異人の儚8️⃣

異人の儚8️⃣



-菜都子ナツコ-

 伊達が大学の三年の時である。
 片倉がある酒造メーカーの提案を受けた。シラオイのワイン工場設立に投資する話だ。
 片倉の助言に納得した伊達は、出資して会長に就く事を了承した。メーカーから醸造の化学者を紹介された。北大の研究室に勤める女だ。面接を兼ねての初めての現地視察に、伊達は盛夏の深夜の汽車に乗った。

 網棚に手を伸ばして半袖のシャツから、一瞬、下腹の肉を覗かせた豊潤な女が目に留まった。伊達は女の向かいに座ってウィスキーを飲み始める。ウツノミヤを過ぎると、辺りは女と伊達だけになった。
 文庫本を読んでいた女が煙草をくゆらしながら、「おいしそうに飲むのね?」と、囁いた。勧めると妖しく笑む。
 伊達の学生証を見た女の表情が一変した。モリオカに戻る産婦人科医だといい菜都子と名乗った。四十過ぎに見える。息子のような歳の青年が株や事業の話をすると、あからさまに媚びた。
 菜都子はあの倫宗の幹部信徒で、本山でのある会合の帰りだった。それは倫宗のある幹部の派閥の秘密会合で、会議の後に菜都子はその幹部と久し振りの交合を謳歌したのだ。幹部は医院の経営に窮した女の懇願に、僥倖の兆しが見えると、回答を示しながら大量に射精した。
 女は堪能の最中に下されたばかりの仏のお告げが、この青年との出会いで叶うかもしれないと、疼きの残り香の身体で思い始めているのだった。
 やがて、センダイを過ぎるとその車輛に二人きりになった。いささか酔った女が、「暑い」と呟きながら、足を組んだスカートをゆっくりたくしあげた。青い血管の浮いた豊かな太股が露に覗いた。
 「病気も患者も様々なのよ」「そりぁ。いろんな場面に遭遇したわ」「膣痙攣って、知ってる?」女が話し始めた。


-尼-

「敗けたんですか?」「…終戦…。…やっと。そうですか…。戦争が…。とうとう…。…ようやく…。終わったんですね?」「こんなに辺鄙な尼寺の一人住まいで。ラジオもないから。私、何も知らないで」「あなたもご苦労なさったでしょう?」「こんな暑い中を。本当にお知らせ、ありがとうございました」「村長さんによろしくお伝え下さいね」
 「えっ?帰らない?…どういうこと?帰りたくない?」「あら?…あなた?何をするの?」「暑いから?脱ぐって?あら?そんなこと、役場の職員がしていいの?」「戦争が終わったからしたいことをする?」「すべてが裏切られたから?みんな崩壊したから?これからはやりたいことをやるって?」「私を抱きたい?」「風が吹き抜けて?甘い桃の香りが熟れた私の?私の体臭に刺激された?」「顔も身体も肉感的で?」「随分と直栽な。私は仏に仕える身ですよ」「だから、なおさら抱きたい?」「なんという罰当たりなことを」「尼とやりたい?」「なんて不埒な。落ち着きなさい」「あなた?そんなに若いのに。お幾つなの?ニ四?」「あなた?私の歳、知ってるの?」「そうよ。あなたの母親ぐらいなのよ」「熟れた女がいいの?私がそうなの?」
 「本性をむき出しで。全てをさらけ出して吠えたてているのね?まるで盛りのついた獣ね。餓鬼なんだわ」「戦争が終わって平和になると言うのに。戦争で狂った人は随分いたけど。忌まわしい戦争が終わった瞬間に畜生に堕ちるなんて。可哀想な人なんだわ」
 「何とでも言えって言うの??」「いくらわめいても、どんなに騒いでも、この山奥ではどこにも聞こえない、って?」「おとなしく言うことを聞くなら乱暴はしない、って?」
 「わかりました。好きなようにしなさい。わかりませんか?。あなたの言う通りよ。私に抵抗の術はないわ。それに…。仏教の尊い教えの根元は利他なんです」「お釈迦様は飢えた虎が望むなら食われてもよいと、おっしゃったんですから」「肉体などは所詮は器に過ぎないんだもの」「そう。あなたの望むように。そうよ。抱いていいわ」
 「この尼が膣痙攣を起こしたのよ。玉音のあの午後の本当にあった話なの」

