夏の牢獄ぬけだして

プロローグ 夏の終わりの暗い雨

 ヨートビーチのはずれにある、だれもいない海の家――そこがぼくのお気に入りだった。
 ときどき、ビーチへ泳ぎに来る人や、釣り人が、前の砂浜を歩いていくことはあるけど、この壊れかけたぼろ家に入ってくる人はいない。ぼくと、烏賊じいさん、それに猫のプーチコをのぞいては。たまに、プーチコが、烏賊じいさんいわく「またいつもと違う♂」をつれてくることはあるけど、オス猫はすぐいなくなってしまう。
 静かな場所だった。
 ぼくは一人でここにいるとき、いちばん奥のテーブル席の下にちらばっている、古びた骨のかけらたちを見つめている。
 そうやってると、心は落ち着く。
 昨日のこととか、ちょっと前のことを思い出す。
 たまに、海に漂っているビンや空き缶をとりとめもなくつかむみたいに、もっと小さかった頃のこともふと思い出したりする。
 それも過ぎると、ただぼんやりした風景や、模様や、色を思い浮かべる。
 それから、自分のこと、とか。
 ……
 父さんは、「海洋大学」につとめていて、ほとんどうちにはいない。
 母さんは、いない。
 どこか遠い別の町に行ってしまった。
 妹……ナツ、もいっしょだった。
 だけどナツはもっともっと遠くへ行ってしまった。二度と会えない遠くへ。
 
 ぼくは、雨の日がすき。
 こうしてりんとふる雨の音に耳をかたむけて、じっと目をとじると、すぐ向こうに広がっている海のどこか、静かな静かな底に、深く眠っている気がするから。
 ときどきかすかに目をあけると、うす暗がりの中に白い骨が浮かび上がって、それが魚みたいにゆらゆらってゆれて見える……
 
 ここは深海だ。
 前は、うるさすぎたんだ。
 今あんなに静かな父さんも、行ってしまうときは一言も言わないでぼくの前を去った母さんも。
 ぼくとおまえは、あのせまい部屋のすみっこでおびえていた。
 ナツ、ここは暗くて、冷ややかで、そしてとても静かだ。

 どうして……おまえはここにいない。
 
 ……

第1章 海が見える町

1 海が見える町
 
 
 いつ頃からだったろう。
 父さんと母さんの、うるさい、けんか、が始まったのは……。
 父さんと母さんがはなればなれになることにしたのは、ぼくが小学五年生になる前の春先。
 だから一年と五カ月くらい前のこと。
 けんかは、そんなに長く続いてたわけじゃなかったように思う。
 だけど、最初の頃、ぼくらはまだ随分小さかった気もする。最初、どんなだったか、よく思い出せない。どうしてそうなったのか。
 あれはよるべをなくした、とてもいやな、はじめておぼえた不安の感覚じゃなかっただろうか。
 ぼくたちはどこにいたらいいの……
 ぼくらの寝ていたせまい部屋をとびだして、そう口にしたとき、父さんはただうつむいてしまって、母さんはしゃがみこんで、あとからかけてきたナツをだかえてた。
 ごめん、と、母さんは、ごめん大丈夫だからね、と言って、その後は、妙に静かな夜だった。
 だけど、それからしばらくするとまた、うるさい日、は続くようになった。
 うるさい日。
 ぼくはいつからかそうやって呼ぶようになった。
 その頃には、ぼくもおそらくナツも、夜ごとわきあがってくる不安をおさえこんで、静かになることをおぼえていたんだと思う。
 心を静かにすること。
 ぼくらはただ静けさを望んだ。
 
 やがて、うるさい日はもっとうるさくなって、声だけじゃなく、すごく大きな音が聞こえるようになった。
 なにかわれる音。落ちる音。ぶつかる音。よくわからない、音、音……。
 二階のしんしつのドアーには、大きなへこみができていた。
 母さんはときどき、今までになかったやさしさで、ぼくらを見たり話しかけたりした。
 それが、終わりの一ヶ月だった、いや、二週間か、一週間ちょっとくらいのことだったのかもしれない。
 
 ぼくのこともつれて行きたかったけど……とかたしかそんなことが短く書かれていて、最後の方に、ゆるしてごめんなさい、ってあったと思う。
 母さんはそうして、ナツといっしょに、いなくなった。
 手紙(何かの紙の切れはしだったかも)はすぐに消えてしまった。
 父さんは次の日の夜になって、おだやかな調子で、ぼくにしゃべっていた。
「これから――」という言葉で切り出していたのはおぼえているけど、内容はよくおぼえていない。なんだか長い話だった気はする。
 
 夏が来る前くらいに、父さんは、いくつかの学校の非常勤講師から、海の大学の助教授になった。
「今頃になってな……」と、父さんは笑って喜んでいたけど、どこか苦しそうにも見えた。
 ペンを自分の胸のまん中にあてて、なにかをおしつぶしているみたいなことをしてたのを、なぜかよく覚えている。
「このうちを出よう。海はいいぞ。今度の町は、いつでも海が見える。いつだって、海へ行けるさ。海は、海はいい」
 
 間もなくぼくは父さんと、この海の見える町へ引っ越してきたんだ。
 
 
 
2 骨とあの子とビーチサンダル
 
 
 雨がとても強くなった。とても、暗かった。
 
 ぼくはいつしか、砂浜にいた。
 まっ黒な砂浜。
 ザアザアぶりの雨音は消えて、今は、見えない波の音が間近で聞こえていた。
 足もとには、白く光る骨があった。
 だけどそれは、鳥やら魚の、人が食べ残したカケラじゃない。
 ずんぐりとして何か得たいの知れない大きな骨。なぜか妙にきれいで、そしてりっぱなものに見えた。
 それはこのまっ黒い砂浜にあって、やけに白く輝いて見えた。 
 
 ぼくは、どれだけ見入っていたかしれない。
 いつしか後ろに、人の気配があった。
 ぼくは骨から、目がはなせないでいる。いや本当は、なんとなくふりむけないでいる。
 うしろのだれかは、やがてぼくの真横に来て、立ったまま、ぼくの見ている骨を同じように見つめているようだった。
 ビーチサンダル、が目に入った。赤い、ビーチサンダル。
 そこから、とても小さくて色白な素足が、ちらとのぞいていた。
 ふふ……と、押し殺したような笑い声がした。
 聞き覚えのある声。
 だけど続けて、「なに、見てるの?」と発したその声は、聞いたことがない声だった。
 真横にいるのに、遠くへだたったところから響いているみたいな声。
 本当に、ぼくに話しかけているのかわからない気がした。
(ナツの声……じゃなかった。でも、……)
 ぼくは横を向けずに、そのままいた。
 そうだね。これは何の骨だろう、ね……?
 ぼくの声も、どこか別の場所で話しているみたい。この子に向かって言ったのかよくわからないような感じ。 
「……きれいね」
 でも女の子はちゃんと答えている。
 
