平凡な死2️⃣
平凡な死2️⃣
-再会-
一九五〇年の盛夏の日曜日である。正午に近い。赤芽子アキコはトロッコ列車の終点の鬼沢の展望台に、一〇人ほどの乗客の最後に降り立った。出がけは薄曇りで小雨模様の上に、異様に蒸し暑い陽気だったが、鬼山の中腹のここは快晴だ。遥かな海を渡りきって吹き上がってくる南風が女の髪を梳いでいる。
展望がきく。赤芽子が住むF町の塊が眼下の遥かに霞んでいる。塊の北端を東西に貫いて朧に煌めいている一条が、この山を源にする黒磐クロイワ川だ。
「来て良かった」赤芽子は声に出して呟いた。乗客達は二つあるハイキングのルートにそれぞれが散って行く。
真ん前に山小屋風の小さな売店があった。そこの木製のベンチにあの男を見かけたのである。
女がおずおずと声をかけた。「火見川のおじさんじゃありませんか?」
男は煙草の手を止めて顔を向けて、「そうですが。あなたは?」女の頬が弛んで、「覚えがありませんか?」「さて。あなたのような妙齢で妖艶な方に知り合いはないんだが」「相変わらず、難しい修辞をなさるのね?子供のころはさっばり理解できなかったのよ」男の眉間に二本の縦シワが現れた。
「無理もないわ。ニ八年も前の話だもの」「ニ八年?」男が遥か彼方の過去を一挙に引き寄せる。
「あの時の私だわ」「聖護さんなんでしょ?未だわからない?」男のあの頃と殆ど変わらない端正な表情が、驚きと躊躇いとに変わって、「赤芽ちゃん?赤芽子さんなんですか?」と、掠れた声を絞り出した。「はい」「まさか。文字に書いた奇跡のようだ」
方角も確認せずに歩き始めながら、「どうして、ここに?」「昨夜、夢を見たんだ。すると、あの頃のことをありありと思い起こしてね。何となく訪ねてみたんです。まさか、君に、赤芽ちゃんに会えるとは…」「私も。三日前に。あの夢が正夢になったんだわわ。こんな事って、初めてだわ」
「あそこまで登ってみたいわ。そうなんでしょ?」男が頷いた。すると、「夫婦岩」という標識が立つ奇岩に差し掛かると、女が脇道にそれて、正規のルートではない細い山道を登り始める。男が続く。
「大きなお尻でしょ?」男は答えない代わりに、「結婚は?」「していたわ」「していた?」「他界してしまって…」「半月になるわ」「聖護さんは?」「一人だ」「あれから?」
-猟師小屋-
小一時間も歩いて、「ここら辺ね?猟師小屋があったのは…」「この大木に見覚えがあるもの」女の息が乱れて、首筋に汗が吹き出ている。そこには、山毛欅ブナの大木が天空を仰いでいた。「ここに耳を当てて水の吸いあがる鼓動を聞いたんだわ」「そうだったな」
二人はリュックを下ろして、それぞれが水筒を取り出した。女は麦茶、男は水だ。男が半分に折ったチョコレートを女に渡す。
「珍しいわ。高級そう」「駐留軍から流れたものだよ」
「ニ八年前よ」「その猟師小屋で私達は一夜を過ごしたのよ」「私が一〇歳の時よ。あなたはニ三ね。覚えてる?」「すっかり忘れてしまったのね?」
「そんな事はない」「あら?覚えていたの?」「あの事を忘れた事などない」「そうだったの」
「あの時は母の集まりで。一〇人ほどでキノコ採りに来たんだわ。連休にオニ神社の奥の山塩の温泉に一泊しながら。次の朝からこの山に入って。いつの間にかあなたと二人きりになっていたんだわ。そしたら、あの衝撃の場面に出会って。そうだったわね?」
-稲妻
「ここに粗末な猟師小屋があって。悩ましい声が聞こえて。覗いたんだわ。そしたら、青いワンピースの女と…」「そうだった。俺達のグループではなかった」「二人が立ち去ると、私達は猟師小屋に入ったわ。じきに雷が鳴ったかと思ったら、大粒の雨が落ちてきて。豪雨になって。弾丸みたいな見たことのない雹も叩きつけて。小屋に閉じ込められてしまったんだわ」
