原発の女総集編
原発の女 総集編
-訪問者-
一九六×年。××原発の立地自治体、××町。
盛夏の昼下がり。夜来からの雨が上がった後は太陽の灼熱が容赦なく照りつける。海風も途絶えて鬱陶しいほどの湿潤な午後である。太平洋に面した零細な部落の外れに電力会社の役員の社宅があった。
背が高くて頑健な、鋭い眼差しの男がその玄関口で声を発した。応答はないが男は在宅を知っている。おもむろに煙草に火を点けて、頃合いを図って再び声をあげると、少し遅れて微かに返事がする。ややあって、足音と共にガラス戸に人影が映り、慌ただしく鍵を外して戸が引かれて、その女がようよう姿を現した。
「どなた様かしら?」女の厚くて紅い濡れた唇が、妖艶だが怪訝気な声を発しながらけだるく動く。未だ髪が乾ききっていない。半袖の青いワンピースに包まれた身体は豊穣の熟れた肉だ。それは男の趣向と情念を完璧に満足させているのである。
「ご主人の下で働いている社外工です」と、男が慇懃に名を告げると、「お世話になっております。いつもご苦労様です」と、女は微塵の疑念も抱かずに、初めて頬を緩めて恭しく頭を沈めた。その瞬間に、ワンピースの胸元から豊かな白い乳房が僅かに覗いた。濃い湿気で澱んだ空気を揺らして、洗い髪の香りが微かに男に向けて泳ぐ。女が湯浴みする豊潤な裸体の有り様が男の脳裏をよぎり去った。
女は上がり框に端座している。「どのようなご用件でしょうか?」
その時に、蝉が飛び込んできた。女の膝が崩れて太股が開いた。
-猫-
この小一時間ほど前には、男が先ほどの玄関をやり過ごして、足音を忍ばせながら裏手に回っていたのである。電気のメーターを確認する。その回転速度で人がいるのは明らかだ。男は更に忍び入る。居間とおぼしき、正に、今、居るこの部屋にレースと分厚いカーテンが引かれて、テレビの音声が漏れていたのだ。僅かな風が起こっていて硝子戸が開いている。カーテンの隙間に目を当てた男が仰天した。あれほどに妄想した真裸の女が、長椅子に座って扇風機の風を浴びているのである。これであの物語が完遂するのではないか。何という行幸なのだ。この女とは縁があるに違いないとすら思える。
湯上がりなのだろう、濡れた髪をバスタオルで拭いている。真っ白い乳房が放埒に揺れる。その乳房にある幾つかの斑紋に気付いた。紫だ。男はその裸体の異様さに、さらに目を見開く。暫く凝視しているうちに、身体中にちりばめられた虎斑は性交の痕跡に違いないと納得した。夫が出掛けたつい先頃まで営みに耽っていたのか。嫉妬深い夫が留守中の妻の不業跡を案じて付けたのか。その時に、四八と聞いているこの女の芳醇な肉体はどのようにして身悶えしたのか。などと妄念を逞しくする。
視線の終着では、女が、やはり斑紋が刻まれた豊かな太股をふしだらに開いている。濃密な陰毛が扇風機の風に揺れ蠢いている。長い縮れ毛。漆黒だ。脂肪が蓄積して膨れた下腹を覆っている。三角の密林の頂上は縦長の臍にまで届いている。
そこに女の指が伸びた。赤紫の陰唇。その門戸がふしだらに弛んでいる。やはり、性交の痕跡なのか。女は暫く湿った陰毛をまさぐっていたかと思うと、やおら寝そべった。豊満な乳房を揉み始めた。乳首を愛撫する。手が陰唇に転じた。長い愛撫。陰核を弄ぶ。
男の勃起が始まった。ついには女の指が膣に潜り込んだ。女の下肢が痙攣し始める。
女が声をあげた。黒猫が現れた。驚愕した。その猫が女の女陰を舐め始めたのだ。
-ベント室-
そして、蝉は飛び出していき、再び、静寂が二人を包んだ。女は些かも動じた風を見せずに男の応答を催促する。
「恋をしてしまったんです。あなたを好きになったんです。思い焦がれています。話を聞いて欲しいんです」「突然に何を言い出すのかしら。あなたには思い当たる節が、一欠片もないんですけど?今、初めてお目にかかるんでしょ?」
「赴任の挨拶で工場に来ましたよね?」「…1カ月前の、あの時のことかしら?」「そうです。あの時にすべてを目撃していたんです」女の視線が揺れた。「目撃?何を見ていたと言うのかしら?」「察しが付いたようですね?」「皆目、わからないわ。何の事かしら?」「あなた方夫婦の性交ですよ」「ベント室、原子炉の地下ですよ。緊急対策の部屋だから普段は誰も行かない。隔離された密閉空間だから安心だと思ったんでしょ?」「ちょっと待ってちょうだい。私、そんなところには行ってないわ」「せいぜい否定しなさい。いずれにしても、壁に耳あり。原発に迷路あり、なんだ」「確かに中央制御室には入ったわ。でも、その他にはどこにも行ってないのよ。嘘などじゃないわ。あなた。本当にそんなのを見たの?」「はい」「どこで見たの?」「だから、ベント調整室です」 「あなたはどこにいたのかしら?」「天井です。私の仕事は原発の電気保守です。あの建物は壁の裏に保守用の通路が網の目に張り巡らされているんですよ。女の嬌声で気付いて。天井の通気孔から覗いていたんです」「ベント室ってどこにあるのかしら?」「地下2階です。中央制御室からエレベーターで降りて、南にニ〇メートル位です」「そんなところには行ってないわ。……そうそう。思い出したわ。あの日は確か一八組もの夫婦が来ていたのよ」「一八組?」「そうよ。あなた?その内の誰かと私を見間違えたんじゃないの?」「そんなことはない」「顔を見たの?」「はっきりと見ました」「確かに私だったの?」「間違いない」「嘘だわ。他の奥さんの誰かと勘違いしてるんだわよ」「本当に一八組ですか?」「私の記憶ではそうだわ」「嘘をついてますね?違いますよ」「どうして?」「調べてあります」「何組なのかしら?」「僅か四組です」「間違いないの?」「どんな人物だったかも総務で確認してあります」「私の記憶違いかしら。でも、あなたが見たと言うその二人は絶対に私たちじゃないわ」
「あなたはそう言わざるを得ないんでしょうね。役員夫婦の原発施設内の性交なんて。何せ、原発始まって以来の最大のスキャンダルですからね。そうでしょ?発覚したら大問題になるのは不可避ですよ。ご主人の左遷はおろか、懲戒も免れない。あなたのこれからだって、破滅するかもしれない」
「奥さん。安心してください。そんな大事件にするつもりは露ほどもないんです。私は、いわば、あなたの味方のつもりなんです」
果たして、男の主張は虚偽のいいかがりがなのか。女の抗弁が真相なのか。そもそも、男が女を訪ねた目的の真相は何なのか。
女の太股がじわじわと開いている。「…もしかして。あなた?…原発反対派の方じゃないのかしら?」「どううしてそう思うんですか?」「ふっとそんな気がしたの。あなたの面持ちが精悍で。無頼な空気なんだから。昔にそんな人と縁があって。似てるんだもの。ここは反対運動が激しいでしょ?特に今度の選挙は対立が激しいんでしょ?」「そうですね」「社内にもそういう勢力があるって、主人から聞いていたもの」
「あなた?反対派の労働組合じゃないのかしら?」「そうですよ」「まあ。怖いことをさらりと言うのね」「ここまで来てあなたに隠しても仕方ないですから。それに…」「それに?」「政府のまやかしに騙されて、あの被爆者団体まで賛成しているが、原発ほど危険な代物はないんだ。この国の天変地異、地震と津波だ。そして、複雑で、考えられないほどの脆弱な構造。それに、ずさん極まる会社の管理体制。モラルが低下した従業員。格差と差別の労務構造。これらが複合したら、あの原子炉はいつ爆発してもおかしくない。若しそうなったら、この地域は、再び三度、中央権力に凌辱されるんだ。そんなことを許す訳にはいかない」「大演説だこと。さしずめ幹部なんでしょうね」「それほどでもありません」
この女、F原発総務部長夫人がその会合に出席していたのは間違いないのである。男自身が出席者名簿を確認したし、関係者の証言もある。会議の後に、参加者が連れだって原発施設内の処処を見学したのも事実だ。記録も目撃証言もある。最も肝心なベント室での性交があったのも、確固たる真実である。目撃者がいるのだ。ただし、目撃者はこの男ではない。 電気技師のFという男だ。そして、目撃者はこのFただ一人で、男の組合の秘密組合員なのだ。しかも、彼は作業中だったから天井裏にいて、性交が行われたベント室はその眼下にあり、もちろん、声は明瞭に聞こえたのだが、ベント室は全くの闇だったのだ。これでは性交に及んだ不心得者達の容姿などを判明できるわけがないではないか。
ベント室はなぜ闇だったのか。F自身が作業のために電源を遮断していたのである。
だから、公の証拠になるものは、何一つも存在しないのである。
男はFが聞いたという声の体験談から推論して、映像を組み立てたのだ。その上に、都合よく脚色を加えて、あたかも目撃した如くに女を恐喝しているのである。改めて、その内容は、原発総務部長とその妻が、業務中にベント室の煌煌たる照明の下で裸体をさらして性交し、それを天井裏にいた男が目撃したというものだ。
女の状況はやや錯綜している。夫に誘われてその会合に出席したのは間違いない。ベント室での性交も事前に約束していた。緩慢な夫婦生活には飽いていた二人は、夫がF原発赴任が決まった時から、施設内での性交を計画していたのだ。それまでも、様々な場所で性交してきたこの夫婦の、とりわけ、人の数倍も淫乱な妻の性癖にとって、原発はたぐいまれな場所だったのである。
では、この夫婦が、当日に、目論み通りにあのベント室で確かに性交したのだろうか。そして、その相手は夫だったのか。
女は何に戸惑い苦慮しているのか。男が告発しているという、その事実そのものだ。真実の解明はその後の課題であり、極端に言えばどうでもいいことなのだ。労務一筋に歩んできた夫を見てきた女は、労働組合をめぐる状況の深刻な複雑さを知っている。
盛夏の昼下がりに、堂々と、革命的な労働組合の幹部が総務部長宅を訪ねている事自体が問題なのだ。男の組合はそれほどに厄介な存在なのである。
しかも、この男は恋愛感情を表盾にして肉体関係を迫っている。男の立場上は不整合にも見えるが、とりたたてて咎められることなのか。仮に、女が反撃して事態が白日の下に曝されたとしても、「組合活動のために敢えて火中の栗を拾いに行った」と、男が主張すれば、組合員に彼を批判する理由は何もない。
そして、その根元は原発施設内での役員夫人の性交なのだ。前代未聞のスキャンダルなのである。性交したのがこの女夫婦であろうが、女と他の誰かであろうが、あるいは別な一組であろうが、取り立てて大差はないのだ。ベント室での性交を男の組合に目撃されたことが致命傷なのである。
女としてはこの事態を決して表沙汰にはできないのだ。男との二人だけの折衝で、夫が帰るまでには決着をさせなければならないのである。
そして、ベント室の真実は女の記憶からさえ消去されなければならないのだ。
男が、「掛けてもいいですか」「どうぞ。あなたがそれほどに言い張るなら詳しい話を聞きたいわ」「詳しく?」「そうよ」「そうですね。神は細部に宿るって言いますからね」「そうよ。その部屋でその夫婦がどんなことをしていたのか、つまびらかに言ってみてちょうだい」
男が話し始めた。「入るなり抱き合って。キスをして。長かったな。舌を絡めて。互いの唾を飲み合って。異様なほどに……。どこにもないあの密閉された環境だ。きっと、…興奮したんだ。そうでしょ?」「キスをしながら…。ご主人があなたの乳房を揉んで…。あなたはご主人の股間を探って…。あなたがシャツのボタンを外したんだ」「自分で?」「そう」「そしたら?」「ご主人がシャツを脱がせた。ブラジャーも外して。豊かな乳房が揺れながら現れたんだ。あなたのその乳房だ。驚いた」「何が?」「乳房が痣だらけなんだ。よくよく考えたらキスマークだった。そうでしょ?」女は蒼白だ。 「今もキスマークだらけなのかな?」女が胸を押さえる。「図星みたいですね?」「違うわよ。余りに厭らしい話だから…」「まあ、いいでしょ。その乳首を舐めて…。キスをして…。乳首を吸って。乳首は…。舌で転がして…。あなたが跪いてご主人のズボンを脱がせたんです」
「ちょっと待ってちょうだい。さっきから、その決めつけた言い方は止めてちょうだい。私は否定してるんですからね」「失礼しました」「あなたが見たのは確かに私と主人だったの?」「間違いありません」女に安
堵の笑みが浮かんだ。「それから?」「パンツも脱がせて。口にくわえて?」「何を?」「陰茎」「陰茎?