 ……うん。きれい……ぼくも、そう思う。
 ぼくらはまっ黒な風景の中、ただじっとたたずんでいた。白くて大きな、本当にきれいな、骨を見つめながら……。
 波の音も、もう何も聞こえない。
 
 ぼくらには、こんな静けさが必要だったんだね。
 そうだ、ぼくらには……
 
(これはぼくらの。おまえと、ぼくの……)
 
 ふと横を見ると、だれもいない。空には低い雲がたれこめ、そこからえんえんとふってくる雨つぶがあるだけだった。
 ザアザアいう雨の音。波の音も、すぐ近くに聞こえていた。
 波が足もとまで寄せたのに気づいて、ぼくははっとして立ち上がった。
 ぼくはヨートビーチにいた。
 海の家からは、何十歩も歩いた位置にいる。
 波が、今度はくつをひたす位置にまで寄せた。
 骨。骨は?
 足もとには何もなく、ひいていく波間に、小さなふわふわしたものが浮かんで、強い雨に打たれたゆたっている。暗くてよく見えなかったけど、ビーチサンダルだとすぐにわかった。
 海に二、三歩ジャブジャブ入って、サンダルを手づかみした。
(骨は、もう波にさらわれてしまったのかな。遠い海の向こうへ、行ってしまう……)
 ステップを踏んで水から上がると、雨にかすむ海の家から、影のように歩いてくる姿があった。
 
 
 
3 烏賊じいさんのこと
 
 
 烏賊じいさんは、ぼくがこの街に来てから、ほんの一週間のうちには、知ることになる人だった。
 そのときから、烏賊じいさんは、烏賊じいさんだった。
 街では、それだけある種の有名人、だったわけだけど、だれも本当の姿を知る人はいなかった。
 ある人はこう言った。烏賊じいさんは昔、べつの島から流されてきた船の漁師だったけど、体を悪くしたためにここへ残されることになった、と。
 また、ヨートビーチのはずれの海の家のもと経営者だとか、ヨートビーチの土地の持ち主だった、という人もいる。
 他にも、海洋大学の学長さんだったとかいう話もあった。
 ただ、変人、とだけ言う人もいる。
 何にしても変わりものとして知られていて、あまりいい風には思われていないみたいだった。
 街へ来た頃、新しくできた友達の中には、烏賊じいさんに近づかないようにと、親から言われているという子もいた。
 ぼくの父さんにも聞いてみると、やっぱり烏賊じいさんのことはもう知っていて、父さんと同じ学校ではないけど、「昔、このへんの学校の先生をやってた人だろう?」と言うのだった。
 ぼくにも、烏賊じいさんが、手づかみでとった魚をなまのまま食べたり、まして仔猫を食べるなんて、あぶない人には見えなかった。
 人にあまりよりつかない、プーチコだってとてもなついているんだ。
 じいさんは最初から、ぼくの目には、やさしそうで、そしてどこか悲しそうな人のようにうつった。
 
 烏賊じいさんは、いつも海の、あまり人がいないさびれたあたりにいた。
 烏賊じいさんはやがて、ぼくのかけがえない、そして今ではほとんどゆいいつの、友達になった。
 じいさんに近寄らないように言われていた子は、ぼくのことまで変わりものあつかいして、砂浜のおかしなコンビだと言ってからかうのだった。そうやって笑う子が何人かいた。
 ぼくは、学校もうるさい場所だ、ってただそう思うようになった。
 海へ行けば静かだ。
 海へ行けば、烏賊じいさんにも、プーチコにも会える。
 烏賊じいさんは、ぼそぼそと小さな声で話すけど、たのしい話を聞かせてくれる。夢中になって、他の音が頭に入らなくなるくらいの。
 じいさんの話す海の物語や、海の向こうの知らない国の話を聞いていると、じいさんは本当に昔漁師で、海の向こうから来たんじゃないかって思える。それとも、やっぱりあの海の家の人で、昔港に来た色んな人たちの話を耳にしてきたのかも。大学の先生で、海のことを研究していたのかも……そんなふうに思えてくるのだった。
 
 だけど烏賊じいさんは、自分のことはほとんど話さなかった。
 
 
 
4 予言
 
 
 雨の中、ずぶぬれでいるぼくのところに、烏賊じいさんは静かに歩いてきた。
 さっき海から砂浜に拾い上げたビーチサンダルにちらりと目をとめたけど、何も言わず、海の家へ来てみなさいとだけ言った。
 ぼくはゆっくり歩くじいさんについていった。サンダルは、波にかからないあたりにそのまま置いていった。
 雨に打たれているのが、なんだか気持ちよかった。
 
 海の家に入ろうとしたそのとき、足もとをしなやかな影がさっとかけていった。
 すぐに、プーチコだとわかったけど、雨の中かけ去っていくその姿は、はっきり見えない。
 ただ、口にぶらさげるようにして、まるっこいものをくわえていった。
「ねずみ……?」
 前を見ると、じいさんの姿はもう海の家の暗がりに消えて見えなかった。
 
 耳もとで響いていた強い雨音が遠のいた。屋根の上でカラカラ鳴っている。この海の家の中から見ると、暗かった雨の砂浜も少し明るく見える。
 じいさんは、まず体をふきなさいと言った。風邪をひくから、と。
 烏賊じいさんはいつになく、重たい口調に思えた。
 海の家には、いつもなぜか、わりと新しいタオルやバスタオルが、奥の一角に、カーテンみたいにしてかけてあったり、ほしてあったりした。
 烏賊じいさんはここで生活しているわけではないけど、ちょっとした食料(おつまみ)や、椅子や座布団といったものを、ときどきどこかから持ってくる。
 奥の方から見ると、入り口の柱の横にかけているじいさんの顔はよく見えた。
「おまえさんは、サイレンにでもあったのかね」と、ぽつりとつぶやいた声を聞くと、やっぱりいつものように明るい調子だった。
 海の家はあいかわらず静かだった。けれど、落ち着いてくると、奥のカウンターの向こうの、まっ暗がりから聞こえてくる不規則な鳴き声に気付いた。
 それはとても小さく、だけどとても強く何かを求める主張の声だった。
「見るかい。仔猫だ。プーチコが産んだんだよ」
 
