平凡な死改訂版総集編
平凡な死
改訂版総集編
死は個人にとっては最期であり、人生最大の事象であろう。、ところが、為政者、権力者にとっては、人民の死などはなんの意味もないのである。先の戦争では戦渦ばかりではなく飢餓や病気で膨大な兵を失わせたばかりか、銃後には、産めよ増やせよと号令したのであった。人一人の死を平凡な死などとうそぶく輩を、断じて許してはならない。
-遺骨-
一九五〇年の盛夏。
亡夫の葬儀を終えて三月ばかりの蒸しかえる夕刻である。
仕事から戻った女がようよう家に辿り着いた。二間の平屋だ。借家である。薄いトタン屋根が灼熱にさらされた余熱を暑くて長い夕べに放出している。紅く厚い唇から熱い息を吐いて、有り合わせの段ボールで作った貧相なポストを見ると、膨らんだ大判の封筒が飛び出している。取り出して裏を見ると、首府の某所と『××研究会』の記載がある。「いったい何かしら?」と、女が大きな瞳を曇らせて眉間に数本の皺を寄せた。全く覚えがない。ほつれ毛が数本、耳元からうなじに張り付いている。青い半袖の脇には汗がおびただしく滲んで、塩の痕跡さえ浮いている。
玄関脇の僅かばかりの隙間の一群れの葵もうなだれていた。その根元に小さな獣の死骸があった。幼い頃に一度だけ見知っていた土竜だ。いつからそこにあったのだろうか。干からび始めているのである。細い針金に変形したミミズをくわえたままに無数の虫に食い散らかされて、土になろうとしているのだ。
子供だましのような鍵を開けて戸を引くと、案の定、狂っようにむせかえる熱気だ。玄関を開け放したまま、慌ただしく粗末な靴を脱ぎ捨てて、豊かな尻を無作法に揺らしながら部屋に入った。
卓袱台にバックと封筒を放り置くと、もどかし気に、シャツのボタンを外し始める。開き終えたシャツを脱ぎ棄てて、紫のブラジャーも取り払って、汗で蒸れる満形の乳房をようやくに解放した。スカートも脱ぎ払うと豊満な身体が現れた。紫の下穿きだけが、はち切れんばかりの肉に弱々しく貼り付いている。
下穿きの端から数本の陰毛がはみ出していた。胸に汗が這っている。掛けてある青色のワンピースに目をやったが、着るのを思い止まった。
放埒な乳房を揺らして、そそくさと台所に向かうと蛇口を捻った。指を驚かす温水があふれ出た。暫く流すと漸く普段の水になったが、未だ気持ちが萎れるほど温い。コップに受けた水を喉をならして飲む。女の肉感的な唇から一条、ニ条が溢れて、首から桃色の胸元を辿った。
勝手口を開けても一向に風はない。タオルを水にさらして絞ると、身体を拭き始めた。汗を吸った脇毛の草むらが姿を現した。
居間に戻った女が南側の窓を開け放った。やはり沈殿した空気は微動だにしない。狭い庭を挟んで、向かいは富農大家の二階家である。幾つかの窓が女に向いてはいるが、相変わらず人気は全くない。
女は卓袱台に座って煙草に火をつけた。吐き出した煙が流れて、その視線の先に、ミカン箱の上に無造作に置かれた骨壺がある。昨日の帰り際に道端で手折った、名も知らぬ花の一輪挿しが寄り添っていた。この異様な陽気に触発されてしまった情念のような彩りだ。女は昨夜の不埒な仕儀を思い起こしてしまうのだった。
やはり、蒸し暑さが収まらない夜半に、いつもとは違う性夢にうなされて目覚めた女は不浄に立った。戻る間際に骨壺が目に入った。夢遊に漂う者の仕草で蓋を取ると一本の骨を拾った。女はそれを布団に持ち帰り、股間に挿入したのである。そして、つい先程まで耽溺していた甘美な夢の記憶を辿ろうとするのだが、思い出せるわけもない。女は昼間の奇っ怪な出来事の記憶を復誦するのだった。
-所長-
『柴萬と磐城の儚』や『原発の女』『原発の儚』の舞台であるF町に隣接するT市の、ある地区の復興事業の為に建られた小さな現場事務所に、男と女は市から詰めているのである。市の職員は二人きりだ。もう三月になる。
