落下から始まる物語8
柳とチョウのエピソードです。
この物語が頭の中に生まれた頃は、随分と歳上の二人でした。
今となっては普通の現実ですが、働く大人を書くのは、昔はちょっとしたファンタジーだったのですね。
00210903ー4 パワーゲーム(中華飯店「花花」)
昼時の「花花」から、場違いな歓声が轟いた。
通りに溢れかえっていた雑踏の足が、ふと振り返るような、どよめきである。
実際、思わず店をのぞき込んだ者も大勢いた。
柳が、店主自慢の「超盛ラーメン」を、記録的な速さで完食したのである。
「良い味出してるな」柳には、少し悔しそうな店主に、微笑みかける余裕さえ残っていた。
店主であるところの五十嵐は、その笑顔を見て、ついに現実を受け入れたらしい。「やるな、刑事さん」そう言いながら破顔した。
「ね、だから言ったでしょ。このおじさんはヤルよって」そう言う娘は、父親と対照的に、どこか得意そうですらあった。
昼時のことでもあり、野次馬達の大半は、そのまま客に早変わりした。
柳は、店の片隅で、娘の出してくれた茶を飲みながら、客が切れるまで待っていた。話したいことがあったからだが、正直、あまり立ち上がりたい状態でもなかった。
親父め、絶対一玉余分に麺を入れやがった。
ワイシャツの上からもはっきりと分かる自分の胃の膨らみを、満腹感で重くなった瞼の下から恨めしそうに眺め、柳は溜息をついた。
俺も、もう若くないからな。
それでも、客がまばらになる頃には、どうにか身動きできるようになっていた。気は進まなかったが、厨房の入り口で、水の入ったボトルを片手に一息入れている五十嵐の近くまで、歩いて行く位のことは出来た。
「無理するなよ」店主は柳より何歳か上の筈だったが、皺一つ無い肉付きの良い顔を、汗に光らせながら言った。
「なあに、腹八分目さ」言い返しながら、柳は店主が麺を増量していたと確信した。
五十嵐はその柳の言葉に大笑した後、言った「いや、大したもんだな。いいぜ、何を聞きたいんだ。」
「そうだな。聞きたいことが色々あるのは、多分あっちのお兄さんだな」柳が顎で指し示したテーブルでは、チョウがレバニラ炒めと格闘していた。「俺が聞きたいのは、あの被害者が、以前この店に顔を見せていたかどうか、それだけなんだ。」
五十嵐は顔をしかめて呻いた「ああ、そいつは俺も気になってるんだよ。実はあのサイボーグさんの顔に、見覚えがないんだよな。」ちょっと遠い目をして、付け加える「何でまた、俺の店に転がり込みやがったんだか。」
「そうか。チョウさん、ちょっと」柳は出し抜けにチョウを呼びつけた。
不服そうな顔で、チョウが柳を睨み返す。
もっとも、チョウが自分と五十嵐の会話に興味津々だったことは、柳には計算済みである。その証拠に、不服そうな顔のままではあったが、食事を中座して、チョウは二人の方へ近づいてきた。
「何ですか」チョウは柳を睨みながら言った。
(そこまで喧嘩腰か)柳は内心苦笑しながら言った「ちょっと、大将に被害者の資料を見せてやってもらえないか。勿論、見せられる範囲で良い。」
「それは、構いませんが。」チョウは訝しそうに五十嵐へ視線を移して続ける「良いんですか。これは立派な捜査協力ですよ。」
その言葉を聞いた途端、五十嵐は爆笑した。
「な、なんです」思いも寄らない反応に、チョウは狼狽えていた。
「おいおい、チョウさんとやら、ついさっきまで、あんた捜査に協力するのは市民の義務だとか俺に言ってたじゃないか」五十嵐は笑い声の下から言った。
「それはそうです。けど、何かこの柳さんのやり方が、ちょっとフェアじゃない気がして」チョウは思わず顔を赤らめ、柳を睨みながら言った。