 烏賊じいさんは、どこから出したのか、小さな懐中電灯を手にしていた。
 照らされたカウンター席の裏の片隅で、弱弱しく動く、小さな影のかたまりが見えた。
 でもやっぱりプーチコらしき姿はない。
「烏賊じいさん。プーチコはさっきどこへ……」
 じいさんは、動くかたまりの前にゆっくりとしゃがみこんだ。
「本当にまだ産まれたばかりじゃ、ちょくせつ照らすことはできんが」
 ――そのせいか、仔猫たちの顔は、半分から三分の一くらいが灯りに照らされ、影とのあわいがゆれて、奇妙じみた生きものに見えた。
 じいさんは四匹だと言ったけど、見た限りでは、もそもそ動いて数はわからず、頭がいくつもある小さな怪物……とさえ思えた。鳴き声も、ニアニア、キアキア、キッキッ、ギ、ギイ……
「……じいさん」
 仔猫をじいっと見すえるじいさんの顔も、灯りの影にゆがんでゆれていた。表情がよみとれない。ぼくはふいに、仔猫を食べる――という友達の話が頭をよぎってしまった。
「烏賊じいさん。……じいさん?」
「……しっ。静かに。こやつ……この奥の一匹。くだんじゃ。今に、しゃべるぞ」
 
 
 
5 夏が死ぬ
 
 
「くだん」というのは、動物の妖怪の一種で、生まれて間もなく人間の言葉でしゃべる。
 ふつうは牛から生まれるけど、とくに近代以降には、ほかの家畜や、人の飼う小動物の類から生まれたという例もある。
 そして、必ずあたる予言をする、というのが、この動物の何よりの特徴だった。
 何冊かの本を読んで、おおまかにわかったのはこんなところ。
 戦争や災害や、人間にとってなにか悪いことを予言する場合が多いみたいだった。
 
 夏休みが、終わった。
 小学校最後の、夏休みだった。
 中学校は、一つ向こうの街へ行くことになる。そこから、海は遠い。
 夏休みは終わったけど、まだまだ、暑い夏の日差しが照らしていた。昨日の暗い雨が嘘のように。
 そして昨日起こったいくつかの出来事は、全て夢だったかのように、感じられた。
 昨日は、昨日は暗すぎたんだ。……だけど。
 
 始業式と、その後に軽いクラスのミーティングが終わると、初日はもう放課になった。けれどぼくはだれもいない図書室で、昼過ぎまでかけて調べものをしたのだった。
 
 夏休みは終わった、けど……。夏はまだ、終わっていない。夏は……
 
 あのとても暗い一角で(もしくは、ぼくの夢で?)、「くだん」は一言、こう言った。
 夏が死ぬ、と。
「なあに。夏が死ぬ――つまり夏の終わりを告げたわけじゃ、この子は。そして予言を終えたくだんは、間もなく死んでしまう」
 一瞬の沈黙のあと、烏賊じいさんの明るい声が、ふるえそうなぼくをすくってくれた。
 だけど、あの静けさの中で最初にぼくをおそった、言いようのない不安感はなんだ。それは動物の赤子がしゃべった、ということに対してではなかった。
 あのあとは、カウンター席にさえぎられて、遠のいた雨の音が、サアサアと聞こえるだけだった。仔猫たちの奇怪な合唱も少しうすっぺらくなった。くだんが死んだんだろう。予言を残して……
 夏が死ぬ。
 言いかえれば、夏が終わるということ。
 それは、あたりまえのことだ。どうしてそんな予言を。
 あるいは、……ぼくはそのとき、ふと思った。
 くだんは、こう言いたかったんじゃないか。
 ――おまえの妹の、ナツが死ぬ……と。
 ナツは、一年前の夏の終わりに死んだ、ぼくのナツは、本当はまだどこかに生きていて、やがて遠くないうちに、死んでいこうとしている。
 まだ、ナツは生きている。
 ぼくはまた、本のページをめくっていた。何冊も。ただ、がむしゃらに。
 
 図書室の窓からのぞくと、風はすがすがしく、空はとても晴れていた。図書室の中が、それに自分のしていたことが、なんだか陰気なふうに思えた。
 それからかすかに、潮のにおいがしたけど、今日は海へ行く気になれなかった。
 
 もう一匹の、くだんを探せば。
 オスのくだんの予言したことをふせぐすべは、同じときに生まれるメスのくだんから告げられる。
 ……ぼくは、すぐに、急なむなしさにおそわれ、それから自分の考えたことのおかしさに、おろかしさに、悔しくみじめな気分になった。
 本当にばかばかしかった。
 
(一瞬、雨の中、影のように、ぼくの足もとをかけ去っていった生きものの姿が頭をよぎった。プーチコがくわえていたのは……。もしそうなら、どうして、プーチコ。)
 
 ……間違いない。ナツは、死んだんだ。一年前の、夏の終わりに。
 
 だけど。
 夏が死ぬ……夏はまだ生きている。
 やがて、夏が死ぬ。だけどまだ、夏は。ナツは……
 
 
 
6 ナツ
 
 
 去年の夏のこと。
 あれは父さんと母さんが別れて、まだ数ヶ月のときだった。
 夏の終わりが近づいてくる頃で、ぼくはアイスクリームを食べながら、休み中の宿題を片付けていた。
 風のない午後の、暑い部屋に響き渡った一本の電話は、母さんからの電話だったんだ……
「ナツが」と、父さんは一言、強い調子で言った限りで、あとは静かにうなづくだけだった。
 父さんは最初、ぼくの座っている机に横目もふれず通りすぎてから、立ち止まり、言い放った。
「ナツが……プールで、おぼれたんだ。排水口か何かが原因で……事故らしい」
 そしてその後、「ナツは死んだんだ」と、はっきりした声で、つけ加えた。
 父さんは、一人で、玄関の方へ足早に歩いていった。
 
 お葬式には、あまり人が多くなかった気がする。
 親戚という人が、ぼくにはどれだけいるのかもよく知らなかった。
 父さんと母さんはほとんどしゃべれなかったし、そのためか、まわりの人にもあまり声をかける人はなかった。
 母さんは、はなれたところにいて、ぼくの方もほとんど見なかった。そして次の日にはもう、母さんらが引っ越して暮らしていたという、都会へ戻ってしまった。
 それから母さんは、実家へ一人帰るかもしれないと、あとで父さんは言った。そこは遠い山のふもとの、小さな町だって。
 ナツは、都会のせまくて人でいっぱいのプールで死んだのかな。ナツは、……同じ死ぬならきっと、静かな、広い、海を望んだだろう。
 昨日のお葬式はまだよかったと思う。ナツはもう、うるさい場所はごめんなはずだ。
 無言の父さんが運転する車で、ぼくはただそんなことを考えていた。
 それと、あのとき、ナツの顔は、見ることができなかった。
 
 
 
