少年と気球

「見て。あの中かもしれない」


     *


 女のひとの声が聴こえて、少年は顔を上げた。
 どこまでも落ちて、吸い込まれていけそうな、まっ青な空。
 少年は、細い塔の最上階に立っていた。
 はるか果ての空のいっかくに、粒々が集まっているのが見える。うっすらとした黄色、緑、オレンジやピンク、それらはたくさんの気球達のようだった。遠すぎて、動いているのかいないのかわからない。
「あの中に……何があるの? だれかが、いるの?」
 少年はうしろをふり返った。あたりを見渡してみた。
 どちらを向いても、空、空が続くばかり。ここには何もなかった。屋根もない。階段もない。ただ古いタイルが敷かれて、まわりには色あせた煉瓦が低く積まれ囲いになっていた。頭上には白っぽい太陽が照っている。そして……

「見て。あの中かもしれない」

 気球の群れはあいかわらずうすぼやけた色で、遠ざかっているのか近づいているのかも、わからない。でも、あれはきっと、戻って来ないもの達なのだろうな。少年は思った。
「ぼくはあれに乗るべきだったのかしらん。でも、もう、去っていってしまった……」
 少年はぼろぼろの布きれ一枚をまとっているだけだった。足もとに水筒が転がっていたのに気づいたけど、何も入っていない。ふたもなかった。
 片目をつむって、からっぽの水筒をのぞき込むと、そこに、かつて水があったのだという気配を感じた。


     *
 すべての水が消えた海の砂浜を、ひとりの少女が歩いていた。
 海だったところには、貝がらや、何かの骨か、屑か、残骸のようなものがところどころにちらばっているだけだ。
 沖へ進めば海溝の跡があって、そこからもっと深くへと、水は去っていってしまったのだろう。
 陸の方には、砂丘ばかりがどこまでもつらなっていた。
 町は、もうはるかうしろの方へ遠のいてしまった。
 少女は、砂浜を歩きつづけた。


     *


 夜が来た。


     *


 豆電球がともっているちいさな屋根裏部屋では、外に雨のふっているらしい音が聴こえていた。
「見て。あの中かもしれない」
 それは、女の子の声だった。
 たくさんの気球が、虚空へ去っていこうとしている、絵。女の子は絵の中の気球を指して言った。
「見て……」
「でも。遅すぎるさ」
 男の子の声がした。
「空……高すぎて?」
「違う。もう、絵の中だから」
 豆電球が照らす屋根裏部屋のがらくたにまぎれ、ふたりの姿はほとんど見えなかった。


     *


 雨がやむと、まっ暗やみの空に、あまたの頭蓋骨が浮かびあがって、ゆっくりと皆、同じ方角へ流れていった。
 やがてちいさくなって見えなくなる寸前、空のいっかくに、白い細かな粒々のように張りついた。そこからは、動かなかった。


     *


 夜が死んだ。


     *


 少年は水筒を足もとに置いて、再び空を見た。
 かなたにある気球の群れはまだ、うすい色を保って残っていた。やはり動いているのかどうかわからない。
 女のひとの声はもう聴こえなかった。


     *


 まだたくさん水があった頃、いちばん深いところに、幾多の宝石が輝いていた。
 その海は閉じられていた。


     *


 女のひとはかつて大切な宝石を箱に詰めて、鍵は捨ててしまった。この箱の中にわたしの宝石が入っている。それで満足だった。
 だけど年月は過ぎ、箱は段々かるくなっていった。わかってはいた。箱にしまっても、鍵を失くしても、宝石はやがて減っていってしまうことが。
 宝石は奥から伸びる手によってつかまれ、さらわれていってしまう。
 さらわれていってしまう。女のひとは、箱を投げ捨てて、叫んだ。


     *


 流れ出した。


     *


 屋根裏部屋にはまだ雨の音が聴こえていて、まだ夜で……ひっそりとした中に、男の子と女の子のちいさな話し声がする。

 少女は、水の消えた海沿いの砂浜を歩きつづける。

 少年は、狭い塔のてっぺんで、うずくまって、眠った。白い太陽が、ずっと真上で照りつづける中、起きて、空の端に動かない気球の群れを見ては、また眠った。
 水筒は足もとに転がって、もう、二度とのぞかれることはなかった。

少年と気球

少年と気球

2006年6月初稿/2006年6月メリーゴーランド童話塾で発表

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-30

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