 菜都子が伊達の横に座り直した。キスをする。陰茎を淫靡に揉む。
 やがて、黒い下着だけを脱いだ女が、車両の前後の入り口を見渡す。男がその背後からスカートを捲って、たちまちに熟成した膣に挿入すると、女が辺りを憚らずに狂瀾の風情なのである。
 二人の全ては夜汽車が疾駆する音に掻き消された。


-青子-

 伊達はサッポロで青子という研究者と落ち合った。二八歳だ。
 タクシーでシラオイに向かいながら、アイヌの自立論を熱弁する伊達の論理に青子の頬が緩んだ。
 現地でシラオイアイヌの社長が二人を迎えた。所用を終えてノボリベツのホテルに投宿すると、伊達は破格の報酬と待遇を女に提示した。


-青子の秘密-

 一九三五年。青子セイコと草冶ソウヤは北大の四年でニニ歳であった。二人はシラオイアイヌの幼馴染みだ。
 この年の盛夏。特別検察によって、いわゆる『北大事件』が摘発されて、十数名が逮捕された。カムイ峠山中で大規模な武装訓練を行っていたが、密告されて官権に急襲され摘発されたのであった。
 革命党日本支部とアイヌ独立党が協同謀議して、道の武力独立を企てたとして、国家反逆罪に問われた事件である。
 道独立運動はエノモトやヒジカタの道共和国に端を発して、半島や大陸の民族独立派や共産主義勢力とも連携していた。

 ある刑事の取り調べを受けた草冶は、自供してスパイになる事を同意した。極秘裡に大陸に渡り、刑事の義兄が属する陸軍諜報組織に所属したのである。
 青子も取り調べを受けたが、起訴猶予で釈放となった。後日、妊娠が発覚。草冶の子である。産もうと決意するが流産した。
 この事件の指導者は草倫といい、アイヌ独立運動の理論家である。四五歳。連れ添う女は世都子。四六歳。
 青子は二人の実子である。生まれるとすぐに世都子の兄夫婦に養子に出された。
 二人はカムイ峠事件の時は辛くも逃走した。各地のアイヌ部落に身を潜めて、地下運動を続けた。
 戦後、アイヌ独立党を合法的に再建する目的で、『土民法』廃止運動を推進した。道革新運動のリーダーである。

 帰りに、伊達は約束通りモリオカに立ち寄った。女医の医院を見ながら経営内容を詳しく聞き、事業拡大に出資する事を決めた。女医はあの隠微なお告げの通りに救済されたのだった。


-満直子-

 片倉は在学中から投資顧問会社を設立して株のプロになっていた。そして、さらに投機を続け巨万の金融資産を得ていた。 伊達の卒業時の金融資産も五〇億あった。その運用は全てを片倉に任せて、年に四億程度の配当があるのだ。この男達の金を巡る情況は能力を遥かにしのいで、幸運としか言いようがない。それとも、何らかの天命の星の下に生まれついたのだろうか。

 伊達が大学を卒業した年の盛夏に、片倉からある投資話が持ち込まれた。ハナマキの精密機械の工場に出資する話だ。
 「そろそろ実業の世界に本格的に踏み出してもいい頃合いだろう。俺も株屋には埋もれない。バンカーを目指すつもりだ」「資金繰りに窮した会社がある」「妖婉な年増の一人娘が常務で、切歯扼腕で切り盛りしている。お前が得意な人助けだ」と、盟友が伊達を焚き付ける。
 ナンブ出身の立志伝中の社長が、事業が拡大し手狭になった工場の一部を郷里に移転し、操業を始めたばかりなのだが、銀行との行き違いで新たな融資が滞っているのだった。
 首府に本社があるが、伊達は先方の希望で清貧な自宅を訪ね、憔悴した技術者の社長と常務の娘と面談した。
 握手の手を差しのべた満直子は、確かに、驚く程に妖艶な四十前後の女だ。青いワンピースの豊かな乳房の盛り上がりの頂上に、乳首の姿を挑発的に浮かせている。下着をつけていないのだ。伊達との協議もすっかり女が主導している。
 二人の話を聞いた伊達は、ある商社との提携と、会社の全面移転や跡地利用の見直しの具体案を提言した上で、肩代わりの出資を承諾した。そして、二人に請われるままに、相談役に就く事を約した。父娘の懸案は瞬く間に解決してしまったのだった。二人にとって、伊達は、まさしく救世主だった。
 満直子が満面の笑みでウィスキーを勧める。そして、手際よく手料理を作って運ぶ。伊達は女の細かい心配りにも情感が動いた。母性を感じた。女の母親は早くに病死したと言う。