男は四十半ば。つい半年前に入庁したばかりだ。男の経歴は誰も知らない。それは取り分けて珍しくはなかった。あの戦争の敗戦から五年しかたっていない。すべての者の過去は不明確であったから、取り立てて詮索しようとする風もない。女も人並みの関心はあったが、敢えて触れるのを憚ったのである。
男は石川という。長身で痩躯である。寡黙というほどではないが、何処となく無頼な暗い影を漂わせている。女は、この男もあの戦争と深く関わってしまったのだと思った。
男は戦前から国家主義思想のある団体の構成員である。この組織の実態は、未だに皆目、明らかではない。 この組織から別れた一団は、戦争中は「コダマ機関」と呼ばれて、半島や大陸で諜報活動で暗躍した。戦後は収集した膨大な情報と引き換えに懲罰を免れる密約を解放軍と交わした。その上で保守政権に近づき暗躍し続けているのである。
最近も、世情を揺るがす程のある事件に関与した男は、当初に計画した通りに暫く潜伏しなければならないのだ。ある国会議員の口利きで、この市の嘱託職員に採用されたのである。
とは言っても、恥ずかしいばかりだが、古希を越えた筆者には時間がない。推理の出来を競っている余裕などはないのである。賢明な諸君は『絹枝の魔性』を既に読まれただろう。
そう、戦後間もなくの北の国で起きた国有鉄道の大脱線事件、あの松山事件の実行首謀者がこの男なのである。お分かりか。従って、この短編は、だから、独立した一編ではないのである。れっきとして『儚』の連作に位置を占める綺談なのだ。そうと確認を頂ければ、さて、筆を進めようではないか。
男は単に身を隠したばかりではない。ある時にたまたま赤芽子を見知って、恐るべき利用価値を見いだした男は、この機会を利用して、この女を籠絡する計画を企んだのである。その筋書に添って、この市が男の潜伏先に選ばれたのであり、この現場事務所に女が配置されたのは、全てが男の、即ち、この組織の差し金であった。
男は、全てにわたって周到に罠を仕掛けていた。女の生い立ちはくまなく調査されている。女の家までも、既に、男によって造作もなく探索されていたのであった。
だから、下着のありかばかりか、秘匿した不義の手紙迄が暴露されており、女の個性や習癖のあらかたは把握されてしまっていたのだ。
-饗宴-
事務所には建設会社の現場責任者が出入りする。若い者も多い。必定、いかがわしい雑誌などを持ち込む。だが、男は禁じなかったばかりか、ある時に女がそうした雑誌を読んでいるのを目撃してからは、いっそう卑猥な、いわゆるエログロ誌を密かに紛れ込ませていた。女から特段の疑義の申し立てがある筈もなかった。
ある日、事務所に向かいながら、幾多の修羅場を踏んで獣に似た感覚が身についた男が胸騒ぎを感じた。少し離れた道端に停車して、密かに事務所に近づいた。
案の定、女は粗末なソファに座って雑誌を読んでいる。
普段から取り立てて仕事があるわけでなし、特に今日辺りは盆の入りで業者が一斉に休暇に入っており、いかに役所の事情といえ、事務所を開けること自体が不自然なのだ。
女が長い息を吐いて傍らの茶をすすった。入り口に目をやるが、そこには誰もいない。反対側の窓の陰に男は身を潜めているのである。
女が立ち上がってパンティを脱ぐと青紫だ。事務机に行き引き出しに潜めた。戻ってソファに身体を仰臥させると、改めて雑誌を読み始めた。
すると、忽ち青いスカートをめくったのである。桃色の豊かな太股に続いて股間までが明らかになった。男が息をのむ。
女が身体を反らして指を噛んだ。
女の狂騒が終った。男は車に戻って備えたウィスキーを飲みながら煙草を数本吸った。
-ドラム缶-
