ポー
ごくごく一般的に、普通に生活を送っているならば、こんな言葉はあまり言わない筈だ。「君の吐息は白い」と。頭の中で、白い息か……寒いなと、思うとしても舌を動かして他の人にはわざわざ伝えない。しかしながら繰り返し伝える言葉はある。或る人は毎日「ジャッキを回せ」とか「ええ、クーリングオフですね」とかだ。そう考えると僕は毎日何を喋っているのだろうか? 決して洒落た意味を発していなくても普遍的にカッコ良いモノを述べたいと思った。それが大体、昼の15時頃であと数時間で仕事が終われば最高だと感じる瞬間であった。
背伸びをする。デスクのパソコンを見続けるには飽きた。僕は席を立ちマグカップを持ってコーヒーサーバーのある方へ歩いて行き、ボタンを押してコーヒーを注いだ。ごぽごぽ、と落ちる黒い液体は何故かとても粘液の強いものに見えた。
「コーヒーを飲むって珍しいね」
課長が僕の横に立って言った。
「そうですか? 四日ぶりに飲む感じです」
「コーヒー好きは毎日飲む。嫌いな奴は一年も飲まない。それなのに四日に一度って辺じゃないかな?」
「うーん。毎日、食いたいものと、食いたくないものがあるじゃないですか。それと一緒ですね。僕にとっては」
「あっそ」
「あっそって……」僕は注がれる事を終えたばかりの暑いマグカップを持ち上げて言った。
「それよりも君。隣の部屋に来てくれないか?」
僕は少しだけビクっと身体を振るわせて「イヤな事ですか」と質問した。
「まあまあ、そんなに心配をしないでよ。何もシネって言うわけじゃない」
「それ、パワハラの一言です」
課長は笑って誤魔化した後に僕に付いてくる様に言った。僕はため息を吐いて課長の背中を追った。隣の部屋はちょっとした会議室として使われていた。課長が入り口の壁にあるスイッチを押して照明を点けた。窓側の席に課長が座り、僕はその対面に座った。
「まあ、リラックスしてよ」
「できるだけ、そうします」
僕は簡潔に答えてから手に持っているマグカップを啜った。ドブに落ちたキャンデーの様な古くて甘い味がした。
「実は君に役職を与えたいんだ」
「昇進の話ですか?」
課長は少しクビを傾けて「いや、それとはちょっと違うんだ」と言った。
「なんですか、それは?」と僕は言って「もしかして何とかリーダーとか言う、うたい文句で賃金は付かなくて責任だけ付く名前だけ役職ですか? それは勘弁して下さい」と面倒くさい口調で言った。
「いやいや、内の会社はそんなブラックじゃないぞ。ある程度はホワイトだ」
「ですかねぇ……」
「賃金は付くぞ」
「ふうん。幾らくらいですか?」
「歩合制だな」
僕は腕幕をして右の人差し指で左肘を軽く叩いてから「まあ、いいですよ。お金が貰えるなら」と安易に答えた。
課長はニコリと笑って「それじゃあ今日はもう早退しなさい。君が了解した事は上司に報告しておくから」と言って僕を帰らせた。
帰りの電車でイヤな感覚をしつつも歩合制で得られる報酬で来来月は高いウイスキーでも買おうと思った。
翌日、僕は会社に出社すると受付の女性社員に「おはようございます。ポー」と微笑みをかけながら言われた。もちろん僕は『僕』自身にその様な言葉を言われているとは思わないので「え? あ、はい。おはよーございます」とだけ疑問に思いつつも返答した。部の部屋に行くまで歩いている最中にも男性社員や女性社員、掃除のおばさま、警備のおにーさん。電気の点検に来ている作業着のおじさんにもすれ違う際に「やあ。おはよう、ポー」、「調子はどうですか? ポー?」、「ごきげんよう、ポー」と僕に対して謎の名称を加えて呼ばれた。昨日と比べると僕に対する反応が全然違っていた。昨日までの僕に対する態度はそこら辺の道にある自動販売機と同等で居てもいなくても誰も気にしなかったのに、今日はまるでホテルの支配人が客をもてなすニコやかな行為を僕に示していた。
僕は部の部屋に到着する数メートル前で「なんだこれ?」と呟いて「ポーってなんだ?」と独り言を言った。それから部の部屋のドアを開いて中に入る。すると、同僚たちは席から立ち上がって「おはようございます! ポー」と元気よく言った。
僕は「お、おはよう」と言って自分の席に向かった。しかし、そこには僕のパソコンはなかった。内心、なんだこれは新たなイジメか? と思った時、女性社員が僕の方に来てから「ポーの席は彼方になりますよ」と丁寧に揃えた手で課長が座っていた席の方に向けた。
