仁奈子

 手をつないだときの、あついあの感じを覚えていて、わたしはまだあの夜にいるのか、と思う。
「かみさまって、いるんですよ」
 仁奈子が言う。仁奈子の手は、つめたい水の中でもあつくて、すぐにわかった。手繰り寄せるように手を握ると、仁奈子は、うれしそうに笑った。「かみさまって、たとえば?」濡れたセーラー服が重くて、ほんとうは、それどころではなかった。でもきっと最後になるはずの、仁奈子の声をずっと聞いていたくて、わたしの声もずっと聞いていてほしくて、一瞬でも黙ったらすぐにおとずれてきてしまいそうな長い長い沈黙を押し返すように、仁奈子の哲学がはじまった。あまり、興味はなかったけど、黙って死ぬよりはよかった。
「たとえば、死んだばあちゃんとか、そのへんのひとたちが、たぶん、どっかで、見ていて」
「どっかで」
「そうです。だから、あたしたちのことも、見てくれていて」
「救ってくれる、ってわけ?」
 はい、と仁奈子は頷いた。そうか、仁奈子はまだどこかに救いを求めているんだな、と思って、胸がつまるような思いになる。
 冬の海はつめたかった。深いところへ行くにつれ、わたしの体温も仁奈子のそれもだんだん奪われていっているはずなのに、仁奈子の手だけが不思議といつまでも、あたたかかった。それが心地良くて、何度も何度も握りなおす。足のうらに伝わる砂とか、海藻とか、岩とかの感触は思ったよりも気持ち悪くて、第一都会の海はあんまりきれいじゃないのだから、海での心中というのはあんまりいいものじゃないな、と気がついたときには、水面はわたしの首のあたりにあった。
「仁奈子」あたたかい手を両手で包んで、仁奈子に向き合う。仁奈子はわたしより背が低いから、もう口を開いたら水を吸い込んでしまいそうだった。「せんぱい」仁奈子がこたえると、水面に、ぷくぷくと泡が浮かぶ。仁奈子が息ができるように、彼女の身体を抱いて、すこしだけ持ち上げる。身体は、手とは打って変わって、すでに死人になったかのように冷たかった。「それじゃ、死ねないじゃないですか」仁奈子は笑う。こんなにかわいく笑う彼女が死ななくてはならない理由が、わたしには、わからなかった。
「仁奈子」
 仁奈子の身体は軽くて、ちょっと持ち上げたらそのまんま夜空に浮かべて星にすることができそうだった。そうして仁奈子が死んでいくなら、結構、幸せなほうなのに、と思う。海で溺れて死んでしまったから、星になったかなんてわからないし、仁奈子はいなくなって、仁奈子の場所はお墓になって、海といっしょにいたい、と言った彼女の願いはないことになってしまう。
「仁奈子」
 仁奈子が笑うから、わたしも笑おうと口の端を吊り上げる。それがうまくなかったからか、仁奈子はもっとたのしそうに笑った。そろそろわたしたちの身体の体温はほとんど海へ持っていかれてしまうみたいで、だから海はきれいなんですね、あたしたちの熱で輝いているみたいですよ、と仁奈子は嘯いた。
「わたしがかみさまだよ、仁奈子」
 わたしがいうと、仁奈子は、口の端を持ち上げるだけの、笑い方をした。「冗談、へたくそ」
「わたしがかみさまなんだよ、仁奈子。わたしが救ってあげるから、だからね」
 死ぬなんて、やめよう。わたしの言葉を遮って、仁奈子の身体がわたしから離れる。仁奈子がわたしの手を、握る。あたたかくて、そこに灯るひかりのようなものが、わたしには見える。仁奈子はもう星になる、なってしまう、とどこか予感めいたものが駆け抜ける。
「わかります。先輩は、あたしを救おうとしてくれてます。一緒に死ぬなんて、かみさまじゃないとできません。一緒に死のうとしてくれてるんですよ、それだけで、じゅうぶん、救いです」
 仁奈子、違うの、違うの、とわたしは叫ぶ。その声には嗚咽が混じっていて、ほんとうはわたしの声じゃないみたいに聞こえた。
「頭おかしいんですよあたし。だから一緒に死んで欲しいなんて言っちゃったけど」「先輩は死ぬ必要、ないです」「このまま帰って、お風呂入って、美味しいご飯食べてください」「今度はあたしが、先輩のかみさまになって」「めいっぱい、幸せにしてあげるので」
 仁奈子は、ぶくぶくと泡を吐きながら、しゃべった。仁奈子の言っている意味がわからないほど、わたしは泣いて、海水も涙もぜんぶしょっぱくて、海はわたしたちの涙でできている、と本気で思った。
「それじゃあ」
 仁奈子が言って、笑って、それが最後だった。足をすべらせたのか、潜ったのか、なにかに引っ張られたのか、とにかく仁奈子は海中へ沈んで、仁奈子のあつかった手の感触は消えて、わたしは後を追えないままで、泣いた。
 仁奈子がいなくなったあとの海は、やけに静かだった。もともと静かだったけれど、それに気がつかないでいられただけだったかもしれない。仁奈子がいたからだ。仁奈子が、ほんとうはずっと、かみさまだったのだ。
「仁奈子」
 手をつないだときの、あついあの感じを覚えていて、わたしはまだ、あの夜にいる。

仁奈子

仁奈子

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-26

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