異人の儚増補総集編

異人の儚 増補総集編
 
 

-脇毛-

 一九四七年の七月。異様に蒸し暑い朝である。
 敗戦間もない北の地方の、とある小さな市に向かうバスが、土埃をあげて悪路を絶え絶えに転がって行く。
 子供達の集団が乗り込んできて、いつにも増して混みあい騒がしい。狭い通路の最後尾で、一対の男女が向かい合わせに密接して身動きがとれないでいる。二十歳半ばの大柄で豊潤な女と、背が高く頑健な一七歳の高校生の伊達だ。二人は以前に隣り合わせになって腕が触れた事がある。
 その女の、実に柔らかい下腹に伊達の陰茎が、女の豊満な乳房が伊達の胸の下で押し潰されて、先程から密着しているのである。女のブラウスと男のシャツは形ばかりの防御に化してしまって、お互いの身体の動きが乳首や動悸に至るまでわかってしまう。伊達は僥倖の官能に無造作に身を委ねている。
 伊達の眼前で吊革を掴む半袖の女の腋毛が、桜色の肌に漆黒に繁茂して汗に濡れている。青いブラウスの腋に汗が滲んでいる。女陰を曝しているのと同じ有り様ではないか、だが、陰毛よりもむしろ淫靡な光景だ、と伊達は思う。
 女は周囲を念入りに見渡して、女学生の一群によって隔絶された死角の空間だと確信すると、混雑のせいで不可抗力なのだと悟ってしまった。そして、思いもかけずに訪れた感覚を享受する事にした。若者の陰茎の形や熱を無作為に受け止めて、乳房や下腹から伝わる男の肉の感触に抗わない。バスの揺れを理由に無防備に身体を委ねながら、若い肉の躍動の軋みを満喫している。罪悪感などは微塵も湧かないばかりか、身体の深奥が熱くなるのを自覚しているのである。もはや淫液が下着に染みているだろう。これはほとんど真裸で抱き合っているのと変わらないのだ。このバスでの通勤は大分になるがこんな経験は一度もなかった。
 いつも見かける精悍な若者を女は嫌いではなかった。女性徒達の噂話から、名前も、学業に秀でていながら喧嘩が相当強い事まで聞き知っている。それどころか、思い浮かべて自慰をした事すらあるのだ。
 女は、脇の下に張り付いた男の視線にも、とうに気付いていた。男の真意が知りたいのか、あるいは自分の本心を確かめたいのか判然としないままに、女は顔を上げて若者の目を捉えた。男は平然として見詰める。女も漆黒の濡れた瞳を逸らさない。粘着した視線が互いを探り会う。男の答えを求めたのか、女は快感の趣くままに紅い舌を出して唇を舐めた。
 拒絶どころか誘っているに違いないと伊達は確信した。
 この女も、先の戦争で夫か恋人を亡くして飢えているのだ、膨大な男を失ったこの国の女達はみんな飢餓なのかも知れないなどと、伊達は妄想した。確かに伊達の母親は戦死した職業軍人の夫などはとうに忘れ、子供の目を盗んで近所の男と乳くりあっていた。だから伊達の行状にも何も言わない。伊達もそうした女達の何人かと性交しているのだ。
 急ブレーキを踏んだバスが激しく揺れた。女の身体が伊達に崩れる。その瞬間に、支える態を装って豊かな乳房をわしづかみにした。身体を戻した女が視線を尖らせて、バカと口の形を造った。熱い息が伊達の唇を直撃する。紅潮した頬が緩んでいる。伊達も声を出さずに、この地方の女陰の隠語で返した。
 女の手が動いた。陰茎を掴んだのである。下げた紙袋で巧みに隠している。離さない。呼応して、伊達はバスの揺れに合わせて片足を女の股に押し込んだ。女が阿吽の如くに足を開いて受け入れる。柔らかい太股や女陰の盛り上がりが明瞭に、豊かな形や温かさまでが伝わる。
 やはりバスの揺れに合わせて、女もさらに股を広げて女陰を押し付ける。これはもはや性戯ではないか、二人は同時に確信している。
 女は衆人の中での危険な痴戯で、味わった事のない淫乱な快楽に溺れている。初めての経験だ。技術者で淡白だった夫は戦死していてとうに未練も失せて、男も亡夫しか知らず性の体験も僅かだが、戦争の惨禍が女の動物の本能を目覚めさせたのか、年齢の生理が為すのか、あるいはこの女の生来のものであったのか、女は固く秘匿しているが、強まる淫欲をもて余しているのだ。昨夜もさんざん自慰をした。
 その女が伊達を見据えて、また、今度は明敏に意識して、淫奔に紅い舌で唇を濡らした。
 その時、子供達の叫声が一段とかんだかくなった。その瞬間に伊達は女の耳元で、「やりたい」と囁いた。瞬時に、女は、「ついて来て」と答えた。
 この一瞬に際どい遊戯は終結して性交の黙約が成立した。これを機に二人の行為はもはや挿入の前戯と化した。女は周囲に気を配りながら、可能な限りさらに大胆に身体を擦りあわせる。もはや充分に熟成して膨れた女陰を男根に擦り付けているのだ。男は乳房を揉み続ける。間もなく訪れるだろう淫蕩な場面を思い描きながら、女は喉が乾き朦朧となる。なにもかもが初めて味わう陶酔だ。
 最後に性交をしたのは4年前に出征した夫との、記憶にも残らないありきたりのものだった。夫はすぐに戦死して、間もなく敗戦の玉音放送を聞いた。女は暫くは性欲など感じる事もなかった。やや生活が落ち着いて身体が緩むと、その欲望は夜毎自慰するほどに、熟れた女の身体の中でいつの間に獰猛に成長していた。しかし女は世間や未来を露ほども信じられず、表向きには固く封印してきた。見合い話や言い寄られた事もあったが毅然と断ってきた。恋愛や結婚に何の意味も見いだせないのだ。
 だから偶然が重なったとはいえ、今朝に限りなぜこんな事になったのか。女は自身の身体の咄嗟の、しかし自然な反応をまだ十全には理解できないまま、この直載に自分を求める大胆な若者に身を任そうと決めた。女陰がたぎる様に牡を求めている。こんな事は初めてなのだ。
 暫くして子供の一団と、ある会社の通勤者達が降りるとバスは静まり返った。女は身体を離し何事もなかった様に向きを変えた。
 いつもの停留所を伊達は乗り越して、ふたつ先で女に付いて降りた。暫く間を開けて、陽炎の様な豊かな尻の後に続く。曲がり角で女が振り返り、妖艶に笑んだ。


-嬉子-

 小さな洋品店の裏口で、女が辺りに気を配りながら鍵を外すと、素早く伊達の手を引いた。戸を閉めて鍵を掛けるやいなや、伊達に抱きつき、柔らかい唇で舌を求めながら、男根に擦り付けた腰をバスでしたよりさらに淫奔にくねらす。「私の名前を知ってるの?」と、耳朶に熱い息を吹きかけた。名字しか知らなかった伊達が黙って乳房を揉み続けると、嬉子だと女が言った。夫は戦死して独り暮らし、27歳でここで一人で店員をしているのだと言う。
 勃起を確認して、「時間がないから」と言いながら、スカートを穿いたまま下着を脱いだ。淫液が染みている。積み上げられた段ボールの箱に両手を支えて折った腰を突き出す。
 伊達がスカートをめくりあげると豊かな丸い尻が露になった。桃色に輝いている。その尻を割って勃起を押し付けると濡れている。挿入すると女が声を圧し殺して呻いた。陰道が男根を奥深く飲み込んで締めつける。尻を振る。
 「ふしだらな女だと思ってるんでしょ?」「どうして?」「だって。バスであんなことになって…」「不可抗力だったんだ」「誰とでもなる訳じゃないわ」「俺だって…」「戦争後家だからと思われたくないわ」「あんたのせいじゃない」「夫だけだったのよ」「4年ぶりなののよ」「信じてくれる?」抱き締めると女の身体が反応した。「あなたの事は知ってるわ」「どうして?」「噂の主だもの」「不良だと思ってるんだろ?」「二つ下の弟がいたのよ」「戦死したわ」「戦争中は何を考えていたの?」「絶対に負けると思っていた」「私もそうだわ」「配属将校を殴ったこともある」「何ともなかったの?」男は答えない。「この春に行幸があったでしょ?」「全校で出迎えた」「あの時に帰還兵が飛び出して叫んだんでしょ?」「特攻の生き残りだ。目の前の出来事だった」「何があったの?」「責任をとって腹を斬れと叫んでいた」「それで?」「警察が取り押さえようとして…」「応援歌を歌ったんだ」「誰が?」「あなたが?」「どうして?
」「無性に腹が立った」「それで?」「周りが歌いだして…」「警官は怒るし。教師達は真っ青になって」「大笑いだ」「そうだったの」「あなたで良かった」「何が?」「さっきのバスの事よ」「どうして?」「直感だわ」「あの戦争で何もかにもが変わってしまったんだわ」「そうだな」「私も変わるんだわ」
 やがて、指を噛んで声を忍ばせ激しく悶える女が、妊娠は心配しないでいい、絶頂だ、もう出してと言うのに応えて激しく射精した。熱く長い放出が済むと、女は痙攣しながら崩れ落ちた。
 伊達は煙草を吸う。女は潤んだ目で伊達を見上げながら、咎めもせずに、「立派な大人ね」と呟いた。「凄かった」「こんなの初めて」と言った。
 「綺麗にしてあげるわ」と、隆起したままの男根を口にしていた女が、「したいの?」伊達が頷くと、「私もだわ」と、時計を見て、「まだ時間があるもの」と、勃起したままの亀頭を含み舐めあげた。そして、作業台に座らせた伊達に股がり、男根を掴んで、未だ精液が残った女陰に自ら挿入した。伊達の舌を吸いながら、ブラウスのボタンを外した。ブラジャーをずらして豊かな乳房を露にして乳首を吸わせる。「もっと噛んで」と、乳房にいくつもキスマークを付けさせた。
 再び訪れた愉悦の痺れで意識が薄れると射精を急いた。二度目の放出で女は卑猥に法悦した。
 小さな流しで一緒に水を飲みながら、伊達が女の姿態を誉めそやして、「写真を撮りたい」と言うと、「どんな写真?」「みんな」「厭か?」「時々来る本部の上司が机に置くのよ」「何を?」「あの時の写真…」「どんな?」「…色々よ」「どうするんだ?」「破り捨てるわ」「どんな男なんだ?」「中年の脂ぎった…。しつこいんだもの」「そんなことはしょっちゅうなのよ」「戦争後家なんだもの」「盛りのついた雌犬ぐらいにしか見ていないんだわ」「男は殆ど死んでしまったでしょ?」「これからは若い人の時代なんだわ」「明日から夏休みなんだ」「私も明日は休みよ」「今夜は泊まりたいな」「家は大丈夫なの?」男が頷くと、目を煌めかせてバス停と時間を指定した。
 女が紙幣を差し出しながら、「若いからお腹が空くでしょ?」「少し遅刻はしても学校には行くのよ」と言った。



