金曜日の赤ちょうちん

犬戒トーマス

過去のデータ整理してたら出てきたので供養。
プレミアムフライデーじゃないけど、まあ細かいことは気にするな。

 世間では花の金曜日だプレミアムフライデーだと賑わうが、この郊外のオフィスに関しては全くそんなことはない。少なくとも私には、およそ縁の無い言葉である。
 一介のサラリーマンとして会社に貢献し続けて既に二年の歳月が過ぎていた。あきれるほどに詰め込まれる仕事にも慣れてきて、それでもバカ正直に勤め人より多く捌けるようになったのが運の尽き。今日も今日とて上司から常識を疑うほどの仕事を押し付けられた。人はどうしようもなくなると自然と笑みがこぼれるというのを嫌というほど体感した。件の上司は既に帰った。残業しているのは、フロアを見渡しても私だけである。
 土曜日である明日に休日出勤すれば、こんなに残業しなくとも済むのだろう。しかし休日はしっかり休みたい。そう思った私は、残業してでも終わらせることを選んだのだ。後悔はない。あるとすれば、午後九時放送の映画がリアルタイムから録画になるくらいだろうか。
 もう寝てしまえと囁く体に鞭を打ち、ようやく今日の分が終わったのが二十三時半。腹は減っているが、普通の飯屋は閉まっている時間である。
 家に帰っても、あるのは朝食のためにと買い置きしたパンくらいだ。これだけ頑張ったのに、金曜日の晩飯、それも働き盛りの成人男性としてはもっと贅沢にいきたい。帰り道でどこか寄っていこうかと考えながら、私は会社を後にした。



 インスピレーションに任せながら、駅までの道を歩いていく。会社が建っているのは繁華街から少し離れた場所で、住宅地ともいえない微妙な立地である。そのくせ駅からは近いというので、ガソリン代が高くつくという理由で電車を使っている社員は多い。
 毎日通っているので知っていたことだが、やはりここの中途半端な立地に構える店などあるはずもなく、とうとう駅についてしまった。
 空きっ腹はそろそろ限界だ。夕飯もなしに十二時間いれば、そりゃあ腹は減る。加えて言えば今日は昼飯も少なかった。ゼリー飲料二個だけでは、成人男性の胃が満たされるはずもない。
 もう諦めて晩飯はあるもので済ませよう。錆びきった頭の歯車が、そう結論をつけ始めた時だった。
 足をひきずるように駅に入るその寸前、やけに香ばしい匂いが漂ってきた。私の鼻は、これはタレの匂いだ、と脳に情報を伝えた。焼き鳥か、蒲焼か、それとも他の物か。甘ったるいような、ピリリと辛いような、口をすぼめたくなるような酸っぱいような、不思議な匂いだった。いや、タレとは本来こういう匂いなのかもしれない。ただ私が気付かなかっただけではなかろうか。
 足にまとわりついていた鉛のような重さも忘れ、匂いに惹かれるまま駅の裏へ体が動く。誘惑されるがままに歩いてみれば、ひっそりと現れる下り坂。その中腹には、明りの燈った赤提灯を下げた店が鎮座していた。
 意識してしまえばあっという間なもので、匂いは一層強くなる。こんなところに店があったのか。二年通っていても、知らないことがあるもんだ。
 思わず噛みたくなるほどに濃厚な香りが喉に張り付き、カラカラに乾いたはずの喉をツバがごくりと滑り落ちた。
 もう限界だ。そう思ったときには、とっくに手は引き戸を開けていた。


