ予想を口にし始める。そのとき水柱がカップから飛び出し、何かを探すようにカップの周りをさまよった。バーテンダーは小さな器…黒い液体が入っていて、水柱が探していたのとはまるで逆の場所にあった…をその手元に移動させる。そうしてなんとか器にたどり着いた水柱は、液体を少し掬ってカップへ持ち上げ、泡だるまに塗りはじめた。
「アライグマでしょうか」
「わたくしにもそう見えます」
コーヒーの中からアライグマが顔を出したような。そんなラテアートを残し、ちいさな突起を…まるで人の手が親指を立てたようなシルエットで…持った水柱はコーヒーの中へしずかに沈んでいった。バーテンダーは端末を操作して写真を撮り、コーヒーカップへ声を掛ける。直後ふたたび、ゆるやかに、けれど今度は大きく中身のコーヒーが盛り上がった。
「ネコとして作ったのですがねえ…!」
聞こえてましたよ!と恨めしげな声でコーヒーが言う。山型に盛り上がり、その両端から横へ伸ばした水柱を体の正面で…人間で言えば腕組みの姿勢と言えようか…結びつけた。不服そうであるが、それに謝るより早く客人の口から笑いが漏れる。
「何をォ」
笑っているのです、とはまたコーヒーの言う通りであるが、客人の視線を追えば無理からぬことだった。昨今の遊園地ではキャラクターを模した、あるいは動物の耳のついたカチューシャや帽子をよく売っていて、ゲストたちはこぞってそれを買っては身に付ける。コーヒーは今、それによく似た状態になっていた。ラテアートの下から体を盛り上げたせいで、アライグマめいたネコの頭をかぶったような…猫の耳を付けたコーヒーが憤ってるように見えるのである。
「恐れ入りますが、頭が…少々…」
愉快と言いますか。そう言うバーテンダーの頬もかすかに持ち上がり、けれどそれを隠そうと努めているために小さく震えていた。そこでようやくコーヒーも気づいたらしい。
「お客様ァ!?」
けれど、コーヒーが恥じらう様子はなかった。むしろカップから水柱を伸ばし、テーブルの上を這うようにして客人の前へ進む。
「わたくしめの頭はどうかなっておりますかねえ!?」
どうです?ねえ、どうです?そう言って伸びたり縮んだり、あるいは振り子よろしく左右へ勢いよく動き回る。目の前で暴れる猫耳のコーヒーの珍妙な動きと、いかがです?見ていただかないと分からないじゃございませんかご覧くださいな!なんて喧しい口上とに追い詰められて、客人の笑いに拍車がかかった。笑い続けて数十秒どころか、2分か3分は経ったのではないだろうか。そうして客人の手がカウンターを叩き、引きつる腹部を押さえて息も絶え絶えに引き笑いを始めた頃、やっとコーヒーが動きを止める。静かになったカウンターで、どうにか客人も息を整えた。
そうして一息、客人はバーテンダーから渡された水に口をつけて、その時。
「お客様ァ!?」
カップから伸び上がったコーヒーが再び動き出す。ぐるぐると円を描くように上体を回すそれを捉えて、客人が勢いよく含んだ水を噴き出した。
10/11 11 Wearing Kigurumis(稚気あふれるゾンビ)
群がったのは、無数のふわふわした人影だった。
入口近くで待ち構えていたのが幸いして、驚く間もなく客人がパステルカラーの彼らに飲み込まれる。様子を見かけた他の案内人が、食われた、と呟いたように、客人の姿は柔らかな布に包まれるようにして見事に消えていた。ふわふわの彼らがあげる再会の歓声がおぞましく濁っていることもあって、奇跡的にはみ出ていた客人の腕が振り回されるさまも含めて、ゾンビ映画の捕食シーンを彷彿とさせる。
「分かっ…!…かったから!」
力任せに抱きしめ、押し潰そうとする体をなんとか客人が押し留め、人溜りから滑り出る。懲りずにもう一度、と、にじり寄る彼らを正面に捉え、客人が破顔した。
どうしたのそれ、とは、彼らの格好を指した言葉だ。年長の姿をしたものから、五十代のトーチャー、二十代後半のキャッチ、同じく二十代のチェイス、ティーンエイジャーのオーダー、十代にも届いていないだろうウォッチの五人組、かれらの普段の格好はといえば、それぞれの年頃に合った、その辺の街角で見かけそうな…ただし血塗れの…服装である。けれど今はそれぞれパステルカラーのふわふわとした、怪獣…いや、恐竜か…の頭を模したフードとぬいぐるみの爪のついたミトンまで備えたふわふわパーカーに身を包んでいる。客人の視線を受けて、五人が見せびらかすように各々服の裾や両手を広げて…ただしキャッチとオーダーは半ばやけくそ気味のむくれ顔で…見せた。それぞれ色だけでなく意匠も異なるようで、トーチャーは朱色のティラノサウルス、キャッチはグレーのスピノサウルス、チェイスは緑のトリケラトプス、オーダーはピンクのヴェロキラプトル、ウォッチも黄色いヴェロキラプトル…いや、これ見よがしに振ってみせる頭にはピンクのトサカがある…始祖鳥であるらしい。
潰れた眼窩や乾いて引き攣れた皮膚、紫がかった真皮の覗く皮膚の裂け目や抉れた痕、屍蝋化して血管の透けた肌など、普段ならそうそう直視できないパーツが近くにあっても、ついまじまじと見てしまう。そうして客人の顔が緩みきり、そもそも隙だらけの目線が自分から離れたのを見計らって、ウォッチが、始祖鳥が動いた。
五人はゾンビである。映画と違い、ゾンビパウダーで精製されたゾンビは走ったり跳んだりもする。思考力や言語機能と引き換えに攻撃性を他の何かに転換しているとはいえ、死者として身体機能に課されたブレーキを失った彼らの身体能力は凄まじい。だから客人もまた、思いきりバスケットボールをぶつけられたような衝撃のままに勢いよく跳ね飛んだ。
ともすれば床に叩きつけられていただろう体はトーチャーに抱き留められ、胸元には飛び込んできたウォッチを抱えて、客人の身体がもこもこふわふわのパーカーに埋もれる。パーカーには半纏よろしく綿まで詰められているらしく、肌触りだけでなく抱き心地もまた格別だった。思わず客人の相合が弛む。寄りかかる体から力が抜ける。
這い上ったウォッチの腕が客人の首に絡みつくのにすら抵抗しない…それどころかふわふわの背中へ自らも手を回す…のを見てとって、あーあ怒られるぞ、とばかりに遠巻きに見守っていた3人もまた、客人が完全に絆されたことを見てとって動き出した。
ふわふわの始祖鳥のトサカを揉むのに気を取られていたばかりに、客人がそれに気付くのは左右を固められたあとである。
油断したとは一瞬後悔したものの、客人は苦笑いでそれらに身を委ねた。
10/12 12 Making Out(不知の魔)
目隠しが客人の目を覆った。髪を巻き込まないように後頭部へ布を回し、解けない程度にゆるく結ぶ。
きつくはないかと髪をなぞる手に、客人は口元で笑みを返した。
自分の姿を見た相手を確実に殺せるよう、相手に関わる全ての物体を自在に操れる。そういう呪いが体に、肌に備わっているのだと彼は言った。床を踏んだなら踏み抜いて足を戒めるように、窓辺に立ったなら鳥がガラスを破って襲い掛かるように、自分がどうなっていても確実に相手を殺せるように、さまざまな偶然を願うままに叶えられるのだ、と。この呪いはアトラクションの外でも…アトラクションの内外という区切りを呪いは越えられないようで、アトラクションの中だけで見るなら大丈夫なようだが…効力を持つために、彼は頑ななまでに姿を現さなかった。常に体を異界に隠し、その場所の余裕は関係なく、視認できない位置に現れる。その身に備えたもう一つの呪いによって、常に客人の背後からちょっかいを出すばかりだったのである。その彼が、招待状にこう書いてきたのだ。
「あなたと向き合って話せれば」
振り返らないようにと気を張りながらではなく、自然に、普通に人と人とが話すように。
果たして客人の返信には、出席の旨と快諾とが綴られていた。目隠しをするから大丈夫、と記された通りに客人はそれを持参していたのだが、下卑たにやけ顔の珍妙なアイマスクを持ってきた…そしてそれに彼が笑いだして止まらなくなった…ために、借りてきた衣装用の黒い布を着け、今に至る。
「怖くは?」
彼の手が客人の身体を伝う。髪から首、肩、腕に触れながら下へ向かい、机の上に置かれた手を握った。もう片方の手では机を軽く叩き、位置を知らせながら客人の対面へと動く。
いつもより怖くないくらい、と客人が応える。そして、何を話そうか、とも。そこでやっと肝心な事は何一つ考えてこなかったと思い出して、客人は照れくさそうに、彼は申し訳なさげに笑った。添えられたままの彼の手を、客人の指がなぞる。そうして
「前々から思ってたけど」
見えない目が視線を落とした。もう一方の手でも彼の肌に触れて、いびつな線状に盛り上がった肉と、記憶の中にある刺青とを探す。
「すごい刺青だよね」
魔法陣が二重になってるみたい。呟きながら、見つけた肉の線を辿る。骨張った手の甲からかさついて粉をふく手首へ、そこから捲った袖まで線を追う手を、彼も静かに見守った。外の声…水馬の嘶きや、呻き声というには大きなゾンビたちの歓声…それが届くほど静かな部屋で、全然話せなくてごめんね、と客人が呟いた。君もいつもより静かにさせちゃってるし。そう続いた言葉で彼も気付いて、考え込む。アトラクションのように注意を呼びかける場面がないからか、それとも、言葉となって湧き上がる加虐心がなりを潜めているからか。…否。たぶん、と言葉が溢れる。
「あなたを見るほうが楽しくて」
客人の手が止まった。声のあたり、彼の顔の方へ首を跳ね上げて、そのまま固まってしまう。何か言いたげに薄く開いたままの唇もそのままに動きを止めた。彼は客人の変化を気にすることもなく、自身の肘の手前に置かれた掌をゆるく掴む。
「こうして」
興味ゆえに触れられるのも珍しいから。そう言って持ち上げられた掌、その指先が、柔らかな肉に摘まれた。…否、食まれた。あ、とも、ま、ともつかない珍妙な声を上げれば、さらに含み笑いの吐息が爪先にかかる。
「お、おぅ、おはなし…」
お話しようよ、と上ずった声で促す客人に、いいよ、と応えて男が微笑む。
何を話そうか、と訊ねて、いまだ掴まれたままの手に頬を寄せた。
10/13 Eating Ice cream(木香薔薇のウィリ)
木陰で少女がまどろんでいる。亜麻色の髪をシニョンにまとめ、背を預けた木香薔薇と同じ色のシフォンのドレスに身を包んだ少女である。
そよ風で揺れる薄いセピアのベールを持ち上げられ、その頬にひやりとしたものが押し当てられた。
途端、ぱちりとまぶたが開く。正面を見上げ、そこに客人の姿をみとめて微笑む。それから自分の頬にくっつけられたものにちらりと横目を向けて、冷たいね、と言った。
これは何を当てられたか分かってないな、と客人が苦笑する。見て、と促して客人が手にしたものを少女の頬から離した。
「きれい」
少女の目が蕩然とする。その手に客人が捧げ渡したのは、切子細工のガラスボウルだった。中には淡いすみれ色と濃い紅色がマーブル模様を描くアイスと、その周りを彩る角切りのフルーツが盛られている。
七宝で柄を飾ったスプーンを少女にも渡して、じゃあお先に、と客人が食べ始める。けれど数口も食べた頃、ガラスボウルとスプーンを渡されたままの姿勢で固まる少女に、客人のスプーンも止まった。
