ねつ
ぼくにとって、南さんという人は、ほとんど女神であった。女神のようなひと、ではなく、おおよそ辞書に載っている女神の説明文そのものであった。クラスにひとりはいるような癖っ毛をポニーテールにしていて、唇がつんと上を向いていて、まつ毛が長くて、笑うと目が細くなる、気取らない感じの性格が心地よくサッカー部の彼氏がいる南さんは、教室のすみっこのぼくにとって、神様であったのだ。
神様の南さん(南さまと呼んだほうがいいような気は常々しているのだけれど、下僕っぽいオトコはキモい、と前に南さんが話しているのを聞いてしまったので、そうはしないことにしている)とぼくの接点は、たったひとつだ。昼休みに購買へ走って、ピザパンを買って、限定のホイップカスタードプリン大福が置いてある日はそれも買って、南さんのもとへぼくが届ける、それだけである。
ぼくの買ったものが南さんの、女神様の、血肉になっている、という点だけを見てもぼくは非常にその任務に満足していたのだが、側からみればそれは、すこし、おかしなことであるらしかった。それなりに仲の良いクラスメイトである中野は、昼休みになるたびにぼくを呆れた目で見つめる。見つめて、こう言う。「いつまでやってんだ? それ」いつまでってそりゃあ、南さんが求め続けるかぎりはいつまでもで、そんなこともわからないのかこの男は、と、ぼくはいつも中野に、憤りを覚える。
南さんは、ピザパンが好物であることが恥ずかしいらしい。なんでわざわざ、ぼくに届けさせるの? と特別な答えを期待して胸を高鳴らせながら尋ねたとき、恥ずかしいから、とそっぽを向いて唇をとがらせ、すこし頬を赤くした南さんの顔を、ぼくは永遠に忘れないだろう。南さんは女神であり、天使でもあったのだ。期待した答えとは違ったが、ぼくは非常に満足して、あ、ハイ、ですよね、と首だけで頭を下げたのだった。
今日もまた昼休みになって、チャイムが鳴り号令がかかり着席、という声が響くと同時に、ぼくは廊下へ躍り出た。一階の購買への道を南さんのつんとした桜色の唇だけを想いながら走るこの瞬間だけ、ぼくはこの学校の誰よりも輝くことができている、と、ほんとうにそう思う。南さん、待っていてね、と念じながら階段を早足で降っているとき、あ、とそばで誰かが声を上げた。それは明らかにぼくに向けられたもので、しかし南さんではない女子のその声に、なんだよ、とぼくは不機嫌まるだしになる。「ミナミ、たぶん、今日は大丈夫だと思うよ」
「大丈夫って?」
「いつもなんか、買ってってるでしょ。あれたぶん、今日はいらないよ。ミナミ、保健室いるし」
「保健室?」
なんで、とぼくが言うと、熱中症だってよ、と彼女は言った。体育のサッカーで、じりじり灼かれちゃって、ぱったり。ウチらのが走ってたのにさ、ばかみたいじゃんね。身体が弱いって楽だよね、カレシもちょー心配してたし。てか、三時間目くらいからずっといなかったけど、坂木くん、気づかなかったわけ? ストーカーみたいにずっと見てるわりには、そゆとこ気づけないんだね。そりゃあモテないわけだわ。あ、なんでもない。つか、ミナミのどこがいいわけ? なんか自分がカワイイの自覚しちゃってさ、周りの男子良いように使っちゃって、自分だけの王国作って、女子たちに嫌われてんの、ぜんっぜん気付かないんだから。性格悪いよね。ミナミとか、やめときなよ。坂木くん、ほとんどパシリじゃん。可哀想。そういうオトコキモいって、ミナミ、言ってたよ。言ってるわりに媚び売るところも、気持ち悪い。坂木くん、ほんとやめときなって。ねえ、坂木くん。
あたしにしとけば? 彼女が言うのと同時に、ぼくは再び階段を駆け降りはじめた。南さんが、熱中症になっただなんて! 南さんは身体が弱いのだ。美人薄命、というけれど、ほんとうにそうだ。女神薄命、である。南さんはいつだって目を離したらぱっと消えてしまいそうに儚くて、ちょっとしたことで倒れてしまって、夢みたいで、そんな南さんを嬉しそうに、おれがいなきゃだめなんだよと鼻の下を伸ばして介抱するサッカー部の次期主将と囁かれる彼氏が、ぼくは、なによりも嫌いであった。そんな南さんが、熱中症になっただなんて!
