原発の女6️⃣

原発の女6️⃣


-繭子-

 戻った女がテーブルに、こんにゃくの煮物や浅漬け、ミニトマトなどを置いた。
 女がミニトマトを頬張って舌で転がし始める。唇の端に欲望の欠片のような赤い汁が浮かんでいる。
 「原発で、あの時にあなたを見て。あまりにも衝撃な出会いだったから…」「だから、何べんも言うように、その女は決して私じゃないのよ」「まあ、それは。ゆっくり解明するとして。その瞬間にあなたに一目で惚れてしまったんだ。夢にまで出てくるのはあれからなんだ」「そんな風に言われても。絶対に人違いなんだもの。同意のしようもないんだわ」「妻としてても、つい、あなたの名を呼びそうになる」「あら?私の名前を知ってるのかしら?」「上司の奥さんだ。当然ですよ」「言ってみてちょうだいな」「繭子」 女が微かに身震いして沈黙した。「どうしました?」「何十年ぶりに名前を呼ばれた気がしたんだもの。何でしょう?突然に女に呼び戻されたみたいで。驚いたんだわ。あなた流に有り体に言えば、久方ぶりに子宮が疼いたのかしら。名前があるのすらすっかり忘れていたんだもの」「ご主人は何と呼ぶんです?」「おい、とか。ほとんど会話もないのよ」 「とっても素敵な名前なのに。残念ですね」「昔は絹が宝でしょ?繭はその母体だもの。女の源だって、母から聞いたわ」 「あら。私ったら。自分のことばっかりで。あなたの名前を未だ聞いてなかったわ?」「草一郎」「やっばり。素敵な名前だわ」

 「あなた?今からは私に敬語はやめてちょうだいな。随分と若い方にそんな風にされるのは面映ゆくて。どうしても馴染めないんだもの。あなたのいかにも無頼な風貌にはまるで似合わないわよ」「いいですよ」「あなた?それが駄目なんだわ」「わかったで、いいんだわ」「それに。…名前で呼んでもいいわよ。あなたが嫌でなかったらだけど」

 女が、また、はミニトマトを頬張る。煙草の煙をゆっくりと燻らせる男が、「その顔なんだ。妻のよがり顔があなたのその顔に見えてしまうんだ」「よがり顔って、どんな顔なのかしら?」「交接の時の享楽の表情だよ。特に射精を受け入れた時の顔だ」「どんな表情なのかしら?」「眉間に皺を寄せたり」「それから?」「息を熱くしたり」「射精しながら、奥さんのそんな顔をあなたは見てるの?」「そうですよ」「いっぱい出しながら?」「そうだ」「奥さんはどうしてるのかしら?」「俺を見つめてる」「目を開けてるの?」「そう」「猥褻な人達だと思うわ」「猥褻が官能を高めるんだ。違いますか?」「そうなのかしら?あなた達はそうかもしれないけど」
 「繭子は、射精される時にどうしてるだ?」「まあ。初めて名前を呼んでくれたわ」組伏せられた処女の様な面持ちで、女が輝いた。「呼んで悪かったかな?」「いいえ。そんなことないわ。突然だったから。ちょっと驚いただけなの。それで?何だったかしら?」
 「あなたが射精される時だよ。どんな風になるのかな?」「そんなの知らないわよ」「法悦で夢中だからかな?」「厭だわ。決して教えないわ。それよりも、あなた?その時のあなた方の体位はどんななのかしら?」「妻が上だ」「激しい人なのかしら?」「どんな女でも夜は娼婦だよ。昼は貞淑な淑女。男の理想だ。違うかな?」


-遍歴-

 遂に、二人が名前を示しあった。従って、この国の敗戦を挟んで生きてきた二人の歴程を、いよいよ、示してもいいのだろう。原発の前代未聞のスキャンダルの解明には不可欠だからだ。