-海水浴-

 二人が出会って一週間になるその日、嘉子の休日の払暁。閨房の余韻を漂わせる女が、「いよいよね」と、呟いた。この日、二人は海水浴に行く事にしているのだった。夏の海が好きな伊達は三日前にもその海岸にいて、ある場所を見つけていた。そこで嘉子を撮りたいと思った。
 それまでの嘉子は数少ない休日も家に籠っていた。だから、初めての遠出の誘いに、やはり海の好きな女は喜色を表した。戦時下で空虚に過ぎ去った青春を男の若さが体現させてくれるのだと、女は思った。そして、この連日の営みで女の身体は、最早、完熟してもいた。「バスで行くんでしょ?あの朝の痺れる程の感覚が忘れられない」などと、催促もしたりするのである。

 二人は海水浴場のある、とある町に四〇分程かけて向かうバスに乗った。
 早くに出たからか、釣り仕度をした初老の男の二人組しか乗り合わせてはいない。
 行き着いた最後部の座席は完全な死角だ。女が座席に大版のタオルを敷く。二人は並んで座った。「本当にするのか?」「考えていたより空いてるでしょ?」「厭なの?」「あなた次第だわ」と、股間に手を伸ばす。
 女がスカートをまくりあげた。下着は着けていない。尻を浮かせると股間から数珠を取り出した。大きなバスタオルで二人の下半身を覆う。互いの股間を愛撫しながら、二人は時々顔を下げて舌を絡める。やがて女に痙攣が始まった。

 バスを降りて、海水浴場への松林を途中で逸れて暫く歩くと、巨大な奇岩に囲まれた小さな浜に着いた。男が見つけた秘匿の場所だ。女が嬌声をあげた。
 混じりけのない白砂、光の具合では銀や金にも輝く。歩くと不幸を知らない猫に似た鳴き声を出す。巨岩には樹々や草花が生えていて、北側の奇岩には細い滝が、白蛇が絡み付く様で落ちている。目の前は大海原と空ばかりだ。遠浅の浜の暫く先に6畳ばかりの岩礁が突き出ている。
 女は仕事柄で手にいれた最新の水着を着けて、男にも新しい水着を用意していた。派手な水着に変化した女は、戦争の記憶や性の桎梏からはすっかり解放されて、爛熟した夏に同化している。男が知らなかった別な人格を覗かせて、しかも何歳か若返っているのだ。雄大な歴程にさらされた奇岩や清浄な滝でポーズをとる女に男はカメラを向けた。
 男はある女の指示を無視して、純粋に女の魅力を止めるためにだけにシャッターを切っているのであった。帰ってから巻き起こる事態で女がどの様に変化するのか、男には想像だに出来ない。或いは、女は写真そのものを嫌悪するかもしれない。だからこそ、今しか撮れないと思った。女の無垢な息づかいと淫熟した肉体を、余すことなくフィルムに刻み込んだのである。

 脛程の浜で戯れた後に、「脱いでくれないか?」と、さりげなく依頼すると、「誰も来ないかしら」と、、躊躇いもなく全てを脱ぎ払った。脛ほどの浜で波とじゃれあって立ち上がると、陰毛から潮が滴る。白砂をけって海に走った。波と戯れたり、横たわって四肢を穏やかな波間に漂わせる。陰毛が生まれたての海草のように揺らいだ。
 「もっと広げて」「どこを撮るの?」「撮って欲しいんだろ」「綺麗なの?」「信じられないくらいだ」 
 海水浴を二時間ほどした。その合間に女の求めに応じて、潮に浸かりながら接合した。

 二人は遠浅の果ての岩礁に上がった。六畳程の岩場には二畳ばかりに砂が敷き詰められていて、赤や黄の花花が咲き溢れていた。
 「こんな瞬間があるなんて思ってもいなかったわ」と、身体を伸ばした女が呟いた。女の視界には海原と空があるばかりだ。男も彼方を見ながら、「未だ二年ばかりしかたっていなんだ」「あんな戦争があったなんて幻みたい…」「世の中は、すっかり忘れてしまっているが、この海の彼方は戦場だったんだ」 嘉子が口をつぐんだ。女が亡夫の話をしたのは一度切りだった。「どうしてなんだ?」「忘れたいの」「違うわ。もう忘れてしまったのよ」「そうでなければ、あなたとあんなこと、出来ないでしょ?」「そうかな?」「確かにこの国の過去は無惨だった。だからこそ忘れてはいけないんじゃないのか?」「それに…」「無用な義理立てなんかすることはないんだ」
 女が唇を噛んだ。「ご主人はどこで?」女は南洋のある島の名前をポツリと言う。「遺骨は?」「骨に似た小石が一個届いたばかりだもの…」「珊瑚の欠片だったのかしら」「まるで、笑い話だわ」と、女は本当に苦々しく笑った。 「ご主人もこの海に沈んでいるんだ」「…きっと、この海に流れ着いているよ」「そうかしら?」「人間は元素なんだ。死んだら元素に戻る」「そうなの?」「だったら、どうなると思うんだ?」「…わからない」「神仏や霊魂を信じているの?」「そんな訳じゃないけど…」
 「御門神社には?」「祀ってあるわ」「どうして?」「町内会の役員の人がそう言うんだもの…」「行ったことはあるのか?」「首府なんて一度もないわ」「あそこにいると思うか?」「何が?」「ご主人の霊魂…」「考えたこともないわ」「墓は?」「実家の墓に入って入るけど。遺骨もないのよ」「なにがしかの遺品と戦士広報ばかりを納めたんだわ」
 「この前、親戚の葬儀に行った。火葬場の煙突から煙が立ち上ぼるのを見て実感したんだ」「煙は焼かれた遺体から立ち上った水蒸気だ」「水蒸気は水素だよ」「水蒸気は雲になって雨に変わる」「雨は大地に降り。やがて、川に注いで終いは海に戻るんだ」「その水素は、また、何かの植物か動物の構成要素になるんだ」「元素は循環しているんだ。それが自然の営みだろ?」「そうなのね」「俺達はみんな、海から産まれて海に帰るんだ」と、男が言うのである。女も同意できそうな気がした。
 「弟は?」「…大陸だったの」「やっぱり、戦死公報の紙切れが一枚きりだったわ。あなたのお父さんもそうだったんでしょ?」「やっぱり、この海になっているよ。それが人生の原理なんだ」女が頷いた。
 「みんなこの国に殺されたんだ」「そうね」「御門を憎くはないか?」「憎い?」「そう」「どうなのかしら?」「俺は憎い」
 「あの日はどうしてた?」「敗戦の日だよ」「…家にいたわ」「一人で?」「…そうよ」「ラジオを聴いたろ?」「聴いたけど。雑音で良く聴こえなかったし。何の事だかわからなかったわ」「暫くしたら、近所の人が来て教えてくれたの」
 「あなたは?」「学校で聴いた」「間の抜けたとんまな声だと思った」「現人神とはこんなに情けない奴だったのかとしか思えなかったんだ」「親父とは相克もあった。でも、こんな奴に命令されて死んだかと思うと情けないし。悔しくて…」「数百万の赤子を殺しておきながら、のうのうと生き長らえている御門」「そればかりか子作りに励んでいるんだ」「こんな御門制の維持があいつらの使命なんだ。国体というやつだよ」
 「御門を憎んでいるのね?」「復讐したい」「復讐?」
 「敗戦間際に南條内閣が倒れたろ?」「止めを刺したのが偽造写真だったんだ」「偽造写真?」「南條とある女が交合している写真だよ」「あの頃、評判になって大分出回った。見なかった?」「…見てないわ。見たの?」「見た」「どんな写真なの?」「修正したんだ」「本当に性交している男と女の顔だけを取り替えるんだ」
 「写真には色んな技術があって。顔を取り替えるだけなんて、割りと簡単な方だ」「もっとも、俺は未だできないけど」
 「それを見せられた御門が激怒したんだ」「どうして?」「南條と交わっている写真のその女が御門が寵愛している側室だったんだ」「まあ」「それで、御門が南條の罷免を決断した」 「宮廷は性に敏感なんだ」「性が最重要な課題と言ってもいいくらいだ」「どうして?」「御門は万世一系の男系なんだ」「これを引き継ぐのは生易しい事じゃない。毎日、夜毎日毎、ひたすら子作りに励むんだよ」 「その偽造写真を作ったのが…」「…まさか?」「前に話していた写真館だよ」「そんなのがこの町に?」「あるんだ」「その人のご主人はこの国に殺されたようなものなんだ」「その人って女なの?」「そう」「驚いたわ」「幾つなの?」「三〇半ばかな。ある組織と巡りあって。ご主人の復讐をしようとしたんだ」
 「それで?」「性交したんだ」「誰と?」「秘密組織の男だ」「見知らぬ?」「そう」「それで?」「顔だけを差し替えた」「それで?」「マスコミに通報して…」「それで?」「総辞職だ」「内閣を倒したのね?」「そう」「それが終戦に繋がったのね?」「そう」
 「どうしたんだ?」「…あなたとその人は?」「…どんな関係なの?」
  


