原発の儚3️⃣

原発の儚3️⃣


-公安-

 奥崇は家に戻った。妻は驚いたがそれ以上ではない。
 奥崇は首府で青柳の事務所に寄宿していた折りに、あのシラオイアイヌの和一郎と友誼を得て、青柳の仲立ちで兄弟分の杯を交わしていた。即ち、奥崇は青柳と親子の杯も交わしていたのである。その縁である男への紹介状を預けられていた。

 ある男とはF県に隠然たる力を振るう副総統廣山の秘書の相馬である。廣山は、今までも『儚』の連作に度々登場した。田山の宿敵であり総統候補と目された時節もあった。草也謀殺の首謀者と疑われている。廣山は戦後、保守党再建の中心人物の一人であり、コダマ機関の兒玉とは盟友であり、駐留軍とも内通していて松山事件の関与も、著者は疑っているのである。その実行者の一人が『平凡な死』の、未だ名前が明かされない所長である。

 奥崇が日を経ずに相馬を訪ねると、警察官の試験を受けさせられて、瞬く間に任官の運びになった。任地は家から離れていたが、単身赴任は奥崇にとっては、むしろ、好都合だった。僅かばかりでも田畑がある。畢竟、意には添わないが妻が手をかける以外にはない。だが、奥崇の報告を聞いた妻は、存外に容易く納得したのである。女も男と同じ思いであったのか、或いは、それ以上に男との縁が疎ましかったのか。

 一五年後のその日、奥崇は本部の公安の部署にいた。治安の中枢であの忌まわしい事件の時効を迎えたのである。妻はささやかに家を守っているが、今となっては戸籍ばかりの絆だった。子供はいない。

 2009年の盛夏。F町の町長選挙が過熱して選挙違反が相次ぎ、県政界にも波紋が及んでいた。
 本部の支援体制が組まれ、公安の奥崇は反町長派の中心の原発の強硬派の労働組合の担当になった。目指す相手はあの広野なのである。
 任官以来、廣山の意向から公安一筋を歩んできた奥崇は、それまでも労働運動の様様な情報を得ていたが、その中に、広野とある原発管理職夫人の不義を窺わせる密通があった。奥崇は F町に飛んだ。


-刑事-

 F町の盛夏の、鬱陶しいほどに蒸し暑い昼下がりである。
 選挙カーが反市長派の候補者の名前を連呼しながら近付いてくる。
 玄関は網戸になっているが、チャイムを押しても応答がない。奥崇が煙草に火を点けた。間合いを見定めて再び押すと、暫くの間があって、艶やかな声に続いて、女が姿を現した。完熟した身体を青い半袖のワンピースで隠している。男と同じく四〇半ばに見える。
 「何のご用でしょうか?」髪が濡れている。 やさ面の男が長身を折って、「F警察署です」と、手帳を示した。
 一瞥した女が、「ご苦労様です」「原発管理職夫人の繭子さんですね?」女が頷いた。「ある事案を内定していまして。お願いがあって伺いました」「何でしょう?」「何点か奥さんの話を伺いたいのですが。ご協力頂けますか?」「どうぞ。お上がり下さい」

 ソファの男に麦茶を勧めながら、「それでなくとも暑いのに騒々しいわ」と同意を求める。シャンプーの香りが漂っている。煙草に火を点けて、「選挙もいよいよ終盤ですから」と、男が応えた。
 向かいに座った女が、「はた迷惑だわ」「形勢が拮抗して反市長派は勢いづいていますから」女が続きを折って、「どんな話なのかしら?」と、訝しげに視線を送る。
 「実は、選挙違反の容疑である事案を極秘に内定しているんですが…」


-取り調べ-

 女が足を組み替えた。豊かな桃色の太股の奥の漆黒が覗いた気が、男はした。「選挙違反?」「反市長派のです。ご主人は原発の労務部次長ですから、奥さんは原発推進の立場ですよね?」「当然です」「すると、選挙は?」「もちろん現職の方です」「そうですよね。あなたの名前が突然浮上したものですから。私も場違いだとは思っているんですが。職務上やむを得ず。私としては、ご主人の仕事が労組対策ですから、正直なところ、労組内の過激派の陰謀、すなわちデマではないかと疑っているんですが」
 女の頬がひきつった。「労働組合?」「原発には幾つか労働組合があるんですが。ご主人から聞いてはいませんか?」「うちでは仕事の話は一切しないわ」男が紫煙を吐いた。
 そこに、黒猫が密やかに寄ってきてソファに乗り、女に擦り寄った。女が手を伸ばして指を舐めさせ始める。実に異様な光景ではないか。猫は雄に違いないなどと思いながら、男は目眩がしてきた。