嫌いなものがあったかと訊ねれば、否。かといって調子が悪いのかと訊いても、否。食べないと溶けてしまうよ、と伝えると、少女が目を丸くする。
「溶けてしまうの」
無くなっちゃう?空気に溶けてきえてしまうの?わずかに肩を落とした彼女の声が上ずる。そういえば普段も野外にいて、何かを食べるということもしない子だから。そう思い出した客人が小さく微笑む。消えるってことはないけどジュースになっちゃうね、形があるうちのも食べてみれば。穏やかにそう伝えて、少女のスプーンでアイスを掬った。
「あー」
口を開けてスプーンを差し出す。つられて大きく…とはいえまるで開け慣れていないから、犬歯も見えないほどの口腔ではあるが…彼女にしては大きく口が開いた。そこにすみれ色のアイスを差し込んで、む、と唇を引きむすんで見せる。
少女もそれを真似て、口に含んだそれを味わう、その顔が綻ぶ。ホワイトチョコレートフレーバー…すみれ色は食紅であると聞いた…が気に入ったと見えて、子雀のように少女がまた口を開けた。
「はい、あー」
客人がまたアイスを運ぶ。今度は紅色の方を掬い、少女の口に含ませた。顔を綻ばせながら、けれど小さく小首を傾げる。
「あまずっぱい?」
だろうと思うよ、と客人が肯いた。紅色の方は見たままのラズベリーフレーバー。砂糖漬けを用いたとはいえ、爽やかな甘酸っぱさがふわりと香る。こちらも気に入ったと見えるが、食べてみるかと客人が訊けば、彼女は首を横に振った。
「あー」
そうしてまた口を開ける子雀の姿に客人が小さく笑う。そんなことは気にかけず、まだ?とでも言いたげに首を傾げられて
「これは忙しいね」
そうは言いつつ破顔して、客人は少女の分のアイスをまた一口ぶん掬いとった。
10/14 Gender-swapped(ティップ・タップ・クー)
「ご機嫌よう」
声の方に客人が振り返る。けれど人語を解すようなものは見えず、代わりに落ち葉が踏み荒らされる音とともに、さらに背後から声がした。
「ご機嫌よう」
女性らしい、けれど妙に錆びついた声だ。さらに振り返っても誰の姿があるわけでなく、また客人の死角から声がする。
「ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
五度、六度と繰り返されてはもう振り返る気もおきず、声が違うようだとしても、呼び手の目星もついていた。こんなふざけ方をするのは、人をからかうのが好きな部類の案内人でも限られている。なかでもこんな森に出る存在といったなら。
「クーでしょう!」
分かってるんだよ、と人影のない木立へ呼び掛ければ、果たして応えはすぐ背後から返ってきた。
「ご明察!それで、ご機嫌はいかが?」
相手が分かっていたとして、驚かないというわけではない。大きく背筋を伸び上がらせておののく姿に、けたたましい哄笑があがった。
見開かれた客人の目が、背後に立つ人影を捉える。痩せた人の形をした木が立ち枯れて、内外を苔まみれにしたような。あるいは並外れて長身痩躯の人物がそのままに木になり、体のそこここにウロを抱えたような。そんな見知った姿が今日は少し違っていて、けれどどこがどうとは分からず、長躯を見上げて客人が怪訝そうに目を細めた。
「どうなさったの?…もしかして、お加減でも?」
再会を喜ぶでもなく、次の悪戯を警戒するでもなく。黙り込んだ客人を前にして、居心地悪そうにクーと呼ばれた怪人が指を組み合わせた。もじもじと絡める指のそばで、裂きっぱなしのまま擦り切れたような袖が踊る。
ん、と客人が声を上げた。袖が、いや、服が違うのだ。普段はただの襤褸を…野晒しの浮浪者の死体から剥ぎ取り、さらに苔やカビが生えるに任せたような…けれど不思議と汚れと異臭はなかった気がする…ものを着ていた。けれど今日はといえば。
「なんかすごい綺麗な服着てる」
思わず手を取り、枯れ枝めいた手首をいろどる袖に魅入ってしまう。
「だって、葉っぱを蜘蛛の糸で綴ったのだもの」
クーが言う通り、一見レースに見えたそれは葉脈を組み合わせたものだった。葉脈同士を繋げる糸がどうにも見えないあたり、蜘蛛の糸で綴ったというのもあながち嘘とは思えない。感嘆の声を上げる客人に、けれどクーはといえばどこか不満げだった。ねえ、と腕を広げて、客人に覆いかぶさるように顔を寄せる。
「もっと驚くことがあるはずなのにね」
対して、客人はどうにも気付かないようだった。腕も足も同じ数だし、ウロの数でも増えたのだっけ。とんちんかんな答えばかりが返ってくるのに業を煮やして、クーが自分の胸を右手で、下腹を左手で覆ってみせる。
「ヴィーナスのコスプレ?」
そういえばひらひらしてるもんね。合点が入ったように客人が肩の力を抜いた。とはいえ正解とは程遠く、呆れ果てたクーもつられて脱力する。そんなところかな、それよりお昼は召し上がった?
「わたしはこれから食べに行くけれど」
あきらめて話は変えて、サナトリウムの方へ身を翻す。私も、と横に並んだ客人を見下ろして、クーが小さくため息をつく。
「あの偉大なる魔女、美しきバーバヤガに間違えられたことだってあるのだけれどね」
おっぱい見せないと分かんないかい。
そこまで言えば、さすがに客人もある程度は察したらしい。女だったの。そう言って上から下まで何度も見直されて、やっと仕掛けた悪戯が身を結んだと満足感を得たのだが。
「そもそも男とか女とかないと思ってたから」
ごめんね、と明後日の方に感嘆されて、今度こそクーは落胆のため息を大きく吐き出した。
10/15 15 In a Different Clothing Style(不暁公の侍女たち)
『どうぞ、ドレスなどをご着用のうえでおいでください』
たしかに彼女らの言う通りの紙片だった。封筒の底に引っかかっていたそれの大きさはといえば、封筒の三分の一ほど。けれど横幅がほとんど同じなものだから、封筒の隅につっかえていたらしい。しかも封筒の紙の分厚さゆえに、透かそうにもその存在が知れなかったというわけである。
封筒を手にした客人は視線を逸らして俯いた。もちろん申し訳なさゆえ…目の前の彼女たちがあまりにあからさまに消沈しているため…でもあるのだが、どうしたものかという困惑のためでもある。求められているのはよくあるスカートやワンピースなどではなく、ドレス…それも彼女らの基準に合ったもの…なのを客人はよく知っていた。カクテルドレスなどでは「野山の妖精のような純真素朴ないでたち」であるし、なら丈を伸ばしたらどうだと着てきたエプロンドレスでも「街一番の可憐な女中のよう」であれば、友人に借りたゴシック風ワンピースですらパニエを盛りに盛ってやっと「淑やかな良家の子女の喪服」なのだ。彼女たちにとっては、ベラスケスの描く公女くらいの服装こそ"ドレス"、しかもそれだって普段着の範囲なのである。
おそらく現代の平凡な個人で用意できるものだとウエディングドレスでやっとその域に達せるだろうが、それだってお眼鏡に叶うかといえば決して安心はできなかった。
そうすると「じゃあ貴女たちの見立てで…」という流れになる…むしろそう持っていくための難癖なのかもしれない…のだけれど、アトラクションの外でその格好をするとなると。そう考えて客人は固まったのである。
「でしたら、わたくしどもの見立てで」
無いものは仕方がございませんから。落胆から一転、いつも通りの微笑みに戻った侍女長が持ち掛けた。途端、さっきまでの涙目が疑わしくなるほどに侍女たちがはしゃぎだす。
「それが良うございますね」
「実は着せたいお色のものが」
「わたくしは紅をさしてさしあげたくて」
これはもう止めようがないぞ、なんて内心で悲鳴を上げながら、それでも客人は何か手立てをと考えを巡らせる。そうして、天啓のように閃いたのだ。こっちばかり、あの、いろいろ着たりってこう、あれじゃないですか。
「あなたたちがこちらのドレス姿が見たいのと同じくらい、こっちもあなたたちのこう、現代風っていうか…そう、あの!スーツ!スーツ姿見てみたいなあっていうか…」
自分たちを着せ替え人形にしてもらえばいいのではないか。そんな悪あがきではあったのだが、彼女たちはすんなりとこれを受け入れた。けれど受け取った意味は違ったらしく、衣装交換してお仕えするのも楽しげでございますね、ではまた後ほど。なんて微笑みを浮かべてすんなりと自室へさがっていった。
これは墓穴を掘ったかな、と感じるところもありはしたのだけれど、荷ほどきと軽い食事を、と客人もその場を後にした。
それから2時間ほども経った頃である。
食堂を兼ねたバーラウンジでは、客人が手で顔を覆っていた。時折ちらりと目元のみを覗かせるが、それは一瞬のことですぐ引っ込んでしまう。見れば耳も目元も、手で覆えていない部分は真っ赤に紅潮していたし、背中に手を添えれば鼓動がひどく速まっているのがわかるだろう。照れているのである。
「ねえ、いかがです?」
「仰っていただけませんと分かりませんわ」
「あなた様の発案ですのに」
客人の腰掛けた長椅子の両隣、背もたれ、対面する椅子…そこに陣取ってスーツ姿の女性たちが順繰りに囁きかけてはくすくすと笑った。心の機微に聡い彼女らのことであるから、この意地悪さは確信的なものである。けれど、そうやって遊ばれていると分かってもなお声が出ない。
それというのも彼女たちは総じて美しい…いつもの黒藍のお仕着せ姿ですら最近やっと目を見て話せるようになったくらいな…のに、めいめいスタイルの異なる男装で更に妖艶さやら凛々しさを増した姿で迫ってくるものだから、称賛より興奮や気恥ずかしさが優ってしまって仕方がないのだ。
素晴らしくて言葉もございません、と何とか絞り出してはみたものの
「もう一回お聞かせ願えますかしら」
「失礼致しますね、お声が遠くて」
蚊の鳴くような声が仇となり、顔を覆っていた手を両側から引き剥がされる。目の前の椅子で足を組む女性…ベージュのスーツに暗い赤のベストを合わせ、長い金髪を顔の片側に流した侍女長が立ち上がった。客人の視界の端からベストと同色に塗られた爪が持ち上がり、紅潮する頬を伝って唇へ這い降りる。
「ほんとうに、お気に召していただけまして?」
ひどく情けない声を出したのか、それとも声すら出せずに吐息で答えたのか。いずれにせよ肯いた客人の耳元で、満足げに別の侍女たちが笑う。
「では、今日はあなた様のお眼鏡に適った姿でお相手を」
アトラクションもですか。
そう問えば、当たり前だと侍女たちが肯いた。
10/16 16 spooning(ボタンの掛け違え)
ガラスの中で、白い人影が手を振った。
目を開けてはいても見てはいない。ただ野外の夜闇を見つめていた瞳が焦点を結んだ。ガラスの向かい、自身の後ろへ振り向けば、湯気の立つマグカップと人形を手にしたピエロが芝居がかった会釈をする。マグカップは客人の手元へ、人形は客人の向かいの席へ置き、自身はテーブルを指差した。座ってもいいかと訊いているのだろう。どうぞ、と向かいの席を掌で指せば、けれどピエロは客人の横に腰掛ける。とはいえ椅子など置いてはいないのだから、かれが腰掛けたのは空中である。それでも震えも揺れもせず、上品に膝を揃えて微笑んでみせた。