 重圧から解放された父親がたちまちに酔って席を外すと、向かい合うソファの満直子は、ウィスキーのグラスに唇を残しながら、大きな濡れた瞳で改めて伊達を直視する。青いワンピースは、女自身が武器にしている揺れる乳房と尻を形ばかりにしか包んでいない。女の身体は歴程を重ねているが、いささかもその年齢に動じていない。むしろ年輪の誇りが女の豊穣を醸し出しているのだ。満直子のすこぶるな容色に伊達は戸惑った。
 「お若いのに古刀の様な方ですもの。私の事なども詳しくお調べなんでしょう?」と、女は厚くて紅い唇に色香の舌を這わせるのである。足を組み直す。素肌の桃色の太股が、瞬間、幻のように覗き、その奥に棲む貪欲な肉の獣の息ずかいが聞こえた気がした。
 伊達は即座に否定し、そういう事は直接調べると答えると、身体を密やかに揺らして白い歯を見せて、女は艶やかに笑った。
 「かの地の悪夢は当人でさえ未だに理解できていないの。私は傷の多い女なのよ」と、満直子が伊達に心を預ける面持ちで、来し方を話し始めた。

 満直子は大学を終えると、演劇に憧れてアメリカに留学した。ある学校で演劇を学び、卒業後はある劇団に所属したが芽が出ない。やがてアメリカ人の青年軍人と恋に落ち、結婚してアメリカ国籍を得て演劇の道を諦めた。開戦して、夫はホノルルの零戦の奇襲で呆気なく戦死してしまう。女は戦争未亡人でありながら、敵国人の蔑視と差別を受けて堪えた。終戦を待ち、アメリカも母国も嫌悪しながら、父親のいるこの国に戻ったのであった。

 ここまで話すと、満直子は短い結婚生活の夫しか男を知らないと言い、「信じられない?」と、迷宮に引きずり込む様に伊達を覗き込んだ。アメリカ人の陰茎がこの女を創ったのに違いないと、男は思った。
 満直子が伊達の車を誉めると、伊達がドライブに誘った。工場を見て欲しいと、満直子が更に誘う。
 暗黙の結論に至るシナリオを共同で書き、演じる様に、二人は五〇〇キロ離れたハナマキに向かった。その道程以上に長い、二人の旅が始まったのである。


-稲子-

 一九五五年の盛夏。伊達はニ五歳だ。この国は復旧から一瀉千里に復興に向かっていた。
 イバラキの農場やシラオイのワイン事業、ハナマキの工場も発展の勢いを増している。それぞれの女達はますます輝いている。
 モリオカの病院は医師になった娘を迎え隆盛だ。
 タヌキも妖艶な素振りで客との化かしあいを楽しんでいる。 郷里の二人は変わらない。
 寧子は出版社に勤めている。

 しかし、伊達は憂鬱だ。いささか飽きていた。
 片倉の会社の一角に、伊達は個人事務所を置き、稻子という切れ者の女に事業の総合的な掌握と点検をさせている。片倉から紹介された四〇歳の戦争未亡人だ。未だ肉体関係は持っていない。伊達の日程はこの女しか知らない。だから伊達の全てを承知している。女達の欲望や嫉妬まで調停していた。あらゆる事を任せて何の心配もないのだ。
 何よりも、伊達の金融資産は一〇〇億近くにのぼり、片倉の巧みな運用で年に一〇%程度の配当がある。だから各事業の配当や報酬は形ばかりのものだが、金が金を産んでいるのだ。
 その代償に、伊達はあの一時期の沸き立つ感覚を失ったのだった。必定、伊達は頻頻と旅に出る様になった。稻子にしか居場所を知らせない。


-反原発-

 幾年かの日を経て、伊達はセンダイに不動産投資を集中した。ホテル経営も手がける。
 五八年に知事選、翌年に市長選に関与した。
 知事選であの梅島と出会い、政治に強い関心を持った。

 一九七六年。第一次石油ショックの後に、太陽光発電パネル会社を買収して、ナンブに工場を移転した。保守政権は原子力発電に邁進したが、伊達は原発反対運動を支援し、自然エネルギーの未来を信じて地道に経営を続けたのである。

 労働争議にも関与して、あの桜夷とも親交を結んだ。こうして伊達の世界と、『宗派』や『党派』、その他の綺談に現れた異人達の世界が交錯して、新しい物語が産み出されていくのである。


(続く)

異人の儚8️⃣

異人の儚8️⃣

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更新日
登録日
2020-09-18

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