「煙草を吸うあなたがライターを持っていたから。火を焚いて。夜は随分と冷えたんだけど。あの時も、あなたはチョコレートをポケットから出しだんだわ。まるで、手妻使いみたいだった。だから、助かったんだわ。次の日の昼頃に発見されたのよね?」「そうだった」
「救出されて、しつこく聞かれたけど。あなたとのあの事は何も言わなかったわ」「今まで誰にも言った事はないわ。夫にもよ」
-公タカ-
「あの時、あなたにも言わなかったけど。温泉宿に泊まった深夜に、私は見ていたのよ」「混浴の大浴場で、あなたと母が抱き合っていたんだわ。忘れてしまった?」「覚えている」
「目が覚めたら隣の母がいないから大浴場に行ったら。あなた達が…」「そうだったのか」「だから、次の日はあなたにまとわりついて。二人きりになるように仕組んだんだもの」「一〇歳の子供がか?」「そうよ。あの時だってあなたもわかったでしょ。もう、立派な女だったのよ」
赤芽子の母の公タカは、『儚』の連作にしばしば登場する副総統のあの廣山の愛人だった。愛人といっても経済の援助を受けていた訳ではなく、大学時代からの縁だったが、政治の世界に入った男が勝手に政略結婚をしてしまっただけのことだった。公は女学校の英語教師で自立した女だった。
先祖はアイズでボシン戦争の残党だ。トナミ藩に移封された後に上府していたが、公は親戚の縁でF市に教職を得たのである。公は無政府主義者だった。赤芽子は廣山には会ったこともない。
では、赤芽子の父親は誰なのか。公はついに明かさなかったのである。
-削除-
「ワンピースの女のも凄かったわね」「そうだったな」「前で私が見ていたんだわ。そしたら、後ろのあなたのが…」「私がせがんだのよ」「母にしている様に私にもしてって、言ったわ。そうでしょ?」「そうよ。あなたは黙ったまま何もしなかった」「私があなたに抱きついてキスをしたの。そうでしょ?」「それでもあなたはしなかった」「だから、チャックを開けて。あなたのを引き出して。母がしてた様に。そうでしょ?」
ここで、賢明な読者諸氏には詫びなければならない。何故なら、初稿、即ち、ニ〇一五年の記述では、この後に延々と詳細な描写が続いたのである。
当時は、それが意味あるものと考えたのであろうか。或いは、何物かに取りつかれた筆が暴走したのだろうか。言い訳のあげくに責務を放棄する腹積もりなど一片もないが、今となっては一気に削除するばかりなのである。
訳は判然としないが、自分の書いた文章にも拘わらず嫌悪が湧いたりするのだ。古稀を過ぎたからでもあろうか。只今の生理には重すぎて粘着に過ぎるのである。
そういう心境だから、今般の大掛かりな推敲に当たっては、本編に限らず削除の限りを尽くした。悪しからず心置き願いたい。
-赤芽子-
戦後間もない、一九五〇年の盛夏のF町である。
赤芽子アキコという女は三八歳。隣接するT市の市役所に勤めている。市役所の労働組合の役員だ。
半年前に夫を亡くした。四〇だった。夫は若い時から無政府主義者である政党に所属していて、あの戦争に反対し、逮捕されたりもしていた。釈放されてからは内部からスパイを疑われて孤立したりもした。或いは、党の内部抗争に巻き込まれて陰鬱な人生を送った。戦後は離党して、文筆家としてささやかに暮らしていたが、半年前に岬の断崖から転落死したのであった。事故として処理されたが、赤芽子は謀殺を疑った。だが、夫は活動や執筆の話を話題にすることはなかったから、女一人の疑念は妄想の彼方をさ迷うばかりなのであった。
夫の死の直後に母から引き継いだ狭い家が全焼した。赤芽子は出掛けていたから事なきを得たが、亡夫の書籍や膨大な資料や書きためた原稿などは全て焼失してしまったのである。失火の形跡は認められずに不審火として記録されたから、ある集団に対する赤芽子の疑念はますます増したのであった。
赤芽子は今の借家に移った。 富裕な農家の六ニの農夫が大家であったが、越して直ぐにからまとわりついてきた。