その朝、だいぶ遅れてきた男は開け放しの入り口から入ってくると、女の机に箱を置いて、「寸志だそうだ。乾麺らしいから昼に茹でて下さい。あとは持って帰ればいい」未だ上気の解けていない女が、「訳のないものなど頂けませんわ」と、抗う。「この前、ここに来て、工事の苦情を散々に言っていた戦争後家がいたでしょ?」「四十がらみの色っぽい方ですか?」「そうだ。その女からの寸志ですよ」「あの事案は解決したんですか?」「朝駆けして農作業を手伝ったら許してくれたよ」「体を張ったんですね」「まあ」「農作業だけですか?」「厄介な女の扱いは所長さんの得意の分野なんですか?」と、皮肉がこもる。
「とにかく、暑くて堪らん」と、ぼやきながら今日の予定を聞く。女が手短に答えると、「明日は休みだし久方ぶりに暢気なもんだ」と、言い残した男は、飲みかけのウィスキーの瓶を手に外に出ようとする。
資材がうず高く積まれた一隅に置かれたドラム缶に水を注ぎながら、男はウィスキーを飲むのである。駐留軍から横流しされた上等なスコッチだ。女は事務所の机でそれを知りながら、咎めることなどには考えも至らない。下請けの建設会社の幹部も含めて、この酷暑には日頃の出来事なのである。
水が満ちると裸になり、男はドラム缶に身を沈めた。
暫く時がたった。そして、この日に限って男が女の姓を呼んだのである。
女が緩慢に歩み寄ると、男が思い付いたごとくの風情で、最近に指示しておいた業務の結果を求めた。女が簡明に答えると、「それでいい。完璧だな。まさに掃き溜めに鶴ですよ」怪訝ぶる女に、「あなたなどの人はこんな作業場にいるにはもったいなさ過ぎるんだ」「お上手ばっかり」「冗談なんかじゃない。本心ですよ」
男が立ち上がる。女の目に陰毛とただならぬ陰茎が飛び込んできた。男が積み荷の上に置いた煙草を引き抜いて火をつけた。上等な外国煙草だ。女に勧める。こんな高級煙草は見たこともない女は、「頂きます」と、遠慮もせずに煙を燻らす。
女の脳裏から垣間見た男の隆起が離れない。その男がウィスキーを勧める。女が含んだ。
「労働組合の役員だと聞いたが?」「持ち回りですわ」「そうかな?なかなかの理論家だとの噂も聞きましたよ」「公務員などは何でも大袈裟に理論武装をするんです。習性ですわ」「そういうものですか」
女がウィスキーを含んで、「所長さんの噂も引きを切りませんよ」と、女が水を向ける。男もウィスキーを含んで、「ほほう。どんな非難かな」と、冗談のつもりが瞳は険しい。女が頭を振って、「そんなんじゃありません。評判はすこぶるよろしいですよ」「聞きたいな?」
「公務員にはいないタイプで…。噂ですよ。」「遠慮なくどうぞ」「どことなく無頼な空気を漂わせて…。あの戦時の空気を放っているような…。これは私の感想です」「ある種、的確ですね」「豪放だが繊細、辣腕。ありきたりですわね?」「役人雀が一番知りたいのは所長さんの過去ですわ」男がウィスキーを飲んだきり答えない。気まずさに耐えきれずに、「市長とも昵懇…」「あなたこそ、本庁はおろか、市長の政務秘書でもやらせてみたいくらいだ」と、唐突に遮った。「性務ですか?」仕方ない女が軽口で返す。苦笑しながら、「そうだな。あんなどスケベのひひ爺などはお断りか」と、はぐらかして、「ところで、事務所は暑いでしょ?よく我慢できるますね?」「もう慣れましたから」
「この行水は思ったよりも快適なんだ。あなたも遠慮せずに入ればいい」「見せるほどの身体はしてませんから」「本当に入るんだったら、囲いなどはすぐに作りますよ」
-寡婦-
「後家さんはどうでした?抱いたんでしょ?」「聞きたいんですか?」女が曖昧に頷く。
「据え膳はなんとやら、ですからね」「美味しかったですか?」「上等のお膳でしたよ。女もあの年頃が適当に熟して。食べごろなんだな。でも…。最後まではしていませんよ。侵入はしなかったという事です」「どうして?」「今ではこういう立場だし。最悪の場合は言い逃れも成立しますからね。何せ、誘ったのは先方なんだから」「それだけかしら?」「あなたには負けたな。そうですよ。邪魔が入って。親戚の方が訪ねてきたもんだから」「御愁傷様でした」