-写真館-


 伊達が通う高校の近くに、揚げパンが名物の駄菓子屋があった。働き者の女が一人で切り盛りしている。元は夫と共に営み繁盛した写真館だった。小さな町の政争に巻き込まれた夫は、社会主義に傾倒した事を疑われて、謀略で徴兵された挙げ句にいとも容易く戦死してしまったのである。
 女は夫の死は陰謀の延長でないかと疑いもした。だから、御門と軍と国家を心底から憎んでいる。日和見をさらけ出した革新政党や労働組合もさらさら信用していない。女は、鵺の様な権力と身体一つで闘いながら、戦中、戦後を生き抜いてきたのだ。
 豊満な女は夏朱子という。三一歳だ。子供はいない。妖艶な容姿に似合わず男嫌いで通り、身持ちがいいとの評判だ。

 入学間もなくの花万華の頃、ふとした契機で、伊達は夏朱子の巧みな誘いのままに性交した。
 そして互いの身体が馴染んだ潮時に、伊達は夏朱子のある懇願に同意した。
 豊潤な夏朱子の性器や裸体を伊達が写真に撮るのだ。それまではある女がやっていたが、事故死したと夏朱子は言うのだった。フィルムは夫の旧友の極左派幹部の闇のルートに回すのだ。極左派に協力する事で権力への復讐を果たし、自分の裸体で理不尽な男共を愚弄するという、倒錯した快感に夏朱子は酔っている。そして一人きりの女には結構な収入源だった。


-決意-

 元写真館に女主人はいず、卓袱台に短い走り書きがあった。いつになく身体の張っていた嘉子は拍子抜けしてしまう。
 「どうしたのかしら?」「何か考えがあるんだろ」「考えって?」「思いやりの深い人だから」
 未だ見ぬ女の思いやりとはなんなのか。男は多くを語らないし、嘉子には知る由もない。何れにしても、数時間後にはこの男と性交し、それをその女が写真に撮るのだ。数日前に男が提示して女自身が同意した事だ。後悔はしていない。それどころか、未知の快楽への期待で胸が騒いですらいる。しかし、写真を撮る女と男の実際はどういう関係なのか。元写真館の妻で単に商売で撮るのだと、男は言うが、疑う余地はないのか。疑念を持つ方が正常ではないのか。もし、男がその女とも関係があったら自分はどうすべきなのか。この数日、反芻してきたが一向に答えがない。しかし、いかなる事態になったとしても、この男と別れられるのかという自問には明確な答えがあった。つい今しがたまでも、味わった事のない解放された充足を満喫していたではないか。男の身体が自分の身体の一部ではないかとすら思ってもしまうのである。そして、男との交わりは肉体が喜悦する以上に心が潤沢していたではないか。戦後の混沌と暗鬱の日々から、生きていく指標が漸く見え始めたのだ。これ以
上に何を望む事があろうか。
 そもそも、あの初めての日、この若い男に、進路の邪魔はしないし、あなたが求める限りでいいと、十も歳上の負い目もあったのか、女の決意を明かしたではないか、あれから、未だ一週間ばかりなのだと女は思った。答えを出すのは未だ先で良い筈だと、男の端整な横顔を見つめるのである。
 
 磨き上げられた広い階段を軋ませて上がると、二階の廊下の行き止まりは六畳ばかりの和室だ。大輪の花模様の布団が敷かれている。極彩色だ。枕元には水差しと灰皿、それに避妊具が置かれていた。北側の窓が開け放たれていて、網戸の向こうに隣家はなく果樹園が広がっている。その果てには北の山脈が青々と連なっている。風はない。
 窓際に小さなテーブルを挟んで布張りの椅子が二脚、テーブルには灰皿とウィスキー、グラスが載っていた。大掛かりな照明と重ねて立て掛けられた三枚の大きな鏡が目を引いた。
 ウィスキーを飲み始めた伊達を嘉子が手招いた。ガラス戸にレースを張った一枚板の書棚に、多量の猥褻な雑誌とおびただしい性交の生写真などが詰まっているのだ。尋ねる女に、業務用だと、男がさりげなく応じて、押し入れの戸を引いた。そこには様々な衣装や性具、紐などが隠されていた。


-女学生-

 嬉子が伊達の傍らに立った。セーラー服に着替えている。「どうしたんだ?」上気した加減の女が、「もう後戻りは出来ないんでしょ?」「決心したんだろ?」「でも…」「厭なのか?」「あなたの望みなんでしょ?」「あなたとは離れることなんか出来ないもの」「気持ちを固めたかったの」「だから、着たのか?」
 「どう?」「いい」「でも。やっぱり、きついわ」男が見届ける。「不自然でしょ?」「それがいいんだ」「どんな風なの?」「清純な制服を欄熟した肉体が汚している…」「厭だわ」と、紅い舌を覗かせた。「圧倒的な肉の魅力だよ。本物の女子高生には決してないんだ」「やっぱりきついわ」セーラー服は夏朱子の身体に合わせたものだ。「脱いじゃ駄目だよ」「気に入ったの?」「刺激が強くないと飽きたらなくなってしまったんだ」「私もそうなるのかしら?」「もう、なってるだろ?」「そうなの?」「二人でやってきたことが悉くそうだろ?」
 女が椅子に掛けて向き合った。「何だか、やっぱり胸が苦しいわ」と、足を組みながら、「押し入れに白衣があったわ」と、言う。「聴診器も…」「ここには医者もいるのかしら?」「だって、こんなに胸が苦しいんだもの」

 暫くすると、白衣の伊達が現れた。聴診器をかけている。「胸を開けて」女が豊満な乳房を開いた。すると、その乳房は痣だらけなのである。「これはどうしたんだ?」女は格好な台詞が見つからない。男が聴診器を当てた。「どう?」「どんな具合なんだ?」「黙っていてはわからない」「胸が苦しいの」「歳は?」「17…」「…それって、戦時下の頃だろ?」「…そうね」「こんな格好をしていていいのか?」「…憧れだったんだもの」「本当は何を着ていたんだ?」「何もかもが禁制で。下は真っ黒いズボンだったわ」 「…それで、どうしてこの診療所に来たんだたんだ?」「それが何もわからないの。私ったら、どうしたのかしら?」「あなたは知ってるんでしょ?」「…運び込まれたんだ」「どこに?」「診療所にだよ」「ここがその診療所なのね」「そう」
 「どうして?」「…気を失って」「どこで?」「…バス…」「…バス?」「…バスの中で倒れたんだ」「思い出したか?」「正直に話さないと診察できないよ」「先生は幾つなの?」「35」「そんな風に思えてくるから不思議だわ。…込んでいるバスの中で。最後尾に押しやられてしまったのよ。あの時みたいに」「あの時?」「あなたと初めてのあの時だわ」「それで?」「男がいたの」「誰?」「わからない」「…鉱山の脱走者だったのかも…」「半島の徴用工か?」「…多分」「どうしてそう思うんだ?」「あの頃に脱走騒ぎはしょっちゅうだったんだもの」「喋ったのか?」「ううん」「顔は見たのか?」「どうだったかしら…」
 「匂ったの」「どんな?」「野草の濃厚な香りよ」「野草を磨り潰したみたいな…」「汗と血の臭いだったのかもしれない」「それで?」「…ますます密着して…」「抱きすくめられたんだな?」「そうよ」「それで?」「あなたみたいになっていたわ」「硬直していたでしょ?」
 「脱がされたのか?」「そうよ」「俺だけじゃなかったんだな?」「隠していたんだな?」「そうじゃないわ」「だって、あなたは何も聞かなかったでしょ?」「他には?」「女の過去を詮索するなんて野暮なのよ」「男なんて同じだもの…」
 「その男はどうなったんだ?」「知らない」「先生?」「診察は?」「…処女なんだね?」「どうなの?」「はい」「診察すればすぐにわかるんだよ」「本当です」

 「でも、正直、不安だわ」「どうして?」「これから何が起きるのか…」「大丈夫だよ」「でも…」「あなたには天性があるんだ」「天性?」「この一週間に色んな事があったろ?」「そうだったわね」「驚きの連続だった」「あなたが?」「そう」「何に驚いたの?」「あなたの天性の資質だよ」「多分、あの戦争で封じられていたのがあからさまになったんだ」「そうなのかしら?」「こういうのが好きなんだろ?」「あなただからよ」「それでなくては困る」「あなた以外では出来ないことばかりだわ」「相性がいいんだ」「もう、みんな試してみたの?」「だったら、捲ってごらん」女がスカートを捲ると、ガーターを着けている。パンティは紫だ。「良くこんなのを見つけたな?」「だって、一揃いになっていたんだもの」
 「やっばり、胸が苦しいわ。休ませて」
 伊達は布団の前に三枚の大鏡を二人の全貌を映す位置に企んんで並べると、嘉子を横たわらせた。
 布団に腹這いになった伊達がウィスキーを飲ながら煙草を燻らす。セーラー服の嘉子が横に添った。
 やがて、ポーズをとる幾人もの全裸の嬉子が鏡の中に現れた。
 仰向けの伊達に背中と尻を見せて嬉子が股がり、伊達を導き入れた。女の正面の大鏡に結合の全てが映されている。他の二枚の鏡にも、怪しく加工された裸体の猥褻な交わりが、余すところなく映し出されているのだ。「全部見えるわ」と女が答える。嬉子は鏡を見ながら、自分達の交接を淫らな言葉で口にして、詳細を描写した。暫くすると、伊達が嘉子を引き倒して、すっかり仰臥させると、手を絡めて両の乳房を塞いだ。足も絡めるから女は身動きができない。