背後で、すすり泣くような声と、ちょっと、最低じゃん!とぼくを名指しで批判する声が聞こえたけれど、気にせずに一階まで降りる。最低なのはどっちだ、南さんのこと、なんにも、知らないくせに。好き放題言いやがって。
保健室に向かおうと足を向けて、それから、このまま手ぶらで行っても南さんに会う口実がないことに気がついた。ぼくは所詮、南さんのパシリあるいは奴隷あるいは僕のひとりに過ぎない。それをぼくはちゃんと、自覚していて、そういうところがほかの盲目な奴らとは違う、という自信を持っている。お見舞いに来ましたよ、なんてカーテンを開けようものなら、気持ち悪くって南さんにしたらトラウマものだろう。購買に行こう、それから、ピザパンを届けに来ただけだけれどついでにとかなんとか言って、保健室でふたりきりになるのだ。その先はとくに考えていないけれど、とりあえず南さんと見つめ合うことができれば、それでいいと思った。
結論から言うと、購買に、ピザパンは売っていなかった。購買のおばちゃんは、絶望に打ちひしがれうなだれるぼくを、懸命に励ましてくれたが、ピザパンじゃなきゃいやだいやだと駄々をこねるわけにもいかないぼくは、ただ呆然とするほかなかった。南さんと見つめ合うのは絶望的である、と確信して、とりあえずはソーセージのパンを買った。あとで、自分で食べるつもりだった。南さんのためにピザパンを買わない日は、実に74日ぶりであった。
南さんのところへは行かない、そのつもりで歩いていたはずなのに、いつのまにか保健室の前に立っている。ピザパンを買えなかったことをきちんと謝らなくてはいけないしな、というのがぼくの言い訳だった。言い訳なしには南さんに会うことすらできない自分がかなしく、同時に、それができる彼氏が、しぬほど憎かった。今度会ったら殺してやろう、と二度と来ないような今度のことをシュミレートして、包丁を振り回しながら、保健室の扉に手をかける。こんこん、と控えめに鳴ったノックに、返事はなかった。
「南さん」
カーテンが閉まっているベッドは、ひとつだけだった。そこに手をかけて、一気に引き開ける。真っ白なベッドに、真っ白な体操服の南さんがうずくまっていた。さながら人間界に堕ちてしまった天使、である。南さんは、うずくまって、泣いていた。南さんがこんなにも感情を見せているのを見るのははじめてで、いいようのない胸の高鳴りを覚える。しまった、とは思いながらも、感情も声も押し殺すような泣き方がすごくかわいくて、ぼくは、思わずぼうっとして、南さんの泣く姿を眺めていた。
「坂木くん」
南さんがぼくの名前を呼ぶのを聞くのは、はじめてかもしれなかった。瞬間、ぼくの名字が、なによりも尊いものに変わる。南さんは、顔を上げて、ぼくを見上げた。その目はうるんでいて、長いまつ毛が視界を覆っていて、唇もいつもよりつやめいて見えた。頬もいつもよりは、赤く見える。そういえば、南さんは熱中症になったんだった。大丈夫だろうか、と心配になる。見上げた、そのすぐあとで、図々しくも椅子を引き出して座っていたぼくに、南さんは、腰をひねって上半身を近づけて、両腕を伸ばした。ぼくはそれがなにを意味するのかがわからず、ぼんやりと口を開けたままでいた。無意識に、言葉が口から飛び出す。
「あ、あの、今日は、ピザパン、売ってなくて。す、みません」
「いいよ。そんなの」
南さんは伸ばした両腕をぼくの背後に回して、そのままぎゅう、と抱きしめた。あまりのことに、ぼくは、言葉を失う。失い、宇宙へと放り出される。放り出されぷかぷかと浮かぶ無限の宇宙の上のほうで、女神様がぼくを覗きこんで微笑んでいる。女神様はぼくをそうっと掬い、ふわふわした布団の上へ投げかける。ぽすんとやわらかな音とともにぼくは真っ白いシーツの上に投げ出されて、考える間もなく女神様の白い手がぼくに、触れる。気がつくと、ぼくは、保健室のベッドに横たわっていた。先程から一瞬しか経っていないはずなのに、目を開くと南さんの顔がすぐ近くにある、その状況をよく理解することができない。理解できないまま、南さんの唇が、ぼくのそれに触れて、一瞬、しびれたようにあつくなる。ちゅ、と控えめな音を立てて南さんの唾液がぼくに伝わり、南さんの唇は、想像していたよりずっと、やわらかかった。顔も火照ってきて、もう、なにがなんだかわからなかった。ぼくたちはしばらく、唇をじっと触れ合わせるだけの、キスというよりかはおままごとのようなそれを続けた。南さんはしずかに、泣いていた。