男が煙草に火を点けて、「…人生なんて、そんなものですよ」「それでそんなに元気なんですか?」「何が?」と、男がとぼける。「さっきの。ご立派だわ」「失礼しました。子供の頃、混浴の温泉で育ったものだから。不用心でした」と、ありもしない言い訳を吐いた。女がウィスキーを含んだ。
「どこで?」と、呟くように女が言った。「畑ですよ」「訪ねたら、戸は開け放しなんだが、女がいない。独り暮らしと聞いていたから、大声で呼んだんだ」「暫くしたら、畑から声が返ってきた」
男の口調が変わった。「声の元に行くと、女が畑の整理をしていたんだ」「俺は黙って手伝い始めた。女も何も言わない。小一時間ほどたったら、女がお茶に誘うんだ」
「あなたもしたくなったのかな?」「何を?」「交接だよ」「何を言ってるんですか?上司と部下ですよ」「駄目かな?」「怖い奥さんもいるんでしょ?」「独りだよ。あなたもだろ?」女が頷く。
「さぞかし自慢な逸物なんでしょうね?」「俺のか?」女が唇を舐める。「確かめてみたいか?」
「寂しいだろ?」「まあ」「身体だよ?」「疼くだろ?」「そんな歳じゃないわ」「何を言ってるんだ。一番の女盛りじゃないか?」
-硬直-
読者諸兄はかくの如きの場面の描写に違和感を感じているだろうか。で、あるなら、些か物語の意図を明かしたい。
勿論、石川の腹は赤芽子の籠絡である。赤芽子の自慰の場面を盗み見て確信して、拍車がかかったのであった。
女の場合は重要な背景があった。赤芽子は筋金入りの無政府主義者なのである。市役所の労働組合の影の女帝とも囁かれる女傑なのだ。その身辺で不可思議、不可解、不条理な事件が相次いだ。女は夫の事故死を謀殺だと確信をして、真相の探求と復讐を誓っていた。そこに、いかにも謎の雰囲気を隠しきれない男か現れたのである。組合の調査で男の背後にいる国会議員も突き止めていた。産別本部に男の身辺調査を依頼もしていた。何よりも、先程の自慰は男の気配を察した女が自ら仕掛けた罠だったのである。
だから、この場のこの所業は、女が身体を投げうって為す、真実解明のための手段に過ぎないのであった。
「所長?」女が沈黙を破った。「凝ってるんじゃないですか?」「活躍してきたんでしょ?」「活躍?」「そこよ」と、視線を投げる。「そうだな。だいぶ凝ってるな」 「上司が疲れてるんだもの。部下としては…。揉み療治をしてあげましょうか?」「いいのか?」「治療だもの」と、女がドラム缶の中に手を入れて股間を握った。
揉みながら、「やっぱり、ひどく凝ってるわ」「どんな具合なんだ?」「凄く固いわ。コチコチよ」「あの女が随分と使ったからな」「どんな風に?」「これが好きな女でね。散々に弄ばれたんだ」「こうかしら?」「そうだ」「この凝りを取るのは大変だわ」「どれくらいかかるかな?」「そうね。きっと、長丁場になるわ」
「えらく上手いな?」「そうかしら?」「旦那が亡くなって…。三月か?」「早いものですね」「凄い事故だったらしいな?」「まあ」
「不思議な噂を聞いたんだが?」「何ですか?」「ご亭主のが立っていたと言うのは本当か?」「何が?」「亡くなったご亭主のが勃起していたというんだ」「知りたい?」男が頷く。「いいわよ。本当だわ」
「驚いたでしょ?急迫海綿体膨張という症状だと聞いたわ。珍しい症状だって」
「それから…」「何?」「通夜の夜に遺体としたらしいという噂もあるんだ」「聞きたいの?」「したわよ」「驚いた?詳しく聞きたいんでしょ?」「何も不思議じゃないでしょ?夫婦の最後の別れだもの。手を握ったり頬ずりしたりするでしょ?」「そうだな」「たまたまそんな症状だったし。誰もいなかったから。そんな別れをしただけなんだわ」
-再会-