」「男根ですよ」「どんな?」「貧相な」「貧相?」「なかなか勃起しないんですよ。そうでしょ?」
「その部屋は明るかったのかしら?」「今みたいに真っ昼間のようでした」 この男は嘘をついている、女は確信した。「声は聞こえたのかしら?」「残念ながらよくは聞き取れなかった」さらに安堵する女に、「でも、肝心なことは聞いていますよ」「…それからどうなったの?」「小さいから根本までくわえて。陰嚢も舐めてましたね?」「違うったら」「それでも勃起はしないんだ。驚きましたよ女がバックからある物を取り出して。男のに塗ったんだ」
女の顔色が変わった。男はあることを確信する。「あなたじゃないんですよね?」「違うわ」「じゃあ、何だったと思う?」「私が知るわけがないでしょ?」「チョコレートだったんですよ。チューブに入った。あんなのがあるんですね?」「知らないったら…」「その男のにたっぷりと塗ったんだ。それを舐め回して。旨そうに。音をたてて。その音がベント室に反響していた。違いますか?」「またそんなこことを。私はそんな所には行ってないのよ」「まあ、いいでしょう」
「だったら」と、言いかけた女が、「待って。もういいわ。何だか目眩がしてきたわ」「暑さのせいですよ」「そうね」「大丈夫ですか?」「決して私たちじゃないわ」「あなたがそこまで言うなら、詳しく検証する必要がありそうですね?」「勿論だわ。あなたの言いがかりを放置したら、計り知れない被害を被るのは私なんだもの。徹底的に真相を解明したいわ」「まあ。あなたの裸を確かめれば、一瞬で明らかになることなんですがね」「どうして?」「あなたが、否、失礼。その女と言っときましょう。全裸になりましたからね」「…それを見たっていうの?」「はい。だから、あなたの裸を見せてもらえば、真実はたちどころに解明するって言ってるんです」「馬鹿を言わないでちょうだい。そんなことに応じるわけがないでしょ」
「それにしても、ここは暑いな」「だって、まったく風が通らないもの」「それに、こんな話をしていると目眩がしそうだ」「そうね。気が変になりそうだわ」
-疑念-
妖艶に揺れる女の尻に続いて部屋に入った男が、「いい風だだ」と、汗をぬぐう。「酷く喉が乾いたな」呟その男を肘掛けの椅子に座らせると、女はすっかり諦念した風情で背中を見せた。青いワンピースのあちらこちらには汗が滲んでいる。「奥さん。少しもお構いなく。氷だけをいただければ有り難いんですが…」と、ワンピースの薄い生地が張り付いて浮き立たせた、放埒な尻の割れ目を男の声が撫でる。女が振り返ると、「ウィスキーが飲みたいんです」男がバックからウィスキーのボトルを取り出した。「用意がいいのね?」「これじゃないと駄目なんだ」「あの会社のね。珍しい銘柄だわ」「ウィスキー、好きですか?」「まあ…」「グラスも頂けますか?」再び、汗を滲ませて揺れる尻に、「あなたの分も忘れないで」振り返った女の頬がわずかに怪しさを忍ばせて緩んだ。
慌ただしくコップの水を流し飲んだ女が、台所の床に崩れ落ちて大きく息を吐いた。忌々しい闖入者だと音をたてて舌打ちをした。
女はこの事態の解決の方途を未だに思い付けないでいた。真夏の真昼が突然にいかがわしく変容してしまったのだ。不意をくらって鳥羽口すら掴めないのである。危機は発火したばかりなのだ。
「あの男は本当に見たのだろうか…」女は混乱している。男の話には事実もあるし誤謬もある。誇張もあるに違いない。しかし、女自身の記憶も茫茫としているのである。半信半疑なのだ。女は堂堂を巡っているに相違ない。いずれにしても落ち着かなければならない。
もう一度水を含んだ。「あの男はどうするつもりなのかしら?」思わず呟いた女が即座に自らに回答した。 「夫の出張を見越して押し掛けたに違いないんだわ。これから三日間も留守なのも知っているんだ。このまま居座り続けて。終いには、きっと、私を犯して。飽きるまで蹂躙するんだわ。これは私が解いた答えじゃない。あの男があからさまに宣告してるんだもの。あの秘密を武器にして私が必ず屈することを確信しているに違いない。果たして、むざむざと餌食になってしまうのか。二人きりのこの空間で私は籠の鳥になってしまったのかしら…」 「そうだとしたら、今すぐにでもその勝手口から逃げ出す手だてもあるが…。それでどう解決するというものか…」「それにしても、あの男は本当に見たのか。だとしたら何をどこまで知っているのか。あの時にあの部屋は闇だったのではないか。…そうだ。証拠だ。証拠はあるのか。確たる証拠などある筈がない。若しそうなら男の主張は原発反対派の虚言として排斥できるではないか。しかし、この事は表沙汰には決してできないのだ。必定、二人の談合で解決しなければならないのだ。いずれにしても、あの事は決して悟られてはならない秘密なのだ」
-自慰-
女の思考はさらに混迷する。男は女への思慕を赤裸々に告白した。その意図を疑いながらも、虚無な風貌を女は嫌いではない。むしろ趣向なのだ。第一に、この退屈な真昼に突然に訪れた無頼に快感さえ感じるのである。
乳房を掴んでみる。豊潤に熟れている。あの秘密を死守するためなら御供などは厭うものではないが。この身体をあの男は気に入るのか。引き換えに必ず沈黙するのか。
異様に盛り上がった男の股間が訳もなく脳裏から離れない。 眼前の水屋の硝子戸に女の半身が映っている。訳もなくワンピースを捲ってしまう。真裸の半身が現れた。風はない。蒸せかえるような熱気が股間にまで流れ込んで膚を刺すのであった。
玄関から男の声が聞こえた時には湯上がりの自慰の途中だったから、下着を失念していたのだ。濃密な漆黒の陰毛だ。湿っているのは陽気のせいばかりではない。赤黒い隠唇を両の指で開く。硝子戸で朱い肉が光っている。自己愛に酷く執着するこの女は、快楽の年輪で創られた自分の裸体が限りもなく愛おしいのだ。油を引いた様に艶やかな白い肌は誇りすら感じる。、 陰唇の淵を探ると、うっすらと濡れている。この女の股間は肉食植物の様にいつでも陰湿なのだ。思わず指を入れてみる。熱い。この膣は何人かの男から名器だと囁かれたのだ。締め付けてみる。指に艶かしい圧力
が残る。あの男にも充分な武器に違いないのである。
女は四八。男とは大分の歳の差に違いないし豊満な身体だ。疎まれはしないのか。しかし、こんな身体を欲する性向の男達が多くいることも、女は承知している。
「あの男もその一人なのか。何れにしても、あの秘密だけは絶対に埋葬しなければならない。その為には、この身体と瞬発の知恵だけが私の武器なんだわ」
戻った女が、長椅子で男と向かい合った。グラスに女が氷を入れ、男がウィスキーを注ぐ。「穏やかな風が入りますね」
その時、女が不意に慌てた風情で、テーブルの端に乗っていた一冊の本を戸棚にしまった。
「何かに乾杯したいな」「こうして出会えたあなたの存在に、では、いけませんか?」「出来合いの修辞を平然と言うのね?」「まあ、いいじゃないですか」二人は互いの思惑を飲み込むように、ウィスキーを含んだ。
こうして、異様なほどに気怠い盛夏の昼下がりに、密室の猥雑な寓話の二幕が開くのである。
-夢幻-
ベント室に入るなり、女がある男に抱きついだ。「真っ暗だわ」「この方が都合がいい。誰が来るかわからないからな」「秘め事には格好ね。あなたの舌をちょうだい」
二人は服を脱いで真裸になった。女がしゃがみこんで陰茎を含む。まだ萎縮しているから女は存分に含んでしゃぶり始める。陰嚢も飲み込んだ。すぐに隆起が始まった。 「大丈夫?できそう?」「体位は?」「こんな場所だもの。犬になりたいわ」
女が四つん這いになって豊満な尻をつき出すと、後ろに回った男が挿入した。女がすすり泣く。「どうだ?」「家は飽きたし。原発を侮辱してるみたいで。普段の何倍も感じてるの。こんな秘密の中枢でするのは最高だわ。また、連れてきて?」「反対派の奴らの目が光ってるからな。そろそろ出すぞ」「もう?」「忙しいんだ。すぐに戻らなきゃならない」「慌ただしいのね?」「無理強いしたのはお前だぞ。相変わらず淫乱な女だな。昔からひとつも変わらない」「あなただって。これ。懐かしいわ」「出すからもっと締め付けてくれ」
男が射精した
。あたふたと服を着て、「帰り道はわかってるな。誰かに出会ったら、迷ったって言うんだぞ」
「どうしたんだ?」男の声音が変わった気がした。「どうしたんですか?」やっばり、あの男ではないと、漸く女は気づいた。
「どうしたんですか?」今までの男の声が蘇ってきた。「ああ。どうしたのかしら?」「私、何か変だった?」
-交錯-
網戸の窓から流れ込んだ一陣の風が女の解れ毛を揺らした。気を取り直した女が、「あなたはベント室の女が私だとあくまでも言い張るのね?」「事実ですから」「私は打ち消しているのよ?」「あなたの主張は自由です。でも、事実とは違う」「だったら、私達は真っ向から意見を闘わせるのね?」男がウィスキーを流し込んで、「本当はそんなことはしたくないんだ。しかし、あなたがそう言うなら。不幸なことだけど。仕方ありませんね」ウィスキーのグラスを弄びながら、女が、「私とあなたの考えは交わるのかしら?」「どうなんでしょうね。あなた次第じゃないですか?」「随分と高飛車に言うのね。交わらなければ、こんなはしたない言いがかりをつけられた私だけが酷く迷惑するだけのよ?」
「奥さん。誤解しないで欲しいな。俺はあなたを脅してるんじゃない。思慕を告白しているんだ。あなたは大事な存在なんだ。困らせる気なんて更々ない。交わるまで努力しましょうよ?」「交わるまで?」「そう。時間はたっぷりある」
「時間?そうだわね。こんなに誤解されたままでは、決して、あなたを帰らせられないもの。だから、夫が帰るまでにはあなたのその誤解を解きたいわ」 「三日間、あなたと一緒か?