 そこに、赤い長襦袢姿の夏朱子が現れた。ウィスキーのグラスを手にしている。椅子に座って、妖艶に笑みながら二人の痴戯を見下ろしていたが、傍らに座り込むと、挿入されて露な嘉子の陰核を舐め始めた。嘉子は驚いたが、初めての感覚に引き込まれていく。五分も続けられると痙攣も始まって、言い知れぬ快楽の激流にさらわれてしまうのである。覚悟はしていたとはいえ、夏朱子が仕掛けた不可思議な官能の世界に、いとも容易く堕ちていくのであった。そうして、嬉子の様子が甚だしく変化していくのを見極めると、伊達と嬉子の交接に、ごく自然に夏朱子が加わってしまうのである。
 やがて、法悦の残滓を漂いながらかすかに痙攣する嬉子に、隣で夏朱子に挿入したままの伊達が、「撮るか」と、囁いた。嬉子は喜悦しながら濡れた唇を舐めて頷く。
 夏朱子は二人に手慣れた指示をしながらシャッターを切り始めた。嬉子の濡れた性器や性具や紐、衣装を使った様々な痴態が、絶妙に顔を隠して矢継ぎ早に撮られていくるのであった。
 


-撮影-


 盛夏のある日の昼。
 三人は巨岩やそこに生えた樹々と花花、細い滝、海原や渚を背景に一連の撮影を済ませた。最初はセーラー服や看護婦の衣装や仮面を纏っていた女達は、やがて、手作りのアイマスクを付けただけの裸体になっていたが、少しばかり焼けてきたからと言ってつば広の帽子を被った。
 松の大木の木陰に石を組み上げたにわかづくりの炉には、金串を渡して肉や魚が焼けている。二人とも健啖で酒が強い。食欲と性欲は通じているに違いないと、男は思う。
 大振りのアブが飛んできて嘉子の食べかけの豚肉に止まった。それを夏朱子がぼんやりと見ている。下半身も砂まみれになってしまったからか、改めて下着は着けていない。二人とも股間は濃密だが、夏朱子のは未だ生え揃ったばかりで、染色してしまった土色の地肌が露になって臍まで続いている。嘉子の剛毛には白砂がびっしりと貼り付いていた。気付いた嘉子に追い払われた虻は、夏朱子の股間の近くで羽音を軋ませていたが、平手で叩き落とされるとウィスキーのグラスに落ちて溺れ死んでしまった。
 そのアブを取り出したウィスキーを飲みながら、「どれくらい撮ったの?」と夏朱子が聞く。「五〇カット」と、伊達が答える。「あと五〇ね」と、視線を飛ばして、「「あの小島がいいわね」と、言う。嘉子も伊達も頷く。「それぞれを一〇〇枚ずつ現像すると、利益はざっと一〇万を越えるのよ。普通の勤め人の年収の二人分だわ。これが今日の稼ぎなの。驚いた?」「事実よ。でも、私たちだけでは及びもつかないことなのよ。全ては組織の為す業なの。組織のことは、追い追い、話してあげるわね?」嘉子が頷く。「それを三等分するのよ」
 計算しながら、嘉子は夏朱子の言葉に驚嘆している。快楽を享受した上に秘密も確保して大金が入るのだ。性交の微細まで曝しはするが、個人の特定は決してされないのだ。何の疑念もないと、嬉子は改めて思う。こんな世界があるとは夢想だにしなかった。若い学生との初めての戯れから僅か二週間ばかりでそうした世界に辿り着いたのだ。
 ただ、難題は若い男を共有できるかという事だったが、女同士の初めての交わりで言い知れぬ悦楽に溺れた嬉子は、簡単に答えを出してしまった。二人の女は陰惨な戦争に翻弄された共通する半生を語るにつれて、共助の確信を強めたのである。


-アイマスク-

 こうして、ウィスキーを飲み交わしながら存分に休むと、汗にまみれて白砂をまぶした二人が、再び、アイマスクを付けると波に向かって歩き出した。豊潤な二つの尻が淫靡に揺れる。二人ともふくよかな菩薩顔で、豊満な似たような身体つきだが、嬉子は大柄で濃い桜色だ。真っ白な夏朱子のは少し下で激しく震えている。
 渚を歩きながら、二人は叫声を憚らずにはしゃいで、泡立つ潮をすくってかけあう。三一と二七の女が無邪気に戯れているが、女達の身体は撮影の最中に交接を済ませたばかりで、発酵しているのである。まだ火照る肉を潮が冷やすのだ。滑らかな肌や豊艶な乳房を濡らした潮が陰毛から滴る。夏朱子が伊達を呼んだ。
 大きな青い帽子と青いアイマスクだけを着けた嘉子、長い髪、陰毛も自然のままだ。幅広の赤い帽子と紫のアイマスクに銀のネックレスを着けた夏朱子、生え揃ったばかりの陰毛が頼りないがへそを頂点に濃密に黒づんでいる。異様で独特の懶惰な空気を発散する女達に向けて、男は矢継ぎ早にシャッターを切った。
 やがて、女達は浅瀬の先に突き出た岩に向かって、淫行を重ねた尻を揺らせて歩み始めた。中途まで来ると、男の指示で二人は浅瀬に座り、静かな太平洋の波を受けながら、抱き合って口を吸い合う。紅い舌を露骨に伸ばして絡め合う。カメラはその淫らな有り様を接写する。
 唇を離した嬉子が、「姉さん。まだ本気にならないで」と、言うと、「よっちゃんこそ」と、唾で光る唇を舐めて、招き寄せた男の水着の股間を掴む。
 小さな岩の先は海原で陸からは完璧な死角である。水深は腰程だ。女達はアイマスクを外して泳ぎ始めた。夏朱子は浜育ちで、嬉子はそうではないが夏の海が好きだ。暑くなってきたが、勇んで出掛けてきたから、未だ一〇時を過ぎたばかりだ。

 伊達が写した写真を見ながら、伊達と嬉子の話を聞き、生徒が夏休みで閑古鳥の夏朱子が、次の嬉子の休みに撮影に行こうと言ったのだった。

 泳ぎを満喫した三人は岩場で、女達がたわいない談笑をしながら、暫く休む。やがて夏朱子が声をかけて再びアイマスクを着ける。女達が様々な痴態で戯れ、抱き合い、口を吸う。とうに水着を脱いだ男が時おりポーズを指示しシャッターをきる。やがて、嬉子が陰茎にまとわりついた。夏朱子がカメラを構える。

 まだ射精を受けていない嬉子が絶叫して果てた。その横で、嬉子の淫液でまだ濡れている勃起したままの男根に夏朱子が股がった。息の収まった嬉子が二人の交合を撮り始めた。やがて男が男根を抜き、暫く嬉子子の口に預けて顔に射精をした。夏朱子がその光景をしっかり撮った。

 間もなく、嬉子は借家を引き払って夏朱子の家に移った。入り浸っている伊達も二学期から下宿した。三人の共同生活が始まったのだ。


-受験-

 こうして半年が過ぎた。伊達が三年に進級する春のある日、「国を動かす程の人になって欲しい」と、二人の女が口を揃えて言うのであった。
 この時には、三人はそれぞれが必要とする金を手にしていた。敗戦直後の退廃した世相に便乗して、いわゆるエロ写真で文字通り身体で稼ぎ出した金だ。元締めの極左組織は、三人の様な多数の者達から掠めた豊富な資金で不穏な運動を拡大した。しかし、新しい刺激的な性具や痴態も枯渇し、競合も激化して、三人の禁断の撮影はめっきり減ったのである。組織も合法政党の評価を得るために躍起になっていた。
 女達はそれぞれの夢の実現の機会を窺いながら、蓄えた資金を株や信託の投機に回して結構な利益を得ている。伊達も大学四年間の学費と生活を賄うに余る預金口座を持っている。そして身体を知り尽くした女達との性交にも飽きていた。
 伊達は女達の助言を受け入れた。半年に及ぶ共同生活を解消して、閑静な下宿に写った。母親の元に戻ろうとは寸毫も考えなかった。無意味な喧嘩にもとうに飽きていた男は、真剣に勉学に打ち込み始めた。そもそも成績は上位だったが、三年の夏休み前には常にトップを争うまでになった。
 伊達が通う高校は戦前から進学の歴史がある。担任の教師が難関大の合格を確約した。久しぶりにあった女達は歓声をあげた。



-寧子-

 伊達は夏休みに入った直後に、「半島の告発」という映画を見た。この国が植民地支配した半島の歴史を、戦争中に独立闘争に関わった半島の監督が製作した秘かな話題作だ。
 上映寸前の映画館の通路でその少女と鉢合わせをしたのである。少女は紙袋を落として、伊達の脳裏を乳房の濃密な重量が貫いた。紙袋を拾って謝る伊達の顔を垣間見た少女は、細い声を掌で押さえて、驚喜の表情で短く挨拶する。半袖の青いシャツに藍染めを仕立て直したズボンで健康的な姿態だ。いぶかるる伊達に少女は、あなたを知らない人はいないと言い、寧子と名乗った。同じ街の女子高の二年生だとも言う。
 館内は空いていたが、二人は何気なく隣り合わせに掛けていた。その古びて窮屈な椅子に座った途端から、少女とは身体の一部が触れざるを得なかった。少女は避け様とはしない。同年代とは交際したことがないばかりか、成熟した女達の仕草しか知らない男は戸惑うばかりだ。そして、あのバスの朝の嘉子を思い出している。
 やがて、この国の青年将校が国家に命じられて、半島朝廷の皇女を犯すシーンに差し掛かった。話題になった場面だ。皇女は抗いながら、この国の侵略や横暴の数々を告発するのである。将校が民族衣装を引きちぎると乳房が露になって、館内がざわついた。皇女を押し倒して乳房を蹂躙しようとする。皇女の表情に諦めが走った。
 少女が伊達の手を握った。汗ばんでいる。すると、その瞬間にスクリーンが真っ白になって、「不適当な場面のため上映を許可しない-自主規制委員会」という文字が表れた。