7 祭りの夜へ
 
 
 九月三日、金曜日。
 この日は、幽霊船流しという、この海辺の町で毎年行われる一種のお祭りの日だった。
 お祭りは、土日を使ってにぎやかに行われるのでもなく、平日の一夜で行われるだけった。
 夏休みが終わっているせいもあったか、子どもたちの姿もあまり見られない様子だった。
 だけど、まだ去年の夏にそれを一度しか見たことのないぼくにも、不思議な、妖しげでいて、そこはかとないさみしさの漂う光景として、頭の片隅に焼きついていた。
 夜店も出ないわけではないけど、露天商が来るようなさわがしいものではなく、商店街が店先や裏手の神社の近くに、ぽつんぽつんと小店を出すくらいだった。そこから海へ出るまでの路々に、ちょうちんがともされる。
 ぼくは、このひそやかな感じのするお祭りが気に入っていた。今年も見れたらな、と思っていた。
 日が暮れるまでの少しの時間、海の方まで来て、ヨートビーチには下りずに、岬の灯台へ向かった。
 岬の下の砂浜は、暗くて、やせた貝がらの転がるひんやりとした場所だった。
 ぼくはそこでぼうっとしながら、ときどき海を見て、岬のがけにもたれていた。
 見上げると、空は青く、魚の群れのように雲は流れて、岬の先の方に、灯台の頭がチラッと、顔を出して日の光をあびていた。空はあんなに青くて……ここは影で暗くて、ひややかで。ぼくは、この影にとらわれてて、影の内側から、外を見ているみたいだ。
 やがて、青空は赤みを帯びてきた。岬の影が伸びて、岬の下のこの砂浜はもうまっ暗になってきた。
 空を泳ぐ魚の群れは、増えてきていた。今、魚たちのおなかは、火を飲みこんだみたいに、赤くにそまっている。後ろの方では、遠くに見える町のつらなりの方々で、小さな明かりがともり始めている。もう、ちょうちんもともりだす頃だろうか。
 ぼくは、はっとした。
 今、岬の影は、がけの下から果てしなく伸びて、一帯の砂浜をおおっていた。それは、まっ黒な砂浜……
 日の沈むのは早い。空は、もう熱をうしなって、魚たちは静かに、その一面をおおってしまった。星は、見えない。町の明かりも、いつの間にか見えない。
 ぼくがもたれていたがけは、今、ゆるやかな丘にかわっていて、そのてっぺんの方から、白い影がゆっくりとぼくの方へ下りてくる。
 あの子だ。
 
 
 
8 夏が生まれる場所
 
 
「ねえ。知ってる? 海の向こうに、夏が生まれるところがあるの」
 ぼくと、あの子は、丘を背に、まっ黒な砂浜にこしかけて、暗くてよく見えない海の方をながめていた。
「夏が、生まれる……」
「そうよ。夏が生まれるの。……海の向こうからここへ――人の住まう町へ――やってきた夏は、やがて、死ぬわ。そして、夏は死ぬと、海の向こうへ帰って、また生まれ変わる……そう、夏は生まれ変わるの」
「夏は死ぬ」
 ……黒い砂浜に輝く骨をさらけ出して。
 女の子の方を見ると、「あなたも見たでしょう」と言いたげな顔でぼくにまなざしを投げかけた。
 女の子の足もとにあるのは、ぼくが海から拾いあげたビーチサンダルだ。
「死んだ夏は、どうやって、海の向こうへ帰る……?」
「わたしたちがあの世へ行くのと同じ。たましいになって、この海をわたるわ。わたしは知っている。夏が海をわたる方法、それは……」
「わしが教えてやろう」
 烏賊じいさんの声だった。
 女の子の声はとぎれた。女の子は、いなくなっていた。
 あたりはまっ暗になっていたが、黒くて時間もない砂浜じゃなくて、夜だった。いくらか先に、灯台の明かりが、かすかに見えている。岬の、がけの下……ぼくは座りこんで、おしりのとこまで、水がひたしていた。
「さあ。まず、立つんだ。ヨートビーチの方へ行こう。ここからは、死んだ夏が海をわたって行くのは見えんからな」
 
 烏賊じいさんに手を引かれ、波うちぎわをはなれた。ぼくの座っていたあたりに波がおしよせ、さらっていった。あらい波間に、ちらりと見えたビーチサンダルの赤。それは見る間に、手の届かない遠くへ押し流されていった。
 
 やっと徐々に、視界がしっかりしてくる。
 見上げると空には星もなく、雲の魚たちは動かず、眠っているようでも、死んでいるようでもあった。今にも落ちてきそうな……
 岬をまわって、ヨートビーチへ出ると、ポッ、ポッ、と、雨粒が落ちてきた。
 ヨートビーチの砂浜が広がる、いちばんはしっこの方で、人たちのざわめきがかすかに聞こえ、小さな明かりがいくつも、いくつも海の方へ流れていくところだった。
「幽霊船流し。今夜が、夏の御霊を小舟に乗せて、海へ送り出す祭りじゃ」
 ぼくは、小走りになっていた。
 雨が、降ってきた。
 前は、雨が降って、その後に、あの子があらわれた。今度は、あの子があらわれて、その後に、雨……あの子は行ってしまう。あの子はきっと、夏のたましいと一緒に、海の向こうへ帰ってしまうんだ。
 それは違うぞ!
 見ると、烏賊じいさんも、走ってついてきていた。ぼくは足がはやい。百メートル走は、クラスでも一番か二番……そんなぼくに、烏賊じいさんは追いつきながら、言い放った。
 おまえ……あの子は、サイレンの子ども。悪い人魚の仲間じゃ。あの子は、おまえを海へ引きこもうとしているのじゃ。おまえは、いつも死に近いところにいた……おまえは、死に魅入られておったんじゃ。行ってはならん。
 あの子は……さみしかったんだよ。ぼくみたいに、ひとりで……。広い海の底でひとりでいて、さみしかったんだ。あの子は、ナツのとこへ行く道を知っている。ぼくは行く……ぼくは海の向こうへ、行くんだ。
 砂浜を、全速力で、ぼくは走った。
 
 
 
9 幽霊船流し、そしてぼくは
 
 
 手のひらくらいの、小さな、本当に小さな舟が、いくそうもいくそうも、海へ流されていく……舟には帆までついていて、中に、ほのかな明かりがともっている。お菓子とか、魚のお頭とか、ときには、いらなくなった大事なもの、とかが、乗せられることもある。
 それが毎年この海辺の町で行われる、幽霊船流しというお祭りだった。
 
 今、雨がざあざあ降りになる中、白くそまって波うつ海にゆれながら、沖の方へと去っていくいくつもの明かりが見えた。
 祭りは終わりだ、引き上げるぞー。
 だれか、男の人の大きな声がして、雨にけぶって視界のきかない砂浜を、影のような人の姿が、あっという間に、散っていった。もう、だれもいなくなった。
 終わりじゃない。
 まだ、終わっていない……!
 ぼくは、強い雨の中、雨つぶにうたれて、砂浜に立ち尽くすばかりだった。
 