一九五〇年の盛夏の日曜日である。正午に近い。赤芽子アキコはトロッコ列車の終点の鬼沢の展望台に、一〇人ほどの乗客の最後に降り立った。出がけは薄曇りで小雨模様の上に、異様に蒸し暑い陽気だったが、鬼山の中腹のここは快晴だ。遥かな海を渡りきって吹き上がってくる南風が女の髪を梳いでいる。
展望がきく。赤芽子が住むF町の塊が眼下の遥かに霞んでいる。塊の北端を東西に貫いて朧に煌めいている一条が、この山を源にする黒磐クロイワ川だ。
「来て良かった」赤芽子は声に出して呟いた。乗客達は二つあるハイキングのルートにそれぞれが散って行く。
真ん前に山小屋風の小さな売店があった。そこの木製のベンチにあの男を見かけたのである。
女がおずおずと声をかけた。「火見川のおじさんじゃありませんか?」
男は煙草の手を止めて顔を向けて、「そうですが。あなたは?」女の頬が弛んで、「覚えがありませんか?」「さて。あなたのような妙齢で妖艶な方に知り合いはないんだが」「相変わらず、難しい修辞をなさるのね?子供のころはさっばり理解できなかったのよ」男の眉間に二本の縦シワが現れた。
「無理もないわ。ニ八年も前の話だもの」「ニ八年?」男が遥か彼方の過去を一挙に引き寄せる。
「あの時の私だわ」「聖護さんなんでしょ?未だわからない?」男のあの頃と殆ど変わらない端正な表情が、驚きと躊躇いとに変わって、「赤芽ちゃん?赤芽子さんなんですか?」と、掠れた声を絞り出した。「はい」「まさか。文字に書いた奇跡のようだ」
方角も確認せずに歩き始めながら、「どうして、ここに?」「昨夜、夢を見たんだ。すると、あの頃のことをありありと思い起こしてね。何となく訪ねてみたんです。まさか、君に、赤芽ちゃんに会えるとは…」「私も。三日前に。あの夢が正夢になったんだわわ。こんな事って、初めてだわ」
「あそこまで登ってみたいわ。そうなんでしょ?」男が頷いた。すると、「夫婦岩」という標識が立つ奇岩に差し掛かると、女が脇道にそれて、正規のルートではない細い山道を登り始める。男が続く。
「大きなお尻でしょ?」男は答えない代わりに、「結婚は?」「していたわ」「していた?」「他界してしまって…」「半月になるわ」「聖護さんは?」「一人だ」「あれから?」
-漁師小屋-
小一時間も歩いて、「ここら辺ね?猟師小屋があったのは…」「この大木に見覚えがあるもの」女の息が乱れて、首筋に汗が吹き出ている。そこには、山毛欅ブナの大木が天空を仰いでいた。「ここに耳を当てて水の吸いあがる鼓動を聞いたんだわ」「そうだったな」
二人はリュックを下ろして、それぞれが水筒を取り出した。女は麦茶、男は水だ。男が半分に折ったチョコレートを女に渡す。
「珍しいわ。高級そう」「駐留軍から流れたものだよ」
「ニ八年前よ」「その猟師小屋で私達は一夜を過ごしたのよ」「私が一〇歳の時よ。あなたはニ三ね。覚えてる?」「すっかり忘れてしまったのね?」
「そんな事はない」「あら?覚えていたの?」「あの事を忘れた事などない」「そうだったの」
「あの時は母の集まりで。一〇人ほどでキノコ採りに来たんだわ。連休にオニ神社の奥の山塩の温泉に一泊しながら。次の朝からこの山に入って。いつの間にかあなたと二人きりになっていたんだわ。そしたら、あの衝撃の場面に出会って。そうだったわね?」
-稲妻
「ここに粗末な猟師小屋があって。悩ましい声が聞こえて。覗いたんだわ。そしたら、青いワンピースの女と…」「そうだった。俺達のグループではなかった」「二人が立ち去ると、私達は猟師小屋に入ったわ。じきに雷が鳴ったかと思ったら、大粒の雨が落ちてきて。豪雨になって。弾丸みたいな見たことのない雹も叩きつけて。小屋に閉じ込められてしまったんだわ」
「煙草を吸うあなたがライターを持っていたから。火を焚いて。夜は随分と冷えたんだけど。あの時も、あなたはチョコレートをポケットから出しだんだわ。まるで、手妻使いみたいだった。だから、助かったんだわ。次の日の昼頃に発見されたのよね?」「そうだった」
