それは8月のこと
1
油照りの暑い一日がやっと終わる黄昏時だった。
業務を終え、まだ居残っている部下に声をかけて社屋を出る。
少し強めの営業部のエアコンに慣れた体を、名残の熱気がわっと押し包んだ。
「あれ、水島くん。ど~した?」
駅に向かう大通りのわきにごく小さな緑地があって、ベンチが2つ3つ植栽に隠れて並んでいる。
普段なら見過ごしてしまうささやかな空間だが、そのときはなぜか目にとめていた。
新入社員らしい真新しいシャツとはうらはらの重い表情で膝に肘をつき、かがんだままの姿勢はその心情を如実に表していた。
営業課長とそりの合わない彼は日が経つにつれ委縮していき、今日はついに得意先のトイレに下痢止め入りの財布と書類の一部を置き忘
れるという失態をやらかした。
先方が先に気づいて連絡をくれたのだが、
「忘れた先が善良で正直で寛容なわが社でよかった。なくし物が帰らないことも多い世の中なので、ご注意を」
という揶揄とも忠告ともつかない言葉が添えられていた。
それをわざわざ営業課長あてにTELしてきたのだから得意先も人が悪いが、水島くんの失敗はこれだけにとどまらず、遅刻や迷子、プレゼンの不手際や突然の体調不良、忘れ物に失せ物と、あらゆる失態を短期間に演じたのだから、そろそろビシッとしてくれという気持ちもあったのかもしれない。
荒木課長の怒涛の叱責はいつにも増して長く激しくなった。
「陣洛(じんらく)係長、ちょっと来いっ。主任、おまえもだっ」
怒鳴られて、ダッシュで課長席前に並ぶ。
ちらっと見えた主任の野上の唇は、緊張ですでにへの字に曲がっている。
まるで鬼軍曹のブート・キャンプだった。
「あっ、係長…。…ど、どうも」
おどおどした水島の眼差しを、笑みを含んで柔らかく受け止めてやる。
「ったく、あっついよなぁ。どう?ウナギでも食ってスタミナつけない?おごるよ。時間あるんだろ?」
言葉をたたみこんで逃げ腰の彼を抑える。
汗ばんだシャツを引っ張ると、観念した犯罪者のようにおとなしく付いてきた。
なじみのウナギ屋の、いつもの小上がりに腰を落ち着け、
「じゃ、ビールだな。ちょっとなら飲めるだろ?…とりあえず小生と大ね。で、重の上を2つ」
と、主導してやる。
「すみません」
小さくなって恐縮している彼に
「大丈夫。係長はウナギの上くらいおごれる程度の給与は貰ってるよ。しょっちゅうは無理だけど水島くんは特別さ。おれはきみに伸びしろを見てるしね。主任の野上くんも同意見だ」
「そんな…。ぼくはなにをやってもダメなんです、きっと。…いつも課長に言われてるとおりです」
新人らしい純朴な顔つきに漂う、疲れと弱気と自信喪失がちょっと心に痛い。
水島くんのように敏感に人の態度や気持ちに反応してしまう繊細で気弱なタイプは、上司の権威や圧力でがんじがらめにされると委縮して、長所すら欠点に退化してしまうのだ。
荒木課長も経験からいってそれを知らないわけはないのだが、やはりソリが合わないらしく、顔を見るだけでイライラとするようすがハタからでも見てとれる。
日が経つにつれてお互いがよくない方向に煮詰まって行って、8月の今では修復できそうもないくらいの深い溝が2人を隔ててしまっている。
それでも主任の野上くんが間に立って、何くれと水島の面倒をみているのが幸いだ。
中途入社で苦労人の彼は、過去にも水島のようなタイプを扱ったことがあるらしく、辛抱強く穏やかな態度をくずさない。
「課長、怖いだろう~?おれが新卒の時もああいう人でさ、同期がビシバシ辞めてった。ま、もう少しすればいくらか丸くなるだろうよ。今は課長のようなやり方は流行らないからね。ちょっとの辛抱だ」
さりげなく希望を持たせたのだが、
「いえ。ぼく、あのう…もう、どうにも続かないと思います」という口ごもった言葉と「それに、え~、その…係長はお辞めになるんでしょ?」
という遠慮がちな質問が帰ってきた。
彼のこの返事に、ちょっと言葉が詰まる。