「え? あすこは、課長の席ですよね」
「昨日まではそうでした。しかし、今日からはポーが座る席になります」
「で、でも」
僕はたじろいでしまうが、他の社員たちは僕が次に言う言葉をジッと聞いている。その謎のプレッシャーに耐え切れず僕は「わ、わかりました」と言って昨日まで座っていた課長の席に座った。パソコンを開いて適当にネットサーフィンをしていると課長が入ってきた。社員たちは「おはようございます」と日常的に言った。それに対して課長も何時も通りに「やあ、おはよう」と言い、ごく当たり前の様に昨日まで僕が座っていた席に座った。僕はすぐさま、課長の方に駆け寄って行き「課長、何ですかこれは? 全社員による新たなイジメですか?」と言った。課長は目を丸くして「朝から威勢が良いですなポー。それはとても良い事ですが、しかし、業務の内容は朝礼が終えた後に行いましょう」と述べて起立した。それから普段行っている通りに朝礼が始まった。僕はしぶしぶ席に戻ってから朝礼の内容を聞いていた。朝礼の終盤に差し掛かった後に課長がコホンと咳をしてから述べた。
「昨日言い忘れていたがもう少しで社長と会長が部に訪れる。新任のポーに挨拶と敬意を示しにだな。ふう……。私も社長に会うのは新入社員の辞令以来だ。ハハハ」と笑って言った。その言葉から数分後に部の中にブクブクと肥え太った社長と会長が入ってきた。付き人は綺麗な女性が二人とガタイが素晴らしいボディーガードが四人居た。課長も含めて他の社員たちは廊下まで並んでお辞儀をしていた。僕は社長と会長を見るのは初めてだった。中途採用で半分、コネで入った社員だった。それもあって僕は非常に緊張していた。
社長と会長は油絵で描かれた様な威厳の顔から初孫を見たような笑顔でニコニコと笑いながら僕の方にテクテクと歩いてきた。それで嬉しそうな口調で言った。
「これはこれは、ポー殿。会えて光栄でございます! まさか、生きて貴方様に会えるとは!」そう言って会長は僕の両手をしっかりと力強く握った。
「あはは……」僕は油が染みたグローブの様な手の感触を味わいつつ弱々しく笑った。
「ポーよ! ポーよ! 貴方のおかげで我が社は永遠に安泰です。どうぞ! これからのご活躍と飛躍を願っておりますぞ!」と熱意のこもった声で言い僕を抱きしめた。何故かラーメン屋の匂いがした。
「が、がんばります……」僕は力なく弱い声で言った。
社長と会長は僕に長々と挨拶をし終えて満足したのか次は社員の居る方向を見て、これまでの会社の誕生から、経営難になり潰れそうになった事、台風でペットの小屋が吹き飛ばれさた事、初代ポーの有難さ、二代目ポーの尊さ、三代目ポーの生き様、四代目ポーの心優しさ、五代目ポーの革新的明晰さ、そして六代目ポーが今,目の前に居ることの素晴らしさを語った。社長の瞼は赤くなり、それに影響されてか数名の社員もポケットからハンカチを取り出して泣き始めた。僕は笑いそうになった。
社長と会長と社員たちは最後に大きな拍手喝采をして僕に声援を言った後に漸くこの謎の会は終わった。社長と会長は深々と頭を下げて「では、ポー、お達者で!」と言って部屋から出て行った。社員たちも席について自分の仕事をやり始めた。課長もデスクに座って何かを印刷し、同僚に指示をしていた。僕は座ったままである。
午前10時を過ぎても誰も僕に指示を与えてこない。それで僕は課長の方に行き「か、課長、僕に何か仕事を下さい。っていうか昨日の僕の仕事はどうなってるんですか?」と言った。
「仕事を下さいって! 何をおっしゃっているんですか? ポー? 私が貴方に仕事を与えるのではなく、ポーが仕事を与えるのでしょう?」
課長の思いもよらない返答に僕は驚いてしまうが、そんな事をお構いなしに課長は「では何か急ぎでもありますか? ポー?」と言った。
僕はドギマギして「ちょ、ちょっと、いや、幾らか時間を僕に下さい」と言って、部から出た。僕は外を出てからブラついた。僕を見かけた社員たちは会釈をしてから「ポー。お疲れ様です」と必ず挨拶をしていた。僕は苦笑いをしながら会社の屋上に向かった。外の空気が吸いたくなったのである。屋上に上がると僕意外に男性社員が一人いた。靴は綺麗に置かれ男性社員は階の下をジッと眺めていた。僕は何かヤバいものを感じ取りその男性社員に近づいた。