「救出されて、しつこく聞かれたけど。あなたとのあの事は何も言わなかったわ」「今まで誰にも言った事はないわ。夫にもよ」
-公タカ-
「あの時、あなたにも言わなかったけど。温泉宿に泊まった深夜に、私は見ていたのよ」「混浴の大浴場で、あなたと母が抱き合っていたんだわ。忘れてしまった?」「覚えている」
「目が覚めたら隣の母がいないから大浴場に行ったら。あなた達が…」「そうだったのか」「だから、次の日はあなたにまとわりついて。二人きりになるように仕組んだんだもの」「一〇歳の子供がか?」「そうよ。あの時だってあなたもわかったでしょ。もう、立派な女だったのよ」
赤芽子の母の公タカは、『儚』の連作にしばしば登場する副総統のあの廣山の愛人だった。愛人といっても経済の援助を受けていた訳ではなく、大学時代からの縁だったが、政治の世界に入った男が勝手に政略結婚をしてしまっただけのことだった。公は女学校の英語教師で自立した女だった。
先祖はアイズでボシン戦争の残党だ。トナミ藩に移封された後に上府していたが、公は親戚の縁でF市に教職を得たのである。公は無政府主義者だった。赤芽子は廣山には会ったこともない。
では、赤芽子の父親は誰なのか。公はついに明かさなかったのである。
-削除-
「ワンピースの女のも凄かったわね」「そうだったな」「前で私が見ていたんだわ。そしたら、後ろのあなたのが…」「私がせがんだのよ」「母にしている様に私にもしてって、言ったわ。そうでしょ?」「そうよ。あなたは黙ったまま何もしなかった」「私があなたに抱きついてキスをしたの。そうでしょ?」「それでもあなたはしなかった」「だから、チャックを開けて。あなたのを引き出して。母がしてた様に。そうでしょ?」
ここで、賢明な読者諸氏には詫びなければならない。何故なら、初稿、即ち、ニ〇一五年の記述では、この後に延々と詳細な描写が続いたのである。
当時は、それが意味あるものと考えたのであろうか。或いは、何物かに取りつかれた筆が暴走したのだろうか。言い訳のあげくに責務を放棄する腹積もりなど一片もないが、今となっては一気に削除するばかりなのである。
訳は判然としないが、自分の書いた文章にも拘わらず嫌悪が湧いたりするのだ。古稀を過ぎたからでもあろうか。只今の生理には重すぎて粘着に過ぎるのである。
そういう心境だから、今般の大掛かりな推敲に当たっては、本編に限らず削除の限りを尽くした。悪しからず心置き願いたい。
-赤芽子-
戦後間もない、一九五〇年の盛夏のF町である。
赤芽子アキコという女は三八歳。隣接するT市の市役所に勤めている。市役所の労働組合の役員だ。
半年前に夫を亡くした。四〇だった。夫は若い時から無政府主義者である政党に所属していて、あの戦争に反対し、逮捕されたりもしていた。釈放されてからは内部からスパイを疑われて孤立したりもした。或いは、党の内部抗争に巻き込まれて陰鬱な人生を送った。戦後は離党して、文筆家としてささやかに暮らしていたが、半年前に岬の断崖から転落死したのであった。事故として処理されたが、赤芽子は謀殺を疑った。だが、夫は活動や執筆の話を話題にすることはなかったから、女一人の疑念は妄想の彼方をさ迷うばかりなのであった。
夫の死の直後に母から引き継いだ狭い家が全焼した。赤芽子は出掛けていたから事なきを得たが、亡夫の書籍や膨大な資料や書きためた原稿などは全て焼失してしまったのである。失火の形跡は認められずに不審火として記録されたから、ある集団に対する赤芽子の疑念はますます増したのであった。
赤芽子は今の借家に移った。 富裕な農家の六ニの農夫が大家であったが、越して直ぐにからまとわりついてきた。