 映画館を出て、前をゆっくり歩く少女を伊達が誘った。この街の名物の菓子を買い、広い墓地が併設された神社に行く。古代に御門に滅ぼされて国讓りをしたという来歴を持つ大社の分社だ。
 「去事記では円満な国讓りをしたいうけど、この地方の伝承は全く違うのね?」「磐奇風土記だろ?」「滅亡を逃れたオオクニの親族が辿り着いてイワキカミヒメと結婚したんだわ」「北の国の混血が進んだ謂れだ」
 参道は鬱蒼とした木立が続いていて、蝉時雨が降り注いでいる。時折、風が渡り、二人が見つけた木陰の長椅子は思いがけなく涼しかった。
 「半島の皇女はあの将校の子種を宿したまま、この国の皇子と結婚したのね?」「酷い話だ」「事実だったのかしら?」「わからない。ただ、あのような筋書きを作られても仕方のない状況だったのは確かだ」「不条理だわ」「豊富の侵略もそうだが、この国は半島を併合したんだ。口火を切ったのは祭郷や伊田垣だ。弱味につけ入って他人の国土を蹂躙したんだ」「あの青年将校みたいに、軍人が先陣を切ったのね?」「そうだ」


-半島-

 女の瞳が哀切を帯びて遠くへ流れた。「父は職業軍人だったの」「三代続いているのよ」「父もそうだけど。曾祖父や祖父も、きっと、祭郷や伊田垣の半島併合の手先だったんだわ」「戦争中は私も半島にいたのよ」「敗戦が決まると、誰よりも早く軍が脱出したんだわ」「逃げ遅れた普通の人達が最も惨劇を受けたのを知ったのは、最近のことなんだもの」「それが恥ずかしくて…」
 「父は家にいるわ」「警察補助隊を作る話があるでしょ?」「旧軍人を集めるんだろ?」「それに応募するんだって…」「また、軍人になるつもりなのよ」「何も懲りていないんだもの」「酷く厭だわ」「戦争で散々なことをした軍なのよ?」「父を嫌悪してるの」「私、間違っているのかしら?」「あなたの考えを聞かせて欲しいわ」
 「たとえ肉親といえども、あなたの絶望や怒りは仕方のないことだと思う」「この国は半島の言語を奪い、名前を変えさせて、神社を建てて御門教を強制したんだ」「こんなことは断罪されるべきなんだ」「その為に皇女は生け贄にされたのね?」「そう」「横暴を尽くしたのね」「あげくの果ての従軍慰安婦や徴用工なんだ。自分がこんな目にあったら、いったい、どうする?理不尽の極みじゃないか」「そうだわ」「五〇年や一〇〇年で忘れられる事じゃない」「半島の人達の気持ちはそうだわ」「俺は桓武天皇と坂上田村麻呂に侵略された、一山百文の北の国の生まれで、縄文の子孫。カムイの同胞なんだ」「私もそうだわ」「略奪され、蹂躙され、支配された者の怒りがわかるんだ。俺そのものが怒っているんだ。義憤なんだ。腹の底からわかるんだよ」「公憤なのね?」「そう。怒って生きているんだ」
 「あの侵略戦争がいかに誤りだったかは、世界を敵に回して完敗したことで明らかなんだ。普通の国になりたいとか自主憲法制定なんてまだまだだ。せめて、戦争経験者の全てが死に絶えるまで、まあ、戦後百年としても、あと三十年は待つのが礼儀だ。いずれにしても、半島とは話し合うしかないんだ」「半島や大陸はこの国の文化の源なんだ。まずは敬意を保つべきだ」「この国の西半分は渡来人も多かった。というより、俺から言わしたら、御門を始め渡来人の国なんだ。御門はミマナが故郷だと口走ったことがあるし。それなのに、何かといえば、敵呼ばわりしてどうするんだ」「歴史には謙虚でなくちゃあね?」「そう。それが最低限の礼節ってものだ」

 伊達はあの二人の女とも全く違う、少女の豊かな感性と理知に惹かれた。成績もトッブクラスだ。こんな女は初めてなのだ。その知性とは不釣り合いな程に肉感的な容姿も、もちろん気に入った。とりわけて、唇の肉感はあの二人に似ていると思った。だが、少女の幾つかの仕草で処女だろうと確信した。
 次の日に、二人は図書館で長い勉強を済ますとあの神社で話した。同年代の少女との会話は考えた以上に新鮮だ。少女の豊富な語彙を駆使した巧みな表現力や、繊細な感覚に男は舌を巻いた。膨大な読書量にも驚いた。
 三日目の図書館で、少女の誘いに応じて翌日に海水浴に行く約束を交わした。少女は別れ際に、後で読んでと恋心と数編の詩を綴った長い手紙を手渡して、小走りで立ち去った。
 


-既視感-


 夜来からの雨が上がったその日の昼近く、蝉時雨のあの浜で少女はやはり叫声をあげた。
 ひとしきり泳いで鳴き砂の浜に戻ると、男は当たり前の様に、いかにも旨そうにウィスキーを飲み煙草を吸う。少女も何も言わない。太陽と大海原しかない真昼に、男の仕草がいかにも大人びて頼もしくさえ思えるのだった。ましてや、映画館で会った時から、男が醸している頑健で精悍な空気に、初めてとは思えないほどの不可思議な磁力を感じて、忽ちの内に恋に落ちたのであった。そして、男は俊才だった。非難する事など何一つもあろうか。
 男は巨岩を背にしている。少女はそこに咲き誇る花花や、間を流れ落ちる細い滝に、不可解な既視感を感じ始めているのである。
 男は水着になった少女の鮮やかな変幻に息を飲んだのだった。薄い桜色の艶やかで豊かな肉を締め付ける水着は、裸以上に少女の乳房や股間の盛り上がりを露骨に、そして誇らしげに主張していた。白を基調としているから、陰毛の様子さえ想起させるのである。この変わりようは尋常ではない。着痩せのする体型かとは思ってはいたが、性欲の対象とは考えていなかった。だから、これ程の発見は男の感性を遥かに越えていた。
 その少女の姿態が眼前で生々しく息づいているのだ。男は目を伏せた。すると、波間の彼方に目をやる少女の股間に蟻の群が蠢ているのである。少女の匂いに寄って来たのだろうか。だが、蟻は長い列を作っていたから、自然の営みの最中に闖入者の少女が尻を付いたのだと、男は邪推を打ち消した。
 すると、少女の股間の真下では、行列する赤蟻の群れを、ふたまわりも上回る体躯の黒蟻の一群が襲っているのである。辺りには戦場の如くに赤蟻の骸が散在していて、今しも一匹が二匹の黒蟻に無惨に食いちぎられて断末魔の有り様なのだ。
 この少女には、数日ばかりの観察では計り知れない因業があるのかも知れないと、男は思ったりもした。そして、この不可思議な光景を撮りたいと思ったが、カメラは敢えて持参していなかったのだった。
 無論、男の視線に敏感な少女は、自分の肢体の真下の大地で繰り広げられている異変には、すっかり気付いていたのである。襲撃されて錯乱したのか、赤蟻の数匹が少女の股間に逃れて、追ってきたひときわ大きい黒蟻の一匹と対峙すらしているのだ。だが、この状況を男に伝えたところでどうなるものでもないではないか。遭遇してしまった恥辱は耐えるしかないのだ。男より一つ下の少女は、男が思うより分別をわきまえていて、腹の座った女だった。
 そうは言っても、少女は水着の男と二人きりになるのは初めてなのだ。動揺は隠しきれない。時折、股間の隆起を盗み見てしまうのはそのせいなのか。そして、男の端整な肉体に、少女も知らない深層の記憶が、言い知れない懐かしさすら感じているのは不可解だった。


-白日夢-

 遠浅の浜の先に大振りな岩礁が突き出ている初めて見る筈の情景は、不可解な感覚に包まれていた。
 やがて、少女の手を引いて遠浅の浜を歩いて、男があの岩に荷物を下ろした。二人は腰程の潮で暫く泳いだ。
 岩に上がると男が大きなバスタオルを敷いた。
 
 少女はある計算式で今日が不妊日だと確信している。
 そして、少女はこの奇岩の特異な風景にも、言い知れぬ既視感を抱いていた。
 男が少女の手紙に対する複雑な思いを、初めて話し出した。少女は思いの全てを赤裸々に吐露した手紙に応える男の告白に、身体中の血が沸騰した。自慰の時に似た陶酔すらこみ上げる。次の行為を待つ。後に続いている男の言葉が遠くなる程だ。

 しかし、男は何もしないどころか、言い澱んで、長い沈黙の後に再び遊泳に誘った。少女の火照った身体に潮が皮肉な程に心地いい。そして、最早、最後の垣根も取り払われたと思った少女は、理知などかなぐり捨て、放逸に男の体にまとわりついて泳ぐ。
 一陣の風が吹いて高波が来た。さらわれたその瞬間に、男が少女を抱き寄せた。
 波が去っても二人は抱き合って互いの感触を確かめている。