首を傾げ、傾いだ先には掌を合わせた両手を枕のように添える。どうして寝ていないの。そんな身振りに苦笑を返せば、ピエロは左手を…さも時計でも嵌めているかのように…掲げて指差してみせ、次いで腰に両手を当てて唇をへの字に尖らせる。
夜半などとうに過ぎているのに。そんな苦言を呈しているのだろうか。けれど客人は眠れないのだと言葉を返して、薄く隈の浮いた目を伏せた。
ピエロが空中で頬杖をつく。頬を指でとんとんと叩き、どうしたものかと思案しているふうだった。目線は明後日の方を向いて、時折客人の様子を伺う。マグカップの中身が空になるころ、僅かにピエロが振り返った。頭を向けた先、バーカウンターの中の男が小さく肯いてみせる。その意図を了解ととって、ピエロは客人を手招いた。
自身の腿を軽く叩き、そこを指差す。ここへどうぞ、と誘う動きに客人は容易く従った。いまだ何もないところに腰掛けているわけだが、椅子に座ったところへ乗るのと変わらない。見えない椅子でも本当にあるのだろうか、と手で探る客人の姿に、ピエロが小さく笑い声を漏らした。
そうして、小さな子どもを抱くようにして。あるいは人形を抱えるように、客人を抱き上げてピエロが立ち上がる。
瞬きの間に周りの全てが掻き消えて、すぐ。見覚えのある部屋を視界に捉えて、客人が眠たげな目を瞬かせた。見回した中に自分の旅行鞄を見つけ、ホテルの自室に移動したのだと知る。
「もう寝なさいって?」
そう訊けは、当たり前だと言いたげにピエロが厳しく肯いた。作った仏頂面とは反対に、神経質に思えるほど優しく、抱えた身体を寝台へ下ろす。枕の場所を整え、毛布をかけなおして、その掌で客人の瞼をゆるりと下ろした。重みを増した瞼には抗えず、けれど、寝れるかな、また起きるかも、なんて不安げな呟きが漏れる。盛り上がった毛布の下は、落ち着かなげに組み合わされた指だろうか。
ひとときだけ逡巡して、ピエロの手が寝台に伸びた。
手にした人形は枕元へ、自身はめくった毛布の中へ。仰向けだった客人の下にそっと手を潜らせて、その身体を横臥のかたちへ動かした。右腕は枕ごと客人の頭をかかえるように、左腕は客人の手に添えるように重ねて、ピエロ自身の胸に客人の背中がつくように抱きとめる。ゆるゆると手の甲を指の腹で撫でるうち、あるいは髪を整えるように前髪を梳くうちに、客人の体から力が抜けていった。
そうして身を委ねているうち、ピエロと客人の呼吸が合わさっていく。より穏やかに、より深く、深呼吸に似た長い呼吸へ変わる。鼓動も一つの心臓を共有しているようにとけあって、強張っていた客人の指も、その頃にはシーツの上にのびのびと投げ出されていた。
欠伸まじりの呼吸が寝息に変わったのをみてとって、ピエロがゆっくりと体を起こす。起こさないよう、眠りを少しも浅くすることのないように、と焦ったくなるほど緩慢に寝台を降り、しぃ、と枕元の人形へも注意を促す。そうして一瞥、眠る客人の姿に微笑んで、ベッドサイドの明かりを消した。
10/17 17 During their Morning Rituals(ネックレス・ホテル)
呼び鈴の一振りでテーブルクロスが広げられ、机の二叩きで食器が置かれる。手拍子三つで調度が整えられ、四回指が鳴らされれば、従業員たちが壁際に下がった。
規律正しい、けれど"軍隊のように"と称するにはあまりに軽やかで楽しげだったろう。
面白いものが見れたなあ、なんて食堂の入り口で見惚れていれば、その姿を彼が見逃すはずもない。厳しい長身痩躯の老支配人…ホテルに関して、そしてこの食堂については彼とその部下たちが取り仕切っているのだ…の彼直々に、すぐさま席へ案内されてしまった。
「おはようございます、一番乗りさま」
吸血鬼の男爵様には先程ナイトキャップをお作りしたところですし、まだ夜明けかと思っておりましたが。
蛇のように二つに割れた舌先を覗かせて彼が言う。そうして小さく片眉と口角を吊り上げて、涼しげな顔に笑みを浮かべた。これが皮肉ではなく冗談なのだと知らせて、けれど一瞬ののちには飲み物を訊ねる声にも顔にも、思わず客人の背筋が伸びるような厳しさが戻ってくる。では直ぐに、と老支配人が一礼するのと同時に、壁際の部下の一人が動きだした。日中…食堂がカフェである時間帯…にホールを任されている青年である。食堂に流れるBGMに小さく茶葉を掬う音が混ざって、そのうち席へも薫香が届き始めた。話によれば、いつも紅茶を選ぶのはあの青年であるそうだ。なんでも鼻と勘とが優れていて、味わった客がしゃっきりと目覚めるような、あるいはとろりと安らぐような、そんな紅茶を淹れられるらしい。
アールグレイかミントか、それから蜂蜜のような甘い香りはどこからだろう。今日の紅茶はと集中する客人の後ろ、テラス席側のドアが開いた。
「おはようございます。…こんばんはの地続きのご様子でいらっしゃいますが」
清潔でアイロンのかけられた衣類とは真反対のやつれた顔だった。そう、だからいつものもお願い。なんて眠たげな目で頼みながら、"職人どの"と呼ばれる彼もまた席についた。
彼の来訪が呼び水になったように、続々と下宿中の案内人や宿泊客が集まり始める。テーブル席、カウンター、あるいは誰かの膝の上などがどんどん埋まり、彼も彼の部下も慌ただしく動き始めた。バーカウンターの内側では絶え間なくお湯を沸かして、次々に紅茶やコーヒー、あるいは湯煎された…ワイン、スパイス、カスタードの香りが入り混じって分からないが…飲み物が淹れられて、それを軽やかな足取りで下半身の繋がった双子の女性が次々に運ぶ。お団子頭の彼女が肩から指まで総動員して運ぶカップを、おさげ髪の彼女が一つも間違えずに配るのだ。それを口にして一息つくころ、今度は厨房から配膳車を曳いて…ホテルの面々すら、かれを名前以外で何と称するべきなのかいつも迷う…人間の子どもほどもある二足歩行の犬の骸骨に青白い皮を張り、ついでに首の付け根から太く短い赤ん坊の手を生やしたような…ジョイと呼ばれる異形が現れた。くんくんと犬さながらに鼻を鳴らし、短い尻尾が吹き飛ばないかと心配になるほど振りたくりながら、こちらも手際良く朝食を配膳していく。思わず頭や顎を撫でる宿泊客も多いのだが、喜びのあまり目を見開く…ジョイの場合は大人の拳ほどもあるものが額に一つだけ、横ではなく縦に切れ目の入った瞼に隠されるようにして付いている…さまに、知らずに撫でた宿泊客から悲鳴が上がった。一番乗りの客人もかつては同じことをした身であったから、小さな悲鳴をそれと察して小さく笑う。
「僕はね、あいつは確信犯でやってるのじゃないかと思っているんだ」
朗らかな笑いを同様に浮かべたのは対面に座る青年だった。頬杖をつき、微笑ましげに配膳の様子を見守る。なんでって、我々が撫で返してもあんな風にしたことなんて一度もないからね、それこそ赤ん坊の時からそうだ。
あれにも赤ちゃんの頃が、と頷いてはじめて、いつの間に座っていたのか、誰なのかと客人が狼狽えた。纏った仕事着はホテルの面々と同じものだが、こんなふわふわした金髪の部下を見かけたことはなかった気がする。やわらかく中性的な声もまた、どこかで聞いたような覚えはなかった。けれど、新しく雇った人ならば。ごめんなさい、はじめましてですよね、なんて客人が首を傾げる。
その前で、青年が舌先を伸ばして見せた。
「わたくしも彼らと同じ獣ですのでね。悪趣味な悪戯好きのつまらん余興と、どうぞご容赦いただきたく」
錆が浮いたような低い声まで聞いて、客人はやっと合点がいったらしい。その声は、舌が。単語ばかりが口に浮かんで、けれどその驚きは如実に知れる。その姿に満足したらしく、金髪の青年…老支配人は小さく片眉と口角を吊り上げ、涼しげな顔には意地悪げな笑みが浮かべた。
10/18 18 Doing Something Together(人杖職人)
「そう、いい力の入れぐあい」
客人の手元を見つめて、つぎはぎ顔の男が頬を緩めた。客人が握るのは陶芸用の細いナイフで、その指よりひと回り大きいくらいの棒に巻かれたものを削っている。これは乾いた銀粘土で、このあと焼成すれば指輪になるのだ。それもただの指輪ではなく、しかるべき装飾と男の魔術とでもって、それなりの…ここの案内人たちにも拮抗できるくらいの…アミュレット、または護符とよばれるものになるはずだった。
男も客人も揃いの革のエプロンを着けていた。肩から膝までを覆い、風船袖で手首までをゆったりと覆うエプロンである。夜のアトラクションまでの暇つぶしに。そう誘われて、このエプロンも借りて、彼の工房で指輪作りの体験を始めたのだ。
けれど粘土なんて触ったのは小学生以来だし、頻繁にこんな細かい作業をやるわけでもない。悪戦苦闘のあとは客人の前の指輪に顕著に表れていて、割れたり削りすぎた部分を直した跡がいくつもあった。
「上手くなってきたから、手にだけは気をつけて」
そう言い残し、男はすこし席を立った。なにしろアミュレットに付ける装飾を選ばなければならない。銀というだけでも多少の魔除けにはなる。けれど何か…呪いを軽くするとか、毒に気付くとか…そういった効果までつけるとなれば、それなりの部品が必要となるのだ。
棚から引き出されたのは一抱えもある箱で、大人の拳ほどから子どもの指ほどまで、大小様々な透明ケースが詰められていた。何を付けてもらおうか。男はぼんやりと考えながら、指輪に付けるのにちょうどいい大きさの装飾をまず取り出した。大抵がカット済みの宝石であったが、中には小ぶりな鳥獣の頭骨や色褪せた機械部品のケースも並ぶ。そうして次に考えたのは、客人に何が必要かということである。自分のアトラクションではどのように失敗していただろう、作品たちに捕まったところを囚われたのだったか、待ち伏せに気付かなかったのだったか、そういえば最後に鍵を取り落として、惜しいところで勝利を逃したこともあったっけ。
機知も回るし、ここ一番での踏ん張りも見せるのに。そこまで思い返して、男が客人に目を向ける。半身を下にねじった妙な姿勢で指輪を見上げ、どうにもやりづらいだろう持ち方でナイフを動かしている。そうして奮闘する姿が微笑ましく、思わず小さく笑いが漏れた。集中力も抜群なのに。
「そうだねえ」
だからこそ、だろうか。
男はいくつか小ぶりなケースを掴み、客人のいる作業台へ戻る。客人はもう少しで装飾を終えるところで、あちらこちらに削りすぎによる出っ張りを備えた、けれどかわいらしい筆記体が指輪に刻まれていた。男の見本に比べれば歪であるけれど、この形なら十全に効果を発揮するだろう。図らずとはいえ成ったこの形なら、むしろ、それ以上に。
もうすこしとはいえ、ナイフの速度は蟻が進むよりずっと遅い。しばらく眺めて、そうしてやっと客人が安堵のため息を吐き出した。
男の視線にもやっと気付いて、客人が困ったような微笑みを返す。うまくできないですね、と肩を竦めるものだから、それにだけには首を横に振って見せて
「これで長年たべてるやつのが見本なんだから、大抵の人はそう思うさ」
羽箒で削りかすを落としながら男も笑い返す。そうして注意深く…ここだけは自分ですら失敗することもあるから、と男は言った…指輪を外し、温めてあった焼成炉へ運び入れる。
「十五分もあればいいかな」
本人より満足げに見下ろして、でもね、と言葉が続く。