 いらっしゃい、と迎えられた店内は随分と不思議な光景だった。
 夕方を思わせる黄昏色の照明に、壁一面に並んだ酒の瓶。カウンター席は立派な大木を削ったような一枚板で、椅子は背もたれのない木組みのもの。さながら、時代の流れに取り残されたような店構えだった。天井から吊り下げられた雑多なメニュー板が、殊更それを助長した。
 店主の気風の良い声に流され、目の前のカウンター席につく。とりあえず生を、というと、分かっていたかのように生ビールが置かれた。お通しは浅漬けキャベツと蛸の和えもの。内陸で蛸が通されるとは思わなかった。
 干からびそうな喉に耐えかねジョッキに手を延ばし、生ビールを一気に流し込む。喉がゴキュッと鳴るたびに喉仏が大きく上下する。キンキンに冷えたそれは、ものの数秒で私の胃袋に収まった。
 ブハァ、と肺の奥から空気が漏れた。走ったあとのように脈打つ心臓を落ち着かせ、改めてメニューに目を走らせる。
 壁にぶら下がったメニューに、焼き鳥の文字を見つけた。
 そういえば、と思い手元に視線を動かす。さっきは夢中でビールを飲み干したが、お通しの蛸があるじゃないか。串を焼いている間、これを摘みながら待つのも良いだろう。
 思うが早いか、私は焼き鳥(モモと皮と砂肝)と冷やを頼んだ。今度は日本酒だ。店主は串を厨房の炭火台に置くと、私の頼んだ酒を用意し始めた。
 座っている目の前で枡の中にガラスコップを置き、そこへ黒い一升瓶から日本酒をトクトクと注ぎだす。コップから溢れた激流が、枡を飲み込まんとばかりに満たしていく。
 そう、そこだ、もう一声。なみなみと注がれたそれはコップを満たし枡を満たし、それだけでは飽き足らずテーブルにも少しだけこぼれた。
 店主が串を焼いている間に、まずは酒から頂こう。表面張力で踏ん張っているそれを溢さないよう、口を近付けてまずは一口。キレのある辛さが喉を伝わり、冷え切っていた頬が熱を帯び始める。
 今度はコップを持ち上げ、もう一口。雫がスーツにポタリと落ちるが気に留めることもない。さっきよりも大目に口へ入れると、体の奥が石炭のようにカッカと熱くなってくる。最初のビールが、今になって効いてきたようだった。
 これはダメだ、抑えなければ。気持ちを落ち着かせるためコップを置き、箸を取ってお通しに手を伸ばす。そして一口入れて、また気持ちが昂ぶった。
 塩で揉まれたであろう蛸が、一噛みするたびに歯を押し上げてくる。なにくそ負けるものかと噛み切ってやれば、身体が求めてやまない塩分が上顎を抜けて喉の奥へと流れていくのがわかった。吸盤のコリコリとした食感が、歯ごたえと満足感のダブルパンチが実に容赦ない。
 浅漬けキャベツにも箸を運ぶ。ジャキジャキと音を立て、これまた歯ごたえの良い肴である。喉を流れ落ちるキャベツへ追い討ちをかけるように冷やを流す。旨みと塩味が混沌とするが、舌は大層笑い転げていた。
 止まることのない箸だったが、ついに手放したのは焼き鳥が目の前に出された時だった。
 一つの皿に乗せられた、モモ、皮、砂肝。暖かな店の中で、なおも熱々の湯気が立っている。
 やあ、これだよこれ。暖簾の横の赤提灯を見たら、これを食べずにはいられない。
 串に刺さっているそれの味付けはタレ。会社には塩だ肉汁だと通ぶる奴もいるが、私は断然タレ派である。鼻を通り喉で味わうそれは、エンジンのかかってきた私の胃袋に油を差したのだ。
 まずはどれにすべきか、と迷いながら、皮の串を手に取った。カリカリになった皮にたっぷり塗られたタレ、それがいくつも連なっている。
 口の中が涎で溢れかえりそうになるが、いやいや待てよと酒を含む。淡麗辛口な味わいでサッパリとしたところで、ようやく一つ、前歯でそっと串から外した。
 熱い。口に入れて思う。
 熱い。一噛みして肉汁が溢れ出して思う。
 熱い。たまらずもう一つ口に入れて思う。
 頭でも、舌でも分かっているのに、手は止まらない。皮だというのに、噛むごとに肉汁が溢れ出てくる。いや、皮だから鶏油ちーゆかもしれない。なるほど熱いわけだと一人で納得する。
 喉を鳴らし飲み込み、すかさず酒を煽る。冷やとはいえ冷たいそれが口の中をクールダウンさせる。
 ああ。
 良いなあ。
 意味もなく、ため息が出る。
 ふと、人の声が聞こえる。周りに目を向けると、先ほどまでいなかった客の姿が映った。
 自分のように一人で飲みにきた客、だらしなくネクタイを頭に巻いて一気飲みする客、二次会なのか河童の面をつけて肩を組む客までいた。
 一体、何時間ここで飲んでいたのだろうか。あっという間な気もするし、随分長いことの気もしてきた。
 目元を伏せ、未だ熱々の焼き鳥を眺める。ところどころジュウジュウと鳴る肉が、早く食えと急かしているようにさえ感じられた。
 ああ、分かった分かった。食ってやる。思う存分、食らってやる。
 今日は花の金曜日。こうなった私の胃は休むことを知らないのだ。