間もなく、この大家が台風で増水した黒磐川に転落して死んだのである。三月前の事だ。
-火見川-
「あなたは、今、何をしているの?」「今は話せない」「どうして?」「戦争が終わって、未だ間がないだろ?」
敏感に何かを察した女が、「戦争中は?」「大陸にいた」「やっぱり、中学の?」「教師は辞めたんだ」「だったら?」
すると、男が声を沈めて「赤芽ちゃん?秘密を守れるかい?」「こんな私を疑っているの?あなたが初めての男なのよ」
男が話を継いだ。「幾度かの情愛は交わしたが、公さんの心底が俺などには留まっていないとわかってしまったんだ」「あの頃、度々訪ねてきたおじ様達が何人かいたもの」「文士の男だよ」「黒い着流しに黒縁メガネの?」「そう。その男に公さんの心は根こそぎ奪われていたんだ」「どんな人だったの?」「良くはわからないが。無政府主義者で官憲から追われていたらしい。御門を批判したり、性を用いてあからさまに揶揄する文章を地下文学で書いていたらしい」「性?」「男女の性の生々しい描写だよ。それを御門批判でも露骨にしたんだ」「風紀紊乱なとどいう程度のものじゃない。不敬罪はおろか国家反逆の大罪に、あの男は挑戦していたんだよ」
「『儚』でしょ?」「知ってるのか?」「私の今の仕事が隣の市の正史の編纂なの。文化担当だから。郷里の文学者の調査であの本が浮かび上がったの」「『不在の儚』という題名よ。でも、現物の書籍は未だ発見されていない。読んだという人の証言が二人きりよ。私家版だったから散失してしまったんだわ」「今、その人から聞いた内容を文章に起こしている中途なのよ。やっぱり、衝撃的な綺談みたいだわ」「『儚』は複数の著者によって書き継がれている説もあるんでしょ?」男が頷く。「作者があのおじ様なのかさえ霧の中なんだもの」「確か、草幻といっていた。勿論、ペンネームだろうが…」
「公さんの心底がわかってしまったこの上は、こんな国に存在する意味もないと決断したんだ」「半島を経て、終いには大陸の植民地の深奥にまで辿り着いてしまった」「大河を挟んだ対岸は大陸本国だからあらゆる情報が集積していたんだ」「何をしていたの?」「だから、情報に関する仕事だよ」「今は?」「似たようなことだよ。小さな出版社に席を置いている」「住まいは?」「首府だ」「夢を見てわざわざ来たの?」「十日前から出張なんだ。明日、帰る」
-手紙-
記憶の反芻から醒めた女が、思わず封筒に視線を落とした。 「そうだったわ。こんな郵便物が届いていたんだわ。全く心当たりはないんだけど。いったい、何かしら?」と、改めて怪訝な思いで封を切って、逆さにすると、棒状の物と数葉の写真がこぼれ落ちて、突然に裸体の場面が飛び込んできた。
女が写真を卓袱台に広げて、「いったい、これは何なの?」と、見入る。一枚を手に取った。モノクロだ。挿入の場面である。股間に陰茎が半分ばかり挿入している。どちらにも陰毛が繁茂している。赤芽子が唾を飲み込んだ。もう一枚に視線を移す。
筒状の物が紙にくるまれている。その紙を破ると、出てきたのは性具である。
文書も入っていた。
『異様ばかりの盛夏の候、革命の噂など飛び交い政情不安のますます極まる折り、賢明なる皆様には御健勝で御過ごしでしょうか。
さて、無謀無知なるがゆえに開戦し破れ去った戦争がもたらした無惨な真実、悲惨な戦争寡婦の皆様の、果つることもなき夜毎の悲哀を、ふたごころなく慰撫するために、弊社の技術陣が叡知の総力を絞り上げて、世界に互して開発した最新の試作品でございます。何言おう、私自身が寡婦でありますから、心身にわたる苦悩を皆様と共に分かち合いたいと存じます。
宜しくご試用下さい。尚、同封の写真は些細な心積もり。
また、同封の用紙にて感想をご記載の上、同封の封筒にて投函下さい。ご返答なき場合は照会する機会が御座いますので御留意下さいませ。 かしこ』
(続く)
平凡な死2️⃣