拭えない汚れ

 水平の雲を見たんです。カッターで切った様な真っ直ぐで伸びた、雲を。僕はこの世界で最も味のない、朝露の様な人間だと思った。学校に向かう途中で空に浮かんだ雲はもう別の形になっていた。変化したそれを見ると僕の首を強く締め付けられた感じがした。学校に進んで歩いた。適度な早足でそうした。すると別の高校の制服を着けた女の子がコンビニの前で立っていた。好みの女の子だったからジッと見ているとスラリとした背の高い男子高校生がその女の子に近づいて手を握った。
 カップルか。
 僕はその光景を見て舌打ちした。なんとなしに腹の奥が捻れた。それからさらに早く歩いて学校を目指した。
 世の中は100パーセント、腐っている事は知っていた。腐敗は芯から、骨肉を覆っていると何度も何度も思っていた。星々の銀河と牡丹の花の設計者が同じ人物だと気が付いても僕の存在価値は少しも向上した気はしなかった。それは、もはや、生きて呼吸する事さえも非常に億劫になる事で、人の自由意志さえも恨んだ。
「次の授業はないってよ。生物の先生は早退したって」
 血色の良くない友達が僕に言った。
「そうか」
 僕の返事に対して彼は「嬉しくないのか」と言った。
「どうでもいいんだ」
「どうして?」
「今日は全てが苦いキャベツを噛んだ日なんだ。僕にとっては」
「それはナイーブって言うのかい」
「知らんけど。それも間違っている訳ではないさ」
 僕の言葉に友達は意味が分からないと言った表情を作り僕の座っている席から立ち去った。その友達の後ろ姿を見ると何故か、現実が憎いと思った。
 他の生徒たちは自習となっているこの時間に携帯を取り出したり、席を立って談笑をしたりしていた。確かに晴れやかになる要素だ。授業なんて面白くない。面白いのは学校から解放された数分の間だけだ。僕はそのクラスメイトの姿を眺めていると、突然、教室の扉がガラリと開いた。全てのクラスメイトたちは瞬時にその先を見た。そこには早退した筈の教師が立っていた。
「あれ? 先生は早退した筈ですよね」
 ある1人の男子生徒が言った。
 だがその声に教師は応じる事はせずにズカズカと教室の中に入った。教壇の前に立つと教師は「本日を持って日本は我々、ムラサキが支配する事になった。いや、世界中だ。もはや、人々は分裂はせずとも人類は平等に扱われる。全ての条件をお前たちが当てはめればだがな」と黒い危なかっしい銃を見せながら言った。
 その先生の言葉に数人の生徒は笑って「先生、何時もは冗談を言わないのに、いきなりなんですか!」と言った。と、その瞬間、校舎の窓から見える街から大きな爆発音が聞こえた。クラスメイトたちは一斉にその方向を見た。黒い、灰色の雲がモクモクと立ち上がっている。住民たちの叫び声とサイレンが鳴る。黒い車が列をなして街を囲っていた。自衛隊や警察とは明らかに違う別の車だった。
「外を見るとわかるだろう。もはやお前らの日常はたった今、終わった。今日から新しい国の建国だ。世界は統一されたのだ。この辺りを制圧するまで、お前らは静かにしておくんだな」と、教師は教壇にドカッと座って述べた。
 クラスメイトたちは先生の言っている事が事実だと知り、一気に青ざめ、ガクガクと震えた。僕は窓からモクモクと立ち込める灰色の煙と武装した人たちをジッと見た。クラスメイトの1人は携帯を見た。携帯の画面はムラサキ色となっていてジャックされたいる事がわかった。
「泣きそうな顔だな。だが喚くな。もしも何かをするなら、私はお前たちを打たなければならない。そうなりたくないら、黙っとけ」
 他のクラスも同じ状況なんだろう。シーンとしていた。だが、下の階から一発の銃声が聞こえた。それと共に叫び声が聞こえた。先生はニヤリと笑った。その笑い顔を見て僕のいるクラスは心臓の鼓動が聞こえるのではないかと言うほどに静かになった。