。いいんですね?」
その時に、あの黒猫が現れて二人の間を横切っていくのである。「仕方ないんだわ」「わかりました。長丁場ですね」男がウィスキーを含んだ。
-性愛-
「あなた?私に恋をしたと言ったわね?」男が頷く。「でも、私は人妻。あげくに夫はあなたの上司なのよ。どういうことなのかしら?」「一目惚れしてしまったんです。心の働きだ。道理や理屈ではない」「でも、初めてあなたを見たのがあの情景だから。清らかな恋慕とまで言えるかどうか。自信はないけど…」「それに、あの落書きで散々に…」「お忘れ?ベント室の女は、あくまでも私じゃないのよ。そして、落書きはただの落書きに過ぎないわ。そうでしょ?」
「私の、眼前のこの私に対する気持ちを聞いているんだわ」「情欲というのが正確かもしれない」「情欲?」「性愛です。その思いを遂げたくて訪ねたんだ」
「だから、どうしたいって言うことなの?」「あなたを抱きたいんだ」女の口許は微かに動くが一片の言葉にもならない。「どうですか?」真っ白い首元がみるみる紅潮してくる。答えを待つ男が音を立てて生唾を飲み込んだ。
「抱くだけ?」「それから、何をしたいとおっしゃるのかしら?」「性交です」女の顔が険しく歪んで瞳が大きく見開かれる。
「あなた?本当に会社の方なのかしら?」男が頷く。「紳士的な風貌には似合わないわ。随分とあからさまな戯れ言を言うのね?」「戯れ言ではない」「本気だって言うの?」「はい」「あなた?正気なの?」「はい。こういうことは本心の端的が物言いが適切じゃないかな」
「あなたが見たこととの交換条件なのかしら?」「そんなんじゃない。だいいち、あなたは自分じゃないって言い張ってるでしょ?」「そうだわ」「交換条件なんかにはなりようがない。ただ、恋慕を遂げたいだけなんだ」
-背徳-
ウィスキーで唇を濡らした女が、「…あなた。お幾つ?」「三六です」「離婚したって言ったわね?今、彼女はいるんでしょ?」男が頷く。「幾つなの?」「三七」「だったら、私などに横恋慕して。ありもしない猥褻な言いがかりをつけたり。卑猥な戯れ言をさんざんに口走るなんて。いったい、どういうことなのかしら?」「それとこれは違いますよ。あなたの魅力に屈してしまったんです。理屈じゃないんだ」 「一切違わないわ。私に背徳を迫って。恋人も裏切ろうとしてるんじゃないの?倍の罪だわ」
「もちろんあれはあれで愛してます」「それって、余りに身勝手な言いぶりじゃないの?何も知らないその人が可愛そう。どんな人なのかしら?」「至極いい女ですよ」「まあ。ぬけぬけと。恋人だもの。してるんでしょ?」「してますよ」「そうやってさんざんに女を泣かせて。その逸物がさぞかし自慢なんでしょ?」女の瞳が濡れている。「見たいですか?」「結構よ。あなた?何を熱に浮かされたことを言ってるの?これはみんな冗談なんでしょ?」「本気ですよ」「信じられないわ。あなた?近頃はあまりに暑かったから、少しばかり気狂いでもしたのかも知れないわね?」「恋は狂気の沙汰などと言いますから」「私に恋してるって言うの?」「はい。奥さんの魅力にすっかり狂ってしまったかも知れません。あなたへの愛欲の虜なんです」「まだそんなことを。人妻が他の男などと交われるわけがないもの。あなたの話は呆れ返るくらいに不道徳なんだわ」「随分と清浄な素振りですね。今までに誰ともしたことがないのかな?」
「夫以外はね。当たり前だわ」「じゃあ、俺は初めての間男になるんだ。すこぶる光栄だな」「そんなこと、許してないわ」「俺の何が駄目なんですか?」「まあ。なんて傲慢な自信家だこと。あなたのこととかじゃないのよ」「じゃあ、何なんだろう?」「性交よ。あなたとじゃなくても夫以外と性交をするのが駄目なの。夫のある身で他の男とするなんて背徳だわ」
「あなたの顔も、その爛熟した身体も堪らないんだ」「爛熟?」「そう。熟れすぎた桃みたいに。甘い香りで。俺を散々に惑わせてしまうんだ。目眩がするほどだ」「未だ言ってるの。原発のあの女は、決して、私じゃないのよ」
-奇書-
女が腰をあげた。「どうしたんです?俺の話が気に障ったんですか?」「そんなことじゃないわ。この暑さでしょ。女の事情なの。ウィスキーを飲んでて」
女が出て行った。気配が消える。
男が、先程、女がある本を慌てた風情でしまった戸棚に歩み寄って戸を引くと、その本があった。包装紙でカバーがしてある。開いて確かめると、ある覆面作家が書いた幻の存在と噂の小説だ。壮大な天皇制批判と官能に満ちた、まさしく奇書だ。好事家の間では高く評価されている。男はその本を読んでいた。
しおりがしてある。開いてみる。つい今しがたまで、あの女はこういう世界に耽溺していたのだと思うと、男の淫情は募るばかりなのである。
女はニ階の自分の寝室に上がり、汗と恥辱と官能の兆しに汚された衣服を脱ぎ捨てて、派手な模様の布団に裸体を横たえた。豊満だ。傍らの三面鏡に白い肌と漆黒の陰毛が息づいている。はち切れる乳房を両の手で狂おしく揉みしだく。その手を広げると、夫の性癖で処理するのを禁じられた脇毛が祭りの夜の森のように繁茂している。股間を指で探ると、思った如くに淫靡に湿っている。熟れた身体の本性が反応してしまったのか。
-叔母-
女が戻ってきた。服が変わっている。花柄の薄いシャツに青いスカートだ。若やいで見える。「ますます男を惑わせる」「お上手ね」
薄いシャツの豊満な盛り上がりに乳首がくっきりと浮き上がっているのに男は気付いた。
「だから、あなた?これだけは必ず約束して欲しいの?」「何でしょう?」「乱暴な振る舞いだけは決してしないでちょうだいな。野卑は嫌いなんだもの」
男が声をあげて笑った。いぶかる女を放置して、煙草に火を点けてゆっくりと紫煙を放ち終えた男に、「何がそんなに可笑しいのかしら?だって、あなたが来た目的は何があっても私を犯すことなんでしょ?」「犯すなんて。そんな乱暴なことはしませんよ」「でも、私を抱きたいんでしょ?」「そうです」「だから、こうしてお願いしてるんだわ」
「あなたは俺がどんな狼藉を振る舞うかと心労しているんですか?」「力ずくで私を組伏せるのかしら?」「あなた次第だ。場合によってはそうするかも知れない。もし、そうだったらどうします?」「そんな卑劣は許せないわ。私には夫があるんだもの。たとえどうされようと…」
「今すぐにあなたに飛びかかって。そこに押し倒したら?」「ここに?」「そう。あなたの上にのし掛かって。その乳房に手を掛けたら?」「はねのけるわ」「それでも指を這わせたら?」「その手に噛みつくわよ。そしたら殴るの?」「どうしようかな」「きっと叩くんだわ」 女がわなわなと震え始めた。「どうしたんです?」「だって。私。思い出してしまって」「何を?」「遠い昔の。でも、決して忘れられない。本当に忌まわしい事件だわ。余りに厭らしいんだもの。あんなこと。今まで誰にも話せないでいたの」「話してくれませんか?」
「でも…」「少しは楽になるかも知れませんよ?」
いかにも長い吐息の後に、女が話し始めたのである。
「私が女学校の二年の時の夏休みだったわ。その年の暮れにあの忌まわしい戦争が始まったのよ。あなたは?」「五つだった」
「酷く暑い日で気味が悪いほどに蒸してたわ。私は町の女学校に寄宿していて、その日に帰省したの。昼下がりに玄関に入った途端に、家の奥から叫び声が聞こえたの。息を凝らして奥の部屋を覗いたら。叔母と男が揉み合っているの。私。驚いちゃって。事情も飲み込めないし。声もかけられないで」
「何をしている情景なのか、わかったんですか?」「私は一七だったのよ。初めて見る世界だけど。何が繰り広げられているか位はすぐにわかったわ」
「それで?」「叔母は三七。夫が半島で戦死して実家に帰っていたの。独立派の暴動鎮圧に当たっていて暴徒達に撲殺されたのよ。子供はなかった。叔母は母の妹で。母は婿取りなの」
-坊主-
「男は?」「お坊さんよ。村に一つしかない寺の住職なの。国民学校の先生もしていて。私は教え子だったの。物知りで温厚で。信頼される人だったわ」「歳は?」「あの時は六〇に近かったと思うわ。その男が、がむしゃらに拒む叔母から離れたかと思ったら。僧衣を…」「脱いだ?」「そうよ。みんな脱いだわ」「真裸に?」「そうよ」「見たの?」「何を?」「陰茎」「言うの?」「厭だったら言わなくていい」「厭だわ。でも。…見たわ」「どんなだった?」「…隆起してて。反り返って。臍まで届いてた。あんなのを見るのは初めてだったから。驚いて。口を手で押さえたの。叫びそうになったのかしら?」「おっきかった?」「そうよ。赤黒くて。剥れてて。陰毛がいっぱい。恐ろしいほどだったわ」「それから?」「それを見せられた叔母は凍りついたみたいにおとなしくなってしまって。男が叔母を後ろ向きにしたと思ったら。尻を叩き始めたのよ。随分と叩き続けたわ。そしたら、叔母のもんぺを脱がせて。下穿きも半分まで脱がせたら。叔母の尻が剥き出しになったのよ」「どんな?」「桃色の大きな尻だったわ」
「それで?」「坊主がその裸の尻を叩くのよ」「叔母は?」「呻いていたわ」 「それがおかしいのよ。厭だとか、止めてっては言うんだけ
ど。さっきみたいには抗っている風がないんだもの。その内に叔母が叫び始めたの。もっと強くとか」
「坊主が叔母を仰向けにさせたの。叔母はぐったりして。坊主に足を開かれてもされるままだったわ。坊主は叔母の股間を見ていたわ」
「どんな?」「厭らしいのね。知りたいの?」「教えてくれ」「厭だわ。坊主がその男恨で叔母の顔を叩き始めたの。叔母がそれを掴んで…」「頬ずりしたのか?」「そうよ。どうしてわかるの?」「それから?」「それから?さあ。どうしたのかしら?」「聞きたいな?」「つくづく、厭らしい方ね。でも、これから先は話せることじゃないわ」「充分に喋ったんじゃないか?随分ともったいぶるんですね?」「そうだったかしら。でも、もうこれ以上は駄目よ。あなた?せっかちはいけないのよ」
-マゾ-
「それよりも、私とあなたの話の続きがしたいわ。だって、いつの間にか話が逸れてしまったんだもの。肝心なのはあなたの無頼の話をしていたのよ。あなたも、あの僧侶と同じ無体を私にするに違いないんだもの。そうでしょ?男なんて、いずれにしても、終いには力ずくで欲望を発散するんわ。あなたも内心では、私を組伏せて叩きたくて仕方ないんだわ。きっとそうなのよ。違うかしら?」
男が煙草に火を点けて紫煙をなだらかに吐き出した。「何とか言いなさいよ?」「随分と物騒だな」「間違いなく叩くわよ」「どうかな」「今にも襲いかかりたくてうずうずしているんだわ」
「あなたはマゾなんじゃないですか?」「マゾ?」「そうだよ。奥さん?止めてしまったけど、きっと、さっきの話の続きが重要なんだ」「何故なの?」「坊主が叔母さんの尻を叩いた話だった」「そうよ」