 
 *
 
 
 結局ぼくは、いつもの海の家へ入って、雨をやりすごした。いや、一夜を過ごしたと言っていいのかもしれない、長い時間が過ぎた。だけど、朝は来なかった。
 海の家を出たぼくの前に広がっていたのは、まっ黒な砂浜だったんだ。
 そのどこにも、もうあの子のすがたはない。
 ただ暗い海が、波音もなく静かにゆれ、灰色の霧がたちこめていた。
 灰の霧の中に、ちいさく、キラ、キラ、と時折かがやくものがある。あれは、夏のたましいをのせた小舟だ。もう、あんなに沖の方へ行ってしまった。
 そのとき、ふと、同じ光がひとつ大きく、近い距離に見えた。砂浜のはじっこの方だ。
 かけよると、いっそうの小舟が、今砂浜をはなれようとしていた。
 舟は、暗い海の上で、やけにまばゆく光をはなっている。そして、その舟がのせているのは、一匹の、仔猫だった。
 舟を引っぱっているのは、プーチコだ。プーチコが、あの夏の死を予言したくだんのつがいを、海の向こうへ連れ去ってしまおうとしている。その舟も、すぐ霧にのまれ、光はみるまに沖の方へ向かって遠ざかっていった。……ぼくは、ひざまで海にひたして、海を見つめている。
 あの子も、あのくだんのもう一匹も、夏の……ナツの死をめぐる謎も秘密も、すべて海の向こうにあることになる。
 ザッ、ザ……後ろの方で音がして、見ると、青ざめた顔の烏賊じいさんが、ボートを引きずりながら歩いてくるのだった。
 町の影は、どこにも見あたらない。
 ぼくはもう一度、本当のぼくの日常を、とり戻さなければならない。もう一度、ぼくはナツに会いにいく。
 この長く暗い夜が明けるまでに。
 
 そしてぼくは今、海の上にいる。
 海の向こう、夏が生まれる場所を目指して……

第2章 海洋大学

1 時間のない海
 
 
 黒い砂浜を発ってから、ぼくも、青ざめた烏賊じいさんも、ひとことも口をきかなかった。
 仔ねこたちは、わるい海風にあたらないように、ボートに積んであったダンボールに入れられ、シーツをかぶせてある。鳴き声もない。眠っているのだろう……。
(烏賊じいさん。仔ねこは……母ねこのミルクがなくて大丈夫なのだろうかねえ)
 聞くのはよした。今、明けない夜の下にあっては、仔ねこは、成長もしないのだろう。この海には、時間なんてないんだ。ただ、黒い芒洋とした空間が、どこまでも広がる……
 実際、ボートが砂浜をはなれ、どれくらいのときが経ったのか、もうわからなかった。
 そう、でも、時間なんてないんだ……
 ――嵐がくる。
 烏賊じいさんが言った。
 嵐? どうしたらいい……?
「もうじき、建て物にゆきあたるじゃろ……そこへひとまずは身を寄せよう。なァに、嵐がくる前にはつくさ。……」
 それからまた、感覚でなら長い時が過ぎたように思う。
 黒い海に何の変化もなく、嵐がきているという気配は感じられなかったが、濃くなる灰の霧のなか、やがて赤や黄や、紫色などに光る灯(ランプ)が、空の高いところまで燈っているのが見え、巨大な建物の影が浮かび上がった。
 それは都会の高層ビルか、ホテルかというふうだった。
 近付くと、島ではなく、白い壁が海から直に顔を出している。海面から生えて、空高くへそびえ立っている建物。その高い方は、霧に隠れて見えない。様々な灯りは、はるか上天の方で燈っているようで、下の階では、窓に明かりもなく暗い感じがした。
 
 
 
2 海洋大学
 
 
 海に面しているその周囲をぐるりと回るうち、入口に行き当たらなかったけど、開け放たれている窓を一つ見つけ、そこから中に入った。
「嵐がくる。急がねば。先に行きなさい。わしは、ボートを付けておける入口を探して、あとから行く。入ったら、窓は閉めなさい」
 烏賊じいさんは、まだつづく建物のぐるりを巡って、消えていった。
 ひと巡りする間には、入口が見つかるだろう。
 
 中は、しんとして暗い。
 夜の、それかとても暗い雨の日の、学校の廊下を思わせたが、壁にかかっているものなどもなく、明るかったなら、きれいにさっぱりとした印象だろうな。病院のようにも思えるけど、においはない。
 そう言えば、すぐ外は海なのに、潮のにおいもなかった。
 窓はしめきっているし、暗くて、よく見えない。
 次の角を曲がると、窓のない廊下が、遠くまで伸びていた。
 だけどまっ暗ではなく、どこから光がもれてくるでもないけど、薄明るい。目が馴染んできたのもあるかもしれない。
 そうしてぼくは、建物の奥へ入り込んでいった。
 やがて、少し開けたふうになって、上へつづく階段や、小さな下駄箱もあり、裏口なのかもしれないけど、玄関らしき扉がもう少し行ったところに見えている。外は、やはり暗い。
 烏賊じいさんは、まだ来ないだろうか。
 少し、立ち止まって入口の方を見ていても、何も気配はなかった。
 静けさが耳に痛むくらい、静かだ。
 階段の脇に、掲示板らしいものがあり、いくつかのプリントが張ってある。
 見ると、学生の呼び出しや、研究会の日程、などとなっていた。ここは小学校ではない。ここは、そうか、「海洋大学」だ。父さんのつとめている……ぼくは、上へと伸びる階段を、ゆっくりと上がっていった。
 