 女の名は繭子という。四七歳だ。敗戦のあの夏はニニの寡婦だった。夫は一年前に南洋で戦死していた。
 ヤマグチの出身で、父親は職業軍人だったが敗戦の年の初冬に自裁した。母が突然に病死して僅かに一月後のことだった。四人兄姉の末っ子だが、兄二人はいずれも戦死して、姉はヒロシマに嫁いでいて原爆で殺された。
 繭子は地元の女学校を出ると親戚の零細な紡績会社で働いた。二十で幼馴染みの男と結婚した。夫はニ三。中農の自作農の跡取りだった。
 それまでの女の男性経験は初めての夫を含めて八人。幼い頃から多情な女だった。処女喪失と言えるのか、八歳の時の初めての相手は幼馴染みの夫である。
 義父母があったが、嫁いですぐに義母は病死してしまう。
 一年後に召集された夫はすぐに南洋で戦死して遺骨も届かなかったから、餓死や病死の疑念が女には残り続けた。
 夫が戦死した後には義父と二人暮らしになったが、未だ四五の頑健な男やもめと若い寡婦が肉欲の虜になるのには、それほどの時間は必要なかったのである。
 義妹の二人はそれぞれが嫁いでいたが、繭子は、一人の義妹の夫とも関係を持っていた。
 そうしたある日に、ある訪問販売員が現れて、驚くほどの性戯で、たちまちのうちに女を俘虜にしてしまう。
 そうした忌むような日々の果てに、女は敗戦の日を迎えたのである。父が自決すると間もなく、天涯孤独に墜ちた繭子は、その販売員の元に出奔してしまうのであった。
 敗戦直後の混乱は、復興への兆しの一方で、貧困や退廃は極まり、エログロ文化やヘロインなどの黎明でもあった。繭子はその只中に身を置いたのである。しかし、爛れた生活は短かった。
 身体も心も散々に弄ばれた挙げ句に捨てられた女は、絶望の果てにあった。その時に、あの倫宗と巡りあって救われたのである。果たしてあの夏や翔子などとも接点があったのだろうか。
 倫宗のある僧侶と関係して、執政の名目で男の寺に入ったが、事実は妾である。ニ四の時だ。
 この四〇近い僧は反草也派の幹部で、金貸しやでたらめ占いなどに血道をあげる極道だった。離婚して三年で一五になる一人息子があった。
 ある日に、女がある男と性交しているのをたまたま目撃したその息子が、男を撲殺してしまう。女は息子と性交しながら、二人で遺体を寺の墓地の奥深くに隠した。
 すぐに、息子は遠い他県に進学して行く。間もなく寺が焼失して僧は焼死したが、女はやにわに逃げて無事だった。教団本部が出動して対応に当たり、警察の捜査の結論は、泥酔した僧の煙草の不始末というものであった。息子には多額の生命保険が支払われた。僧が隠匿していた金品は教団が残らず回収したのである。女がニ六の時の出来事である。
 その翌年に、人の薦めで、電力会社に勤める男と再婚した。女がニ七、男は三四である。
 すぐに娘を一人もうけて、今は二十。大学生だ。夫は五三。 去年、本社からF原発に転勤して、人事部次長である。労働組合対策の責任者だ。
 女は夫の同僚や部下の数人とも関係しているという噂が、密かにある。原発の施設内で性交して、草一郎の配下に目撃されたのは、果たして、この女なのか。相手の男は夫なのか、別な誰かか。究明は始まったばかりなのだ。
 女は中背。年齢に相応しい豊潤で弛んだ肉体は、完熟の風情すらある。身についた官能を隠すことなく発散していた。
 転地したばかりの専業主婦だ。地域との接触もない。暇と肉欲をもて余しているのだ。多情で絶倫だが、夫との交わりは月に一回程度なのである。酒が好きで、とりわけウィスキーに目がなく、昼間から飲む。そしてよく眠る。自堕落なのか淫奔なのか。生来の性向なのか、環境がそうさせているのか。
 性愛小説を読みながら自慰をする。マゾヒストだ。尻叩き、縛り、小水かけなどに興味を示す。名器だと言う男が数人いて、女も自認している節がある。