「言われてるぜ」五十嵐は愉快そうに柳を見た。
「フェアが聞いて呆れるぜ」柳もニヤリと笑いながら五十嵐を見返す。
「違いない」五十嵐はチョウへ太い腕を突きだして、言った「ほれ、その資料とやらを早く出しな。」
納得できる展開とは言えなかったが、ともかく、チョウは一般的な物より一回り大きめの携帯端末機を取り出した。神経質そうに指を動かし、端末の表面にいくつかのセキュリティコードを描く。
程なく、端末表面に、被害者の画像と、プロフィールのテキストが表示された。
「ご苦労。俺はどうもその芸当が得意じゃなくてね」柳はチョウの携帯端末を引ったくるように奪うと、そのまま五十嵐に手渡した。
「いやいや、これはないな」五十嵐は、画面を一目見るなり、言い放った。「こいつは、あれだろ。体の大半を機械化しちまってるんだろ。うちは代用食のメニューは無いからな。」
「クラスFサイボーグですね。生体が体重の二割を下回るところまで機械化していますから」チョウが溜息混じりに言った。
「だから、こうなる前の写真を出しなよ」五十嵐が端末をチョウに返しながら言う。
チョウは、少しためらった様子だったが、結局、サイボーグ化前の被害者の写真を画面に呼び出して、端末を五十嵐の手に戻した。
五十嵐と柳が額を寄せて画面をのぞき込むのを横目に、チョウが説明を加えた。「ジョナサン=スバイガート。生年は統一歴、前十九年。統一歴九年に、マニラで負傷してからサイボーグ化を始めたようです。この写真は統一歴六年頃のものらしいですね。」
画面では、体格の良い青年がよく日に焼けた褐色の顔に、快活な笑顔を見せていた。
「おい、夏織、お前も見てくれ」五十嵐が娘を呼ぶ。とっくに興味津々の顔になっていた夏織は直ぐに駆け寄ってきた。
父娘二人で眉間に皺を寄せて画面に見入っている。がっちりした父の顔と、小作りな娘の顔が、並べてみれば思いの外似ていることに、柳は感心していた。
「うろ覚えだけど、あたしが中学の頃、何回かお店に顔を出したお兄さんに少し似てるかなあ」夏織が難しい顔のまま呟く。
「旧市街に店があった頃か」父親も難しい顔をして頷く。「ああ、こいつ海兵隊の軍歴はないかい。」
「無いと思います」チョウが答えるが、語尾が少し不安そうだった。
「すると違うかなあ。」
「海上自衛隊は本土の人ばっかだったしねえ。」
「この手合いは、軍属さんだと思うんだけどな」
「顔で分かりますか」チョウがいつの間にか父娘の会話に引き込まれていた。
「あんたが思っているよりは分かるね。」
「最後の経歴は海軍工廠なんですけどね。」
「その頃にはもう、うちに来る用はなかったんだろ。」
「あのー。」
「大将、旧市街はどの辺りに店を出してたの。」
「ネリマって分かるかい。」
「すみませーん。」
「ネリマのどの辺ですか。」
「駐屯地の近くだったよね。」
「A定食もらいたいんですけど。」
気が付くと、額をこすりつけんばかりに顔を寄せ合っていた四人に、困り顔の客が遠慮がちに声をかけてきていた。
「っと、悪かった。A定ね。夏織。」
「ごめんなさいね。急いでご用意しますから。」
慌てて二人が商売人の顔に戻ったのを見て、柳とチョウは簡単に礼を言って店を出た。
「柳さん、ネリマまでついてくる気ですか」しばらく並んで歩いてから、チョウが言った。
「まさか。この事件の捜査権は俺にはないからな。」
「分かっていれば良いんですけど。」
「俺はこの辺で失礼するよ。じゃ、まあ頑張りな。」
チョウは、長い間立ち止まったまま、雑踏に消えて行く柳を見送った。
柳が気を変えて戻ってくるのを、恐れているのか、期待しているのかは、自分でもよく分からなかった。
落下から始まる物語8
客寄せパンダですね。