 二階に出たところ、また脇に今度は地図があり、ここは西棟らしかった。
 父さんの研究室……あった。
 父さんと、ぼくとの名字の研究室は、この西棟の最上階にある。
 五階かあ。ずいぶん、高いところにあるんだな。そこから海は、どんなふうに見えるんだろ。
 ぼくはまたゆっくり、階段を上っていく。
 最上階に着き、階段から出てみると、廊下は奥行きもなく、窓もひとつもなく、すぐ行くと、扉がひとつあるだけだった。父さんの研究室だ。
 行こうとすると、棚に、海の動物の模型が、並べてある。
 はく製か……カニや、エビもある。
 なんだか、そのどれもがとても奇妙でぶかっこうに映った。不完全に死んでいるものたち、という気がして……。
 父さん。出てきてくれる様子はないな。父さん、いるのだろうか。
 ぼくは、扉にそっと手をかける。
「よく来たね」
 部屋のなかは、陽の光が入って、明るい。
 すぐ左の壁が大きな窓になっていて、青い海が見えた。
 空は、雲が流れてきてるけど、よく晴れている。
 なんだ、嵐なんてちっともきていないじゃないか……嵐? ……
 父さんは、ぼくの方を見ないで、つぶやくと、そのへんに座ってていいよ、と少し早口に言い放った。なにか、書きものに集中している様子だ。
 右手の方には、二つの本棚の他にもう一つ棚があって、そこにも魚だとかさっきのように海の生きものの標本だとかが雑多に並べられている。
「あっ」
 その棚に、父さんが昔、ぼくに見せてくれた貝の標本箱を見つけた。
 これ、こんなところにあったんだ。
 見ると、前にあったいくつかは、なくなっていた。なんだか、汚らしい色のに置き換わっているものもある。これ、こんなのだっけ。……
「父さん」
「ん? なんだい。私は今、手がはなせなくてね……」
 父さん。近頃、父さんとはほとんど、しゃべらなくなっていたね……
「父さん?」
「私はね、」
 父さんは、前みたいに自分のことを父さんは、とは言わない。父さん、ぼく……
「私は、シイラの研究をしているんだ。いいかい。このことは秘密だよ。海洋学会に知れたら、大変なことになるからね……この大学にも、いられやしない。せっかくこうして自分の好きな職について、生活のつてもえられるようになったっていうのに、だけどこの研究はね、……」
「父さん」
 父さんは、一瞬、しゃべるのをやめて、肩のあたりがぴくん、と動いたように見えた。それからすぐ、まだこちらを見ないまま、ペンを取ったままの手で、窓の方を指した。
「見てごらん。あのうっすらとした影はシイラだ。この時期、近海へやってきて、まだ戻っていく」
 窓に近付いて、海の方を見てみる。
 遠くの海や、空はまだ、青かったが、下の方を見ると霧が出てきていて、よく見えない。空も、少し遠くの方から、ぶ厚い雲がやってきている。
「どこへ帰る? 父さん、シイラはどこへ……」
「さて。父さんはまだ、これから忙しいんだ。サンプルを取りにいかねば……あぁ、その前に、会議だな、……」
 最後の方はぶつぶつ聞き取れないつぶやきになって、何かよくわからない書類を書きつづけている。
「父さん。ぼくって、わかってくれてたんだね? ぼくがここにいるって」
 父さんは一度、すっとこちらを向いた。
 その顔は……父さんだ。いつもと変わらない……いつもと? でも、父さんはいつからか……
「まだいたのかね。何言ってる、あたりまえじゃないか。父さんが、なにか忘れているかな。さあ、行きなさい」
 そのあとはもう、振り向くことはなかった。
「xの-地点、yの-地点、……この海域にきっと、……いるんだな……ふふ。これは発見できるかもしれない。……ふふふ……、……」
 
 部屋を出ていくとき、窓の外は急に薄暗くなり、灰色の雲が空一面をおおっていくところだった。
 
 
 
3 嵐がくる
 
 
 下へ下りていき、二階のところでまた地図を見ていると、ことこと、ことと、廊下の方から音が聞こえてくるので、見に行ってみることにした。
 廊下には今、明かりがついていて、暗くなっている建物内部を照らしていた。
 外はどうなっているのだろう。一階に下りれば、やっぱり外は黒い、あの時間のない海なのだろうか。さっき、研究室で見たとき、最初、空は晴れている昼間の空だった。それから、厚い雲がきたけど……いずれにしても、やっぱり嵐が近付いているんだろう。
 廊下に出ても、この階には窓がなかった。片側は何もない壁で、一方には、同じ扉がずらりと並んでいる。
 ことこと、という音はやんでしまったかのように思うけど、長く伸びる廊下の奥の方から、また、確かに、聞こえてくる。何だろう。
 奥へ奥へ進んでも、一向に廊下の果てることはなく、音はときおりやんだり、また始まったりして、奥から奥から聞こえてくる。
 この並んでいる扉の一つ一つが、研究室なのだろうか。
 父さんの部屋の扉とまた、様子が違うな。金属製の、重たい感じのする扉だ。地図にも、この階に何研究室があるとかは、のっていなかったように思う。では、この扉の先には……。扉は、開かなかった。
 まだ奥へ進むと、今度は、さきまで奥の方から聞こえていたことこという音が、今度は後ろの方から聞こえてくる。振り返ると、もうもときた階段のあたりは見えないほど遠のいており、廊下がずっと伸びるだけだった。音は、その果てる方から聞こえてくる。
 ぼくは、そのままもう振り返ることをせず、廊下を突き進んだ。
 やがて、廊下は終わり、そこは反対側と同じように少し開けて、階段になっていた。が、こちらには上りの階段しかない。階段を上りきった先は、一つの大きな扉で、開いてみると、だれもいない、扇型のがらんとした広い講義室のようだった。明かりはつきっ放しだ。
 扇状になって下まで数段つづく机には、ノート一つ、メモ帳の紙切れ一つとして、置かれていない。きれいに、掃除されたあとのようだった。ただ黒板には、ちょうど父さんの部屋にあった海図のような、よくわからない記号のたくさん付けられた図が描かれている。それを見に、最下段まで下りてみると、教壇の後ろ、黒板の脇に、上からでは気付かなかった、壁と同じ色の木の扉が一つ、ある。ぼくはそれを開けて、入っていく。
 
