トウコ 静かな海
すべての終わり
トウコはセブンスターに火をつけると、隣で天井を眺めている僕の口にそれをくわえさせた。吸うと蛍のように明るくなる。煙は天井に向かって昇っていった。
「ねえ、わたしのお父さんとお母さんは本当の兄妹なのよ。わたしはその娘なの。だからわたし、白いでしょ?これもれっきとしたアルビノよ。髪の毛だって睫毛だって黒く染めてるのよ。ほんとは真っ白なんだから。白いトカゲや蛇と同じ。ほんとよ、うそじゃないんだから」
ベッドから起き上がると煙草の灰が胸に落ちた。
抱きしめるとトウコの心臓の音が僕の心臓と共鳴しているような気がした。
ひとつの心臓でふたりが生きていればいいのにと心から思う。
「わたしが死んだらゴミ捨て場に捨てといていいわ。だけど、あなたは嘆いて悲しんで。やっぱり死んでもあなたに愛されたいから」
「そして今ね、あなたを殴りたい」
トウコは僕の胸から腕だけを伸ばして、限りなく優しくゆっくりと僕の頬を張った。
音の出ないブラウン管テレビからザトウクジラのドキュメンタリーが流れている。
水しぶきを上げ、海面にその巨体を打ちつける姿がまるで宇宙船のようだった。
そして僕は想像した。この巨体が浜辺に打ち上げられ、息絶えた時の事を。
細胞が死に、腐敗した臭いが辺りを覆う。満天の星空がこぼれ落ちそうなくらい広がった夜空は彼の死を見守っている。
いつか聞いたサソリの火のように、そのザトウクジラも自分の命が誰かの役に立つことを切に願うだろうか。
もしそう願ったとしても、きっと自分の躯から漂う臭いで無意味な事だと気づくだろう。そしてあのサソリ座のように光り輝くことは出来ないだろうと。
そのドキュメンタリーが終わり、ニュース番組になった。
テロップで「北半球の汚染濃度が通常の四千倍に達した」と出ている。
「専門家がインフラの最終ラインへの影響に懸念の声」
「欧州にデフォルトの余波」
「シェルターの増設は見送り」
「各国、ネンブタール等の配布を検討」
慣れればこんなニュースも自然と脳に浸透していく。
トウコはそんな話題なんて気にもせず、ずっと僕にさっきのザトウクジラの話を興奮気味に語っている。僕も彼女の話に耳を傾けた。
「少し落ち着こうか」
そんな時、トウコは憂いだ眼で僕を見る。
その瞳は大きく、ガラス細工のようで、毛細血管まで美しい。
それはまるで一片の曇りもない無垢な少女のようで、今起きた事情を聖女のように飲み込もうとしていた。そう、交わした言葉を聖水に浸すように、邪眼を穀物で清めるように。
もう一度心臓の音を確かめ合うと、その音で彼女は少し落ち着いた。
そしてトウコは海が見たいと言う。僕も見たいと思った。
彼女が陽の光を浴びることを諦めた日から、二年目のことだった。
部屋が血と吐瀉物で汚れたのは、残酷に晴れている秋の始まりの日。
トウコはその汚れたリビングの中央に坐り、うっすらと笑みを浮かべ僕を見つめていた。
口のまわりが血で紅く染まっている。子供がリップグロスを塗りたくったような顔。
一瞬、何か小動物を捕食したような光景にも見えたが、外部からのものじゃなく、それは彼女の体内から排出されたものだとすぐに分かる。
「わたしが先だったね」
いつかこの日が来ることは知っていた。
ある程度の覚悟もあったし、彼女も理解していた。
だから冷静に対処できると思っていたし、悔いのない過ごし方も考えていた。
だけど、その光景を目の当たりにした瞬間、僕の脳内は白く飛んだ。
分かっていたはずなのに。理解していたはずなのに。
躰の弱い彼女が、今まで生きていられたのは奇跡なのかもしれないと思わずにはいられなかった。この暗い部屋から出ることもなく過ごした日々は延命治療のようなものに過ぎない。
「海に行こうか」
以前、ザトウクジラのドキュメンタリーを観ていた時の事を思い出していた。