-草一郎-

 男は草一郎という。三五歳。電気工ではない。プロの労働組合活動家である。いわゆる社会運動家なのだ。原発経営陣が最も怖れる男の一人なのである。
 全日本原発労働組合協議会事務局長。これが彼の肩書きで飯の種だ。同時に、戦闘的少数第二組合のF原発労働組合書記長も兼務している。
 アイズの教員の長男だが実家とは疎遠だ。義妹と思春期の頃から関係している。
 独身だ。結婚をしたことはない。だから、この男が繭子に言っている妻帯の話しは全くのでたらめだ。
 ある大学で学生運動に参加して、留年しながら、国防条約改定闘争を闘ったのはニ五の時だ。
 『党派の儚』のあの唐橋とは同志だった。妻の典子とも交流があったのか。秘めたままの思慕だったのか。語るのは、未だその段階ではない。そして、あの初代草也との接点はあったのか。大河は展開したばかりだ。おいおい明らかになるのだろう。
 学生時代からある極左政党の役員で、全日本革命学生協議会の幹部だった。逮捕されて一年の実刑を勤めた。出所後は、引き続いて政党幹部でありながら、某労働組合専従となった。そこから現職に派遣されているのである。
 草一郎は写真が趣味だがカメラの腕はプロはだしだ。この極左政党は活動資金調達の一環として、敗戦直後の結党当初から出版を手掛けてきた。エログロ雑誌や写真の製造販売のルートも持っているのだ。

 読者諸氏は『異人の儚』の伊達と二人の女の奇妙な生活をご存じだろう。あの生活を支えたのがこの組織なのである。果たして、この線上でも、繭子との交差はあったのか。

 草一郎は赤紫の巨根の持ち主で稀に見る絶倫だと、誰かが語るのは事実なのか。繭子もそれを証明する一人となるのだろうか。奇談の幕は、今、開いたばかりなのである。


-猫の舌-

 その時に、生臭い風がひとひきり吹き渡ったかと思うと、黒猫が現れた。あの猫だ。女の尻に体を擦り付けてなまめかしい鳴き声をたてながら、女のふくよかで白い掌を一嘗めする。女の指が怪しげに猫の舌を弄ぶ。その痴戯に割って入るように、「面白い猫だな。写真を撮っていいかな?」「写真?」「ポラロイドカメラを持ってるんだ。すぐに現像できる」「今、見られるの?」「そうだ」
 男がカメラを構えてシャッターを切った。間もなく現像ができる。女がその写真を満足げに眺めながらウィスキーを飲んだ。「腕がいいのね?」「趣味なんだ」「その域を越えてるわ。私、猫が好きなの。あなたはこの猫の本質を存分に写し取ってるわ」


-エミシ-

 「こんな素敵なことをしていると、あなたがまるで野人なのか、それとも、眼前のあなたとは全く違う別な人なのか、わからなくなってしまうわ」「野人?」「ここら辺は昔はエミシって言ったんでしょ?あなたはその子孫じゃないの?」「それで野人か。そうだ。その通りだ。カンム御門がサカノウエノタムラマロを派遣して、破壊や収奪、殺戮を繰り返して、民族の古代からの土地を略奪したんだ」「女達が散々に犯された。混血が進んで、支配されてしまったんだ。そして原発だ。反対する頬を札束で懐柔して、あの危険な怪物を建ててしまった。古代からの非道な蹂躙は、未だに続いているんだ」 「だから、西の女の私を犯してもいいって言うの?」「そうは言っていない」「あなたに流れる先祖の反逆の血が、淫らに欲情してるんだわ。私を見つけて盛りがついたんだわ」「何と非難されても、お前への情念は冷めない」
 「なぜ、私としたいの?」「惚れたからだ」「ただの色欲でしょ?」「お前に魅力があるからだ」「なぜ、私を抱きたいのか、詳しく教えて欲しいわ」「原発のエリートの奥さんを凌辱したいのもある」
 「原発の管理職なんてエリートなもんですか。ただの汚れ役よ。それに、私は百姓の出の、ただの肥えた年増女よ」「それがいいんだ」
「夫にも見向きもされない、太ってるだけのおばさんだわ」「それが好きなんだ」「あなた?私を、いったい、幾つだと思ってるの?」「年上が好きなんだ」「見たらわかるでしょ?随分と大年増よ」「その熟れきった桃のような風情がたまらないんだ。嘘は言わない。若いのなんてつまらない。話す気にもなれない」「それに、私は人妻よ」「それが何だというんだ?俺にとってはなんの意味もない。人妻に惚れては駄目なのか?」「そういう訳じゃないけど。わがまますぎるわ」「何かの罪になるのかな?」「好きになるのは悪いことじゃないし。好かれたら悪い気はしないわ」「繭子?正直に言えよ。俺に惚れられて、心底から厭なのか。それとも、違うのか。本当に忌避するなら、俺はすっぱりと諦めるよ」「待ってちょうだい。嬉しくない筈がないでしょ?それに、あの件を解明しないままだったら。私。困るわ」「だったら。その、惚れてしまったお前を抱きたいと願うのが犯罪なのか?」「理屈は通っているようだけど、随分と得手勝手な言い分ね。人妻と関係するのは人道に反するでしょ。昔だったら姦通罪なのよ」「そうかもしれないが。惚れるなどと言うことは、所詮、身勝手なものだよ」「そうなの?」「好きか嫌いかなんて、理屈じゃない。感性なんだ。本能だよ。繭子?そう思わないか?」