「それから二人はどんなことをしたんだ?縛ったんじゃないですか?」「どうして知っているの?」「そんなのを見るのは初めてだった?」「そうよ」「処女だった?」「当たり前だわ」「衝撃的な経験だったんだ。それが脳裏にこびりついてしまって。逆に性癖になってしまったんだ」「性癖?」「旦那とはどんなことをするのかな?」「洗いざらい言えば解放されるかもしれない」「解放?」「鬱屈が取れるかもしれない。心が軽やかになる」「そうなのかしら?」
女が話し始めた。「縛ったわ」「どんな風に?」「叔母は随分と抗ったんだけど。両手を縛られてしまって。キスをされてたわ。口じゃない。うなじや耳よ」「それでも足をバタバタさせていたから、両の足首も縛られてしまったの」「もう身動きはできないでしょ?」
「私にはあんなことはしないわよね?」
-淑女-
「最近、古本屋で実に面白い本を見つけたんです。『淑女たちの囁き』という、戦後、暫くして書かれたもので私家本です。作者が男なのか女なのかもわからない。多分、高齢者ではないかぐらいで。まあ、奇書の類いです」「どんな内容なのかしら?」「戦後の道徳の廃退を嘆いている、と言うより、嘲笑しているんです」「復興の名目のもとに、この国の伝統や慣習が次々と失われていく。あの戦争で国民性が著しく歪んだように。いかにも移ろいやすい世相を、批判というより、斜に構えて揶揄しているんです。そうした視点で、市中の女たちの告白を集めたドキュメントなんです。浅ましい真実が網羅された奇書ですよ」
「あなたは、夫婦喧嘩はしませんか?」「…するわ」「腹の虫が収まらずに、秘密に仕返しをしたことはありませんか?」「…ないわ」「その本には、女たちの、様々な夥しい仕返しの事例が書かれているんですよ」 「例えば、夫の歯ブラシで便所掃除をして再び洗面に戻して、そしらぬ面持ちで夫の歯磨きを眺めた女の独白とか」「まあ。他には?」「夫の味噌汁に小便を一たらしした女とか」「まあ」
「圧巻は、閨房の最中に他の男を思い浮かべるというものです」「まあ。どういうことなのかしら?」「詳しく書いてありましたよ」「聞きたいわ」「夫が浮気をしたというんです」「その夫婦の歳は幾つなの?」「確か…。夫が五〇代前半、妻は少し下だったか」「それで?」「妻は錯乱して、最初はねやも拒絶していたが、いつの間にか身体が応じてしまった。それが悔しくて仕方がない。思い付いて、過去の男達との交接を夢想するようにしたんです」「夫との最中に?」男が頷く。「酷い裏切りだわ」「それでも怨念が収まらない。そんな時にある男に身を任せてしまうんです」「どんな人なの?」「旅の若い物売りです」「幾つなの?」「ニ〇代前半」「若いわ。妻にとっては子供みたいだわね。それで?」
「男は何を売っていたと思います?」「知る分けがないでしょ」「バイブレーターなんです」「それって。何かしら?」「知りませんか?」「知らないわ」「肥後ズイキは?」「聞いたこともないわ」「女に入れて楽しむ性具ですよ」「まあ。それで?」「この夫婦はバイブの愛好者だったから、裏切った夫の顔が浮かんでしまって。怒りがわき返って、その若い男を巧みに誘惑するんです」「そんなこと、奥さんはありませんでしたか?」
-殺意-
「最近の事件で、トリカブトで夫を殺害したというのがありましたね?」「新聞で見たわ」「犯人の妻は六三。殺された夫は七一だった」「数年に渡って毒薬を盛り続けたと言うんだ。その歳でですよ」「それほどにまでに、何が許せなかったんですかね」「四〇年の結婚生活だって書いてあった」「この二人はどれ程の夜を重ねてきたんだろ?」
「子供が二人いたんでしょ?」「互いを狂おしく求めたこともあったろうに」「男と女の身体の交わりなんて微塵の意味もないのかと、思いましたよ。どう思います?」「私にはわからないわ」「人の心は浮き雲の如しか。気持ちが変われば自ずと身体も変わる。性愛の絆など幻に過ぎないのかも知れないな」
「ご主人に殺意を抱いた刹那はありませんか?」「…ないわ」「あるんですね?」「ないわよ。そんなことがあるわけがないでしょ?」
-原発の交接-
「さっきの話の続きを聞きたいわ。玄関での話よ」「どこまで話したかな?」
「原発の女の話よ」「あなたの?」「私の、違うわ。まあ、いいわ。その女の特徴を言ってみて?」「見たんでしょ?私の、いいえ、その女の…」「裸ですか?」「そう」「奥さん?みんな脱いで真裸になりましたよね?」「してないわよ」「何を見たの?」「全てです」「だったら、どこまで見たのか、詳しく言ってちょうだい」
「そうよ。私の…」女が足を組み替えた。「さあ、私の身体がどんなだか、言ってみてよ」「わかりました」
「肌は真っ白だ。尻の割れ目の奥まで白い」「そんなとこまで見えたの?私だって知らないのに」「四つん這いになりましたからね。盛りのついため雌犬みたいに。豊かな尻の肉を震わしてましたよ」「乳房が豊かで。乳首も…」「あなたの三段腹がいかにも肉感的で、色情をそそるんです」「臍は?」「縦長」
-源氏物語-
ウィスキーを飲んだ男が、いかにも思いついたように、「奥さん?源氏物語は読みましたか?」「学生時代に、現代語訳で読んだわ」「それなら話が早い。誰の?」「君元詠子だわ」「随分と上品な」「そうなの?」「どう思いますか?」「世界に誇れる恋愛小説の古典というのが通説だけど…」女が男を凝視した。いったい、この男は何を話し始めようとしているのか。この問いは女の何を試そうとしているのか。どんな答えを期待しているのか。今はどう答えるのが賢明なのか。女の脳裏を思案が慌ただしく駆け巡る。
「私はそんな風には感じなかったわ。あれはただの雅な貴族の素敵な恋愛話なんかじゃないと、思うの」「どうしてかな?」「単純だわ。源氏は様々な女達と恋をするけれど。その関係性は義母や人妻、あげくには幼女などでしょ?」「いかにも特殊で、猥褻を暗示していると思うの。紫式部は直接的な描写は避けているけど、行き着くところは男女の営みがあるわけでしょ?その奇異で猟奇な場面を暗示するような設定を意図していたんじゃないかしら?」「実に興味深い意見だ」
「あなたはどう思うの?」「あなたが見抜いた通りだ。源氏物語の本質は性愛ですよ」「性愛って?」「肉欲の愛です。本能の性欲です」「どういうことなのかしら?」「まあ、有り体に言えば、性交したい欲望のことです」その時に、あれ程の蝉時雨が突然に止んだ。
「光源氏が様々な女たちに恋をして、結局はあなたの言う通りに性交するんでしょ?」「そうね」「源氏は性交をしたいが為に恋をしているんだ。これが肉欲です」
-秘本-
「『秘本源氏』という古の奇書があるんです。知ってますか?」「初めて聞いたわ」「『女の儚』というもう一冊と、この国の奇書の双璧をなす傑作です。世界にも奇書は数あるけど、この二冊はまさに絶品です」「作者は誰なの?」「不明です。紫式部という説もある」「どんな内容なのかしら?」「『源氏物語』の隠されたテーマの肉欲を、大胆に赤裸々に描き出したんです。
筋書きは『源氏物語』をなぞって、禁忌によって隠されて書かれることのなかった、女達と光源氏の性愛、閨房の姿態の様々を細密に生々しく描写しているんだ。出色は、光源氏の敵役としてある怪僧を登場させていることなんですよ。この人物は、あの道鏡がモデルと言われている」「道境って?」「女帝を籠絡して御門になり変わろうとした、史上、唯一の男です。前代未聞の巨根と言われている」「まあ。どれくらい凄いのかしら?」
-エロス-
「愛と性愛をキリスト教では明確に分けている。精神的な愛や純粋な愛をアガペーというんだ。一方で、肉欲をエロスという」再び、蝉時雨が騒がしい。
「恋をして愛し合い、結婚して添い遂げる。これがアガペーの愛です。そして、この二人は夜な夜な寝室を共にする。とりわけ、新婚には夜は堪らない快楽だろう。これがエロスです。だから、エロスは閨房の闇に隠されているんだ」「だって、秘め事と言う位だもの」「だったら、恋って何なんです?」「好きになることでしょ?」「好きだから抱きたい。交接したいって思うのは?アガペーですか?エロスなんですか?」女が膝を組み替えた。
「男、いや、雄は雌なら誰とでも交尾できる訳じゃない。気に入った雌じゃないと反応しない。雌だってそうでしょ?」女の瞳が湿っている。「気に入ったの雌なら一目見ただけで生殖欲が湧いてくるんだ。違いますか?」
「どうなんでしょ?性愛と恋愛はどう違うの?」「違わない。人間は性愛を醜いものとして隠してきたんだ。夫婦の愛を尊いものとして礼讚しながら、夫婦の夜の営みは忌むべきだと、隠蔽するんだ」
女が白い太股をあらわに交差させて足を組み替えた。その一瞬に、太股の付け根の暗闇がのぞいた気が、男はした。「源氏物語もそうだっていうの?」「そうです。女に惚れた男がその女を口説いたり、犯したりして思いを遂げる話です。これは男と女、雄と雌の、原始からの普遍なんですよ」「そうかも知れないわね」「間違いありません」
「それにしても、あなたの物言いはあからさまに過ぎるわ」「こんなことは直裁がいいんです」「そうなの?私の何かを刺激するために、挑発しているのかしら?」「そういうあなただって相当に露骨ですよ」「そうなの?」「今までの話だって、思えば、凄い話をしていましたよ?」「そうだったかしら?」「意外と大胆に表現するんですね?」「心外だわ。あなたの物言いに刺激されて、素直に反応しているだけだわ」「そうかな?」「だって、あなたの話があまりに唐突だったんだもの。あなたへの返答に夢中だったからだわ」「それだけじゃない。俺以上に露悪な表現をする時がある」
「厭らしい話?私、してるかしら?」男がウィスキーを含んだ。「気をつけるわ」「いいんだ。そのままで。厭らしい話をしてると前戯みたいで興奮するんだ」「前戯?」「交接の前の痴戯だ」「ほんとに厭らしいんだから」
「あなたは興奮しない?」「しないわ」「興奮するのが恥ずかしいのか?」「そうじゃないけど」「俺との交接は嫌なんだろ?」「当たり前だわ」「話すのはいいんだろ?」「どうなのかしら?」
-『夏』-
「草也っていう作家、知ってますか?」「あの『儚シリーズ』の作者かしら?」「ほほう。読みましたか?」「まあ…。いいえ。読んではいないわ。学生の頃に、行きつけの古本屋で。ちょっとだけ。噂を聞いただけだわ」
「なるほど。『儚シリーズ』は地下出版の佳作と言われている、奇書中の奇書です。たぐいまれな傑作だ。『秘本源氏』に勝るとも劣らない。快作です」 「どんな内容なのかしら?」「一言で言えば、謀叛の文学です。この国の禁忌、絶対的なタブーに対する告発と反逆の叙事詩です。御門制に対する凄絶な怨嗟と憎悪。そして、北の一族の、御門制打倒の戦いの壮絶な歴史。御門制に蹂躙され続けてきた自らの民族に対する哀歌。愛と憎しみで交錯する男女の群像。禁忌に挑戦する大胆に過ぎる性愛の表現、などなどですね」