「もしかしてシにたいとか? ですか?」
男性社員は僕に気づいてビクりと驚いた。眼鏡をかけたオタク風の男だった。
「こ、これはポー。どうしてこんなところに?」
「暇だから、暇つぶしだな」
「そ、そうですか。ポーもたまには息抜きが必要ですからね」
そう言ってオタク風の男はため息を吐いた。
「なんかイヤな事でもあったのか?」
「イヤな事でですか? ええ。ありましたよ。基本的に毎日がイヤですが」
「そうか僕も毎分イヤだな」
僕の発言にオタク風の男は「ええ、ポーもイヤな事がそんなにあるんですか!」と大声で言った。
「当たり前だろ。人間だぞ」と僕は適当に言った。
「そうなんですか」
「どんな事がイヤなんだ」
オタク風の男は少し黙ってから答えた。
「実は……。自分に任させられいる仕事がどうも上手くこなせなくて……」と言って僕には興味がない詳細な部分まで語り始めた。
それから長々とした話が終えた後、僕は言った。
「わかった。その仕事、僕の部の課長に投げてやろう。あいつ、最近、態度がデカいからムカついていたんだ」
「ええ! これは私の部の管轄範囲ですよ。他の部で出来るわけじゃ……」
「うるさい! さっきな、課長が僕に仕事を与える側だとか、偉そうに言っていたんだ。どんな仕事でも投げつけてやる」
僕はそう凄んで階段を降りて行った。
僕は数日後も社内をうろついて暇そうな社員に声をかけて暇つぶしをしていた。すると眼鏡をかけたオタク風の男性社員が嬉しそうに僕の方にやってきて「ポー! おかげさまで、とても良い結果になりました! 色んな部とタッグを組んだお陰でより良い商品を開発する事ができました。とても革新的と私の上司もとても喜んでいましたよ!」と言った。
「そうか。そうか」
僕は頷いて言った。
「しかし、残念ながらその次の工程がどうもスムーズに行かないんですよね……。これだけ規模の大きい会社となると保守的になるのもわかりますが……」とオタク風の男は述べた。
「それじゃあ。君が新しい部のチーフをやりたまえ。それと、君、最近中途で入った営業だと言ったね。彼の下に付きなさい」
僕は暇つぶし相手をしていた男性社員とオタク風の男に言った。
「な、な、な、ポー。私が新しい部を作ってその監督をやれとおっしゃっるんですか?」
「別に嫌なら断ってもいいよ。絶対、大変でしょ」
「い、いえ、がんばります! あの日から私はポーに命を救ってもらったと思っているんです!」
「大げさだな。君」
僕はそう言って自分の部に戻った。今日は早弁をしよう。『ポー』とか言う、変な役職に付いてから早弁をしても怒られなくなったのは唯一の特権であった。
どうやらオタク風の男が部を設立してから順調に運営がいったらしく。会社の規模もさらに大きくなっていた。それにオタク風の男の部が元々の会社の利益を超えるほどに成長していった。僕は相変わらずブラブラして社員の愚痴を聞いては誰かに仕事を投げていた。時たま、オタク風の男が僕の方に相談にやってくるものだから、僕は突拍子もない発言でオタク風の男の仕事を後押しした。それで何時の間にかオタク風の男は社長となっていた。僕も年を取り『ポー』と呼ばれることに慣れていた。それからオタク風の男の口癖を風の噂で聞いた。
「六代目のポーは、歴代の中で一番最高のポーさ」
僕は相変わらず普通に出社している。僕をこの役職に推薦した課長はとっくの昔に退職していた。課長が退職の際に僕はこう聞いた「課長。結局のところ、ポーとはいったい何なんですか?」僕の質問に対して課長は含みのある声で答えた。
「実は俺もよくわらん。推薦した理由もお前が一番、暇そうだったからな。あの日、メールが来ていたんだ。ポーとか言う名義で。普通なら迷惑メールだと思うが、何故か誰かを指名しなくてはならない気になってな……」
僕は黙って聞いていた。それから課長はもう一つ言葉を付け加えた。
「あと、俺はお前の事がキラいだ」
それで僕も答えた。「僕も課長の事がキラいです」
ごくごく一般的に、普通に生活を送っているならば、使わない言葉がおおいにあると思う。もしもその言葉が『ポー』であるならば何かの法則的エネルギーが加わらないかぎり、誰も日常時に決して使わないだろう。玄関の横にある鏡で顔を確認し、ネクタイを締めながらそんな事を思った。
ポー