 すると、今度は、明かりのついてない真っ暗な部屋で、さきの講義室からもれてくる明かりだけが頼りだった。
 そこは、準備室か、倉庫……? とも思ったけど、壁際にある棚に陳列されているのは、魚や、海生動物たちの、骨のようだった。明かりに照らされた部分と、闇に消えていく部分のあいだが、暗がりの中に、白くちら、ちらとゆれて見える。ぼくは……ここで、こうしていてもいいのかしらん、と思う。骨。あの、黒い砂浜にあったあの骨。ぼくは……でも、こうして暗闇の中にいるのが、とても心地よく、なんだか、水の中にいるみたいで……ここは、海の底で、ぼくも今ぼくの周りでしずかにいる魚たちと同じ、骨で、しずかにしずかに、暗くてつめたい海の底で、眠りについて……いつの間にか、もときた扉の明かりはもう見えずに、ぼくはまっ暗な部屋をまた奥へ奥へ、歩いていた。不思議だ。明かりもないのに、いや、骨たちがまるで明かりでもあるかのように、暗闇の中で、白くあわい光をはなっている。そのあわい光にてらされて、行き止まりの壁の隅っこにまた、壁と同じ色のくすんだ小さな扉が見えた。
 開けると、いくつかの、窓……? そして窓の外は、海、海の中……? この階は二階のはずだけど、さっきの講義室を下まで下ると、地下で海の中が見えるというのだろうか。いや、これは窓ではなく、水槽だ。この部屋は、水族館みたいに、いくつもの水槽が埋め込まれていて、暗闇の中で、窓のように見えていたんだ。水槽の中には、大きな海草がゆらゆらゆれて、ぬっ、と上の方から巨大な魚が現れ、目の前を横切っていく。巨大な魚が、視界の見えないところへ行ってしまうと、水槽には、ちらちらと点粒のような小さな魚が、群れを作って藻の間を行き来しているばかりだった。どの水槽も、同じだ。
 その部屋を抜けると、もうまっ暗がりではなく、天井の高い湾曲した廊下らしい場所に出て、上半分はガラス張りになっていた。
 夜のように暗かったが、外が見えているので多少は明るい。そして、外はもう今、激しい雨が降っていて、窓に打ち付けてきていた。嵐がきているんだ。
 窓は、天井までつづいているけど、ぼくの背丈よりずっと高いところからなので、下の海は見えない。でも、湾曲した先にある金属のドアを開けると、下の方がいくつもの水路になっていて、ゴオゴオとすさまじい音と勢いで、海水が滝のように流れ込んできている。何の装置かはわからないけど、水位が上昇しているということなのだろうか。あまりの音のすごさに耳がいたくなって、走ってその部屋を抜けると、音は遠のき、配水管やパイプの重なる薄暗い部屋で、どこかで水滴がちょぴ、ちょぴと落ちる音が響いていた。細い道がまた、湾曲して、錆びついたドアを開けると、ようやくまた学内の廊下らしいところに戻った。
 ぼくが出てきたのは、さっき、ぼくが通ってきた二階にあたる長い廊下にある扉の一つだった。こと、ことという音は、ぼくが抜けてきた通路の方からしていた。さきの、配水管かパイプだかのどれかからしている音なのだろう。
 廊下には、明かりはついていたけど、停電なのだろうか、明かりが不規則に、ついたり、消えたりを繰り返している。ここでは、まったく嵐の音は聞こえず、ことこと、という今は遠のいていく音と、明かりの点滅するかすかな音以外に、聞こえる音はない。
 もときた方へ戻り、階段のところまでくると、ぼくは三階へ上がってみることにした。一階の方は、まっ暗で、かすかだけど、水の音が聞こえた気がした。
 
 三階にも窓はなく、一方の側に扉があったが、二階のよりもっと間隔が広く、どれにも、第一講義室、第二講義室、と扉の上にかけられていた。
 第七講義室の前までいくと、どうもこの部屋では授業が行われているらしく、中から、年寄りらしい教授の話し声が聞こえてくる。だけど、扉は開かなかった。教授は、ずっとしゃべりつづけている。何を講義しているのだろうか、ぼくにわかるかしらん。そう思って、しばらく耳を傾けていると、どうしてか内容がまったく入ってこなくて、それは言っていることがむずかしいからとかじゃなく、教授の話している言葉が、異国の言葉のような、呪文のような、よくわからない発音のように聞こえた。最初からそうだったろうか、だけどそのあとはもうどれだけ耳をすましても、どこかぼんやりとりんかくのぼやけたような呪文ともつぶやきとも取れないものがつづているだけだった。
 講義室は、第八、第九、第十、第十一、……まだまだつづいていく。
 ぼくは、引き返し、同じように今度は第一実験室、第二実験室、第三……とつづく四階には寄らずに、もう一度、最上階……父さんの部屋に、寄ってみることにした。

 最上階の扉をノックするが、返事はない。開けてみると、部屋はまっ暗だった。
「父さん……?」
 だれもいない。
 父さんが書類か何かを書いていた机の方に寄ると、一瞬、ぎょっとした。机の上には書類などなく、そのかわりに、内臓や眼球のようなものがぬらりと光って、何か魚でも解剖したんだろうか……と思い、近付いてみると、模型のようだった。何の? と思うが、魚や動物の形をしているでもなく、ただ、内臓の詰まった黒いまるみをおびた箱状の入れ物。
「……」
 どうしてこんなに暗いのかと思えば、左側に大きく開けていた窓には、シャッターがかけられている。雨の音や風の音は、まるで聞こえてこないけど……。
 反対側の棚を見れば、そこにあったはずの海の標本類は、いっさいがなくなっていた。もしかすると、部屋の造りは同じに見えるけど、ぼくは違う棟にきたのかな。二階で、地図を見てこなかった。机の上部に並べられている本は、暗さのためもあるけど、何ていう本なのか、題字がてんで読みとれなかった。外国の本なのだろうか……。
 部屋を出たとき、だれかが階段をのぼってくる音が聞こえた。
「父さん……」
 ふと見ると、はく製の棚の脇に、最初きたときは気付かなかった小さな扉がある。やっぱりここは、別の棟なのだろうか。だれかが、階段をのぼって、くる。その前に、ぼくは扉を急いで開けると、そこに逃げ込むように入ってしまった。
 入ったとたん、その狭くて暗い部屋が、ぐん、と動き、ゆっくり下ヘ降っていく。エレベータ? 明かりもないし、ずいぶん狭い。荷物の昇降用なのだろうか。……とてもゆっくり降っているようで、長い時間が経ってもまだ着かない。いちばん下まで止まらないようになっているんだろう。いちばん下……ぼくはこのまま、海底にまで、行くのかもしれない。
 眠りがおおいかぶさってきそうなほど、ぼくはその暗い一室のすみにしゃがみこんでから時間が経ったように思われた。いつか、動きはとまっているようで、扉から、ちいさく明かりがもれだしてきている。手で開けると、扉は簡単に開いた。
 明かりがついている。今度は、広い部屋だ。見覚えがある。学校の、給食室に、似ている。係のときに、食器を返しにいくとき、外から見たことしかないけど、ぼくは今、その中にいる。大きな釜や、鍋が並んでいる。大学の、食堂なのだろうか。
「あっ」
 奥の、調理室だろうか、ガラス張りになって仕切ってある一室に、料理のおばさんらしい数人が、何かしている。
 行ってみるけれど、ガラスの前にたくさんの袋や食材らしいものが積み上げてあり、そこまで行けず、この部屋から通じているドアもない。
「あの……」
 呼びかけてみても、まったく聞こえないみたいだ。ここからじゃ、おばさんたちが何を作っているのか、手もとまでも見えない。
「すみません、ここからどうやってそっちに行けば。あの、……」
 ぼくは何度か、呼びかけてみるけど、やっぱりだめだった。
 おばさんたちは、表情を変えずに、黙々と何か作業をつづけている。
 そのうちに、ぼくは何だか呼ぶのがこわく思えてきて、もとの方から別の出口を探すことにした。
 かすかに、雷の音がとおくで鳴っているのが、聞こえた気がする。
 
 
 