「ここからがもっと大事な所だよ。ご覧」
暗い蒼のサファイア、森の月明かりに似たムーンストーン、ルチルの入った黒水晶、深い紫と黄のアメトリン。この中のどれかを溶かし、さっき刻んだ文字を埋めるようにして指輪をコーティングするのだと男は言った。できるのかと疑うより、そうでもなければできなかっただろう装飾を施された作品たちが頭に浮かんで、そうやって作っていたのかと腑におちていく。どれを使うのかと訊ねられて、ひととき客人が逡巡する。
そうして指差した鉱石を見て、似合っていると男が破顔した。
10/19 19 In a formal wear(鏡およぐストレリチア)
客人の顔に気恥ずかしげな苦笑いが浮かんだ。てっきり名前を呼ばれたものと勢いよく振り向いたのを、いえいえ珍しいものがあったから見ただけですよ、とばかりにゆっくりと戻す。考えてみれば待ち合わせの場所にはまだ遠いし、まして、こんな街中の駅に案内人が現れるはずがないのだから。
手元の端末を操作するふりで壁際に寄り、けれど、まさか…あるいは彼なら…なんて周りを見回した。とはいえやはり…大抵の案内人、いま自分を呼んだと思った彼なら特に、一目でわかるはずだった…その姿はない。浮き足立ちすぎて聞き間違えたかな。もう一度照れ笑いを浮かべた顔のほとんど真横で、もう一度、同じ声がした。
「そっちじゃないわよ」
聞き知った声にあたりを見回せば、けれど既知の姿は雑踏にない。そんな姿を、知る人の声が見当違いだと更に笑った。まさか、と声を追って顔を向けたショーウィンドウの中で、愉快そうに笑う瞳があった。ショーウィンドウの中と言っても陳列棚の中ではない。ガラスの鏡面といえばいいだろうか。掴める場所に姿はなくとも、まるでガラスの前に立っているかのようによく磨かれた鏡面にだけその姿が浮かんでいるのである。
映っていたのは、アシンメトリーに切り揃えた金髪を片側に流した、ビジネスマン風の…それもドラマの一流弁護士やフィクサーを思わせる…すなわち、いつもとは違ういでたちの男だった。声ばかりがいつも通りなものだからかえって混乱してしまって、客人はショーウィンドウに見入るようにして覗き込む。顔や髪型は憶えている通りだが、いったいいつものドレスはどうしてしまったのだろう。それに、どうして駅のコンコースに。
「あら、嬉しくて声も出ない?」
口を開けば、皮肉げな言いようも男のそれである。客人もいつも通りに応えかけて、寸前、これでは大きな独り言の変な人になってしまうと考え直し、慌てて端末を耳に当て、電話する姿を装った。
「なんでここに!?」
こんにちは、とも、久しぶり、とも、あるいは、来てくれてありがとう、とも。いくらでも言葉は浮かんだのだけれど、興味と驚きが先に出た。対する男はといえば、ご挨拶ね、と片眉を吊り上げ、そうして懐から鎖時計を取り出して見せた。
「まずは感謝するところでしょう?あなた、もうここ通るの3回目よ。ハロウィンに間に合わないどころか、死ぬまでここから出られないんじゃなくって?」
時計の針は待ち合わせの10分前を指していて、なるほど、確かに危ないところだったと客人が頷く。そんなに夢中で迷っていたのかと礼を言いつつ自分の端末にも目を落とせば、しかし、その時間は。
「…ほっんと素直な子よねえ!」
大好きよ!なんて。不服を表した顔を向けた先で、でたらめに時間を進めた時計を片手に男が笑い出した。
親切心だと思ったのに。そんな抗議には肩をすくめて返しながら、男の目がコンコースを一瞥した。人通りは少なく、彼らの視線も並び立つ柱で遮られるだろう、その瞬間を待ち構えて。
「でも、迎えに来たのは本当よ」
男の手が鏡面から飛び出した。抱きしめるように客人の体を掴み、荷物ごとそちら側へ引き摺り込む。
アトラクションではお馴染みでも、まさかホラーハウスの外ですら可能なんて。
悲鳴を上げる間も無かった。あるいは鏡の中に入ってからやっと声が出たのかもしれない。鏡面のなかも…視界に映るものはどれもぼんやりと薄れた色で、触ったら世界ごと砕けそうなほどにおぼつかない…同じコンコースが続いていて、自分が今しがた抜けてきたはずのショーウィンドウのガラスの先にも、あちらと同じようなマネキンが飾られている。違うことといえば、こちらには客人と案内人の他に誰もいないこと、それから、あちらの様子だけは変わらずショーウィンドウのガラスに映っていることくらいだろうか。
「見ながらでいいから」
ほら、と男が荷物をかすめ取り、もう一方の手で客人の腕を引いた。真昼の明るさと終電の後のひとけの無さ、吐息もわかるほどの静寂とショーウィンドウの中の雑踏、どれも日常の一部ではあれど、ここではまるで逆のものが両立している。あちこち眺めて止まらない姿を愉快げに眺めながら、あちら側でもお上りさん丸出しな顔してたわね、と揶揄った。ここ通るの3回目よ、なんて言われたことまで思い出し、客人が照れ笑いを隠すようにして唇を引き結ぶ。それをまた小さく笑って、疲れたでしょ、と男がゆるく手を引いた。車にスコーン積んであるから、乗ったら食べて、少し寝なさいな。
10/20 20 Dancing(庭園の御曹司)
ドレスなんて着ないというのは理由にならなかった。着慣れた服の方がいい、いつも素敵だから、と言われては返す言葉もなかったのである。
ろくに踊ったことがないし、というのもまた些細なことであるらしかった。癖がついていない方が踊りやすいというよ、と褒められさえする始末である。
人が見ている前で踊るのも、と抗ってみてもやはり彼の気は変わらない。僕もそのほうがいい、君もそうでよかった、なんて安堵すらされてしまった。
自分もあんな風に、と憧れるのと、実際にそう振る舞うのとは全く違う。客人は自分によく言い聞かせてきたつもりだった。けれど眼下の、悲鳴にも聞こえる歓声をあげて目が回りそうなステップを踏む二人、エントランスで覚えたてのフォックストロットを踊ってみせる男爵とその客人とはあまりにきらきらとして、つい溢してしまったのだ。
楽しいよね、と。そう呟いたのを聞き入れたのが、今、客人の手を取った男だった。角のように歪んで突き出た頭骨で飾った顔、傾いだまま固まったような首、翼を畳んだ梟を思わせるほどに著しく曲がった猫背。普段は不吉な灰鼠のケープで巨躯を包む彼は、今は身体に…いびつに歪んだ手足にも…合わせたスリーピースのスーツを着こなしている。それは異形であることを忘れるほどに似合っていて、案内人たちが彼を"卿"と呼ぶのも無理はないほど、アトラクションの外での彼が紳士然とした上品な人物なのだと思い出すのに足りていた。
眩しい彼らには恨めしげな一瞥を向けて、客人は男の手をとる。この優しいひとを幻滅させるより他にはないのだ、と。そう思えば微かに目の奥がつんと痛んだ。
とはいえそれは、その時の話である。
柔らかな芝生を裸足で踏んで、彼の異界である西洋庭園で二人は踊っていた。客人は本当に初心者であったから基本的な動きの組み合わせを繰り返して、時折新たに教わったターンや移動などを組み込むだけなのだけれど、時折小休止や曲選びを挟むほかには、飽きることなく踊っている。
ここはアトラクションの舞台ともなる生垣の迷路、その中心の広場…迷路の中心とはいえ小さな戸建ての家が建ちそうなほど広く、大きめの乗用車を乗せられそうなガゼボが隅に聳えている…だった。蓄音機から流れるワルツに合わせて踊る二人が裸足であるのは、足を踏むかもしれないし、なんて、客人が最後の最後まで屁理屈で抗ったがためである。
しかし、果たして彼の技量を知っていたならそんな理屈をこねただろうか。そう思えるほどに彼のリードは卓越していた。腕を引かれているのに背中を押されているような、自分で足を動かしているのではなく抱かれて運ばれているような。委ねていればいい、そう思えた頃には余分な力も抜けて、客人の顔すら綻んでいた。もしかすると、ことあるごとに靡く髪や翻る裾なんかをたなびく雲や揺れる花弁に喩えられて、照れるのも間に合わなくなるほどに褒められ続けたのも理由かもしれない。
「子どもの頃にはね」
ここでダンスの講義を受けたんだ、と男が言った。硬い床のダンスホールより芝生の方が、彼の歪んだ足に負担が少なかったからだという。そのおかげで踊るのが好きになったのだけれど。
「いい歳した紳士が芝生の上で裸足だなんて、おかしいって言われるだろう?」
だから僕と踊ってくれる人がいても、こんなことしたいなんて言い出せなくて。そう言う男の眉尻が下がる。アトラクションでとどめの一太刀を振り下ろす時のように首を傾げて、丸い背が縮こまる。強引に悪かったね。ワルツにすら消え入りそうな声に、けれど客人は満面の笑顔で応えて。
10/21 21 Cooking/Baking (灯りの家のバグベア)
客人が何度目かの悲鳴を上げた。悲鳴と言っても絹を裂くようなものではなく、むしろ呻き声に近いものだ。おそろしい…ある意味では何よりもそうかもしれない…というより、おぞましいものを見て声が漏れたのである。
「あの、それ、どうにも」
多すぎないですか。そう言う客人の視線が大きなガラスボウルと目の前の男とを行き来した。ボウルで波打つのはいっぱいの牛乳で、そのなかに振るった小麦粉と挽肉、スパイスとが溺れたバラバラ死体のようにまばらに浮いている。対する男は、ううん?なんて首を横に振り、木べらで豪快に…滴が飛び散らないのが不思議なほどに…それらを混ぜ合わせ始めた。
発端は食堂での呟きだった。アトラクションで彼が振る舞う、睡眠薬入りのココアとミートパイ…たまにクリームシチューを包んでいる時もある…家でもあれを食べたくなる時がある、なんて客人がこぼしたのである。客人は食堂、すなわちネックレスホテルの彼らが作ったものだと思っていたのだが、そこで初めて男の手製だと知れたのだ。次いで男は、あれでよければ作り方も材料も、と快くレシピを教えてくれたのだが、これが全く客人には…ついでに言えばネックレスホテルの厨房担当たちにも…分からなかった。
「黒猫の頭骨一つ分の生クリームというのは」
「この、白犬の大腿骨二掬いの塩加減というのも」
あるいは"熊の爪を三本減らしたくらいまで煮詰める"。または"狼の前歯一本ずつ計四本分の胡椒とナツメグとおろしにんにくに生姜"。
これくらい、と男としても掌などを丸めては教えてくれるのだが、どうにも…客人だけはあのおぞましい調理室の骨が調理器具だったのかと気付きはしたが…見当がつかない。
実際に作ってもらい、そこで使う分量を測り直してみようか。そこでこういう話になったのである。
果たして男はこの通り、小数点の二つ先まで精密に計量する料理人なら卒倒しそうな目分量で調理を行った。肉とか調味料ならまだしも、牛乳や小麦粉すら容器から直接叩き込む。計量係に名乗りを上げたネックレスホテルの青年も呆気にとられたり驚いたりするのは既に終え、機械的に分量を書き留めている。
中身を混ぜ終わったボウルを電子レンジに入れたその時、小気味よくオーブンのベルが鳴った。ミートパイが焼けたのである。丸々と膨らんできつね色に照るそれを見て、三人が三人とも生唾を飲んだ。とはいえ
「ここからが要注意」