「面白そうね。興味をそそられるわ。作者はどんな人なのかしら?」「それが難しいんだ」「どうして?」「この本が耳目を集めるようになったのは戦後の混乱期だが、戦前から書かれていて、密かに書き継がれていたという研究もある。作者も複数ではないかと言う者や、秘密結社が革命の手段として、集団で創作したんだと唱える者すらいる始末だ」「誰かはわからないのね?」「今でも志を継ぐ誰かが書いているかも知れない」「そうだとしたら、ますます読んでみたいわ」
「あなたは、登場人物の一人を彷彿とさせるんだ」「誰なのかしら?」「第一巻の『宗派の儚』の主人公の『夏』です」「どんな人なのかしら?」
男の長い話を聞き終えた女が、「凄惨な最期なのね」「『儚』は、殆どの登場人物が無惨な結末を迎えます。ここにも作者の意図を感じます」「私の何が、夏に似ているのかしら?」「まずは、描写されている夏の身体でしょうね。俺は女優の京まち子をイメージしていたんだ。まさに、あなたがその女優に酷似していた。言われたことはないですか?」女がウィスキーのグラスを口に運びながら頭を振った。「あなたに似て豊満なんだ。豊潤と言った方がいいのか。やっぱり爛熟かな」「まあ」「乳房も尻も…。肌は桃色だという。そこはあなたと違う」「あなたは雪の上に降り積んだ雪のようだ」「まあ」「そんな肌も、年輪を重ねて…」
「交接している顔の描写が様々なんだ」「菩薩も観音もあれば、夜叉も修羅もある。眉間に深い縦皺を二本刻んで。小鼻を膨らます。首筋から耳へ紅潮が伝播して。紅くて厚い唇が濡れて、舌の先がのぞく。官能の極致の表情だ」
「肉欲や色情も燃え盛って昇華されると、別な次元に転化するのかも知れない」「作者はどんな醜女でも法悦を迎えた顔は絶世の美女と変わらない。むしろ、勝る時すらあると、書いているんだ」「女陰の構造まで同じゃないかと妄想するくらいだ」
「夏のはどんななの?」「奥が深くてどんな巨根も易々と呑み込んでしまう。それなのに、とびきり締まりがいい。姦淫された男根を食いちぎったという記述もある」「なんて凄いのかしら」「そして、潤沢に濡れる。その臭いが香しい」「どんなのかしら?」「熟した桃の香りだそうですよ。あなたのも、きっと、そうに違いない」
-繭子-
戻った女がテーブルに、こんにゃくの煮物や浅漬け、ミニトマトなどを置いた。
女がミニトマトを頬張って舌で転がし始める。唇の端に欲望の欠片のような赤い汁が浮かんでいる。
「原発で、あの時にあなたを見て。あまりにも衝撃な出会いだったから…」「だから、何べんも言うように、その女は決して私じゃないのよ」「まあ、それは。ゆっくり解明するとして。その瞬間にあなたに一目で惚れてしまったんだ。夢にまで出てくるのはあれからなんだ」「そんな風に言われても。絶対に人違いなんだもの。同意のしようもないんだわ」「妻としてても、つい、あなたの名を呼びそうになる」「あら?私の名前を知ってるのかしら?」「上司の奥さんだ。当然ですよ」「言ってみてちょうだいな」「繭子」 女が微かに身震いして沈黙した。「どうしました?」「何十年ぶりに名前を呼ばれた気がしたんだもの。何でしょう?突然に女に呼び戻されたみたいで。驚いたんだわ。あなた流に有り体に言えば、久方ぶりに子宮が疼いたのかしら。名前があるのすらすっかり忘れていたんだもの」「ご主人は何と呼ぶんです?」「おい、とか。ほとんど会話もないのよ」 「とっても素敵な名前なのに。残念ですね」「昔は絹が宝でしょ?繭はその母体だもの。女の源だって、母から聞いたわ」 「あら。私ったら。自分のことばっかりで。あなたの名前を未だ聞いてなかったわ?」「草一郎」「やっばり。素敵な名前だわ」
「あなた?今からは私に敬語はやめてちょうだいな。随分と若い方にそんな風にされるのは面映ゆくて。どうしても馴染めないんだもの。あなたのいかにも無頼な風貌にはまるで似合わないわよ」「いいですよ」「あなた?それが駄目なんだわ」「わかったで、いいんだわ」「それに。…名前で呼んでもいいわよ。あなたが嫌でなかったらだけど」
女が、また、はミニトマトを頬張る。煙草の煙をゆっくりと燻らせる男が、「その顔なんだ。妻のよがり顔があなたのその顔に見えてしまうんだ」「よがり顔って、どんな顔なのかしら?」「交接の時の享楽の表情だよ。特に射精を受け入れた時の顔だ」「どんな表情なのかしら?」「眉間に皺を寄せたり」「それから?」「息を熱くしたり」「射精しながら、奥さんのそんな顔をあなたは見てるの?」「そうですよ」「いっぱい出しながら?」「そうだ」「奥さんはどうしてるのかしら?」「俺を見つめてる」「目を開けてるの?」「そう」「猥褻な人達だと思うわ」「猥褻が官能を高めるんだ。違いますか?」「そうなのかしら?あなた達はそうかもしれないけど」
「繭子は、射精される時にどうしてるだ?」「まあ。初めて名前を呼んでくれたわ」組伏せられた処女の様な面持ちで、女が輝いた。「呼んで悪かったかな?」「いいえ。そんなことないわ。突然だったから。ちょっと驚いただけなの。それで?何だったかしら?」
「あなたが射精される時だよ。どんな風になるのかな?」「そんなの知らないわよ」「法悦で夢中だからかな?」「厭だわ。決して教えないわ。それよりも、あなた?その時のあなた方の体位はどんななのかしら?」「妻が上だ」「激しい人なのかしら?」「どんな女でも夜は娼婦だよ。昼は貞淑な淑女。男の理想だ。違うかな?」
-遍歴-
遂に、二人が名前を示しあった。従って、この国の敗戦を挟んで生きてきた二人の歴程を、いよいよ、示してもいいのだろう。原発の前代未聞のスキャンダルの解明には不可欠だからだ。
女の名は繭子という。四七歳だ。敗戦のあの夏はニニの寡婦だった。夫は一年前に南洋で戦死していた。
ヤマグチの出身で、父親は職業軍人だったが敗戦の年の初冬に自裁した。母が突然に病死して僅かに一月後のことだった。四人兄姉の末っ子だが、兄二人はいずれも戦死して、姉はヒロシマに嫁いでいて原爆で殺された。
繭子は地元の女学校を出ると親戚の零細な紡績会社で働いた。二十で幼馴染みの男と結婚した。夫はニ三。中農の自作農の跡取りだった。
それまでの女の男性経験は初めての夫を含めて八人。幼い頃から多情な女だった。処女喪失と言えるのか、八歳の時の初めての相手は幼馴染みの夫である。
義父母があったが、嫁いですぐに義母は病死してしまう。
一年後に召集された夫はすぐに南洋で戦死して遺骨も届かなかったから、餓死や病死の疑念が女には残り続けた。
夫が戦死した後には義父と二人暮らしになったが、未だ四五の頑健な男やもめと若い寡婦が肉欲の虜になるのには、それほどの時間は必要なかったのである。
義妹の二人はそれぞれが嫁いでいたが、繭子は、一人の義妹の夫とも関係を持っていた。
そうしたある日に、ある訪問販売員が現れて、驚くほどの性戯で、たちまちのうちに女を俘虜にしてしまう。
そうした忌むような日々の果てに、女は敗戦の日を迎えたのである。父が自決すると間もなく、天涯孤独に墜ちた繭子は、その販売員の元に出奔してしまうのであった。
敗戦直後の混乱は、復興への兆しの一方で、貧困や退廃は極まり、エログロ文化やヘロインなどの黎明でもあった。繭子はその只中に身を置いたのである。しかし、爛れた生活は短かった。
身体も心も散々に弄ばれた挙げ句に捨てられた女は、絶望の果てにあった。その時に、あの倫宗と巡りあって救われたのである。果たしてあの夏や翔子などとも接点があったのだろうか。
倫宗のある僧侶と関係して、執政の名目で男の寺に入ったが、事実は妾である。ニ四の時だ。
この四〇近い僧は反草也派の幹部で、金貸しやでたらめ占いなどに血道をあげる極道だった。離婚して三年で一五になる一人息子があった。
ある日に、女がある男と性交しているのをたまたま目撃したその息子が、男を撲殺してしまう。女は息子と性交しながら、二人で遺体を寺の墓地の奥深くに隠した。
すぐに、息子は遠い他県に進学して行く。間もなく寺が焼失して僧は焼死したが、女はやにわに逃げて無事だった。教団本部が出動して対応に当たり、警察の捜査の結論は、泥酔した僧の煙草の不始末というものであった。息子には多額の生命保険が支払われた。僧が隠匿していた金品は教団が残らず回収したのである。女がニ六の時の出来事である。
その翌年に、人の薦めで、電力会社に勤める男と再婚した。女がニ七、男は三四である。
すぐに娘を一人もうけて、今は二十。大学生だ。夫は五三。 去年、本社からF原発に転勤して、人事部次長である。労働組合対策の責任者だ。
女は夫の同僚や部下の数人とも関係しているという噂が、密かにある。原発の施設内で性交して、草一郎の配下に目撃されたのは、果たして、この女なのか。相手の男は夫なのか、別な誰かか。究明は始まったばかりなのだ。
女は中背。年齢に相応しい豊潤で弛んだ肉体は、完熟の風情すらある。身についた官能を隠すことなく発散していた。
転地したばかりの専業主婦だ。地域との接触もない。暇と肉欲をもて余しているのだ。多情で絶倫だが、夫との交わりは月に一回程度なのである。酒が好きで、とりわけウィスキーに目がなく、昼間から飲む。そしてよく眠る。自堕落なのか淫奔なのか。生来の性向なのか、環境がそうさせているのか。
性愛小説を読みながら自慰をする。マゾヒストだ。尻叩き、縛り、小水かけなどに興味を示す。名器だと言う男が数人いて、女も自認している節がある。
-草一郎-
男は草一郎という。三五歳。電気工ではない。プロの労働組合活動家である。いわゆる社会運動家なのだ。原発経営陣が最も怖れる男の一人なのである。
全日本原発労働組合協議会事務局長。これが彼の肩書きで飯の種だ。同時に、戦闘的少数第二組合のF原発労働組合書記長も兼務している。
アイズの教員の長男だが実家とは疎遠だ。義妹と思春期の頃から関係している。
独身だ。結婚をしたことはない。だから、この男が繭子に言っている妻帯の話しは全くのでたらめだ。
ある大学で学生運動に参加して、留年しながら、国防条約改定闘争を闘ったのはニ五の時だ。
『党派の儚』のあの唐橋とは同志だった。妻の典子とも交流があったのか。秘めたままの思慕だったのか。語るのは、未だその段階ではない。そして、あの初代草也との接点はあったのか。大河は展開したばかりだ。おいおい明らかになるのだろう。
学生時代からある極左政党の役員で、全日本革命学生協議会の幹部だった。逮捕されて一年の実刑を勤めた。出所後は、引き続いて政党幹部でありながら、某労働組合専従となった。そこから現職に派遣されているのである。