 男の隆起を感じながら目を閉じた少女に、静かに優しく、そして、何かを確かめる様に長く、男が口づけをした。

 二人は岩に上がり、男は再びウィスキーを飲む。海原に目をやりながら未だに逡巡している。
 昨日は少女と別れた後に、組織からの緊急の指示を受けて、新しい性具と趣向で久しぶりに三人で写真を撮った。淫らな快楽が急速に引くと、ますます少女をいとおしく感じたのである。
 男の感慨は続く。少女との肉体の交わりはこの思いを瞬時に容易く崩壊してしまうのではないか。二人の女と爛れた性交を散々に重ねた男は、男女の肉欲の業に辟易していた。純粋で無垢な紐帯を求めたかった。あの女達は男にそれを求めたか。自分はどうか。明確な答えはないのであった。確かなのは、結果としてそれぞれが多額の金を得て満足している事だけなのではないのか。男はその現実に耐えられなかった。
 確かに少女の、とりわけ水着の身体は男の欲望を惹起させていないわけはない。しかし、男は少女の鋭敏な知性に惹かれたのだ。もし、性交したらこの少女の肉体はどう変幻するのか。それが少女の叡知をどう変えるのか。おぞましい現実を見てきた男はそれが怖いのだ。この少女はまだ処女のままで青春を謳歌すれば良いのではないかと、男は思うのである。そういう少女と大学入学までの時を落ち着いて過ごしたいのだ。
 いまさら受験勉強に支障があってはならない。これからがむしろ関門なのだ。少女の手紙は男への早熟な激情があまりに率直に綴られていた。激しすぎると、男は思う。 しかし、この浜に来てからは少女の視線の熱さをいっそう感じている。男の話をまともに聞こうともしない。先程は少女の刺激に惑わされてついにキスをしてしまった。男は迷い続けている。

 伊達が少女の真実を知らないように、少女も伊達の長い思案を察しきれない。
 盛夏の白日の下で、少女はじりじりと睡魔に教われているのであった。自慰の盛りの時の様に身体が火照っている。神経が次第に麻痺してきて意識が遠くなる。

 狼狽える男を尻目に、立ち上がった少女は水着を脱ぎ捨てた。見てと言い、抱いてと続けたつもりだが、真空に包まれている気分で声にはならない。意を決して男を押し倒しすと股間は萎えていた。若草のような陰毛を擦りつけて、乳房にキスをせがんだ。少女の歯が真っ白だ。大海原の風が包まれて二人は性交した。
 少女は初めての挿入にも係わらず淫液が溢れた膣で男を迎えるのである。自慰を重ねた性器は異物の侵入に習熟している。瞬時の痛みを打ち消す初めての肉の快楽に、もはや女となった寧子は溺れる。やがて、痙攣しながら遠のく意識の中で、ある記憶が茫茫と姿を現した。

 少女の母は下級華族の家系で実父は軍人だ。そのせいなのか、軍人の妻になるべく産まれた如くの性向ばかりを備えていた。御門が定めた『婦人勅諭』そのものの様な女だ。
 少女は今年の春先にその母の箪笥の奥から、多量の写真と数冊の猥褻な雑誌や性具を見つけた。嫌悪もしたが好奇が勝った。少女は写真や雑誌を見ながら、その痴態を真似て性具を使い、しばしば、自慰するのが習性になった。
 その中からくすねた一枚の写写真がある。アイマスクの豊満な女の口に精液を放出している瞬間の写真だ。少女はその異形に息を飲んだ。男根の持ち主はやはりアイマスクをして、他の写真にも写っていた精悍な青年だ。寧子はその男根との性交を夢想して、自らの乳房や女陰をまさぐり、声を出してのたうち回りながら数限りなく自慰をしたのであった。
 伊達と出会ってからは、その対象は伊達になった。昨夜も今朝も伊達の男根を夢想しながら自慰をした。だが、脳裏に浮かぶのはこのアイマスクの青年の特徴を備えた男根だったのである。
 寧子は慣れ親しんだ写真の、その青年の射精を受ける白昼夢を漂いながら、こんな夢は何度もみているのだから、きっと、夢に違いないと思いながら法悦を登り詰めようとしていた。


-株-

 一九四九年。伊達は首府大学に合格した。一八歳である。
 大学の近くの空襲を免れた木造三階建ての下宿屋に居を定めた。女主人は四十を過ぎた豊満な女だ。
 その下宿屋で、同じ大学の三年の片倉という男とすぐに気があった。片倉は一心不乱に株を研究して投機をしている。
 ある時、千載一遇のチャンスだと言う片倉に請われて、あの女達と稼いだ全財産を委ねた。
 片倉はある証券会社の大学の先輩から得た極秘情報に賭けて、大勝負に出たのである。整理ポストに落ちたばかりの一円のある株を全額買った。それが思惑通り、日を経ずして三〇〇倍になったのだった。

 その頃の夏の終りに、伊達は下宿屋の女主人と関係を契った。

 その後も、片倉は株の売買を俊敏に繰返した。
 ある時、片倉は史上に残る熾烈な仕手戦に挑んだ。片倉は大学の先輩の大蔵官僚から極秘情報を得ていたから、確信をもって全資産を投入したが、状況の激変もあって紆余曲折したあげくに、遂に売り逃げて勝利した。伊達の利益は三億に達したのだった。
 暫くして、片倉から、イバラキの山林購入話が持ちかけられた。一〇〇万坪で坪二〇〇円、総額二億の投資だと言う。
 山林内に高速道路開発の極秘の計画がある。大学の先輩の建設省官僚の情報だから確実だ。最低でも倍の利益は見込める。間違いない投機だと、勧めるのである。片倉はその建設省官僚にも株で儲けさせていた。


-契子ケイコ-

 盛夏のある日、伊達は現地の状況を確かめるために、近くの温泉宿に投宿した。
 旅館の仲居の女が伊達の話を聞いて、その村の出だと言って目を煌めかせた。契子という二七歳の豊潤な女だ。
 翌日、仕事を休んだ女と旅館の近くの小さな駅で待ち合わせた。契子は中古の外国製のジープを駆って来た。借り物だと言う。
 険しい道を一〇キロ程走って桃源郷のような小さな村を一巡りして、東南に広がって太平洋の海岸線にまで及ぶ広大な山林を巡った。車の入れる限りに山道に乗り入れ、女の詳しい説明を聞きながら、現況を確認する。
 猛暑の昼近くに、とある場所に停車させて契子が男を誘った。
 細い急な坂道を暫く降りると、霊験ささえ漂う大きな滝が姿を現した。立ち上がる冷気が汗まみれの身体を癒す。名水だと、女が言う清流をすくい、女が用意した握り飯も旨い。
 この山林に拘わるいきさつを話し始めた契子が、途中からすすり泣いた。この一帯の山林は女の父親を含む村人の何人かで所有して、村の共有林もあったが、村出身の戦後成金のある男に、事実上、騙し取られたと言うのだ。首府で手広く不動産業を営むその男が株取引で失敗して、山林を手放す事になったのだった。まさしく、片倉と対決した売りの仕手の頭目がその男だったのである。
 話し終わると、滝壺から溢れるせせらぎで顔を洗い立ち上がった契子を、背後から伊達が抱き締めた。契子が、「仇を打ってくれるなら何でもする」と言う。伊達がずっしりと重い乳房を握りしめて、「必ず買い戻してやる」と、囁いた。渇きを癒すキスの後に、二人は滝壺で沐浴しながら交合した。

 契子はあの戦争によって作られた惨禍の女の一人だった。
 峠を越えた海沿いの侘しい漁村盆踊りに、漁師の青年と恋に落ちたが、次の年の盆踊りを迎える間もなく男は召集され、程なくして戦死の知らせが届いた。遺骨もなかったと聞かされた。敗戦間際の事である。正式な婚姻を届けもしなかったし、子供もいない。男とは数える程しか契ってはいなかった。しかし、僅かだが狂おしい程の時を得た女は、まさしくあの戦争によって産み出された女なのだった。そして、契子は忽然に現れた鋭利で無頼な、逞しい、しかし、暗闇の淵に沈んでいるがごとくの謎の青年に、今度こそは救われたいと願った。

 山林の売買契約を済ませた伊達は初めての会社を設立して、契子の父を社長に据え、山林の全ては会社の資産にした。そして、山林の東の太平洋を一望する高台に、契子の名義で山荘を建てた。契子が畑を切り開き土を作った。秋の終わりには契子がそこに住み、村の女達と切り花栽培の事業を立ち上げる準備を始めた。

 その年の大晦日に、燃え盛る薪ストーブの横で、緋の蒲団に横たわって汗さえ浮かべる真裸の契子が、伊達のカメラにポーズをとっている。
 飽和してはち切れそうな乳房を自らが揉み、太股を広げて、陰毛が激しく生えた丘の下の、厚い唇を両の指で開く。
 「ほら、濡れてるでしょ?」豊かな尻を淫らに回す。熟れて膨れた股間がカメラを見据える。
 「そうよ。ほら、これが真実の私なのよ。みんな写して」
 「今年ほど素敵な年はなかったわ」と、契子は繰り返すのである。「あなたと私の生地は随分と離れているけれど、私もあなたと同じ北の民族で、きっと似た性癖に違いないんだわ」