男が言う通り、シチューパイの中身を作るにあたって気が抜けない作業が待っている。たったいま取り出したボウル、湯気を立てるその中身を煮詰めていくのだが、牛乳も生クリームも焦げるのはあっという間なのだ。煮詰まる頃にはミートパイも食べ頃だよ。そう言われて木べらを任された客人が小さくおののいた。
とはいえ心配には及ばない。ネックレスホテルの青年は引き続き計量を、男はココアの調合へと移ったのだが、その片目は片時も鍋から離れなかった。ぼこぼこと泡を吐き始めて悲鳴を上げかけたのにもいち早く気付いたし、かき回す木べらが重く…煮詰まって…なってきたと客人が感じた時も、それと言うより早く「もうすぐいいかな」なんて告げたのである。そうしてどろりと煮詰まったシチューはといえばなめらかに煮詰まって、それらを深皿に敷いたパイ生地に包む三人の目を輝かせた。
あとは待てば、と伝えながら、誰より早く男の手がミートパイに伸びる。自ら我先にと頬張って、いつもの味と違うと困るからさ、なんて言い訳をもごもご呟いた。
10/22 22 In a Battle, Side by Side(不暁公/悲嘆の王)
薄い唇が吊り上がった。獣の頭骨を模した仮面…目元から上を全て覆い、側面から人の手に似た突起が頭上へ伸びるさまは王冠のようにも見える…それを被った男の顔で唯一露わになった部分が、手を叩いて小躍りして酒を新たにあけてもまだおさまらない、そんな喜びを帯びて笑ったのである。嵌められたのだ、しかもおそらく仮面の男の思う通りに一から十まで動かされて…。それを察して対面する指し手、黒い駒の客人の肩が落ちる。その相棒である青年にとってもこの手は意表を突いたものだったらしく、うまく操られたね、なんて苦笑を洩らした。
「悪魔をやり込める方が難しいって」
敵方である指し手、仮面の男の相棒である白い駒の客人からすら励ましの声が上がる。けれどますます指し手の眦は垂れて、困惑の呟きが漏れた。
「さて、これで一枚はいただいたわけだ」
仮面の男が正面を指し示す。盤上は殆どが白の駒で埋められ、まだ侵攻の及ばない角ぎわであってもやはり白に押さえられていた。
「いやだな、差し上げたのさ」
対する青年はといえば、牙を剥いて不敵に笑う。そうして落胆したままの客人の横、仮面の男から向かって右の盤の前に掛け、手前の角へ黒を配置した。男の笑みが一瞬だけ引っ込んだ。けれど、束の間。その手堅さがどう出るかな、と男もおぞましく笑い返す。
四人が遊んでいるのはオセロであった。それも二人一組で三枚のオセロ盤を使う、多面打ちのチーム戦だ。長い金髪の青年…男爵と呼ばれる吸血鬼…とその客人が先攻の黒、仮面の男…こちらは王様、あるいは悲嘆の王と呼ばれた…とその客人が後攻の白とに分かれ、それぞれ交代で一手ずつ打ちこむのである。
「堅牢な城ほど蟻の一穴で崩すに限る」
青年の挑戦に乗り、男がその側に黒を置いた。取れた敵駒は一つであるが、男は満足げに笑っている。相棒である黒の客人はその狙いに気づいたのか、どうしたものかと腕を組んで三面を見下ろした。
対して、白の客人はまだ気落ちしていた。どうせ遊びさ、と肩をさすられてもなお謝って、その顔には打開策が何一つ浮かばないと書かれている。青年は側机からチョコレートと紅茶をすすめて、左から順にオセロ盤を指さしてみせた。
「私が置いたのが、おそらく今の主戦場だ」
ここを中心に考えていこう。そう微笑んで、青年の指が今度は右端の盤を指す。
「こちらがさっき渡した盤。つまり色々考えなくていいってことだ」
選択肢が二つになったのは僥倖さ、他を取るのが容易くなる。二割ほどしか埋まっていない盤を見下ろし、攻め甲斐があるとその言葉には敵方の客人からも声援が飛んで、仮面の男が小さく肩をすくめた。
「最後にこれが…どうなるかな」
ここも読んでいかなければ。中央、半分ほどしか埋まっていない盤を眺めて青年が腕を組む。同時に攻めるなら、あるいは。呟きよりも小さい声を黒の客人だけが聞いていた。そうして、青年の耳に囁き返す。
青年は盤を一瞥し、相棒の背を押した。
果たして、黒の客人の姿は仮面の男の前にあった。主戦場とされた端の盤に向かい、仮面の男と一進一退の微々たる攻防を繰り広げている。対して青年の姿はその背後にはなく、それより相棒の隣に座り、中央の盤で白の客人を追い詰めていた。
「…逸ったわけではなかったか」
今度は仮面の男が渋面を示した。青年の手は進退をよく心得ていて、取れるところから白の駒を次々に黒く変えていく。そして仮面の男に相対する黒の客人はといえば、攻めこそしないものの被害を最小限に抑えてくる。仇敵を討ちに来たものと、長くこちらの相手をしすぎたか。仮面の男が悔しげに笑った。
白の客人も、もう動かせないと降参する。盤面の七割ほどの進行で決着をつけ、君のおかげだ、と青年が客人に微笑んだ。
「だが」
ここからだぞ、と仮面の男が笑う。もう一度こちらの手で踊らせる、と。そう挑発すれば、そう簡単にはいかないさ、と青年が笑い返した。
10/23 23 Arguing(ベドラムのユージーン/フィードサック)
はたから見れば珍妙な図であったろう。
食堂の売店の前で喚きあうのは、大人の膝ほどの布人形と、よく膨れた麻の飼料袋だった。それぞれ客人に抱き上げられて押さえ込まれてはいるものの、勢いのいい子犬のようにもがいては拳を振り上げて…飼料袋に関しては黒い蔦のような細長い部位を振り回して…いる。慌てて飛び込んできた客人のほかはみな発端を知っているからか、周りの観衆は止めもせず、むしろ微笑しいとばかりに彼らを見守っていた。
「死んでもいない成りたてが生意気なんだよバァーカ!ネンコージョレツも知らねえのぉ!?」
髪の毛は黒の毛糸、目は陶器の青いボタンで、学校の制服のような衣類は肌と同じく色褪せて煤けた…そんな少年の人形の背後から…正確にはそれを抱き、もう片腕は人間大の何かを押しとどめているかのように広げた客人の背後から…とうに声変わりした大人の男性が無理に子どもを装ったような罵声が上がった。
対する麻袋はといえば袋の中で鍋でも沸騰したかのようにぼこぼこと蠢き、引き裂いてやるとでも言わんばかりに袋の切れ目から更に出せるだけ黒い蔦を伸ばす。
「経過年数が個人の価値に繋がるなどそれこそ馬鹿馬鹿しい思い上がりだね!それに年功序列というのなら、だ!享年が二十歳にも届かない君こそワタシを敬うべきじゃあないのかい!?」
耳が痛くなりそうなヒステリックな男の声を真下から浴び、麻袋を抱く客人が堪えるように上を仰いだ。おっと、なんてわざとらしくその頬を蔦で撫で、うって変わって穏やかな声を出し、麻袋が言う。
「すまないね、ワタシはこうも野蛮なやりとりなどするつもりなどないのだが…」
とはいえ、あの狂犬が相手では。十二分に皮肉を含んだ聞こえよがしの謝罪である。
「挑発しないでって…」
「君も乗らないんだよ…!」
それぞれの客人が窘めるのなど、聞いているようでいて実は耳にも届いてすらいない。瞬間湯沸かし器のほうがまだ遅いほどに人形が再び喚き出し、聞くに耐えない罵声に応じて麻袋も騒ぎ返した。
人ならざるものになってからの経験値、特性、本性の醜さやおぞましさ…使える要素はなんでも使い、いずれもそれなりの教育は受けてきているのに、むしろそれを手酷く活用して罵り合う。そうして罵倒のねたはどんどん広がり、やがて互いのアトラクションにも話が及んでしまった。
「クロスワードパズルみたいなゲームしてさあ!?何が怖いんだか全ッ然分かんない!そっちのお客だって絶対おれの方が楽しいって言うね!お前なんか違うゲームで遊ばれたらすぐポイだよ!ハイ残念でしたー!」
バァーカこの蛆袋ォ!なんて人形が喚けば、君はバカしか罵倒語を知らないと見える、と麻袋は嘲笑を返す。そうして言葉の応酬は続いて
「分からないとはまた見識の狭さを示してくれてどうもありがとう!君のような物知らずが饗応役ともなれば、アトラクションの単調さもよく知れたものだな!ご自慢の?脅かし?スリル?馬鹿馬鹿しい!客人がたの震えは欠伸をこらえてのものじゃないのかね!?」
麻袋の言葉に汽笛のような音が応える。それと聞こえたのは少年の抗議の叫びであり、人形の背後にいるものを抑えかね、客人が大きくつんのめった。
「お前ほんッと、くそ、ええと、バァーカ!?こないだも俺のお客は腰抜かして泣きながら命乞いしましたからあー!?ああそっかあ!お前のほうはお客の顔ぐじゃぐじゃにしてゲームから帰したことないもんねえ?泣き顔とかわかりませんかぁー?見たことないなんてかぁーわいそぉー!」
こんな可愛いのにさあ!その声とともにつんのめった客人の体が妙な速さで後ろに引き戻される。背後の何かに抱きしめられてでも…そして頬擦りなどされて…いるのか、傾げた首の上に渋面が広がった。対する麻袋といえば裂け目から溢れた黒い蔦を絡めて束ね、人の手を模したそれでもって、自分を抱える客人の頬を包んでみせる。
「顔を見ないと怖がってることすら分からないとは恐れ入ったよ!生憎こちらの恐怖は涙なんて枯れるほどに強力でねえ!きみ!どうせ忘我に至ったゲストに慌てたこともないのだろう?若造はまあ傲慢で困るな!」
再び人形を抱えた客人の後ろでは半透明の人影が身を乗り出し、麻袋はといえば更に膨張して、人の顔めいた凹凸がその表面に浮かび上がらせた。物理的に手を出し合うことになれば互いに無事ではすまない。それが互いに分かっていることが幸いして、まだ乱闘には発展していないが、しかし。
「これは今日こそ血を見るかな」
ふふ、なんて呑気にカウンター席の青年が笑う。それに応えて、どっちから仕掛けるか賭けます?あるいは、どちらが勝つでしょうね、なんて。集った案内人と客人が囁き始めるのを見て、窓辺のテーブル席の客人と案内人とが苦笑を浮かべて肩を竦めた。
10/24 24 Making up afterwards(海蛇婦人)
目論見が外れた、と大海蛇が眉根を寄せた。
大海蛇とはいえウツボやウミヘビの怪物ではない。深い青と緑の斑点で彩られた鱗を持つ、鰐に似た頭部とよく肥えた…こう言うとおそらく彼女は喜びはしないが…リュウグウノツカイに似た体の怪物である。大きさは小型車を二巻きしてなお余るほどで、自身が椅子代わりになるようとぐろを巻き、そのくぼみに客人を収めて、午後のおやつをともにしているところだった。
彼女の視線の先では、天衣無縫の亡霊と皮肉屋の麻袋とが今も喚きあっている。どちらかが折れる…というより「お前が触ったアミュレットなんかいらない」とでも言って退く…あるいは庭での乱闘になるものと踏んでいたのに、両者ともに譲らないどころか、棚の前から動きすらしないではないか。
二人が相争う原因となったアミュレットを思って、大海蛇の視線が鋭くなった。俺の客人の、ワタシの客人のって…あなた方、何を言ってるのかしら。
「…そろそろ」
面白いっていうか、喧しいわよね。打算は顔に出さず、自身の客人を見遣って囁く。まあね。そう肯き返す客人は彼女の意図を汲み、解けていくとぐろから滑り降りた。あなたも少し後から来てね、なんて言い含め、大海蛇は宙に泳ぎあがる。
天井近くから割って入れば、聞くに耐えない罵倒が瞬時に飲み込まれた。
「あなたがた」
もう十分ではなくて?