「え?ちょ、なんだ、知ってるのか。主任の野上の仕業だな。ま、口止めもしなかったけどね。まだ、課の下っ端連中は誰も知らないはずだよ。3ヶ月後には退職する予定なんだ」
「あ、あの、ご迷惑でしょうが、ぼくも連れて行っていただけませんか?野上主任もいっしょに転職したいって言ってます。陣洛(じんらく)係長はご実家の会社を継ぐって聞きました。係長が社長ならぼく、骨をうずめるつもりです。お願いです。どうか、野上主任とぼくを連れてってください」
言うなり畳に両手をつく。
思いつめた動作に、周りの客が不思議そうな視線を送ってくる。
「えっ、いきなり何だよ?ほら、みんなが見てる。野上くんがどう言ったのか知らないけど、そんな引き抜きみたいなことできるワケないじゃないか。ぶっちゃけちゃうと、おれの親父の会社は段ボール業界でそこそこ実績あるんだけど、こういう世の中なんでなにがあるかわからない。おれが全く違う業種の営業畑で、荒木課長の元、4年間修業したのも他人の飯を食って苦労したほうがいいっていう親父の意向からなんだ。自分の親の会社に帰るだけなのに、ホイホイきみらを連れだせるものか。ったく、なに考えてるんだ?第一、3人もいっぺんに消えたらうちの営業部だって困るだろうが。…野上に言うんじゃなかったよ」
ついついボヤいてしまう。
腹心の野上主任には洗いざらい話してから辞めたかったのに、少しうかつだったのだろうか?
いや、人情家の彼だからこそ、委縮して苦しんでいる水島を救い出したい気持ちもあったのだろう。
2人で勝手に辞める算段をしていたとは…。
「とにかく下らん考えは止せ。きみたちが業務に専念してくれないと、心残りでスッキリ出ていけないよ。あとあと、陣洛(じんらく)がちゃんと引き継ぎをしないから営業成績が落ちたなんて言われちゃ、ホント迷惑だからね」
わざと仏頂面をして、ちょうど出てきたうな重に目をやる。
「ほら、いい匂いだろ。下手な考え休むに似たりだ。さ、食え、食え」
2
陣洛が帰還した陣洛美装製紙株式会社は、段ボール製のおしゃれな配送箱や収納ボックスをメインに、災害時用の間仕切り、組み立てベッドや簡易トイレなどを製造販売している。
いきおい、得意先は企業関係や官公庁などが多くなって、安定はするが競合も多く熾烈だ。
彼は自社に帰るなり、新社長の襲名披露もそこそこに新たな市場に打って出ていた。
社長付きの親衛隊ともいえる『企画営業部』を立ち上げ、自分のアイデアや方針が瞬時に反映されるシステムを構築した。
ネットやSNS、アンテナ・ショップを利用し、企業より大衆に向かって新製品をアピールしていった。
いわゆる『面白グッズ』にテコ入れしたのだ。
段ボールや厚紙は円筒あるいは紡錘状に巻くことで、大きな強度を得られる。
その割にはプラスチックなどに比べて軽く、人への当たりも柔らかい。
その特性を利用し、屋内用の幼児遊具を手掛けたのだ。
広さが自由に変えられて大人も使える段ボールのログハウス、ジャングルジム、アスレチック、滑り台、三輪車、イスやデーブルなどだが、表面が円柱のぶん滑らかで、強化段ボールより見た目もよく、いっそう肌にやさしい。
折しものコロナ禍で、室内志向が強まっていたことも幸いしたようだ。
ためしに試作品を反応の早いネットオークションに出してみると、保育園や幼稚園だけでなく、大きな家屋の多い地方の農家や、隠れ家を求めていた都会の大人たちに受け、あっという間に完売していた。
さらに目玉となったのは処分時の簡便さだ。
組み立て式だからコンパクトにたため、そのまま資源ゴミに出せる。
あるいは庭があれば地面に穴を掘って埋め、上から水でもかけて放置すれば、やがて土に帰ってくれる。
当然、表面をコーティングした屋外用も視野に入れて現在研究中だ。
陣洛は文字通りねじり鉢巻きに腕まくりで、息もつかずに半年間を走り抜けた。
「秀斗(しゅうと)、ちょっといいか?」
今は会長に退いた父が聞いてくる。
「ええ、どうぞ」