 数時間がたった。クラスメイトたちは静かに黙っている。突然、教師が「おい」と言葉を発した。生徒たとはびくりと身体を震えた。
「後ろの掃除入れの横に立てかけてある、アレはなんだ」と言った。
 沈黙が流れた。みんな床を見ていた。
 すると女子生徒が「バイオリンだと思います」答えた。
「誰のだ?」教師は再び聞いた。
 二度目の沈黙があった後に背の高い男子生徒が立ち上がり言う。
「お、俺のです」
「何か弾けよ。暇だろ?」
 男子生徒は黙ってから「な、何をですか?」と言った。
「知るかよ。お前が好きなのを弾けよ。でもつまんなかったら。どうなるかわかるだろ?」
「は、はい……」
 男子生徒は掃除入れの方に進んでバイオリンを取り、先生の斜め前に立ってから弾き始めた。だが手が震えていて、上手く弾けなかった。
「チッ」
 教師は舌打ちを付いて銃を男子生徒の頭に向けた。
「ヒッ!」男子生徒は目を瞑って絶望の表情で怯える。
「ま! 待って下さい!」
 女子生徒とが立ち上がって叫んだ。
「なんだ?」
「彼を殺さないで下さい」
「どうしてだ?」
「彼は私のボーイフレンドなんです」
「そんなのは私には関係がない。私は暇だから、彼に適当に弾けと言ったんだ。それに対して結果がないから、処分をしようと思っただけだ」
 女子生徒は力を振り絞って「彼よりも上手にバイオリンを弾ける人がいます。その人が弾くんで彼を殺さないで下さい」と言った。
 先生は女子生徒の言葉に笑って「面白いこの下手くその身代わりにするって言うのか? でそいつは誰だ」と楽しそうに言った。
 女子生徒は「こいつです」と指を指した。全クラスメイトの視線が指の先の向こうを見た。
 だから僕はこう言ってやった。
「ご指名ありがとう。うん。拍手はいらないよ。もう夕方だから、カラスも静かにしてくれって言っている」

 教師はバイオリンを持つ僕に「お前が楽器を弾けたとはな? 凡才の人間だと思っていたが」と言った。
「確かに僕は凡才ですよ。ただ、ほんの昔に親の英才教育でバイオリンをやっていたんですが、指の握力が弱くなる病気に掛かってから辞めたんです。親はショックを受けていましたよ。それなにり上手かったんでね。でも個人的にはバイオリンをやる時間よりもPCでギャルゲーをやっている方が性に合っていたんで、どうでも良かったんですが」
「口を動かすんじゃなく、さっさと弾け」
「わかりました」
 それで僕は久しぶりにバイオリンを弾いた。狭い教室がステージなのは味気ないと僕は思った。
「yesterdayか?」
「そうです」
「……知っていて、やってんのか?」
「さあ? 先生の言っている事が僕にはわかりませんが。お好きですか?」
「ノーコメントだ」
「そうですか」
 僕は答えたからまた弾き始めた。指の感覚はあまりなかった。雲を掴んでいるかのように感覚はなかった。それで思い出した。今朝見た雲の形、カッターで切った様な水平な雲、僕は僕自身としての人格を切り捨てたかったが、どうも、上手く、切り捨てられない事に失望していた事も。世の中は黒いカーテンで覆われ人々は惑わされて溶解していく。唐突に教室は暗くなった。空も、空気も天も、大地も、暗くなって教室中から悲鳴が上がった。先生の慌てる大きな声も聞こえた。僕の奏でる音楽は濁っていた。いや、汚れていた。それから言った。
「では、もう一曲」
 数万回の許しを。

拭えない汚れ

拭えない汚れ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-20

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