目の前で開くのは、案内人どころでなく客人ごと一飲みにもできそうな大顎である。交互に迫られれば、罵詈雑言も勢いをなくした。自分より後に死んだものなら"クソガキ"、自分より前に死んだものなら"クソババア、あるいはクソジジイ"いつもならそう吐き捨てる人形ですら口籠る。無論、客人などはもっと身を固くして、いい子ね、なんて大海蛇が語調を緩めるまではろくに息すらできていなかった。
それで、と大海蛇が言葉を続ける。
「今日はどちらから仕掛けたの?」
声ばかりは穏やかな、けれど凪いだ様子こそ恐ろしい。豹変の予感に背筋を凍らせながら、けれど先に弁明を果たしたのは麻袋だった。
「あいつなのです!あいつがまず悪口雑言を並べ立て、わたしどもが楽しくひとときを過ごすのを邪魔したのです!」
「ハァ!?」
「…ちょっと!」
それに対して双方から抗議の声が上がる。片や全責任をなすりつけられた人形、そしてもう片方は麻袋の客人その人からであった。どうしてか客人の方が憤り、麻袋の口らしい凹凸を力一杯押さえて告白する。
「ごめんなさい、実は…」
曰く、それぞれの客人に持たせようとしたのが同じアミュレットだったという。ムーンストーンかオパールか、薄く仄白い輝石で小さな花冠を象った、人の目玉ほどのチャームである。残念ながら一つしかなかったために、こちらが先に売店に来たのだの、いや自分のほうが先に目をつけていただの、そこから悪口雑言の浴びせ合いに発展したのだそうだ。
「こっちとしてはアレのほうが…でも」
言い出せなくて、ともう一人の客人も別のアミュレットを指差した。同じく麻袋の口を塞いだ客人も別のアミュレットへ視線を送る。
つられて案内人たちも目を向ければ
「へぇ…」
「…ふむ」
互いにため息とも感嘆ともつかない声が漏れた。僕もうアンタみたいに趣味悪い奴のこと知らなあい。あるいは、ワタシより底意地が悪くていらっしゃる。そうは言いながらもそれぞれの客人が手を伸ばすのを阻むことはせず、大人しく抱かれたままレジに並んだ。
それを追うようにして、大海蛇の横へ彼女自身の客人が並ぶ。結局何だったの。そう問うのには曖昧に返して、大海蛇がアミュレットの方へ顎をしゃくった。
「ねえ、あなたもアミュレットがそろそろ必要なんじゃなくって?」
これとかどうかしら。そう囁いて、密やかに尾鰭で花冠のチャームを指し示す。私の水族館のロゴと同じものなのよ、誰よりあなたに似合うと思うの。
「そう言われると」
大海蛇の客人ははにかんで、花冠のアミュレットを手に取った。
10/25 25 Gazing into Each others' eyes (弱み穿つ森)
二人、隣合わせに座るのが決まりとなっていた。
左に座った客人が机に置いた紙にペンを走らせる。それに応じて、右では鉛筆を握った蔦が蠢いた。藤の蔦に似たそれは、客人の右に置かれた椅子の上に置かれた塊から伸びている。塊はランプシェードのように丸みを帯びて、その中心に…客人に見せないように…蔦の根本である拳大のどんぐりに似た種子を抱いているのだ。種子はまつ毛のない瞼に似た殻で包まれていて、割れた隙間から青い瞳が覗いているはずである。その瞳でもって強い催眠術を操るがゆえに、種子は蔦でもって自ら目張りをしているのだった。厳重に巻いてあるなら、机の上でもどこでも居やすい場所にいればいいかもしれない。けれど、それでももし見せてしまったら…そんな心配ゆえに、種子は椅子の上に、客人の視界に入らない机下で落ち着いているのだった。そうして文字のみで言葉を交わしているのである。
客人が虚空を眺めて考えるように、蔦も時折、人であれば首を傾げているような按配で動きを止めた。蔦は流麗な筆記体で文字を綴る。扱う言葉も筆跡に似て優美さを伴っていたが、人であるなら言い淀むのに似たペンの動きの動静ゆえに、上品なだけではない……どこか可愛らしいとも言えるような……印象を受ける。時折のスペルミス……「too」のように同じアルファベットが続くのを「tooo」と書き過ぎてしまったり……を、ぐしゃぐしゃと塗り潰すのも、言葉を吃らせているようで愛おしい。
客人はといえば、それを眺め、あるいは声で応えながら、時折あくびを噛み殺す。愛おしい、楽しい。けれど今はうららかな午後で、お腹いっぱいの昼食を終えた後である。この場所…ほんのりと薄暗く、穏やかなボックス席…は今に限っては騒がしい面々も留守のようで、種子との会話というのもゆっくり更新される本を読むようなものだから、眠気が勝るのは仕方のないことだった。
一瞬だけ、と重い目蓋を閉じ、その一瞬が、2秒だけ、あるいは、少しだけ、その後は、もう1分だけ、と長くなっていく。一度、かたん、なんてペンを取り落とす音で目覚めるのだけれど、しかし。
『hey?』
種子が文字で問いかけても応えはなく、ペンが走る音もまた消えたままであった。ほんの少しだけ…客人が気付いても、顔を向ける前に瞳を隠せるように…蔦の目隠しを綻ばせれば、果たして、客人がそれを見とがめる様子はない。呼吸にあわせてゆっくりと上下する肩が見えるばかりである。考え込んでいるのか、といえば、おそらくそれは違っていて、利き手はペンを摘んだ形のまま、けれど肝心の筆記具はといえば、机の端から半身を覗かせて転がっていた。
種子は蔦を殆どほどき、それらを使って卓上へ身を持ち上げる。おそらく客人は寝入ってしまったものと思ったのだ。躊躇なくその顔を覗き込んで、しかし。
「んぬえ」
身を持ち上げた時の揺れのせいか、あるいは卓上に乗り上げた時の音のためか、客人の瞼が勢いよく持ち上がる。
寝てないよ、と言おうとしたのか、はたまた他の言葉だったのか。喃語じみた声が上がったことにも驚いて、瞳もあらわなままに種子が固まった。室内灯の穏やかな明かりを受けて、深い青に虹彩が輝く。
とはいえ、それは客人の瞳も同じこと。種子のテリトリーである夜の森とは違う明るさ、三日月由来のそれとは異なる反射。瞼も涙もなく、むしろそれゆえにいつまででも魅入ることのできる眼である。ただ見開かれたそれの前で、客人が何度目かの瞬きをした。
10/26 26 Getting Married (長い長い階段の少女)
「良かった!いた!」
安堵のため息と快哉と悲鳴を混ぜたような声に振り向けば、年若い女性が少女と客人の腕を引いた。いきなりごめんね、いるだけでいいから体を貸して!ひどく慌てた様子の彼女に手を引かれるまま、二人して顔を見合わせながら後につく。
CEOに話はつけてあるから、と彼女が言うには、彼女は東館で映画を撮っている監督なのだそうだ。今日は全員のキャストが総出演する場面を撮るというのに、子役が急病で来られなくなったらしい。今日を逃せば次に合わせられるのはいつになるかも分からない。だから彼女はすぐにでも穴を埋められる子役を…確かホラーハウスに一人いなかったかと…館長に掛け合って、快諾を得たということだった。映画に出るの!と照れるやら慌てるやら。少女はといえばあまりに嬉しげで、私で大丈夫かなあ、なんて言って客人を見上げはしているものの、緩んだ頬は隠せない。ホラーハウスの名女優を選ぶとはお目が高いね、とうそぶくと、少女の蝋のような肌が耳まで赤く染まった。
私は見学してればいいのかな、と客人が訊けば、いいえ!と監督が首を振った。子役の看病のために同時に休んだエキストラの穴も埋めてほしいのだという。けれどこれは強要できないから、と目の前で肩を落とされては協力しないわけにもいかない。難しいことは出来ませんよ、とだけ言い添えはしつつ、客人もまたその申し出を受けた。
キャスト総出演の場面はといえば、結婚式の場面なのだという。東館と西館の小教会をそれぞれ使い、東館の方では屋敷の最盛期…劇中における主人が生きていた頃であり、プロローグに当たる部分…の、西館では映画のクライマックス…怪物となった屋敷の住人が勢ぞろいし、主人とヒロインとの婚姻を見届けようとする…と、異なる時代の式を撮るのだそうだ。
サナトリウム・ホラーハウスはお化け屋敷として運営されている。けれどそれは中央棟のことであり、東館は宿泊施設、西館は撮影スタジオでもあった。そういえばそうだったっけ、なんて思い返す客人がいるのは、東館の教会の司祭室である。簡易的な楽屋に変わったそこで撮影用のメイクを施され、参列者の衣装に着替えているところだった。鏡に写るのはといえば、上品ながらも華やかな礼服に、照明に映えるよう明るめに整えられた顔。ついまじまじと鏡を覗き込んでしまう。
とはいえ、撮影の準備は既に整っている。急かされるままに楽屋を出、少女のことは気がかりながら、客人は参列席に腰掛けた。
「……アクション!」
脚本通りにエキストラたちがざわめき始める。カメラ越しの視線を感じ、手元の冊子を読むふりをする客人がわずかに身を固くした。おそらく教会の全景をカメラが捉え終わると同時に、入り口の扉が開いていく。オルガンの演奏を伴い、逆光の中から小さな影が躍り出た。彼女だ。
果たして着替えた少女はといえば、立派なフラワーガールに仕立てられていた。刺繍も華やかなAラインのドレスを着て、手には花籠を下げ、頭にかすみ草と白薔薇の花冠を載いている。ドレスはといえば、背後に続く花嫁とおそらく同じ生地でできていると見えた。
本当の結婚式でもそうそうここまで整えることはないだろう。口元に笑み、とはいえ僅かに固さを帯びたそれを浮かべるさまは、確かに、慕ってやまないお姉さんの結婚式に出た親戚の子、という雰囲気であった。花嫁に体を向けながら、けれど目では少女を追って…もちろんカメラに捉えられないよう気をつけて…客人が拍手を送る。その視線に気付いてか、少女がはにかむ。薄く化粧を帯びた頬にも朱がさした。
今は知る由もないが、この役に…あるいはフラワーガールの大役に…楽しさをおぼえた彼女から、客人は頼まれることになる。
「結婚式はここでやって!私がフラワーガールをやるから、うんとすてきなドレスを考えて作ってね!」
10/27 27 On one of their Birthdays(傀儡つくりの魔女)
家である。
いや、ホテルというべきか。
それを目の当たりにしたまま凍りついた客人の手を取り、白髪の魔女はにんまりと唇の端を吊り上げた。
「早かったわね!」
ひょっとして楽しみにしてくれてた?