4 食堂
 
 
 エレベータのあったすぐ裏手に扉があって、そこから食堂に出ることができた。
 ここも明かりがついていて明るいけど、いっさいの窓は、シャッターが閉めきられている。雨の音は、聞こえない。雷の音もあれ以来聞かれなかった。
 外はどうなっているんだろう。でも、こんなふうにシャッターが閉めきってあるところを見ると、やっぱり嵐はきているんだろう……それとも、もう、通り過ぎたあとなのだろうか。
 食堂には人の姿はなく、奥の方に、働くおばさんらの姿が小さく見えた。こちらからなら、ガラスはなく、じかに話しかけられる。あそこへ行って、何か注文しようか……。おなかは、少しだけ減っている。時間のない旅でも、おなかは減るのだな。時間のない旅……そうだ、ぼくはここでこうしてていいのかしらん。
 ふと、後ろに人の気配がして、見ると、ぼくがきたのじゃない別の扉から、人が三人入ってきた。ふつうは、あそこから入ってくるのだろう。あそこから、通路に出られるんだ。ぼくは、はっとした。人……この大学にきてから、父さん以外に人を見かけることがなかった。おばさんには話しかけていないし……
 入ってきた三人は、ぼくのところまで来ると、そのうちの年とった教授らしい男の人が「やあやあ」、と言って話かけてくれた。よく聞こえる、たしかに人の声だ。
「あの、ぼくは……」
「ほうほう、今は外へ出ることもできんし……まあまあ、わしらと一緒に何か食べようではないか。少しははらごしらえせんとね」
 烏賊じいさん……? ふと、思うが、もっと若いし、少し太り気味のおじさんといった感じ。どうして烏賊じいさんなんて思ったんだろ。後ろにいるのは学生のようだった。ぼくよりはもちろん年上のお兄さんだけど、大学生だろうか? と思った。幼い顔立ちをしていて、二人とも、よく似ている。双子なのかもしれない。口元が、なんとはなしに猫を思わせた。猫……? 二人は何もしゃべらず、そのまま教授についていく。
「ええ、きみも来なさい。Aランチがいいかね、Bランチかね? ハヤシライスもあるよ。だけどあれはあまりおいしくない」
 教授は、食堂のおばさんとごくふつうなふうに一言二言交わし、Aランチ一つ、Bランチ二つ、それから……などと話していた。
 注文を終えると、一人ずつトレーを取って、すぐに出来上がった料理をのせてもらい、いくつも長テーブルの並ぶいちばん真ん中あたりに、腰かけた。
 教授は、ランチを食べながら、口をもぐもぐしてるとき以外、ずっとしゃべりつづけている。だれにしゃべっているのだろう。ぼくには、難しい話で、よくわからない。ときどき、遊園地、とか、海底に列車を走らせ、とか出てくる単語や一文をひろっていると、海の底に遊園地でも建設するといった話だろうか? と思うけど、一つ一つの言葉が専門的すぎて、やっぱりよくわからない。学生二人は、一言も口をきかず、もくもくとご飯を口に運んでいる。それはそれはおいしそうに食べているのだった。
 ぼくは、ハヤシライスを注文してもらった。味が……あまりついていない感じ。
「さてと。わしらはもうちょっと休んでいくから、もう行きなさい」
 教授は、ハンカチで口をふきつつ、ぼくに言っているようだ。
「あ、はい。あの……」
「なんだね? 質問は、受け付けるよ」
 教授は、そう言ってごくごくと残りの水を飲み干した。 
 ぼくは、思いきって聞いてしまう。
「あの、……ボートはどこ? 烏賊じいさん」
 でもどうして、烏賊じいさんって言ってしまったんだろ。
 教授は、コップをことんと置くと、すぐ、
「ボートなら、一階西棟のトイレにあるよ」、と答えた。
「ふむ、けっきょく、玄関が見つからなくてね、廊下に置いとくわけにもいかんし……。トイレならまあ濡れてもかまわんかなと思って、窓も開いておったし、入らせてもらったんだよ。はっはっは」
 ぼくは、さっと立ち上がる。
「ありがとう……」
 そのまま、走り出した。
 教授らが入ってきた扉を出て、少し行くと、道が二手に分かれている。それぞれ、西棟と東棟へ行く道だった。
 迷わず、西棟への道を行く。廊下には、明かりがついている。窓はないけど、徐々に、雨の音が聞こえ始めた。
「あっ」
 一つ角を曲がると、その先の廊下は、足もとくらいまで水が浸っていた。思わず、水に足を踏み入れ転びそうになり、手を前についてしまう。
「しょっぱい……! 海水が入り込んできてるんだ」
 先を見ると、いくらか進んだところに、トイレの目印がたしかに見えた。くつがびしょびしょになってしまうけど、ぼくはそのまま一気にそこまで走った。
 男子トイレの方に、ボートが浮かんでいた。水は、ひざの下くらいまでの高さになっている。
「烏賊じいさん……」
 にあ、にあ。ボートの中から、仔猫の鳴き声。
 ボートに敷かれていた布きれから、烏賊じいさんが顔を出した。
「どこに行っておった? 出るぞ。この大学は沈む……」
「えっ」
 ぼくと烏賊じいさんは、トイレの窓から、ボートを持ち上げ外へと出した。すぐに烏賊じいさんが飛びうつり、ぼくの手を引いてくれた。
 外は、やっぱり黒い海で、雨がばらばらと打ち付けてくる。波が、海をうねうねとゆらしていた。
「烏賊じいさん、この嵐じゃ……ボートは、だいじょうぶなの?」
「なに、嵐はもう行ったさ。まだいくぶん海は荒れるじゃろうが、じきに静かになる。じきに、な」
 ぼくらを乗せたボートは、海洋大学をはなれ、そこここに見える明かりは、すぐに小さく、立ち込める霧の中に見えなくなっていった。
 ぼくは、雨にぬれないように布きれから海をのぞいて、ゆれる波間に、魚の影を見たように思った。
 ……シイラ? 父さん。シイラはどこへ帰る? ぼくをつれて、シイラはどこへ……。
 ボートが、少し傾いたように思った。烏賊じいさんは、先ほどからずっと布きれの下に寝そべっている。仔猫の鳴き声が、はげしくなったかと思うと、やんで、また鳴き始めて。
 こわいだろうね。ぼくもそうだよ。おまえたち、母さんのところに行きたいだろうね。今頃、おまえたちのきょうだいは、どこか静かな岸辺についただろうか。ぼくらはこんな嵐の中で、暗くて、つめたくて……手に、水がふれた。
 海水が、ボートの中に入ってきている。ボートはもっと傾いて、ぼくらはこのまま海の底へ落ちていくのかもしれない。
 その場所は、きっとしずかなところなんだろうな。
 さっきの教授が言っていたみたいに、それとも、遊園地でもあるのかもわからない。でもそれも、しずかな遊園地なんだろうな。

夏の牢獄ぬけだして

夏の牢獄ぬけだして

2007年8月初稿/2007年9月メリーゴーランド童話塾で発表

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ 夏の終わりの暗い雨
  2. 第1章 海が見える町
  3. 第2章 海洋大学