草一郎は写真が趣味だがカメラの腕はプロはだしだ。この極左政党は活動資金調達の一環として、敗戦直後の結党当初から出版を手掛けてきた。エログロ雑誌や写真の製造販売のルートも持っているのだ。
読者諸氏は『異人の儚』の伊達と二人の女の奇妙な生活をご存じだろう。あの生活を支えたのがこの組織なのである。果たして、この線上でも、繭子との交差はあったのか。
草一郎は赤紫の巨根の持ち主で稀に見る絶倫だと、誰かが語るのは事実なのか。繭子もそれを証明する一人となるのだろうか。奇談の幕は、今、開いたばかりなのである。
-猫の舌-
その時に、生臭い風がひとひきり吹き渡ったかと思うと、黒猫が現れた。あの猫だ。女の尻に体を擦り付けてなまめかしい鳴き声をたてながら、女のふくよかで白い掌を一嘗めする。女の指が怪しげに猫の舌を弄ぶ。その痴戯に割って入るように、「面白い猫だな。写真を撮っていいかな?」「写真?」「ポラロイドカメラを持ってるんだ。すぐに現像できる」「今、見られるの?」「そうだ」
男がカメラを構えてシャッターを切った。間もなく現像ができる。女がその写真を満足げに眺めながらウィスキーを飲んだ。「腕がいいのね?」「趣味なんだ」「その域を越えてるわ。私、猫が好きなの。あなたはこの猫の本質を存分に写し取ってるわ」
-エミシ-
「こんな素敵なことをしていると、あなたがまるで野人なのか、それとも、眼前のあなたとは全く違う別な人なのか、わからなくなってしまうわ」「野人?」「ここら辺は昔はエミシって言ったんでしょ?あなたはその子孫じゃないの?」「それで野人か。そうだ。その通りだ。カンム御門がサカノウエノタムラマロを派遣して、破壊や収奪、殺戮を繰り返して、民族の古代からの土地を略奪したんだ」「女達が散々に犯された。混血が進んで、支配されてしまったんだ。そして原発だ。反対する頬を札束で懐柔して、あの危険な怪物を建ててしまった。古代からの非道な蹂躙は、未だに続いているんだ」 「だから、西の女の私を犯してもいいって言うの?」「そうは言っていない」「あなたに流れる先祖の反逆の血が、淫らに欲情してるんだわ。私を見つけて盛りがついたんだわ」「何と非難されても、お前への情念は冷めない」
「なぜ、私としたいの?」「惚れたからだ」「ただの色欲でしょ?」「お前に魅力があるからだ」「なぜ、私を抱きたいのか、詳しく教えて欲しいわ」「原発のエリートの奥さんを凌辱したいのもある」
「原発の管理職なんてエリートなもんですか。ただの汚れ役よ。それに、私は百姓の出の、ただの肥えた年増女よ」「それがいいんだ」
「夫にも見向きもされない、太ってるだけのおばさんだわ」「それが好きなんだ」「あなた?私を、いったい、幾つだと思ってるの?」「年上が好きなんだ」「見たらわかるでしょ?随分と大年増よ」「その熟れきった桃のような風情がたまらないんだ。嘘は言わない。若いのなんてつまらない。話す気にもなれない」「それに、私は人妻よ」「それが何だというんだ?俺にとってはなんの意味もない。人妻に惚れては駄目なのか?」「そういう訳じゃないけど。わがまますぎるわ」「何かの罪になるのかな?」「好きになるのは悪いことじゃないし。好かれたら悪い気はしないわ」「繭子?正直に言えよ。俺に惚れられて、心底から厭なのか。それとも、違うのか。本当に忌避するなら、俺はすっぱりと諦めるよ」「待ってちょうだい。嬉しくない筈がないでしょ?それに、あの件を解明しないままだったら。私。困るわ」「だったら。その、惚れてしまったお前を抱きたいと願うのが犯罪なのか?」「理屈は通っているようだけど、随分と得手勝手な言い分ね。人妻と関係するのは人道に反するでしょ。昔だったら姦通罪なのよ」「そうかもしれないが。惚れるなどと言うことは、所詮、身勝手なものだよ」「そうなの?」「好きか嫌いかなんて、理屈じゃない。感性なんだ。本能だよ。繭子?そう思わないか?」
-唇-
「いいなぁ」「何が?」「その表情だよ」「私の?」
「撮っていいかな?」「どうしようかしら?」「繭子?」「はい」「何を心配してるだよ。俺はただ撮りたいだけなんだ。これはポラロイドだからネガもない。撮った写真はみんな繭子のものだ。俺には何も残らない」「わかったわ」
蝉時雨に包囲されて草一郎がカメラを構えた。「そう。その唇」「唇?」「ぽってりして。紅くて。濡れてる。唇は女性器の化身だと聞いたが。淫らの極限だ」「露骨なのね。厭だわ」「でも、そんなに厭らしいの?」「性交したばかりの女陰みたいだ」「まあ」「精液が溢れてる陰唇かな」「露悪趣味なのね。サディストなの?」と、言いながらも、女が紅い舌で、また、唇を舐めると、「それだ」と、男がシャッターを切った。
「どんな風に写ってるのかしら」たちまちのうちに現像された写真を見た女が、「私じゃないみたいだけど、私なんだわ。自分が知らない自分なのね。あなたはそれを引き出して写し取れるのね。凄く腕がいいのね。プロみたいだわ」「モデルが秀逸だからだよ」「嬉しいわ」
「お前のは濡れやすいだろ?違う?」「どうしてそんなことがわかるのかしら?」
「唇の形でわかるんだよ」「どうしてなの?」「ヒトの器官でものが入るのは口と膣だけだろ?」「そうだわね。口では食べ物を食べるし、膣では…そうね」「そうだろ。だから、唇は陰唇そのものなんだよ」
「食べるのが好きじゃないか?」「好きだわ。だから、するのも好きだと言うの?」
「ほら。今、唇を舐めたろ?」「それがどうかしたの?」「お前の癖なんだよ。唇をいつも濡らしてる。実に淫乱だ」「そうなの?」「撮るぞ。もっと唇を舐めて」「こう?」「それだ」男が矢継ぎ早にシャッターを切る。
上気しながら、出来上がったばかりの写真を見た女が、「これがあなたの言う官能なの?」「そう」「官能ってとっても綺麗なのね」
「氷を含んでくれないかな?」「こう?」「氷を少し出してみて。夫のをくわえているみたいに」「厭な人」「こんな官能的な表情は滅多にないから。頼む。繭子」「そんな風にされると。仕方ないわね。こう?」
女が氷を含んでから半分ほどを出して、唇で弄ぶ。「それだ」男がカメラを構えて、「もっと唇を濡らして」次々とシャッターを切った。
現像された写真を見た女が、「凄いわ。あなたの言う官能の意味が良くわかったわ。厭らしいんだけど綺麗なのね。神秘的だわ。こんなに撮るなんてプロだわ」「モデルの素材が飛び抜けているからだよ」
-ヌード-
草一郎は既に繭子の容姿を十数枚ほど撮っている。それを見て繭子は至極満足していた。
「あなたのヌードを撮りたいんだ」と、蝉時雨の合間に切り出した男に、「ヌード?」と、女は慌てる風もない。「他意はまったくない。写真家の端くれとしての興味だけだ」「本気なの?」「ただ、あなたの魅力を写し取ってみたいだけなんだ」「でも…」「ポラロイドだからネガもない。撮った写真はみんなあなたのものだ。俺には何も残らない。あなたの秘密は完全に守られる」「私の秘密?何の?」「肉体の」「でも、あなたには晒すんでしょ」と、反撃した。狼狽えた男が、「それに…。あなたは、俺が原発で目撃した女は自分じゃないと頑なに否定している。ヌードになれば一目瞭然じゃないか?もし、俺の間違いだったら、誤解も一瞬に氷解するんだ。そうは思わないか?」「少し考えさせてちょうだい」
暫くして女が、「わかったわ」「だったら?」「いいわよ。あなたの腕だもの。どんな風に撮って貰えるのか楽しみだわ」
-花-
「私はどうすればいいのかしら?」「最初はブラジャーとパンティを着けるんだ。それで、何枚か撮る。派手な色がいいな」「濃い紫にするわ」「黒はないのか?」「黒?」女の目が泳いで、「…ないわ。だって、持ってないもの」
「あなたは真っ先に私の股間を撮って、証明したいんじゃないの?」「違う。あなたの最大の魅力は、その豊かで真っ白な、歓喜の様な尻なんだ…」「歓喜?」「そう。陶酔といってもいい。だから、真っ先に、というより、それだけを撮りたかったんだ」と、男は窓際に行き、庭を眺め始めた。
「あの大木に満艦飾に咲き誇っているのは何ていう花なんだろう?」「マカビリウスっていうらしいの。綺麗な紫の大輪でしょ?大家さんが自慢しているわ」
男があたふたと庭に出て、一抱えの花束を持って戻って来た。
「この花であなたを飾るんだ」
女が男の指示でポーズをとる。うつ伏せに寝て尻を際立たせる思惑で花を配した。出来上がったがった最初の一枚を見て、女は乳房を揺らして歓喜しながら、「これだったら、ヌードの私の尻を撮りたいあなたの気持ちも、わからないじゃないわ」と、意味ありげに視線を送った。
-エプロン-
ウィスキーを含んだ女が、「いいことを思い付いたんだけど。聞きたくない?」「どうしたの?」「エプロンをするのはどうかしら?」「エプロン?」「ヌードによ。お尻はすっかり見えるけど。前は隠れてるわ」「どうかな?」「だって、あなたが私のお尻を褒めそやしてくれるんだもの。もっと、見てみたくなったの。それに…」「あなたの写真は、実物以上に魅力的なんだもの」「今までいっぱい撮ってくれたでしょ?自分がこんなだったかって、驚いたわ」「試しに着けてみようかしら?あなたが厭だったら、止めればいいんだもの」「エプロンの色は?」「黒と大輪のヒマワリがあるわ。黄色よ」「そうだな…」「どうかしら?」「二つとも試してみようか」
女が裸体に黒のエプロンだけを着けて現れた。股間はすっかり隠れているが、後ろは数本の紐が交差しているだけだ。白い豊かな尻が、男を捕らえて離さない。女がこれ見よがしに肢体をくねらす。 「どうかしら?」「そうだな。撮ろうか?」
-花畑-
「どんなポーズがいいのかしら?」「そうだな…。ここは、人は来るのかな?」「殆んど来ないわ。集落からは離れた一軒家だし。越してきたばかりでお付き合いもないし。郵便配達の来る時間はとっくに過ぎたわ」 「庭が花盛りだよね?」「ダリアやグラジオラスだわ。大家のお爺さんが育てているの。手入れを欠かさないわ」「これから来るのかな?」「朝の涼しい時だけだわ」「すぐ向かいに神社があるね?」「小さな祠だけど、由緒があるそうよ」「夏椿が咲いていたんだ」「そうなの?」「庭と神社で、あの花花と撮らないか?」 「外に出るの?」「背景が最高なんだ」「どうしようかしら?厭だと言ったら?」「思い付いてしまったら、他では食指が動かないな」「すっかり写真家なのね。いいわ。そうしましょ」
二人は外に出た。「これでいい?」花畑で女が尻を見せる。「そこを花で飾ろう」男の指示に、「こう?」 男はポーズを変えさせて無心で撮り続ける。向日葵のエプロンに代えて撮っていると、「背中だけしか撮らないならエプロンを外してもいいわよ。どう?」男の答えを待たずに、女が大輪の花の群れに身を隠した。すぐに裸体を現して、「心変わりよ。胸を記念に残したくなったわ」と、下半身を花に埋めた女が、乳房を淫らに揺らしてねだるのである。思わず男がシャッターを切った。それから、花の中の裸の背中を存分に撮った。