わかりきったことをあえて訊きながら、包み込んだ客人の掌を握り直す。同性でも…彼女の本当の性別など訊いても分からないのだが…目のやり場に困るほど深く襟ぐりの開いた胸元、豊満なそれをわざと見せつけるような素振りに、けれど客人がいつものように気恥ずかしげに俯くことはなかった。むしろその目は目の前のホテルに釘付けになったままだ。
「どーお?美味しそうでしょお。」
ホテル、とは言ったが、客人の前にあるのは立食用の大円卓である。ホテルというのもその上にのったケーキのことだった。生クリームやマジパン、チョコレート、はたまた照りも鮮やかな飴細工やジャムにコンポート。色とりどりの甘いもので飾られた、ホテル…サナトリウムホラーハウスの属する建物の東棟…にそっくりに似せた、縦にそびえる大きめのスーツケースほどの立派なものである。
たしかに美味しそうであるが、それよりも。
なんとか賛辞を絞り出した客人へ、魔女が満足そうなしたり顔を向ける。側面は、あるいは背面はどのようになっているのか。驚きから我にかえれば、続くのは驚異に対する好奇心である。魔女もそれを見てとって、けれど、これは美味しいお菓子であるからと、ホテルの影に隠してあった別の皿を取り上げる。一人分には少し小さい、手のひらに収まりそうな大きさのホテル…ケーキだった。屋上には客人の年齢を表す数字型の蝋燭を戴いている。魔女に呼び止められ、振り返った客人の目の前で小さな火が揺れた。
「さ、お願い事を。」
少し迷い、輝きを受ける瞳が伏せる。とはいえそれも長くはなく、口角を上げたまま、唇がちいさくすぼまった。ふ、と火を吹き消した瞬間、客人は自分と魔女との周りが真っ暗になったような錯覚を覚える。集中しすぎていたのか、否、本当に暗くなっていたのかもしれない。次に室内灯の光が目を眩ませた時、客人は再び目を丸くした。明かりがついたと同時に周りに現れたのは案内人の面々、そしてこの企画に賛同した他の客人たち。初めからいたと言いたげな顔で微笑ましげに、誕生日の客人を言祝ぎ、拍手を送っている。
「お誕生日おめでとう」
魔女もまわりと同じく、嬉しげに、あるいは彼女ばかりは誇らしげに微笑んだ。斬っていいかい、と小剣めいたパン切り包丁を持ち出す老支配人からは鮮やかに包丁を取り上げて、美味しいところはいくらでも残るわよ、と退がらせる。そうして客人の分…指先ほどの飴細工の花束を持った、マジパンの魔女の載る部分…を一番に切り分けて、客人の皿へと移した。称賛と嬉しさ、そしてお礼を謙遜まじりに客人が伝える。ことさら嬉しげな魔女であったが、こんなにいいのかな、と訊けば。
「あら」
そう言って、笑いながらも魔女が片眉を吊り上げた。
「派手に祝うこと、セレブレーションこそが呪術の要なのよ。雨乞いだって謝肉祭だって、大勢ではしゃいで騒いだ方が効くでしょ。祝ったって感じがすればするほど良いの。ケーキも贈り物だけど、大事なのはこっち、沢山のひとたちの祝福の方よ。」
なんたってブードゥーの使い魔やら南米の人狼、大悪魔から妖精の伴侶まで揃い踏みだもの、これは効くわよ。
これは今年一年、愉快なことになるでしょうね。そう答えて魔女がまた笑う。けれど今度ばかりは本当に典型的な魔女めいた、常日頃アトラクションで聴くような、ヤギの鳴き声めいたそれだった。
10/28 28 Doing Something Ridiculous(ゴーストシーツ)
小さい頃、ハロウィンの夜に決まって仕掛ける悪戯があった。目出し穴をあけたシーツを被り、シーツお化けの格好で人の良さそうな隣人の家を訪ねるのだ。チャイムを鳴らす前に友人を…あるいは役割を替えて自分で…玄関のひさしの上に登り、テグズでシーツと繋がった竿を構える。
シーツお化けの役はといえば、玄関を開けて決まり文句を言うのである。家主が訪問者に気を取られ、近付けば頃合いだ。それを見計って屋根の上の役がシーツを吊り上げ、宙を舞わせる。それに対して訪問者役はシーツを指差し、こう言って怒ってみせるのである。
「こら!じっとしててって言ったでしょ!お菓子がもらえるからってそんなにはしゃいで!」
初めて仕掛けた相手なら、本当にお化けを連れていると思って大いに驚くこともあった。シーツを操る釣竿もその内二本、巧みな友人なら三本と増えて、シーツ使いが上手ければ上手いほど悲鳴が上がったものだ。
…昔の話だけどね。
この話をシーツにこぼせば、大はしゃぎでやりたいと言い…書き…出した。
"シーツ"とは、文字通りのマットレスカバーのことである。くすんだ白の、シングルベッド用より少し大きいくらいのものだろうか。だれか人が入っているような輪郭に体を膨らませて浮遊する、自分の意思や記憶を持つ生きたシーツであった。"ゴーストシーツ"と呼ばれるかれが意思を表す時といえば、自身の布地に凹版印刷のように文字を浮き上がらせるのが常だった。ペンであると自分が汚れるから…特に油性ペンはことさら嫌い…とのことである。
客人もそれを快諾する。ゴーストシーツをともない、それからカモフラージュにと他の案内人も誘い入れた。これで件の脅かしをするわけだが、けれど思い出のそれ同様にとゴーストシーツへ穴を開けるわけにはいかない。
目出し穴の代わりにと両面テープでボタンを貼り付け、誰かに会うまでは修道僧のローブのようにゴーストシーツを纏って移動することになった。
ホラーハウスのカフェバー、ホテル、それから撮影スタジオを…と、そぞろ歩けば少なからず誰かに出会う。
果たしてその戦果はといえば、思いがけず悪くはなかった。纏っていたのが良かったのか、ボタンを貼り付けたのが功を奏したのか。まるで皆が皆、シーツをゴーストシーツだと思わなかったのである。ゴーストシーツが宙を飛び、愉快げに…腕を広げて肩を竦めた人物が入っているような布地の広げ方を…してみせて、やっと皆が笑って頷くのだ。
「ああ、ゴーストシーツね」
なんともうまくいった…そして意図せず本当にお菓子などまで貰ってしまった…と客人が笑みを浮かべて両掌をシーツに向けて掲げる。一瞬シーツは不思議そうに小首を傾げ、しかしすぐに理解した。
「はいたっち!」
掌とシーツの手とがふわふわと叩き合う。とはいえ感極まったシーツの喜びがそれで収まるはずもなく、アトラクションさながらに客人が揉みくちゃにされだすには時間もかからなかった。
10/29 29 Doing something Sweet(総出演)
金髪の少女人形を抱き、客人が一階層へ歩を進めた。普段は怪物役のキャストとエキストラ役の妖物たちでざわめくはずの場所が、今はひどく落ち着いている。二人以外には誰もいないのだ。異質といえば普段もだが、それがことさら際立つようである。思わず手元を見下ろせば、人形の青い瞳と視線が絡む。
立ち止まった客人の手を、菌糸の掌が引っ張った。思わず呆然としたことを謝って、いつも以上に明るく思える廊下を進む。より長い距離を進むように、と。病室も通らせるために置かれた車椅子や机のバリケードはといえば、今は撤去されていた。鍋掴みのミトンに似たふわふわの掌でもって引っ張られ、上下前後にと客人の腕が揺れる。
緊張します?と赤毛の騎士が訊ねた。そうだね、何でだろうか。そう訊きかえせば、昂ぶっているのでしょう、と騎士が微笑んだ。あなたは私と戦うために来てくださった。それをご自身もよく分かっておいでだから、これから起こる怖くて楽しいものを前に、嵐の前のように胸を高鳴らせているのです。
あまりに捕食者らしい水馬の言葉に、客人が思わず破顔した。それは君たちだけじゃないかと笑えば、不服そうに鼻を鳴らされる。何も倒せと言ってるわけじゃないさ、君は逃げ延びれば勝ち、僕は君を食い殺せば勝ち…随分譲歩してると思うけどね。それに、君もこんなやりとりを含めて楽しくて来てくれてる。そうだろう?
