スイング2
ライターの火は良く揺らいだ。風もない。静かだった。沈黙と言う言葉は、この瞬間にあると思った。でも、それは幻想である事は分かっていた。ニコリと微笑む、道化師が或る人たちにとっては愉快なものであるが絶対的に喜びであるとは言えないのと同じだ。
「昨日はバットでスイングをしていたんだ」
彼はライターの火を消して緩くなったコカ・コーラを防波堤に置いてから言った。
「何故?」
僕は防波堤の向こうにある暗くて地平線と空の境界が曖昧な切れ端を眺めながら答えた。彼はまたライターに火を付けてから話す。
「影が既にスイングをしていたんだ。下手くそで、ブレブレで、腕の力だけで振っている乱れたスイングをさ。僕の影のクセに酷く運動音痴なんだ」
「影はスイングをしない」
僕はハッキリと言った。
「確かに。俺もそう思う。影が勝手にスイングはしない。当たり前だ。だがな、俺の影はパチパチと点滅する街頭の下、アスファルト舗装の道で確かにスイングをしたんだ」
「へえ」
彼はコカ・コーラを一気に飲み干して防波堤の向こう側へ投げた。力が抜けた金属音が数メートル先から聞こえた。
「でもそのスイング。つまり影を見たのは初めてじゃないんだ」
「初めてじゃない?」
僕は少しぶっきらぼうに言った。
「そうさ、数年前、俺がまだ幼いクソガキだった頃。俺の家は燃えた。俺の親父と母親は何時も喧嘩ばかりしては俺を殴りつけていた。それがごくごく普通の一般的な家族だった。俺は何時もニコニコとしていた。だが、その顔が嫌いだったのか、親父は容赦無くぶん殴った。或る日。家族が寝た頃に俺はションベンをしに寝床から出た。するとボウっとオレンジ色の光が台所の方から延びていた。俺は気持ち悪いと思いながらもそこに近づいた。するとだ。帽子を被った。俺の影がマッチを擦っていた。スッ、スッ、スッって。最初は全く意味が分からないし、怖かったが、段々と意味が理解出来てきた。つまりそいつはこう言っていた。『家に火を付けろ。家に火を付けろ。家に火を付けろ』それは明確なサインで俺を此処から救う為の何かだと俺は確信をした。俺がその影に近づくと、影はこっちを見てゆっくりと消えた。俺は机の上に置いてあるマッチを手に取り、擦った。5回程擦った後にマッチに火は着いた。俺はティッシュに火を付けてカーテンに投げた。火はあっというまに、そこら中に燃え広がった」
僕は黙っていた。彼も少し黙って僕を見ていた。それから彼は口を開いた。
「親父と母親がそれからどうなったかは知らない。俺は警察に補導されて親戚の家に行くことになった。ただ、俺は泣いていたよ。近所の家に飛び込んで家が燃えているって最初に言ったのは俺だしね」
「影はそれからもう見なくなったのか?」
「ああ。それからずっと見なくなった。あれは悪い夢だと思っていた。だが昨日、再び俺の目の前に現れた。それでスイングをしていた」
僕は嫌な気分になった。それで「もう遅い。僕は帰る」と述べた。
「ダメだ。それは困る」
彼はその様に言うと堤防の方からバットを取り出して僕の方に向かって勢いよくスイングした。僕は間一髪に避けた。
「何すんだ!」
「少しだけ、お前が邪魔に思えたんだ。そうすると影が見えた。これは『サイン』だ」
僕は走って逃げた。彼はバットを持って僕を追いかけてくる。僕は防波堤の横に設置されている駐車場に逃げ込み車の影に隠れた。彼は僕の後を追ってきて僕の姿を探してキョロキョロとしていた。僕は息をひそめて彼が立ち去るの待っていた。彼はイライラしている表情で僕が隠れている場所から少しずつ遠ざかって行く。僕はホッとしてため息を吐いた。すると堤防の横にある街頭の下に黒い影が座っている事に気づいた。僕は驚いた。彼だと思ったからだ。だがどうも様子がおかしい。よくよく見ると本当に真っ黒の影でライターの火を付けたり、消したりを繰り返していた。僕は気持ちの悪さの方が勝っていたがどうも、彼に対する不快感の方がふつふつと湧き上がってきた。それで僕はゆっくりと、静かにその影の後ろに忍び寄って、息を吸い込み、力強く、防波堤の向こう側へと押し込んだ。影は一瞬、振り向いたが身体は重力の法則にしたがって落ちて行った。だが、海のしぶきの音はせず、ただ波の音だけが規則正しく奏でていた。僕は息をハアハアと漏らし、ぞわぞわと鳥肌が立ってきた。それで灯の或る場所に走って行った。
翌日、家のアパートから目を覚ました僕は玄関に行き新聞を取ってから簡単に目を通していた。すると昨夜いたあの防波堤の海が記載されている。ハッとし、完全に眠気が吹き飛んだ。詳細を読むと彼が浮いているのを漁師が発見したと書かれていた。
僕はアパートの窓から下を見て道行く人たちの影を見た。皆、お利口に主人と同じ格好だった。
スイング2