-唇-

 「いいなぁ」「何が?」「その表情だよ」「私の?」
 「撮っていいかな?」「どうしようかしら?」「繭子?」「はい」「何を心配してるだよ。俺はただ撮りたいだけなんだ。これはポラロイドだからネガもない。撮った写真はみんな繭子のものだ。俺には何も残らない」「わかったわ」
 蝉時雨に包囲されて草一郎がカメラを構えた。「そう。その唇」「唇?」「ぽってりして。紅くて。濡れてる。唇は女性器の化身だと聞いたが。淫らの極限だ」「露骨なのね。厭だわ」「でも、そんなに厭らしいの?」「性交したばかりの女陰みたいだ」「まあ」「精液が溢れてる陰唇かな」「露悪趣味なのね。サディストなの?」と、言いながらも、女が紅い舌で、また、唇を舐めると、「それだ」と、男がシャッターを切った。
 「どんな風に写ってるのかしら」たちまちのうちに現像された写真を見た女が、「私じゃないみたいだけど、私なんだわ。自分が知らない自分なのね。あなたはそれを引き出して写し取れるのね。凄く腕がいいのね。プロみたいだわ」「モデルが秀逸だからだよ」「嬉しいわ」
 「お前のは濡れやすいだろ?違う?」「どうしてそんなことがわかるのかしら?」
 「唇の形でわかるんだよ」「どうしてなの?」「ヒトの器官でものが入るのは口と膣だけだろ?」「そうだわね。口では食べ物を食べるし、膣では…そうね」「そうだろ。だから、唇は陰唇そのものなんだよ」
 「食べるのが好きじゃないか?」「好きだわ。だから、するのも好きだと言うの?」
 「ほら。今、唇を舐めたろ?」「それがどうかしたの?」「お前の癖なんだよ。唇をいつも濡らしてる。実に淫乱だ」「そうなの?」「撮るぞ。もっと唇を舐めて」「こう?」「それだ」男が矢継ぎ早にシャッターを切る。
 上気しながら、出来上がったばかりの写真を見た女が、「これがあなたの言う官能なの?」「そう」「官能ってとっても綺麗なのね」
 「氷を含んでくれないかな?」「こう?」「氷を少し出してみて。夫のをくわえているみたいに」「厭な人」「こんな官能的な表情は滅多にないから。頼む。繭子」「そんな風にされると。仕方ないわね。こう?」
 女が氷を含んでから半分ほどを出して、唇で弄ぶ。「それだ」男がカメラを構えて、「もっと唇を濡らして」次々とシャッターを切った。
 現像された写真を見た女が、「凄いわ。あなたの言う官能の意味が良くわかったわ。厭らしいんだけど綺麗なのね。神秘的だわ。こんなに撮るなんてプロだわ」「モデルの素材が飛び抜けているからだよ」


(続く)

原発の女6️⃣

原発の女6️⃣

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  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-19

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