-榊-
「あなた?このままであの神社まで歩きましょうか?人が来る気配はないし。あなたは後ろからついて、思う存分にお尻を撮ったらいいんだわ。どうかしら?」草一郎は繭子の突拍子もない提案に雀躍して同意した。そして、真昼の炎天下を女の僅かばかりの衣服を負い、レンズの奥から女の裸の尻を追うのである。
神社まではニ〇メートルに満たない。一本道で四方を見渡せるが、人の来る気配は微塵もない。自然の密室なのだ。
繭子はありのままに散歩をする風情で、爛漫にゆっくりと尻を揺らすのである。
まさにルノワールの女ではないか。シャッターの合間に男は嘆息した。
女は道端の花に屈みこんだり、交尾して連なった蝶に見とれたり、モデルはだしの姿態を創る。
一区切りがついて、神社の榊の大木の影で二人は涼んだ。草一郎が持ってきた浴衣を繭子に渡した。
不思議とそこだけにはみずみずしい風が吹き通っているのだった。何事もなかったかの如くに、女が、「樹齢は千年に近いと聞いたわ」と言う。「この地の守り神みたいだな」
蝉時雨に包まれて、二人はウィスキーを飲み、男は煙草を吸う。
-異形の儚-
「この社はオニ様って言うらしいわ」繭子に応えて、草一郎が話し始めた。 「もっと北ののツガルの鬼沢という部落に、ある伝説が残されているんだ。
ニ三郎ニサブロウというが男が鬼と仲良くなった。飢饉の時に、鬼が大川に堰を作って水を引き入れて村人を助けた。以来、鬼沢と名付けて神社を建立して鬼を守り神として祀ったという。その社を鬼神社と呼んだ。鬼神社の存在はツガルでもイワキ川の流域の数ヵ所に限られているらしい。鬼は少数の異人だったんだ。そして、彼らの先祖なんだ。この民族はどんな民族なんだろう」
「それに、この社のすぐ南を流れる黒磐クロイワ川の流域には縄文の遺跡が点在している。そして、オニ神社というこの社。或いは、イワキ川流域に点在した民族と似た民族がいたのかも知れない」
-ルノワール-
頃合いを図った女が、「ねえ?私はあなたが見た原発の女なのかしら?」「わからない」男の答えは茫茫としすぎている。「こんなにまでしてるのに、どうしてはっきり言ってくれないのかしら?」「あの時の記憶と眼前のあなたは同一人物だと、確信しているんだ」「未だそんなことを言うのね?」「でも一方で、俺はあなたにすっかり捕らわれているんだ。性愛といえども愛だ。いたわりの気持ちは存分にある。原発のあなたの、あのことを告発するつもりなんて更々ないんだ。だから、最初から言っている通りなんだ。あなたに惚れて抱きたいだけなんだ。他には何の意図もない」「あなたが求めている女が、こうして殆んど裸でいるのよ。犯すことだって出来るんだわ」
「今のあなたは俺の大切なモデルなんだ。決して性愛の対象じゃないよ。モデルに手を出す写真家など写真家じゃない。それに、女を犯すなどというのはそもそも俺の趣味じゃないんだ。そして、カメラを通してあなたを見て、ますますその魅力に気づいた。そんな人を犯すわけがないだろ?第一、勃起などするわけがない」
男が煙草を燻らしてウィスキーを飲んだ。「あなただって俺を誘惑したり、犯されるために裸体になったんじゃないだろ?自分の魅力を確認したいからモデルになったんだろ?」
「あの時にも言ったろ。モデルは崇高だ。モデルの肉体は写されるだけに存在するんだ。食指は全く動かない」「今がそうだと言うのね?」男が頷く。「崇高ってどういう事なの??」「崇高は肉体の魅力を引き出す原動力だ。レンズを通して究極の魅力を発見するんだ。ルノワールの裸婦画は?」「好きだわ」「あの裸婦画の数点を買ったパリの富豪で有名な好事家が、実際のモデルはさぞかし官能的な女だろうと、訪ねたそうだ」「それで?」「豊満には違いないが、さしたる魅力も感じさせない大年増の農婦だった。そこで、貧困な寡婦の女が驚くような金を与えて、その身体を買った。男の腕の中で悶える女を観察していたら、キャンバスに描かれた女を発見して、改めてルノワールを称賛したと言う逸話だ。ルノワールの技量が、普段は隠れている女の官能を発見して、描き出したと言う話だ」「それは私にも率直にわかるわ。あなたに撮ってもらった写真の私は、今までに見たこともない私だったんだもの。凄く驚いたのよ」「光栄だ」「あなた?そのモデルはルノワールとはしなかったのかしら?」「富豪が詳細な文章を残しているんだ」「聞きたいわ」「ルノワールはそのモデルとはしてなかった」「そんな秘め事がどうしてわかるのかしら?」「富豪がモデルに証言させたんだ。条件付きで」「条件って?」「本当のことだけしか言わないことを約束させて、身体とは別に高額な金を与えた。同時に、後で嘘がばれたら没収すると言う書類にサインさせたんだ」「念が入っているわね」「それだけじゃない」「質問は交接しながらすることを約束させたんだ」「まあ。拷問みたいだわね」「そう思う?」「だって、あんな時に聞かれたら、どうなってしまうのかしら。富豪が嘘だと思ったら、攻められるんでしょ?」「そうだな」「あなた?二人の歳は?」「三人だよ。モデルは二人いたんだ」「三人でそんなことをしたの?」「そう。モデルの一人は三〇半ば。もう一人は四〇過ぎ。富豪は六〇過ぎだったから、娘みたいなもんだね。どんな風にしたかも詳しく書き残してる」
富豪と女達の詳細な艶話を聞き終えた女が、「わかったわ。もっと撮るんなら、どんなポーズでも言ってちょうだい」と、言いながら、御しがたい男だとでも感じた風な女の眼差しに、一瞬、険しい光が走るのを、「もう充分だ」と、言いながら男は見逃さなかった。
-写真家-
「戦中の話だ。ある若い写真家がいた。才能に溢れていて嘱望されてもいた。
その男がある女と出会って恋に落ちた。人妻で歳上だ。女との交わりは今まで味わったことのない、狂おしい程に官能的なものだった。
男はその陶酔をありのままに写し取れないかと考えた。二人の性交そのものを撮ったら、二人の法悦の瞬間をそのままに表現できるのではないかと思い付いたんだ」「どうしたの?」「女と性交しながら撮ったんだ」「まあ。でも、どうやって?」 「自動シャッターだ。その時にはこの国はカメラそのものも満足に作れなかったが、ドイツ製のカメラには既にこの仕組みがあったんだ。だからこそ、他人の手を借りずに男女の秘密の営みを写し出すという男の試みは、画期的だと思えたんだ。後に、最晩年のピカソが性交している性器を描いて波紋を呼んだが、同じことを写真でしようとしたんだろう」「どんな風に撮ったのかしら?」「色々と撮った。ところが、信頼するグループの写真家達に見せたら、彼らの批評は散々だったんだ」
「性器や性交の写真を支持する者は殆どいない。こんなものをどこで発表するんだ。地下出版で発表してもそんなことに何の意味もないと、悉くに言う」
「だが、絡みを評価するものが一人だけいた」「絡みって?」「性器を巧みに隠した抱擁のポーズだ。キスもある。その男が知り合いのある出版社に掲載を頼み込んだら、叱責された。こんなものを掲載したら会社がとり潰されてしまうと、言うんだ」「どうしてかしら?」「その頃は、国が戦意高揚のために軟弱な文化を禁止して取り締まりを強化し始めていたんだ。
そして、二人の姦通が発覚して女は離縁された。男の収入は激減していたから、女がその妖艶な容姿を活用して、危険に稼いだ。そうして、二人の関係は荒んでいく。
それでもあの撮影だけには執着した。ところが、撮れば撮るほど強い刺激を求めるようになる。終いにはその刺激がないと女は快感を得られない。男も一寸ばかりの刺激では勃起が難しくなってしまったんだ」「どうなってしまうのかしら?」「聞きたい?」「聞きたいわ」「二人の最後の壮絶な場面だ。驚かないで」「わかったわ」
-トマト-
「男の撮影はただ性交すればいいというものじゃない。究極の官能を引き出すために様々な試行をした。その結果、二人は普段のセックスでは駄目になってしまったんだ」「どうするのかしら?」「聞きたいか?」「知りたいわ」
「私の自慰はどうかしら?」と、女が言った。「自慰?」「そうよ。撮りたくない?」「どうしようかな。どうも気が乗らない」「どうするの?」「自慰だもの。あなたが勝手にしてくれ。それを見てからだ」「だったら、こんなのはどうかしら」そこにトマトがあるのだ。熟している。女が握りつぶした。そのトマトを股間に塗りたくりながら、「どうかしら?」白い肌と漆黒の陰毛と潰れた真っ赤なトマト。赤い果汁が肌を舐めて陰毛から滴り落ちて太股を這うのである。「猥褻と官能の極致だ」男がシャッターを切った。 「トマトも入れてあげるわよ?撮りたいかしら?」「入れてみて?」「どうかしら?」男がシャッターを切った。「厭らしいのね」「それが官能なんだ」
「性交は?」「そんなのは比じゃない」「本当の性交より、こういうのが官能的だと言うのかしら?」「その通りだ」「そうなのかしら。やっぱり、私にはわからないんだわ」
「撮影を通じて女もすっかり変わってしまった。まるで、セックスだけの権化のような。官能の女神のような。こうして、男は自分の挑戦の限界に気づいた。ピカソの絵と同じように、性器や性交そのもの芸術には昇華しなかったんだ」「それから、どうなったの?」
「それでも男は女の虜だった。だから、普通のヌードさえ撮れなくなってしまったんだ。悩み続けて麻薬と廻り合い、たちまち堕ちていった。男は写真界からも見放された。だから、生きるためには、意に添わないエロ写真を撮り続ける以外になかったんだ。戦後の地下社会でエログロ写真の大家になり、ある秘密組織で暗躍したんだ」「随分と、そういう世界に詳しいのね?」
-黒-
入浴を済ませた女が紫の花柄の浴衣に着替えた。つい今しがたまでの記憶の全てを無くした風情でソファに座って、撮りたまった写真を眺めている。放浪した野獣に初めて訪れた安逸なひとときに耽溺している風にすら見える。
女の後にやはり湯浴みを済ませた男は、女の新しい姿態を眺めながらウィスキーを飲んでいる。たった今、遭遇したばかりの驚きが脳裏に蘇る。
男が浴室で体を洗っていて片隅にある蓋をしたバケツに、ふと、目がいった。何気なく開けてみると数枚の下着が浸してある。水面に数本の陰毛が浮いている。塊を引き上げると一番の底に黒いパンティがあったのだ。一度も穿いたことがないと、女が言っていた色だ。
ベント室の女は黒のパンティだったと言う男に、女は、その日の色は紫だったから、その女は自分ではないと強弁したのである。ある筈のないパンティがそこに歴然とあったのだ。取り離して眺めると数本の陰毛が貼り付いている。 男は、女の嘘の証拠をこんなにも容易に見つけてしまったのだ。なんと無防備で能天気な女なのだろう。今、あの浴衣の下は何色の下着なのだろう。それとも着けていないのか。本来はカメラに収める筈だった女の股間を思い浮かべて、男は苦笑した。