ようやく南さんの顔が離れていったとき、南さんってこんな顔だったっけ、とぼんやりと思った。南さんは勝気そうに口の端で微笑んで、それは、涙をなかったことにするような顔で、ぼくは思わず彼女を抱きしめた。その身体があたたかくて、考えてみればそれは熱中症だったからであるかもしれなかったけれど、そのあたたかさに、これがいのちか、と道徳の授業よりもはっきりと、好きな人のいのちの大切さ、みたいなものがわかった。恥ずかしながらぼくはそこではじめて、南さんは女神でも天使でもなく人間であったことに気がついた。
「南さん」
「わたしね」「わたしね、彼氏とうまくいってなくて。というかもう、別れたくて。自分のことばっかりで、わたしのことなんてこれっぽっちも考えてないの。友達もできないし、どうしてこうなっちゃったんだろうなって、毎日思ってる。へんに僕みたいな男の子がいっぱいいるだけで、なんもたのしくない。でも、坂木くんは違うなって、思うよ。坂木くんがいちばん、わたしのこと、わかってくれてるよね。坂木くんだけだよ、そういうの。坂木くんが高田ちゃんに取られちゃうの、やだなあ。あ、高田ちゃん、坂木くんのこと好きなんだってよ。知ってる? でもわたし、やだから、付き合わないでね。ぜったい」
「坂木くん」
南さんが、ぼくの手を、握る。ふにふにとしてやわらかい手が、好きだと思った。南さんのことが、好きだ、と、ほんとうに思った。南さんだけだ、と思った。坂木くんだけだよ、という言葉は、夢みたいだった。それがほんとうかはわからないけれど、ぼくの気持ちは確かに、ほんとうだった。南さんのことが、なによりも、だれよりも、好きだ。坂木くん。南さんが、顔を寄せる。先ほどのキスが蘇って、ぼくの顔は、みるみるうちに赤くなる。坂木くん。
「好きだよ」
ぼくが頷くと、また、ふたりは引きよせ合って、今度は、やけに生暖かく手ぬるりと人間らしい感触がする、現実的なキスをした。好きだよ。人間である南さんが、繰り返し言う。夢みたいだった。ぼくは目を閉じて、南さんの熱が逃げないように、唇をつよく噛んだ。空調が整っているはずの保健室はいやに暑くて、ふつうにお見舞いなんだからポカリでも買ってきたらよかった、と思いながらぼくは、微睡みはじめる。
「坂木くん」
南さんの声で、目を覚ます。「おはよ」
おはよう、とぼくは返事をする。こりゃなんだか同棲中のカップルのようだぞ、と思ってしまって、落ち着かない。なんとなく生きていてもこんな日が来ることもあるのだな、と希望のようなものがぼんやりとひかる。カーテンを開け、時計を見ると、四時を回っていた。ここに来たのは昼休みだから、と考えると、ぼくはだいぶ長い間、ここで寝ていたようだ。
「坂木くん、悪いんだけど」
「うん?」
「もうすこししたら帰ってほしい。彼が部活の前に、寄ってくれるらしいの」
あ、うん。ぼくは乾いた口で返事をして、ベッドから降りる。南さんは、ぼんやりとした目をしていて、さっきまでの熱は、どこかへ消えてしまったようだった。熱中症のせいで、どこか浮かされていたのか、勝手に浮かれていたぼくが、しょうもなく思えた。
じゃあ。ぼくがカーテンの前で振り返ると、南さんは、うん、と短くて小さい返事をした。それで終わりだった。
保健室を出て、そこから動けずに、しばらく呆然としていると、例の彼氏が、保健室へと入っていくところだった。来てくれたの、と、南さんのはしゃぐような声がする。ぼくは右手に残った、しおしおのソーセージのパンを握りしめながら、階段のほうへ歩く。自然と涙が次々あふれてきて、購買のおばちゃんに抱きしめて欲しい、と心からそう思った。
ぼくは翌日も、その翌日も、そのまたさらに次の日も、南さんにピザパンを買っていくことをやめなかった。相変わらず、中野は、わかっていない。「いつまでやってんだ? それ」高田さんという女子は、ゴミでも見るような目で、ぼくのことを見るようになった。南さんは、あの涙がウソだったかのように、彼氏と腕を組んで歩いている。ぼくは変わらず、南さんのことが好きだ。でも、南さんは女神ではなくなった。女神ではないから、薄命でも清らかでもなんでもなくて、強かなひとりの人間であった。そうであったとしてもぼくは、南さんが好きだ。
ねつ