-『御守り』-

 閨房の伊達は契子に戯れ言を要求した。あの女達に教えられて身に付いてしまった性癖なのである。

 「夫は五一。妻は後妻で三一。結婚して三月後の閨房の会話なのよ」
 「ヒロシマのあの爆弾の時に、あなたは病院の地下室にいて助かったの?初めて聞く話だわね?」「次の日の昼頃に運び込まれた私の弟を診察したの?」「弟が息を引き取る間際に言い残したんですって?」「私を訪ねて最後の有り様を伝えてくれって?」「弟があなたにお守りを託して中を見ろって。中には折り畳んだ写真が入ってた?」
 「この写真?あぁ。この写真…。こんなの、私じゃないわ」「そうよ。本当に私じゃないわ。みんな、あなたの作り話じゃないの?」「特徴がある?股間の脇に黒子が三っつ、写ってるって?」
 「私のを見れば判ることだって?嫌よ。誰にも見せたことなんてないんだもの。力ずくで私を裸にして調べるの?」
 「そうよ。私よ」「白黒の写真。私のと弟のだけが写ってる写真だわ」
 「この写真を見て?生きてる女はいいと思ったって?」「死体はもううんざり。生きたいって?病院を逃げ出したの?それで、医師を辞めたのね?」「弟は義母の連れ子だったの。全てを打ち明けたんだもの。これからは本当にあなたの妻になるわ」
 契子は、この話は戦後の一時期に首府に住んだ折りに、ある女から聞いた話だと言った。その女とは誰なのか?何あろう、あの柴萬なのであった。


-協同-

 村の女達で始めた切り花栽培はすぐに軌道に乗った。
 そして、あの滝の清流は契子の言った通り、水質検査で極め付きの名水と鑑定された。伊達はあるメーカーと提携して水を出荷して、村落協同体に安定した利益をもたらした。
 村人達は農作業の完全協業化にも着手した。
 そして、次いで設立した米粉菓子工場がやがて菓子メーカーに発展し、ついには総合食品メーカーになる。 源爺という山の達人に伊達の趣味の銘木を扱わせた。後には住宅メーカーも設立した。
 これらはすべて会社組織にして、伊達は出資はするが、経営は基本的に村人達に任せた。


-女達-

 夏朱子と嬉子はまだ同居しているが、写真はとうにやめた。夏朱子は学生相手に相変わらずだ。嬉子は自分の洋品店を出して繁盛している。
 寧子は首府の大学に進んだ。
 三人に株や事業の事は言っていない。要請があれば支援するが、今はことさら言う必要はないと思う。
 車の好きな伊達は免許をとり、イギリスの高級車に乗る。片倉が借りたビルの一室に住んだ。仕事に便利だからだ。伊達は合理主義者なのである。


-タヌキ-

 伊達と片倉は、一時期、芸者遊びにはまった。伊達はタヌキとあだ名した女と、片倉はウサギという女とねんごろになった。
 伊達は、執拗に言い寄るある代議士に辟易するタヌキを引かせて、女の名義で店を買い与え、伊達もたぬきも好みの、あるウィスキーだけしか置かないバーを経営させたのである。
 タヌキは容姿に似合わず律儀な女だ。
 片倉は後にウサギと結婚した。


-『黒人兵』-

 伊達はたぬきにも戯れ言を要求した。

 「村の子供達が盗み見ていた、本当にあった話なのよ」

 「外は暑いわ。校長先生。子供たちも先生方もみんな帰りました。はい。二人っきりです」「うだるとはこの事ですね?」「あの玉音から、まるで時間が止まったみたい」「髪もべとついて。汗が下着にまで粘りついて。校長先生?お話しって?」「時間?主人はあの通り、未だ入院してますから。時間はありますけど。先生?どうしたんですか?顔色が…。さっきの玉音ですか?」「校長先生。元気を出して下さい」「敗けたものは仕方ないんですわ」「先生は国策に従がって立派に務めを果たしただけなんですから」「教え子が戦死した?何人も?」「それは私だって。でも、私たちのせいじゃないでしょ?」「あの子達は残虐非道な敵国に殺されたんです。先生のせいじゃありませんわ」「そうですわ。これからが大事です。気を強く持って下さい」「みんな不安なんです。校長先生が頼りなんですから」「私だってそうですわ。私たち夫婦には子供はいなくて。夫はあんな風だし。頼れるのは校長先生だけなんですもの」「先生は八つ上?だけど、先生は人一倍お元気だもの」「去年の夏だって。川遊びの授業
で。深みにはまって溺れた児童を助けようとした私も溺れて。すんでのところで先生に助けられたんですわ」「五月の里山の下草刈りの時だって。蜂に刺された、私の…。あんなところまでを吸ってくれて」「それにしても暑いわ。汗が吹き出て…」 「お酒が?そんなのがあるんですか?」「まあ。そんなところに?」「頂きます」「美味しい」「私の仕草?」「厚くて赤い唇を舐める紅い舌?」「厭だわ。先生。そんなところを観察してたんですか?」「知らなかったわ。変な癖でしょ?」「あら。厭だわ。胸元に、お酒、溢して」
 「校長先生?この後は、いったい、どうなるんでしょう?」「それが先生のお話しだったんですか?」「間もなく敵国がやって来て、この国の女達が敵兵に犯される?私も?」「先生。私は四一よ。もうおばさんだわ」「この国の女は若く見えるの?」「外国人は肉食で精力が旺盛だから、手当たり次第に犯すの?」「敵兵は第一次世界大戦でも第二次でも、パリでもロンドンでも女たちとやりまくったの?その後に混血がいっぱい産まれて。大問題に?」「敵国人のは、特に黒人のはおっきいの?だから、女たちが喜んで?」「どれくらい、おっきいのかしら?」「あら?これ?何ですか?」「こんな写真、どこで?」「町のあの映画館の館主から貰ったの?」「戦前の写真なの?カラーだわ。凄いわ。黒人がこの国の女と?この女、島田を結ってる。芸者なの?」「何だか変に。先生?暑いわね?日射病になりそうだわ」「もんぺを脱ぐの?」「あの時の川遊びのつもりで?そうね。あの時は溺れて。先生にすっかり。何もかも介抱されたんだもの」「ようやく戦争が終わったっていうのに、病気になってはいられないもの」「先生がズボンを脱ぐなら、私ももんぺを脱ぐわ」
 「あぁ。少しは涼くなったわ。いい気持ち。先生も?」「先生?私、一度、聞きたかったの」「あの時、どんな人工呼吸をしてくれたんですか?」「先生の口を私の口につけて?私の口から息を入れて?心臓マッサージをして?胸を揉んで?」「だったら、私達?」
 「先生?今度はこの国の女が敵兵と戦うんですね?」「しっかりと訓練しないとまた敗けて。組伏せられて犯されてしまうんだわ。どうすればいいんですか?防御術?教えてくれるんですか?」
 「先生が敵兵の黒人の代わりになってするの?」「黒人兵が欲情して?それとも先生なの?あら、ご免なさい。先生が黒人兵なのね。戦争も終わったし、異国の女とやりたくて仕方ないの?」「私は戦争未亡人になっているの?幾つがいいって?そうね。二八かしら」



-菜都子ナツコ-

 伊達が大学の三年の時である。
 片倉がある酒造メーカーの提案を受けた。シラオイのワイン工場設立に投資する話だ。
 片倉の助言に納得した伊達は、出資して会長に就く事を了承した。メーカーから醸造の化学者を紹介された。北大の研究室に勤める女だ。面接を兼ねての初めての現地視察に、伊達は盛夏の深夜の汽車に乗った。

 網棚に手を伸ばして半袖のシャツから、一瞬、下腹の肉を覗かせた豊潤な女が目に留まった。伊達は女の向かいに座ってウィスキーを飲み始める。ウツノミヤを過ぎると、辺りは女と伊達だけになった。
 文庫本を読んでいた女が煙草をくゆらしながら、「おいしそうに飲むのね?」と、囁いた。勧めると妖しく笑む。
 伊達の学生証を見た女の表情が一変した。モリオカに戻る産婦人科医だといい菜都子と名乗った。四十過ぎに見える。息子のような歳の青年が株や事業の話をすると、あからさまに媚びた。
 菜都子はあの倫宗の幹部信徒で、本山でのある会合の帰りだった。それは倫宗のある幹部の派閥の秘密会合で、会議の後に菜都子はその幹部と久し振りの交合を謳歌したのだ。幹部は医院の経営に窮した女の懇願に、僥倖の兆しが見えると、回答を示しながら大量に射精した。
 女は堪能の最中に下されたばかりの仏のお告げが、この青年との出会いで叶うかもしれないと、疼きの残り香の身体で思い始めているのだった。
 やがて、センダイを過ぎるとその車輛に二人きりになった。いささか酔った女が、「暑い」と呟きながら、足を組んだスカートをゆっくりたくしあげた。青い血管の浮いた豊かな太股が露に覗いた。
 「病気も患者も様々なのよ」「そりぁ。いろんな場面に遭遇したわ」「膣痙攣って、知ってる?」女が話し始めた。


-尼-

「敗けたんですか?」「…終戦…。…やっと。そうですか…。戦争が…。とうとう…。…ようやく…。終わったんですね?」「こんなに辺鄙な尼寺の一人住まいで。ラジオもないから。私、何も知らないで」「あなたもご苦労なさったでしょう?」「こんな暑い中を。本当にお知らせ、ありがとうございました」「村長さんによろしくお伝え下さいね」
 「えっ?帰らない?…どういうこと?帰りたくない?」「あら?…あなた?何をするの?」「暑いから?脱ぐって?あら?そんなこと、役場の職員がしていいの?」「戦争が終わったからしたいことをする?」「すべてが裏切られたから?みんな崩壊したから?これからはやりたいことをやるって?」「私を抱きたい?」「風が吹き抜けて?甘い桃の香りが熟れた私の?私の体臭に刺激された?」「顔も身体も肉感的で?」「随分と直栽な。私は仏に仕える身ですよ」「だから、なおさら抱きたい?」「なんという罰当たりなことを」「尼とやりたい?」「なんて不埒な。落ち着きなさい」「あなた?そんなに若いのに。お幾つなの?ニ四?」「あなた?私の歳、知ってるの?」「そうよ。あなたの母親ぐらいなのよ」「熟れた女がいいの?私がそうなの?」
 「本性をむき出しで。全てをさらけ出して吠えたてているのね?まるで盛りのついた獣ね。餓鬼なんだわ」「戦争が終わって平和になると言うのに。戦争で狂った人は随分いたけど。忌まわしい戦争が終わった瞬間に畜生に堕ちるなんて。可哀想な人なんだわ」
 「何とでも言えって言うの??」「いくらわめいても、どんなに騒いでも、この山奥ではどこにも聞こえない、って?」「おとなしく言うことを聞くなら乱暴はしない、って?」
 「わかりました。好きなようにしなさい。わかりませんか?。あなたの言う通りよ。私に抵抗の術はないわ。それに…。仏教の尊い教えの根元は利他なんです」「お釈迦様は飢えた虎が望むなら食われてもよいと、おっしゃったんですから」「肉体などは所詮は器に過ぎないんだもの」「そう。あなたの望むように。そうよ。抱いていいわ」
 「この尼が膣痙攣を起こしたのよ。玉音のあの午後の本当にあった話なの」