-雷-
その時、突然に雷鳴が大気を切り裂いた。女が甲高い悲鳴をあげながら身体を起こして男を見た。「随分と近いな」「雷は大嫌い。あなたは平然としているわね?平気なの?」と、女の視線が男にすがる。「男の人だものね」再び雷が轟き渡った。女が叫ぶ。
そうしているうちに風か出てにわかに掻き曇ってきた。窓際に寄って彼方を覗いていた女が、「黒雲がみるみる覆い被さってくるわ。降るのかしら。…そうだ。洗濯物を取りこまなくちゃ。窓も開けっぱなしだったんだわ」「手伝おうか?」「台所と風呂の窓をお願いするわ」と、短く言い残すと慌ただしく階段を駆け上がった。
命じられた戸締まりをし終えてウィスキーを飲み始めた頃合いに、大粒の雨が落ちてきた。たちまちどしゃ降りになり、狂気のように晴れ上がっていた盛夏の空が打って変わって、辺りが一気に薄暗くなった。
暫くして降りてきた女が男の向かいの長椅子に座り直す。「お陰で助かったわ」と、言う声も男の許までは良くは届かない。また稲光が辺りをつんざいて、今度はすぐに雷鳴が続き、重い衝撃音と共に大木の裂ける音が大気を揺るがす。と、同時に女が絶叫しながら立ち上がる。
「近くに落ちたんだわ」すると、バラバラと屋根を打つ音がして、驚くほどの大粒の雹が落ち始めた。「怖いわ」と、男に視線を絡める。 「肝が縮まるの。この光と音には耐えられないんだもの」男が立ち上がって歩み寄ると、女があたふたと身体を擦り寄せて来て、二人はソファにもたれこんだ。
暗がりに包まれて、女が豊潤な身体を無造作に委ねている。薄い生地を易々と浸透して、直に、女の生温かい体温が伝ってくるのだ。
また、雷鳴と同時に稲妻が煌めいた。一瞬、辺りが真昼のように明るくなり、悲鳴を吐きながら女が男の太股に崩れ落ちて、「怖いわ」と、男の手を探し当てる。女の背に手を添えて、「真上辺りにいるんだ。また、落ちるかもしれない」「すっかり暗くなったわね。夜みたい。雹が激しくて。あなたの声もよく聞こえないわ」「二人きりで閉じ込められたんだ」と、男が女の手を自らの股間に導く。女は従順だ。そして、女の手が男の隆起を捉えた。
「雷に臍を盗られるって、言うでしょ?」「私の村は違うのよ」「何て言うんだ?」「雷様がガガに入ってくるって」「ガガ?」「女性器のことだわ」「そうして、雷様に鬼の子を孕まされてしまう、っていう言い伝えがあるの。だから、雷がなると、女の子は晒しの切れ端か障子紙をあそこに当てるのよ」女の手が隆起をひっそりと這い続けている。
「他所では絶対にやってはいけないって、母親に言われたわ。良くは知らないけど、そんなことをするのはあの地方でもあんまりないみたいなの。きっと、半島のある地域の風習なんだわ」
-ガガ-
「あなたの生まれはヤマグチなのか?」「そうよ」「チョウシュウか?天敵だな」「もしかしたらアイズなの?」「そうだ。ガガっていうのはおまんこのことだろ?」「あら。私。そんなこと言ったのかしら?」「ついさっき、言ったよ」「はしたないわね。ご免なさい」「どうなんだ?」「そうよ。他は知らないけど。私が育った村ではそう言ったわ」「それを口に出すと恥ずかしいか?」「赤面するほど恥ずかしいわ」「おまんこより?」「おまんこなんてなんとも感じないわ。ガガは酷く生々しいの。形状が浮かんできて。生温かさすら感じるんだもの。ここいら辺では何て言うの?」「べっちょ、だ」「それを聞くと、どう思うの?」「あなたと同じだ。形や性交を連想してしまう」「私は何にも感じないわ。言葉って不思議なのね」
-半島-
「渡来人はアソ山の大噴火で縄文人が殆ど壊滅した後に、半島や大陸からこぞって渡ってきたんだって、聞いたわ。私の先祖もその一人よ」「あなたは半島か?」「そうよ。だから、今でも私の村の言葉は半島の抑揚にそっくりなんだもの。単語だって、似たものをいっぱい話してるわよ」「サンインのある町に行ったらハングルが氾濫していて。あまりに雰囲気が違うので驚いたことがある」「そうでしょ?その渡来人同士が長い争いを繰り返して、終にはヤマト朝廷が出来たんだわ。私たちの地方にもツチグモと呼ばれて蔑まされていた部族がいて。御門と戦って負けたのよ」と、女の手が股間の隆起をやんわりと撫で続ける。男は女の尻に手を這わせる。湿っている。男の手を吸い寄せて離さない。
「ヤマグチに限らず西の国は渡来の民族なのよ。本国で争いに破れて逃げ出して。その敗者同士がこの国で対立して。延々と争いを続けてきたんだわ。あなたの先祖が死闘したメイジ維新のチョウシュウも二派に別れて深刻に抗争していたんだもの。ショウインやタカスギは御門派。私の部落は現状維持の穏健派。まあ、幕府派ね。二派は対立して。争って。私たちの先祖は敗北したのよ。恭順しても切腹か、従わないものは謀殺されたの。私の先祖もタカスギの配下に暗殺されたんだわ。チョウシュウだって色々なのよ」「この国の人が半島人をバカにしたり差別するでしょ?とりわけ、ヤマグチの人がそんなことをするのはどうしても許せないの。元々は自分の国なんだものね。人間って、無意味な争いに血道を挙げるものなのかしら?」
「この小さな町だって、原発を巡って分裂して。際限なく争っているんでしょ?」「それは違う」男の秘密の愛撫が止んだ。女が何事もなかったごとくに身仕舞いをして、身体を起こした。
-手-
男がウィスキーを飲み、女も飲む。男が話し始める。「確かにこの町の争いは凄まじいし、悲惨に違いない。あなたの言う通りに、人間の愚かな性がそうさせているのかも知れない。だからこそ、安逸な寒村に災いだけをもたらした原発を許せないんだ」
「私の言葉が過ぎたんだわ。許して」女が男の手を包み込んだ。
「優しい手だ」「同僚が入院したんだ。初期の胃ガンだ。そいつは離婚していて子供とも疎遠で。僅かばかりの親族とも長らく音信不通だったらしい。当然、助けを求められる関係でもない。頑固で気丈な奴だが、この時ばかりは、さすがに気弱になったと言うんだ」
また、雷鳴が鳴り響き稲妻が走る。女が男の手を強く握りしめた。
「それから?」「その不安が救われたと、言うんだ。手術を担当した初老の男の医師が、診察の度に手を握る。看護婦もなにくれとなく触れてくる。文字通り手当てだ。この世に愛というものがあるのを初めて知ったと、言うんだ。哀れな男の話だよ」
「今の私みたいだわ。このあなたの手にすがってるんだもの。大きい手なのね。逞しいわ。私のはどう?」「柔らかくて。温かくて。優しい。心が休まるようだ。握っていてくれるか?」「いいわよ。素敵な写真のお礼よ」
「あなたの倫理なら、こうして、男と女が手を握るのも不道徳じゃないのか?」「これは、あなたの言う、文字通りの手当てなんだもの。不道徳なんかじゃないわよ。それを言うなら、夫の留守にかこつけて、あなたと二人きりでいることそのものが倫理に反しているんだわ」「それでいいのか?」「もう、踏み込んでしまったんだもの」「その俺が、あなたを抱きたいって言っているんだしな?」「やるならとっくにやってるわよ」「それもそうだな」「今だって、私を引き寄せればいいんだもの。手間もなく出来るでしょ?」「違いない」
「でも、あなたはしない。なぜかしら?」「して欲しいのか?」「厭だわ」「それなんだ。断る女を無理強いはしない」「そうよ。あなたは露悪な言葉に似合わずに、意外すぎるほどに繊細なんだもの」「そうじゃない。厭がる女に強要するなんてことは、俺にはできないだけだ。不様で卑怯だろ?」「そうね」
「そして、抵抗するだろ?」「当然だわ」「そういうのが面倒なんだ。たちどころに萎えてしまう。だから、強姦する奴がさっぱり理解できないんだ。獣だって雌が応じなければしないよ」「そうなの?」「当たり前だろ。俺の性愛はそんなに乱雑なものじゃない」「どんななの?」「甘美に陶酔したいんだ。その為には双方が合意しなきゃ駄目なんだ」「だから、玄関で、帰るって言ったのかしら?。私が断り続けたから?」「それもある」「それに、暑かったろ?本当に日射病になりそうだったんだ」女が笑う。「私を口説くのも命がけね」「もう少しわかって欲しいな」女が声を出して初めて笑った。
-落雷-
その時、雷が怪しく煌めき、辺りが真昼のように光り輝いたかと思う間もなく、凄まじい雷鳴が轟き、大木の裂ける音が耳をつんざき、地鳴りと共に家がきしんで、女が悲鳴を発しながら重い乳房と共に男にしがみついた。
「すぐそこだな」「きっと、あの神社のご神木だわ」女の息が乱れて身体が震えている。「大丈夫か?」「こんなに驚いたのは初めてだわ。胸が苦しい。動悸が激しいんだもの。聞かせたいくらい」「聞きたい」「本当よ。聞いてみて」男が女の胸に手を置いた。「どう?」「豊かだ」「そうじゃないでしょ?」「どう?」「未だ良くわからない」「ゆっくり確かめればいいわ」
暫くして落ち着きを取り戻した女が、「あら?あなた?あなたの手がおかしいわよ」「どうして?」「だって。鼓動を計ってるんでしょ?」「そうだけど。心臓がどこなのか、良くわからないんだ」「馬鹿ねえ。だからと言って、おっぱいを揉んでるんだもの」「嫌か?」「そんなにしては計れないわよ」「どうすればいいんだ?」女が男の手を取って浴衣の下に導いた。 そこに女の真裸の乳房が息づいていた。「鼓動はここよ」
「あなた?また、雷、落ちないかしら?」「きっと落ちるな」「怖いわ。あなた?私の部屋が二階なの。すぐに蚊帳が吊れるの。移りたいわ」
-蚊帳-
二階の部屋に入ると、派手なシーツを敷いたダブルのベットがある。「ここは?」「私の寝室なのよ」「夫婦別室なのか?」「そうよ」
二人で手早く吊った蚊帳の中に男が入り、半身を起こしてウィスキーを飲む。やがて、女が入ってきて、安堵した身体を男に沿って横たえた。「女特有の獣の雌の臭いがこもってるでしょ?」「そうだな。熟した肉の匂いだ」「あまり見ないで。恥ずかしいわ」「どうして?」「陰毛なんかが落ちてるかもしれないでしょ?」「あったら貰っていいかな?」「どうするの?」「あなたの身体にまつわるものなら、陰毛一本も価値がある」「大仰だこと」
そんな軽口を掻き消して、その時、雷光が薄暗がりをつんざくと同時に、大音響が轟き、窓ガラスが揺れ、女が叫声を発しながら男の胸にしがみついた。「すぐそこだな」女の息が乱れている。「鼓動を確かめてやろうか?」「そうしてちょうだい」男が浴衣の下に手を伸ばして乳房を鷲掴みにする。「どうかしら?」「熱い」「そうじゃないでしょ?」「未だ良くわからない」「ゆっくり確かめればいいんだわ」
(続く)
原発の女総集編