願い
君とは一度も会ったことがないのに、窓越しにその背中を見て僕はすぐにわかった。「ああ、君だ」、と。僕は何かに取り憑かれたように病院を出て、君の元へ駆け出した。君は今にも、空に溶けていなくなってしまいそうだった。空をそのままくすねてきたような色の入院着姿の君が、誰もいない庭園をひとりで歩いていた。不意に立ち止まった君は、慈しむような瞳で地平線の彼方を見つめていた。ようやく追いついた僕はその時になってはじめて気付いた。君は消え入りそうな声で、ずっと僕の名前を呟いていた。僕は、君の背中に向かって叫んだ。君の名前を。驚いたようにこちらを振り返った君は唖然とした表情になって、数秒間、僕を見つめていた。刹那、君は声を詰まらせて泣き始めた。大粒の涙が頬を伝う。僕は堪らなくなって、君を正面から抱き締めた。君の肌は、雪のように冷たかった。文字通り、君は儚い存在だった。今度は僕の方が堰が切れたように泣いた。今まで受話器越しにしか君の存在を認識できなかった。君は僕しか話し相手がいないと言っていたけれど、僕も話したい相手は君ひとりしかいなかった。来る日も来る日も、僕は君の無事を祈り続けていた。ある日、君から僕宛に手紙が届いた時、僕は迷わず、行こう、と思った。君がいる病院に。君以外の何もかもを捨て去った。僕は手紙に書かれた病院の住所を頼りに、来る日も来る日も捜し続けた。そしてようやく、君の病院と、君を見つけることができた。その日から僕たちは来る日も来る日も、他愛もない会話をし続けた。このまま死ぬまで、ずっと君の隣にいよう。自分から死ぬことは、もう考えないようにしよう。僕が死んだら、君も死んでしまうだろうから。
願い