 すると、何も言わずに、黒猫を引き連れて席を立った女が、ウィスキーを用意して戻ってきた。男の分までオンザロックを作ると、黙ってグラスに口をつけた。

 「警察だの労働組合だのと。思いもかけずに突然なんだもの。私、驚いてしまって。気付けだわ」「ごもっともです」「職務でしょうからお勧めはしないけど。この陽気だもの。私は一向に頓着しないわ」「私もこの銘柄しか飲まないんです」「ウィスキーがお好きなの?」「自然の不思議の賜物ですから」男は礼を言いながらグラスに手を伸ばした。


-可視化-
 
 「私が何をしたって言うんです?」「容疑という程の事ではありません。ある情報の提供があったものですから。あくまでも任意の協力要請なんです」「どんな情報なんですか?」
 男が煙草に火を点けて、「性行為が絡む選挙違反です。極端な場合は売春の疑いもあります」「売春?私が?」女の胸が揺れた。
 「実に不届きな噂です」「誰が言ってるんですか?」「これ以上は捜査上の秘密なんで」「一方的に言われっぱなしなんて不条理だわ」「断定などしてません。選挙と労組、ましてや性行為が絡む微妙な案件ですし。原発役員夫人が関わるとなると。神経質な案件なんです。解りますね?」不承不承に頷く女に、「極秘の内定なんです。あなたの秘密は絶対に守ります。もちろんご主人にも。ですから正直にお答え下さい」女が頷いた。

 「ところで、今日はご主人は?」男は全てを承知しているのである。「本社に出張で。明日、帰ります」

 「ここに署名と押印をして下さい。任意の取り調べの承諾書です。それと可視化承諾書です」「可視化って?」「私の取り調べの適法性と奥さんの権利を担保するために、ビデオに録画をします」
 繭子は微塵の疑いも抱かずに納得した。

 果たして、奥崇が難儀しながら海外製のデオまで準備した真の意図は何なのか。
 奥崇は相馬の密命も帯びていたのであった。あの『紫萬と磐城の儚』の磐城の動向の把握である。
 廣山が松山事件に関与した時に、相馬も現地で重要な役回りを演じた。相馬に駐留軍の指示を伝えた謎の男がいた。磐城はその男を追ってF町まで来たのである。駐留軍は本国からの密命を受けて、その男をF町に派遣していたのだ。
 相馬の話の節々から、駐留軍がF町の原発政策の現行維持に、並々ならぬ関心を持っていることを察した奥崇は、原発管理職の妻の女を籠絡しておくのは、一挙両得だと考えたのである。その為の、あの男、広野の情報は最後の最後まで隠し球にしなければならないのだ。

 女が身体を屈めて署名した。ワンピースの胸元から乳房が覗いた。男がカメラをセットして録画が始まった。そして、思い出した様に、「奥さん。玄関の網戸はやめて鍵を掛けた方がいいですよ」と、言った。


-密告-

 「五日前に男が来ませんでしたか?」「どうだったかしら?」「選挙の運動員だと言って。反市長派です」「反市長派でしょ?」「そうです」「来てないわ」「本当ですか?」「間違いないわ。あの日は頭痛が酷くて一日中休んでいたもの」「反市長派のある男が個別訪問でこちらに来たという情報があるんですが?」「その人が何て言ってるの?」「反市長派のビラをあなたと一緒に作った、と。しかし、これはある男が某所で漏らしたと言う類いの話で。まあ、噂話に毛の生えた様なものなんですが…」「ビラ?」「これです」
 男が取り出したビラでは半裸の男女が絡み合っていた。顔は巧妙に隠している。
 『町長と前町長の娘の疑惑の密会-原発利権を許すな-』と、大見出しがついている。
 「三日前に、無差別に大量に撒かれたビラです。ここを見て下さい。男が女に挿入しているような、あるいは何かの影の様な、微妙な写真なんですが…」「この写真の女があなただと言っているらしいんですが?」「嘘よ。こんなの私じゃないわ」「あなたとこうやって交接したと言ってるんです」「出鱈目だわ」「あなたから誘惑されたと?」「してません」「ご主人が留守だったか
ら一晩中…」「酷いわ」
 「警察は不偏不党、中立公正ですが、現在の社会の体制を守るのが仕事です。原発推進はもちろん、あなただから、有り体に本音を言えば、市長派です。あなたと一緒の立場です。私はあなたがこの写真の女でない事を証明したいんです」「本当に有り難いわ。よろしくお願いします」


(続く)

原発の儚3️⃣

原発の儚3️⃣

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-23

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