 菜都子が伊達の横に座り直した。キスをする。陰茎を淫靡に揉む。
 やがて、黒い下着だけを脱いだ女が、車両の前後の入り口を見渡す。男がその背後からスカートを捲って、たちまちに熟成した膣に挿入すると、女が辺りを憚らずに狂瀾の風情なのである。
 二人の全ては夜汽車が疾駆する音に掻き消された。


-青子-

 伊達はサッポロで青子という研究者と落ち合った。二八歳だ。
 タクシーでシラオイに向かいながら、アイヌの自立論を熱弁する伊達の論理に青子の頬が緩んだ。
 現地でシラオイアイヌの社長が二人を迎えた。所用を終えてノボリベツのホテルに投宿すると、伊達は破格の報酬と待遇を女に提示した。


-青子の秘密-

 一九三五年。青子セイコと草冶ソウヤは北大の四年でニニ歳であった。二人はシラオイアイヌの幼馴染みだ。
 この年の盛夏。特別検察によって、いわゆる『北大事件』が摘発されて、十数名が逮捕された。カムイ峠山中で大規模な武装訓練を行っていたが、密告されて官権に急襲され摘発されたのであった。
 革命党日本支部とアイヌ独立党が協同謀議して、道の武力独立を企てたとして、国家反逆罪に問われた事件である。
 道独立運動はエノモトやヒジカタの道共和国に端を発して、半島や大陸の民族独立派や共産主義勢力とも連携していた。

 ある刑事の取り調べを受けた草冶は、自供してスパイになる事を同意した。極秘裡に大陸に渡り、刑事の義兄が属する陸軍諜報組織に所属したのである。
 青子も取り調べを受けたが、起訴猶予で釈放となった。後日、妊娠が発覚。草冶の子である。産もうと決意するが流産した。
 この事件の指導者は草倫といい、アイヌ独立運動の理論家である。四五歳。連れ添う女は世都子。四六歳。
 青子は二人の実子である。生まれるとすぐに世都子の兄夫婦に養子に出された。
 二人はカムイ峠事件の時は辛くも逃走した。各地のアイヌ部落に身を潜めて、地下運動を続けた。
 戦後、アイヌ独立党を合法的に再建する目的で、『土民法』廃止運動を推進した。道革新運動のリーダーである。

 帰りに、伊達は約束通りモリオカに立ち寄った。女医の医院を見ながら経営内容を詳しく聞き、事業拡大に出資する事を決めた。女医はあの隠微なお告げの通りに救済されたのだった。


-満直子-

 片倉は在学中から投資顧問会社を設立して株のプロになっていた。そして、さらに投機を続け巨万の金融資産を得ていた。 伊達の卒業時の金融資産も五〇億あった。その運用は全てを片倉に任せて、年に四億程度の配当があるのだ。この男達の金を巡る情況は能力を遥かにしのいで、幸運としか言いようがない。それとも、何らかの天命の星の下に生まれついたのだろうか。

 伊達が大学を卒業した年の盛夏に、片倉からある投資話が持ち込まれた。ハナマキの精密機械の工場に出資する話だ。
 「そろそろ実業の世界に本格的に踏み出してもいい頃合いだろう。俺も株屋には埋もれない。バンカーを目指すつもりだ」「資金繰りに窮した会社がある」「妖婉な年増の一人娘が常務で、切歯扼腕で切り盛りしている。お前が得意な人助けだ」と、盟友が伊達を焚き付ける。
 ナンブ出身の立志伝中の社長が、事業が拡大し手狭になった工場の一部を郷里に移転し、操業を始めたばかりなのだが、銀行との行き違いで新たな融資が滞っているのだった。
 首府に本社があるが、伊達は先方の希望で清貧な自宅を訪ね、憔悴した技術者の社長と常務の娘と面談した。
 握手の手を差しのべた満直子は、確かに、驚く程に妖艶な四十前後の女だ。青いワンピースの豊かな乳房の盛り上がりの頂上に、乳首の姿を挑発的に浮かせている。下着をつけていないのだ。伊達との協議もすっかり女が主導している。
 二人の話を聞いた伊達は、ある商社との提携と、会社の全面移転や跡地利用の見直しの具体案を提言した上で、肩代わりの出資を承諾した。そして、二人に請われるままに、相談役に就く事を約した。父娘の懸案は瞬く間に解決してしまったのだった。二人にとって、伊達は、まさしく救世主だった。
 満直子が満面の笑みでウィスキーを勧める。そして、手際よく手料理を作って運ぶ。伊達は女の細かい心配りにも情感が動いた。母性を感じた。女の母親は早くに病死したと言う。

 重圧から解放された父親がたちまちに酔って席を外すと、向かい合うソファの満直子は、ウィスキーのグラスに唇を残しながら、大きな濡れた瞳で改めて伊達を直視する。青いワンピースは、女自身が武器にしている揺れる乳房と尻を形ばかりにしか包んでいない。女の身体は歴程を重ねているが、いささかもその年齢に動じていない。むしろ年輪の誇りが女の豊穣を醸し出しているのだ。満直子のすこぶるな容色に伊達は戸惑った。
 「お若いのに古刀の様な方ですもの。私の事なども詳しくお調べなんでしょう?」と、女は厚くて紅い唇に色香の舌を這わせるのである。足を組み直す。素肌の桃色の太股が、瞬間、幻のように覗き、その奥に棲む貪欲な肉の獣の息ずかいが聞こえた気がした。
 伊達は即座に否定し、そういう事は直接調べると答えると、身体を密やかに揺らして白い歯を見せて、女は艶やかに笑った。
 「かの地の悪夢は当人でさえ未だに理解できていないの。私は傷の多い女なのよ」と、満直子が伊達に心を預ける面持ちで、来し方を話し始めた。

 満直子は大学を終えると、演劇に憧れてアメリカに留学した。ある学校で演劇を学び、卒業後はある劇団に所属したが芽が出ない。やがてアメリカ人の青年軍人と恋に落ち、結婚してアメリカ国籍を得て演劇の道を諦めた。開戦して、夫はホノルルの零戦の奇襲で呆気なく戦死してしまう。女は戦争未亡人でありながら、敵国人の蔑視と差別を受けて堪えた。終戦を待ち、アメリカも母国も嫌悪しながら、父親のいるこの国に戻ったのであった。

 ここまで話すと、満直子は短い結婚生活の夫しか男を知らないと言い、「信じられない?」と、迷宮に引きずり込む様に伊達を覗き込んだ。アメリカ人の陰茎がこの女を創ったのに違いないと、男は思った。
 満直子が伊達の車を誉めると、伊達がドライブに誘った。工場を見て欲しいと、満直子が更に誘う。
 暗黙の結論に至るシナリオを共同で書き、演じる様に、二人は五〇〇キロ離れたハナマキに向かった。その道程以上に長い、二人の旅が始まったのである。


-稲子-

 一九五五年の盛夏。伊達はニ五歳だ。この国は復旧から一瀉千里に復興に向かっていた。
 イバラキの農場やシラオイのワイン事業、ハナマキの工場も発展の勢いを増している。それぞれの女達はますます輝いている。
 モリオカの病院は医師になった娘を迎え隆盛だ。
 タヌキも妖艶な素振りで客との化かしあいを楽しんでいる。 郷里の二人は変わらない。
 寧子は出版社に勤めている。

 しかし、伊達は憂鬱だ。いささか飽きていた。
 片倉の会社の一角に、伊達は個人事務所を置き、稻子という切れ者の女に事業の総合的な掌握と点検をさせている。片倉から紹介された四〇歳の戦争未亡人だ。未だ肉体関係は持っていない。伊達の日程はこの女しか知らない。だから伊達の全てを承知している。女達の欲望や嫉妬まで調停していた。あらゆる事を任せて何の心配もないのだ。
 何よりも、伊達の金融資産は一〇〇億近くにのぼり、片倉の巧みな運用で年に一〇%程度の配当がある。だから各事業の配当や報酬は形ばかりのものだが、金が金を産んでいるのだ。
 その代償に、伊達はあの一時期の沸き立つ感覚を失ったのだった。必定、伊達は頻頻と旅に出る様になった。稻子にしか居場所を知らせない。


-反原発-

 幾年かの日を経て、伊達はセンダイに不動産投資を集中した。ホテル経営も手がける。
 五八年に知事選、翌年に市長選に関与した。
 知事選であの梅島と出会い、政治に強い関心を持った。

 一九七六年。第一次石油ショックの後に、太陽光発電パネル会社を買収して、ナンブに工場を移転した。保守政権は原子力発電に邁進したが、伊達は原発反対運動を支援し、自然エネルギーの未来を信じて地道に経営を続けたのである。

 労働争議にも関与して、あの桜夷とも親交を結んだ。こうして伊達の世界と、『宗派』や『党派』、その他の綺談に現れた異人達の世界が交錯して、新しい物語が産み出されていくのである。


(続く)

異人の儚増補総集編

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登録日
2020-09-18

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