冷静を装いながら僕はトウコに言った。
最後は陽の光を感じながら過ごしたかった。
「待って、化粧をしたいの」
始発で海へ向かった。
すでに運行本数が極端に制限された電車も人は疎らだった。
トウコは胸が痛いと呼吸をヒュウヒュウ鳴らしながら僕に言った。
彼女の顔は死人のように変色していたが、僕は彼女の髪を撫でながら「海までがんばれるかい?」と訊いた。
きっと内臓のどこかが壊れたのだろうと思った。
そしてトウコは安心した顔で、その後何も言わず浅い眠りに落ちていく。
その寝顔を見ていると前頭葉に刺さった棘が抜けていくようで僕も安堵した。
その時が来ると悪化は早いと聞いていた。ましてトウコのような躰はもっと早いだろう。
その白く細い躰はすべてを受け入れてしまっていた。
最後に乗り継いだ電車は二両編成で乗客は僕とトウコだけだった。
途中でトウコは嘔吐したが、僕のジャケットに吐瀉物を吐き出したのでそのまま丸めて足元に置いた。よく見ると彼女の髪の根元が少し白くなっていた。
その白い髪を見ていると、そこから徐々に侵食していき、肌も眼も唇もすべて白く染まるトウコを想像できた。そのまま殉職者として教会におくことが出来るのではないかと思うほど、彼女は美しかった。
長めのトンネルを抜けると青い太平洋が山の隙間から見えた。
トウコは淡白で小さな声を上げたが、嘔吐したせいで声が擦れている。
僕はもう少ししたら降りようと言ったが、車窓から海を眺めているトウコから返事は返ってこなかった。
揺れる電車は少しずつ海岸線に近づいていく。もう海は目の前だった。
何羽もの海鳥が青い空を舞っていて、そのうちの数羽が電車と平行して飛んでいた。
トウコの頭を撫でると、艶の消えた髪が僕の指に絡まって抜け落ちた。
トウコは虚ろな眼で僕を見た。口角には泡が溜まっていて、呼吸をするたびにその泡が増えたり減ったりしていた。僕はハンカチでその泡を拭いてやった。
口の中で彼女は何かを転がしているようだったので「何が入ってるんだ?」と訊いた。
僕はハンカチをトウコの口元に持っていくと、そこに自分の歯を二本吐き出した。
それはとても小さく、子供のような歯だった。
僕はそれをハンカチで包み、そっとポケットに仕舞った。
やがて電車は無人の駅に着いた。僕たちはそこで下車した。
トウコを抱えてホームを出ると、国道を挟んだ向こう側は海だった。
辺りを見回しても商店や民宿はなく、古い民家がぽつんぽつんと点在しているだけで人の気配は感じられなかった。
僕たちは国道を渡り砂浜に下りた。
海水浴場でもないその砂浜は、静かに波の音だけを耳に運んできた。空はきれいな青だった。
僕は古いボートにもたれて坐りトウコは僕の膝に頭を置く。彼女の止まりそうな呼吸が僕の膝を伝わって感じてくる。
陽は高くなってきたが、まだ午前中だった。
トウコは歯をカチカチと鳴らし躰を震わせてる。
僕も一緒に横になり後ろから強く抱きしめた。トウコの首筋に顎を乗せ、彼女の消えそうな呼吸を受け止めた。
その後トウコはまた嘔吐した。苦しそうに咽返りながら何度も吐血し、僕の手を握る彼女の手は段々と弱々しくなっていった。
僕は頬を擦り合わせた。トウコの体温は生ぬるかった。
それは手を握っても同じことで、僕の体温がトウコの躰に吸い取られるような感覚に襲われた。そしてトウコは力なく、そしてもっとも力強く僕の手を握った。
そして彼女の呼吸は止まった。
最後に大きくゆっくりと息を吐き出して、もう二度と吸い込むことはなかった。
トウコは苦しみながら生まれ、苦しみながら生きて、苦しみながら死んでいった。
それはとてもけなげで儚く、最も脆い創造物だと思った。
彼女を悼み、慈しむ人間がいるのならきっと僕を羨むだろう。
しかしこの事実は誰も知らない。この寂しい砂浜でトウコが命尽きたことを。