ぷんぷんぷん、と続けて三つ四つのポップコーンが跳ね上がる。客人の抱えた紙バケツから腕を駆け上り、耳元でもう一度、ぷん、と鳴く。それに続けて紙バケツから見上げる一個師団も、今日は逃がさない、そんな気合を込めて高らかに鳴き声を上げた。それはどうかな、と客人は笑い返して、友人の肩を叩くように紙バケツをつつく。
先行する…横に並ぶと体高の低さゆえに客人の首が疲れてしまうから…大蛇が不意に伸び上がり、客人の方に頭を寄せた。皆、そうであるのだろうけれど。そう切り出したのは今夜のアトラクションについての話だ。常とは趣向を変えているから、今夜は経験の全てが役に立つとは思わないことだね。
どういうことかと訊きかえそうとして、客人は矮躯の男の持ち物に気付く。留紺の布に見えるそれは、腰のベルトに下げている棒は。気付くのが遅いな、そんな様子じゃ今夜は大変だぜ。客人の顔がわずかに翳った。男は満足げに笑みを深めて、一撃目は避けてくれよ、と乱杭歯を剥き出した。
これまで勝てていたのも、紙一重での辛勝ばかりだ。握った暖かな掌から伝わる鼓動が早まる。その手を引く貴婦人の目が、人と同じ側だけでなく、平たく潰れた側の眼までも笑みの形にうっすら歪んだ。最善を選べばいいだけ、やることはいつも通りよ。
ね、と微笑んで、けれど彼女が言い添える。それでもやっぱり、正面玄関は避けることだわ。
人形が客人の手を引き、劇団長がその後ろにつくようにして階段を上る。そういえば、と。呟いた劇団長が指揮者のように手を振れば、既に糸に吊られた人形が何もなかった場所に現れた。一行が通るのに合わせて頭を下げる…そうさせる劇団長の指揮に従う…その姿に驚く客人へ、劇団長が囁く。本来これくらいはできるのですよ、今夜までお見せしてなかっただけでね。
ほんとですよぉ、と普段通りのおどけた調子で言われたものだから、冗談言って、と客人は笑い返す。客人とてその口調に違和感を、普段よりあからさまに帯びた害意に気付いてはいた。けれどこれを認めたなら、竦まずにこの先へ向かえるだろうか。抱えたカフェオレボウルで寛ぐコーヒーが、そう思いたいなら是非どうぞ、と溺れる男の声で笑った。
胸に抱いた小さなゾンビが、前を行く壮年のゾンビの背広を引っ張る。客人の胸を指差し、どくどくどくどく、と耳打ちすれば、嬉しげに彼も喃語めいた快哉をあげた。いい、の?妙齢の女の窪んだ眼窩が気遣わしげに客人を見る。
「あ」「ん」「た」
少年と少女のゾンビもそれぞれ取り出したアンプルをこれ見よがしに振って見せ、交互に囁きながらにやけてみせた。
「投」「与」「し」「た」「だ」「け」「で」「死」「に」「そ」「う」「だ」
まだ帰れるぞ。声とともに吐息が客人の後れ毛を揺らした。けれど、と。声の主は刺青で隙間なく彩られた掌をもって客人の肩を支え、言葉を続ける。俺たちはおまえたちに期待している。信じている。その機知と意志とで、俺たちを打ち負かすと思っている。だから今夜は、何をしてもいいと許されているんだ。それでも行くのだと客人が応えれば、許してくれ、と。言葉にはまるで似つかわしくないおぞましい声で、男が笑った。
冷たい腕が客人の方に絡みつく。氷嚢を当てたほうがまだ暖かく思えるような、骨にまで染み入りそうな寒気がした。夜霧のようなベールの向こうで少女の瞳がとろりと潤む。その視線を感じただけで、すでに自分は獲物として捉えられたのだと知れた。思わず生じた身震いに弾かれるようにして、重みのない身体が肩から滑り降りる。ほの淡い燐光を帯びだしたドレスの裾を翻し、見せつけるように少女が跳ねた。
うふふ、と。含み笑いにしては堪えきれていない哄笑を掌で押しとどめて、木の虚めいた顔が客人を見下ろす。どうしようか、今日は何をいただこうかな。足取りは軽やかに、障害物は無いとはいえ穴の空いた床で客人が躓かないよう手を引きながら、けれど樹皮の隙間から覗く目はといえば、あからさまなほどの無遠慮さで小さな身体を眺め回す。肩から貰おうか、それとも最初にあばらにしようか。
はたから見たなら、舞踏会へ向かう令嬢さながらの姿だろう。四方を侍女に伴われ、灯りを掲げる侍女長がその前を行く。けれど、その囲いの中の客人の顔は蒼白だった。背後から聞こえる囁き、時折吹き込まれる言葉で怖気が走るのだ。葛のガーターを、鈴蘭の足輪を、ダイヤの冠を、黄金のパニエを、霞のベールを…、名前ばかりは美しい拘束具を耳にするたび、冷や汗に濡れた指が服の裾を強く握った。
いつも、と客人が言う。信じられないんだ。気遣わしげに振り返るピエロを見上げ、言葉を選びかねているように口籠る。ここまではこんな優しいから、あちらで会うと誰だかすら分からなくなる。途方に暮れて揺れる客人の瞳が、白塗りの掌で塞がれる。そうして一拍。嬰児をあやす手遊びさながら、勢いよく掌が外された。開けた視界で笑うピエロの顔は変面さながら、まるで違う凶相に歯を剥き出して笑っている。
とはいえ。そう言って老支配人が姿勢を正す。そう感じるのも当然です、寧ろそうして油断を誘うことこそ。ひとりごちるようにそう言いかけて、その頬が僅かに緩む。ともあれ、しっかり見極めることですよ。何があなたの助けとなり、あるいは命取りとなりうるのか。幸い、現実とは違ってどちらも揃っておりますからね。そう言いながら老支配人は再び進路の先へ向き直る。客人から顔を背けた影の中、二又の舌が唇を舐めた。
頷き、けれど未だ、客人の顔に浮かぶものがある。横顔ですらそれと知れるのを見下ろして、もごもごと職人は言葉を探した。気を悪くしないでほしいんだけど。言い淀んだ彼を急かすように、彼の手にした杖の飾り…コマドリとモズの双頭がピイパアと騒ぐ。彼にしかわからない言葉で何を騒いだのか。それを掌で押し包んで黙らせ、職人が眦を苦笑の形に変えた。
柳眉の間に皺が寄る。珍しく渋面となった彼が言うには、ほんとうなら誰もが思い切り客人たちと遊びたいのだと。
「歳の離れた弟妹と遊ぶようなものよ、楽しいけど、力加減が欠かせないの。」
口惜しげな声こそ客人の耳元で聞こえたが、横を並んで行くわけではない。
壁に据え付けられた鏡の中にのみ、客人の横に浮かぶ彼の姿があった。
その手の一方が客人に伸びる。鮮やかな極彩の飾り爪が客人のアミュレットを指し示す。
それはただのお守りじゃないんだ。
歪んだ唇が誇らしげに弧を描く。客人の手を恭しく持ち上げて、宝物にするように、皺くちゃの指で包み込んだ。捻れたまま伸びた爪が手の甲をなぞって、あるいは、ロザリオを手繰るように握り込む。あわせて祈りの文句にも似た言葉が溢れた。
僕たちがあなたを信じるように、あなたが自分を信じてくれるなら、その時は。
エプロンのポケットを漁りながら青年が言う。銀の弾より護符より、意思。僕ら、それが何より怖くて好きだと言ったけど、それだけじゃあね。うそぶきながら、あれでもないこれでもないと取り出した骨片…彼の食器…を器用に片手に束ねていく。見かねた客人に手元の明かりを借りてようやく、ポケットから目当ての包みを見つけ出した。
まあ今のうちにさ、きみもほら。
先に自分に、続いて客人にも同じチョコバーを差し出して、おどけるように血泥の詰まった爪が揺れる。
壁の漆喰はささくれ立ち、床も丁度も煤けたように汚されている。廃病院を模した廊下を行くにも関わらず、客人の手を青年が取ればこそ、デビュタントがダンスホールへ向かうようにすら思えた。あなたはただの人間だ。超能力や怪力を持ち合わせたりはしていないし、魔術の心得もない。恭しく掌を預かり、腰を抱く。言葉面こそ辛辣ではあるが、そう言い含める口元に普段通りの微笑をたたえて、青年が小さく唇を開いた。
三階層までいくらもないが、聞いてくれるかい。
見慣れた曲がり角を捉えて、客人がわずかにたじろいだ。珍しく口数の少ない人形がやっと話し始めたのはその時である。あのさあ、と、ひどくぶすくれてつっけんどんな声が上がる。
「きみはさ、オレたちに勝ってるの。手加減したとはいえだよ、ほんと意味わかんなくない?」
客人の背後、それも一歩か二歩ほど離れたところ。だから僕らが本気でもさ。その声の聞こえた辺りから伸びた手が、乱暴に客人の背を押した。
惚けるものじゃない。
謙遜も過ぎれば嫌味だぞ、と仮面の男が小さく笑った。
「人は意思でもって我々を討ち果たす。昔話には魔法の道具なんかも出てくるが、所詮は手助けに過ぎない。扱う者に応えているだけなのだ。我々は…私は、君こそ現代にあって、それを体現したと思っている。」
足を止めた客人を仮面越しに睥睨する。
宿敵を見出した視線が客人を射抜いた。
「恐れたまえよ。……けれど。」
「怖がったとして、今まで成し遂げたことは消えたりしないのよ。」
肩を抱くようにして回された魚尾が、柔く客人の肌を叩く。何回逃げ延びたのだった?何度私たちの裏をかいたかしら?抱くのとは逆の肩に頬骨を擦り付けて、愉快げに海蛇の目が弧を描く。
「もう駄目だと思ったら思い出して、嘘でも口に出してごらんなさい。」
何を、と訊く前に、種子を包む蔦が解れた。
瞼のない青い瞳が客人を見る。視線が交わる。瞬き一つ挟んで、その間を風に吹かれた木の葉が過ぎった。
その流れてきた源を遡り、客人は自分の姿を見た。手元にほの白くアミュレットを輝かせ、廊下と地続きの夜の森の中を小鬼や燐光を纏った亡霊に追われて、けれどすんでのところでその手を避けて駆けて行く。
もう一つ瞬きをすれば夜の森は掻き消えて、あとには煌々と明るい廊下が残っていた。
もう何か見えたの?
繋いだままの手を大きく前後に揺らして、確信犯の少女が麦わら帽子の影の下で笑う。呆気にとられたまま肯いた客人の方、身に付けたアミュレットを一瞥して、あたしも欲しかったなあ、と薄紫と桃色まだらの唇が弧を描いた。だって、館長さんが言ってたのだけど。
「"為すべきことは為せる"んだって」
意思で勝るとも、あなたは人よ。けれど、その差をアミュレットが埋めてくれるから。
三階層前の階段を前にして二人の足が止まった。半歩後に並んだ魔女が客人の髪を撫でる。懐から杖や薬の詰まった包みを出して、その留め具に指をかけて言う。おまじないは要る?
もう有る、とばかりに客人がアミュレットを指差した。
三階層はそれまでと違い、階段の先に扉がある。ドアノブを回し、踏み込めばすぐにアトラクションが始まるだろう。
客人の手がドアノブを握りかけて、それをやんわりと白い布が阻んだ。大人の手が入っているような凹凸が割って入ったのだ。
それは緩く手を握り、けれど直ぐ、名残惜しげに離れていく。洗濯済みの、けれど物置にでも押し込められていたような苦い香りが淡くあとに漂った。
客人がノブを回す。
三階層の暗闇が口を開けた。
10月のサナトリウム