ホーム・ページ用のリニューアル画像の選別をしていた陣洛が振り向く。
「わたしに来客があってさ。だれだと思う?おまえの元、部下の人たちだ」
「えっ?…あいつら」ちょっと絶句する。「ったく、釘を刺しておいたのに、なんのつもりだ」
彼らの来意は聞かなくても分かっている。
マウスを放り出して立ち上がり、足早に応接室のドアを引き開ける。
直立不動の野上と水島がいた。
「おい、おまえら。なにしてる?これじゃ元の会社の営業部に申し訳が立たないよ。まるでおれが口裏合わせをして引き抜いたみたいじゃないか。それに人情家の親父を頼ってくるなんて卑怯だろ、…いや、まぁ、叱ってもしょうがない。じゃ、いいからとにかく座れ」
以前にも言った言葉を繰り返しながら、椅子をすすめる。
一応、話だけは聞いてやるつもりなのだ。
「野上、どういうことなんだ?」
水を向けると野上主任が緊張した面持ちで口を開いた。
「はい。自分はなんら問題なく円満退職しました。実は自分の退職の意向は、陣洛係長…いや、陣洛社長がお辞めになる以前から人事に打診してありました。3年で主任に昇進はしましたが、なぜか自分にはなじめない会社だったからです。偶然、11月退社でタイミングが重なってしまい、社長が優先されたため、自分は後回しになったんです」
「えっ?そうだったの?」これは初耳だ。「人事はなにも言ってなかったよ。それにしても、有能なきみをよく手放したなぁ。じゃ、きみはおれのせいで退職が遅れてしまったんだね。申し訳なかった。知らなかったよ。勘弁してくれ」
居住まいを正して、頭を下げると、
「いえ、会社の都合ですから」
人好きのする笑顔が返ってきた。
「じゃ、水島くんは?」
その言葉に彼がおどおどするのがわかる。
それでも俯かずに背筋を伸ばして、まっすぐな視線を送ってくる。
「は、はい。あ、あの、自分の場合は、その、ホームから落ちました」
「は?え?まさか、じさ…」
不謹慎な言葉が出そうになって、急いで飲みこんだ。
そうなのだ。
あれは陣洛が去ってから間もなくだった。
水島は本人の自覚もないままに朝のホームから転げ落ちていた。
手提げに入れたノーパソが鉄路に当たって大きな音を立て、周りは騒然となったらしい。
運よく、人々の果敢な努力によって列車の侵入以前に引き上げられたが、彼はそれ以降、出社できなくなった。
いや、意欲はあって、定刻通りに家を出て駅に向かう。
だが、ホームをみるとヘナヘナと腰砕けになって、階段だろうがホームだろうが、その場に座り込んでしまう。
不審行動に駅員が呼ばれ、駅の救護室から会社に連絡がいく。
その繰り返しだった。
当然、主任の野上や荒木課長をはじめ会社側は頭を抱えたが、一番悩んだのは彼自身だった。
行く気はあるのに、電車に乗れないのだ。
バス路線も考えたが、電車を使わないで済むルートはなく、一時は転居まで視野に入れたようだ。
そのうちに彼は完全に出社不能になり、2ヶ月後、精神科医の診断書を提出して辞めていった。
本人にとっても不本意な退職だった。
「う~ん、水島くんも苦労したねぇ」思わず、同情的な声が出た。「出社しようという意欲を失わなかったのは偉い。じゃあ、野上主任ときみは今でもいいコンビなんだね。2人で雁首そろえておれの前に並ばれちゃ、きみらの要望を考慮しないわけにはいかないよなぁ」
言葉を切って彼らを見ると、まるで新卒のように輝く瞳を向けている。
この状況なら、2人ともそれぞれの事情があっての退職であり、以前の会社に何ら義理立てすることはない。
意欲と希望を持ってせっかく訪ねてきた彼らを、わざわざ追い返すこともないのだ。
「実は、今後の目玉にしたいものに、金属とみまがう光沢や錆の形状を印刷した厚紙や、ボール紙のオブジェや細工物があるんだ。後で見せるが、重さと固さを除いたらどこから見ても金属そのものだよ。今の印刷技術には驚嘆すべきだね。メカっぽいハードさやキッチュな内装を求める店舗や展示場をターゲットにした大型の装飾でさ、本物の金属と違って肌に触れたり、倒れたりしても危険は少ない。もちろん、一般向けもある。マニアックな秘密基地や個性的でドライな空間が、簡単に自室に実現できるんだ。な?い~だろ?野上、水島、営業畑のきみらに期待してるよ」