僕の躰は強張り、力を抜くことが出来ないでいた。海は青く穏やかで、どこまでも僕たちを包み込んでいた。
その母性のような海を見ていると、深い深い海の底で僕とトウコを優しく何かが呼んでいるようで、僕はただ茫漠に広がる青い景色をまえに涙することしかできなかった。
そして、その穏やかで静かな優しさに僕たちは救われたのだと、トウコの躯を抱きながら全身に感じていた。
そして僕は思い出した。海という巨大な母性によって鮮明に。
それは僕の母が狭いアパートで首を吊っていた光景だった。
まだ幼かった僕は、絵を描いていたのか人形で遊んでいたのかはわからないけれど、窓から差し込む西日で、窓辺にぶら下がる母の躰が長い影を作り揺らしていた光景をたった今思い出したのだった。僕はそれをずっと忘れていた。
時々、母は元気でやっているのだろうかなどと、見知らぬ土地で暮らす母親の姿を想像していたが、そんな事実はどこにも無く、無くてあたりまえな事実だった。
それは悲しくもあり懐かしくもある、どこか郷愁にも似た思いで僕の心はざわつきはじめていた。
そのざわつきはたぶん、トウコが自分の父親と母親の話を僕にしてくれたとき、きっとこんな気持ちだったに違いないと思ったからだ。もしそうならば僕は彼女に少し申し訳なく思う。もっと優しく抱いてあげればよかったと後悔した。
トウコから愛し合う両親の話を聞いたとき、僕は架空の母親との架空の思い出に浸っていた。明日は久々に母親に電話でもしようとも思った。
何処に?そんな人物が何処にいる?
僕はひとりじゃないか・・・
いつだってひとりじゃないか・・・
イマダッテヒトリニナッタジャナイカ・・・
コレカラモヒトリジャナイカ・・・
ヒトリナンダ・・・ズットヒトリナンダ・・・・
僕は爪を噛みながら震えていた。動かなくなったトウコの傍らで。
今の僕はとても弱く、小さく、そしてちっぽけで、冬をまじかに死んでしまいそうな虫のように思えた。
高い位置でまだ暑さ残る太陽が、遮る物のない砂浜を容赦なく照らしているのに、僕は自分を冬の虫だと揶揄したことが腑に落ちず、いつか映画館で観たパリの透き通る青空のように気持ちの悪いものだなと思わずにはいられなかった。
そして僕は立ち上がり、トウコを抱えた。
もう彼女は「冬子」になっていた。
彼女の躰は細かったけれど、躯になればずっしりと重くて砂に足を取られた。
そして一歩踏み出すたびに砂が鳴いた。それが冬子の嘆きのように聞こえて僕を余計に冬の虫にさせた。
僕は彼女と交わした約束なんかじゃなく、ただただ自然に涙を流し、悲しみ嘆いた。
湿気でひどかった心に少しだけ乾いた風を吹き込まれた気分になった。
そしてその風は僕の涙も乾かし、国道を渡った時には僕を濡らすものは何もなかった。
相変わらず車も走っていなければ、人の気配もない。
僕は渡った先にあるゴミ捨て場に冬子の躯を寝かせた。
獣避けのネットで囲われたゴミ捨て場がまるで華やいだショウケースのように見える。
そこに収まる白い肌の冬子は美しいフランス人形だろう。
彼女は言った「わたしはアルビノ」だと。愛し合う兄妹から生れた仔だと。
しかしその仔は森に捨てられた。それを見つけた僕は、獣からその仔を救うことは出来なかったが獣を殺すことはできた気がする。それが唯一の救いで慈悲だ。
防風林が風で騒ついた。この先、風の匂いを感じると冬子のことを思い出すだろうか?きっと思い出すだろう。
ポケットからハンカチに包んだ冬子の歯を取り出して眺めた。
その白く小さな歯は何かの宝石のように輝いていた。
僕が背を向けて歩き出すと、ねじれた次元が戻るようにこの世界に微かに残る人の気配と生活臭が躰を包みこんでいった。
貼りつくような乾いた咳をした。
掌についた僕の血は、間違いなく、白くて、黒くて、紅かった。
トウコ 静かな海