 目が覚めたとき、最初に見たのはお巡りさんの顔だった。
 酔い覚めやらぬ頭を必死に回して辺りを見る。直前まで飲み食いしていた店はどこにもなく、私を誘い込んだ赤提灯諸共消え去っていた。
 駅構内勤務ですっかり顔なじみのお巡りさん曰く、明け方のパトロールで道の真ん中で大の字に転がっていた私を見つけたらしい。見るからに酩酊していた私に肩を貸し、やっとの思いで勤務室へ運んだという。
 世話になってしまったことの礼と謝罪をし、ホームで自宅への始発電車を待つ。随分飲んだと思ったが、不思議と二日酔いにはなっていなかった。
 それにしても、と思い返す。
 キンキンに冷えた、最初のビール。ほどよい塩味の、お通しの蛸にキャベツ。
 噛むほどに味が押し寄せた焼き鳥も、流し込んだ日本酒も、味の細部に至るまで覚えている。
 想像上のそれらを口にすると、舌の上で涎が氾濫した。
 あれは確かにあったのだ。確かにそれらはあったのだ。
 忽然と姿を消したあの店は、死にかけの私の妄想なんかではないのだ。



 翌週の金曜日、私はまたも日跨ぎの残業を終え、ヨレヨレの足で帰路についていた。
 先週の出来事から幾度も駅裏の坂道を覗いてみたが、ついぞあの赤提灯を見ることはなかった。
 時間が経つにつれ、あれはやはり幻だったのだろうかと考えてしまう日が続いた。それほどに、あの店は跡形もなくなってしまったのだ。
 徒労に終わった私の夢追いだったが、やはりあの感覚だけは忘れられない。別の店になってしまうが、途中下車をして飲んで帰ろう。そう決意した時だった。
 香ばしく、甘い匂い。喉の奥に張り付きそうなそれは、私の薄れ掛けた記憶を目覚めさせた。
 自然、足は速まる。今しがたまで半死人のような足取りだったとは思えないほど軽快に、ただひたすらに匂いの元へと歩みを進める。
 駅の裏へきた。坂道を覗いた。そして爛々と燈る赤提灯。
 あった。
 見つけた。
 駆けおりるように坂道を下り、気付けば既に暖簾の前。
 中からはあの時と同じ匂いが流れており、あの時とは違いガヤガヤと賑やかな声がする。
 またもカラッカラに干からびた喉を、絞り出た唾が流れ落ちた。
 一も二もなく、私は引き戸を開けたのだった。

金曜日の赤ちょうちん

作者は焼鳥ではハツが好きです。ネギマも好きです。

金曜日の赤ちょうちん

社会人になって二年目のある金曜日。上司の無茶振りで心身ともに疲れ果てていた私だったが、迎えてくれたのは香ばしいタレの匂い、一つの赤提灯の灯りだった。 ※小説家になろうにも掲載しています。

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