「はいっ」
採用をにおわせた言葉に、異口同音の生きのいい返事が帰ってくる。
2人の出現は神の啓示かもしれなかった。
3
陣洛と水島がともにウナギを食った、あの暑い日からちょうど1年がたった8月だった。
そのころには、自分の構想の実現に時を忘れていた彼にも、少し余裕が生まれていた。
「お父さん、今、思いついたんですけど、ほったらかしになってるうちの別荘ね。どうせ会社名義なんだから、いっそのこと本格的に社員用の保養所にしちゃいましょうよ。コロナ禍で旅行もままならない今、1家族単位、1~3泊くらいで使ってもらえれば、いい慰安になるんじゃないですかね?しばらく忙しかったんで、有休たまっちゃっているヤツもいるみたいだし。ちょっと建物の様子を見に行ってきますよ」
親子の間でこんな会話が交わされた週半ば、陣洛はさっそく三浦半島にある別荘に向かっていた。
玉川ICから第3京浜に移行する前に、見つけたコンビニで眠気止めを調達する。
レジに向かおうとした途端、すれ違った誰かとぶつかった。
「あっ、失礼」
相手は無愛想に無言だが、なんとなく見知った感じがある。
「え?課長?荒木課長?お久しぶりです」
とっさに声をかけていた。
「営業部では本当にお世話になりました。お近くですか?こんなところでお会いするなんて、世の中狭いなぁ」
懐かしさで声の弾む陣洛に比べて、荒木の反応は鈍い。
いつもの高級スーツではなく、ラフなポロシャツ姿のせいか、どことなく零落した感がある。
「ああ…。陣洛くんね。仕事かい?」
「いえ、個人的な用事で。課長はお休みみたいですね」
「うん。…ま、ボクも年だよ。営業畑でずっと走り続けてきたから、ちょっと休職したんだ。コロナで働き方も変わったからな。とにかくヒマでさ、なにか面白いことでもないか?」
ひょっとしたら、課長は身体でも壊したのではないだろうか、意外な言葉が帰ってきた。
1年前の彼にはあり得ない弱々しい言葉だった。
第一、昔の荒木課長なら冗談でも、なにか面白いことなんて言い出したら、余計なこと考えずに仕事しろと雷が落ちたはずだ。
ちょっと戸惑うくらいの変化だ。
「課長、どうしたんです?なんか雰囲気変わりましたね。…そうだなぁ、偶然ここでお会いしたんですから、これから三浦半島行きます?ほったらかしの別荘があるんです。ボロいけど景色は爽快です。いい気晴らしになりますよきっと。ね、おヒマならちょっとだけ行ってみませんか?」
少し強引にすすめていた。
ここで会ったのも何かの縁だ。
野上と水島が陣洛美装製紙株式会社に職を得れば、やがてウワサになって荒木課長の耳にも届くだろう。
そうなる前に自分から伝えておきたい気持ちがあったのだ。
彼らの移籍は社会常識的にもなんら問題ないが、生き馬の目を抜く営業界だ。
どのような尾ひれがつかないとも限らない。
「ほら、課長。いい景色でしょう?畑の向こうはもう海ですよ。あそこに大東亜戦争のころの掩体壕があって、その向こうの白いのがうちの別荘です」
車中でも寡黙だった荒木課長の気を引き立てるように言って、車を建物につける。
「ああ、案外、劣化してないな。庭もきれいだ。電気・水道・ガスも問題なく回旋してあるし。課長、もし良ければ早めにご自宅に連絡して泊まってってください。おれ、今から布団干しますよ」
少し埃っぽいが、思ったよりきれいな内部にそんな言葉が出る。
「うん、そうだな…。そうしよう」
だが、なにかあったのだろうか?
返事だけで、いつまでたってもスマホを取り出そうともしない。
不思議そうな視線を感じたらしく、
「いや、妻は用事で実家に帰っていてね。今は1人だ」
という言葉が返ってきた。
え?