間もなく、この大家が台風で増水した黒磐川に転落して死んだのである。三月前の事だ。
-火見川-
「あなたは、今、何をしているの?」「今は話せない」「どうして?」「戦争が終わって、未だ間がないだろ?」
敏感に何かを察した女が、「戦争中は?」「大陸にいた」「やっぱり、中学の?」「教師は辞めたんだ」「だったら?」
すると、男が声を沈めて「赤芽ちゃん?秘密を守れるかい?」「こんな私を疑っているの?あなたが初めての男なのよ」
男が話を継いだ。「幾度かの情愛は交わしたが、公さんの心底が俺などには留まっていないとわかってしまったんだ」「あの頃、度々訪ねてきたおじ様達が何人かいたもの」「文士の男だよ」「黒い着流しに黒縁メガネの?」「そう。その男に公さんの心は根こそぎ奪われていたんだ」「どんな人だったの?」「良くはわからないが。無政府主義者で官憲から追われていたらしい。御門を批判したり、性を用いてあからさまに揶揄する文章を地下文学で書いていたらしい」「性?」「男女の性の生々しい描写だよ。それを御門批判でも露骨にしたんだ」「風紀紊乱なとどいう程度のものじゃない。不敬罪はおろか国家反逆の大罪に、あの男は挑戦していたんだよ」
「『儚』でしょ?」「知ってるのか?」「私の今の仕事が隣の市の正史の編纂なの。文化担当だから。郷里の文学者の調査であの本が浮かび上がったの」「『不在の儚』という題名よ。でも、現物の書籍は未だ発見されていない。読んだという人の証言が二人きりよ。私家版だったから散失してしまったんだわ」「今、その人から聞いた内容を文章に起こしている中途なのよ。やっぱり、衝撃的な綺談みたいだわ」「『儚』は複数の著者によって書き継がれている説もあるんでしょ?」男が頷く。「作者があのおじ様なのかさえ霧の中なんだもの」「確か、草幻といっていた。勿論、ペンネームだろうが…」
「公さんの心底がわかってしまったこの上は、こんな国に存在する意味もないと決断したんだ」「半島を経て、終いには大陸の植民地の深奥にまで辿り着いてしまった」「大河を挟んだ対岸は大陸本国だからあらゆる情報が集積していたんだ」「何をしていたの?」「だから、情報に関する仕事だよ」「今は?」「似たようなことだよ。小さな出版社に席を置いている」「住まいは?」「首府だ」「夢を見てわざわざ来たの?」「十日前から出張なんだ。明日、帰る」
-手紙-
記憶の反芻から醒めた女が、思わず封筒に視線を落とした。 「そうだったわ。こんな郵便物が届いていたんだわ。全く心当たりはないんだけど。いったい、何かしら?」と、改めて怪訝な思いで封を切って、逆さにすると、棒状の物と数葉の写真がこぼれ落ちて、突然に裸体の場面が飛び込んできた。
女が写真を卓袱台に広げて、「いったい、これは何なの?」と、見入る。一枚を手に取った。モノクロだ。挿入の場面である。股間に陰茎が半分ばかり挿入している。どちらにも陰毛が繁茂している。赤芽子が唾を飲み込んだ。もう一枚に視線を移す。
筒状の物が紙にくるまれている。その紙を破ると、出てきたのは性具である。
文書も入っていた。
『異様ばかりの盛夏の候、革命の噂など飛び交い政情不安のますます極まる折り、賢明なる皆様には御健勝で御過ごしでしょうか。
さて、無謀無知なるがゆえに開戦し破れ去った戦争がもたらした無惨な真実、悲惨な戦争寡婦の皆様の、果つることもなき夜毎の悲哀を、ふたごころなく慰撫するために、弊社の技術陣が叡知の総力を絞り上げて、世界に互して開発した最新の試作品でございます。何言おう、私自身が寡婦でありますから、心身にわたる苦悩を皆様と共に分かち合いたいと存じます。
宜しくご試用下さい。尚、同封の写真は些細な心積もり。
また、同封の用紙にて感想をご記載の上、同封の封筒にて投函下さい。ご返答なき場合は照会する機会が御座いますので御留意下さいませ。 かしこ』
(続く)
平凡な死改訂版総集編