それにもなぜか引っかかる。
「えっ、あ…。そ、そうなんですか?たまには1人もいいですよね。じゃ、もう3時だし、早めに一杯やってそのまま晩酌に突入しましょう」
わざと素知らぬ顔で、買い込んできた惣菜と酒をデッキに並べる。
シャワーを浴びた後の心地よい海風に、課長の顔がわずかにほころんだ気がした。
4
「陣洛くんは幾つだ?ウワサではバリバリやってるようだが」
冷たいビールに目を細めながら、荒木課長が聞いてきた。
やはり、営業畑の人は耳も聡い。
「はい、30になりました。4年間、課長にお世話になったあの会社は新卒で入ったのですが、おれ、院生だったから。この年です」
「ふ~ん。ボクにも一人息子がいて来年、大学を卒業するんだが、からっきしダメでね。母親似のナヨナヨもやしだ。女なら優しいのもいいが男でそれじゃ、一家を成していけないよ」
身内だからだろうか、随分厳しい言葉だ。
ま、課長らしいと言えば言えるのだが…。
「そんな…。優しくなければ男ではない、という言葉もありますし。おれは好きですよ。男の優しさは度量の深さでもあると思いますから」
思わずかばう返事が出たが、課長はせせら笑っただけで怒りはしなかった。
そんなところも以前とは違ってしまっている。
少し疑問符がついたその時、陣洛は初めて思い当たる気がした。
荒木課長が水島にことさら厳しく当たったのは、彼の中に息子の姿を見ていたからではないか?
『ナヨナヨもやし』という表現は、よく水島に使っていたからだ。
自分を始め、周りは表面だけ見て、単純に新入社員の水島に同情したが、それは本当は課長の親心ではなかったのか?
不器用なタイプの昭和の男は言葉足らずで、伝えたいことを態度で補ってしまう。
それが荒い言葉になったり、高圧的な振る舞いになったりして、心ならずも相手を委縮させてしまうのだ。
「課長、三崎港のマグロ美味いっすよ。イセエビの造りも新しくて身がまだ透明です。スーパーでもこんなのが食えるなんて、三浦半島はいいなぁ」
刺身を進めながら陣洛は心を決める。
酒がまわる前に伝えておかなくてはならない。
その目的もあって、彼をここに誘ったのだ。
「あの…課長。その、え~、野上と水島なんですが…」
荒木の箸が止まる。
「きみが連れだしたんだろ。社でももっぱらのウワサだ。おかげでボクも能力を問われてね…」
重く低い声が、陣洛の最も恐れていた懸念を直撃する。
陣洛は知る由もなかったが、彼ら3人の相次ぐ退職は、やはり社内で物議を醸していた。
同じ営業部で、1年以内に係長、主任、平社員が消えたのだ。
退職の状況はそれぞれに事情があり、会社としては文句は言えないが、戦力の喪失は否めない。
部長の中には自己保身のためか、荒木課長の管理能力をことさら言い立てる者が複数いた。
部下に対する高圧的で強権な態度をパワハラとして報告したのだ。
もともと営業部はそういう体質であり、それが許されてもいたのだが、強引なやり方で早期に課長に上り詰めた彼には、隠れた敵も多かったのかもしれない。
間もなく、部長での子会社出向の辞令が出た。
栄転を装った事実上の左遷だった。
同期の出世頭を自任していた荒木の初めての挫折だった。
「いや、課長、違うんです。主任の野上はおれより前に退職の意思を人事に申請していたと言います。それなのになぜかおれが優先され、彼は後回しになった。たぶん、おれの親父の七光りだと思います。異業種でも会社同士、気を使ったんでしょう。水島の退職理由はご存じのとおりです」
「ふふん、七光りのある人はいいねぇ。最初から基板があるんだ。それが僕らとは違うところさ。野上と水島を話題にするところをみると、すでに2人を雇っているというところか?きみもイヤな男だね。弁解したって結果を見りゃ、無関係とは言えないだろ」
無理もない言葉だった。
これが世間の大方の見方なのだ。
陣洛は部下2人を引き抜いて辞めた、間違ったこの烙印が真実として喧伝され、人々はそれを信じてしまう。
「違う、違います。おれはお世話になった会社に、後足で砂をかけるようなイヌ畜生ではないです。おっしゃる通り、確かにこの間訪ねてきた2人を雇いました。でも、これは彼らの自由意志です。おれが共謀したわけではないのです。荒木課長、あなただけには理解していただきたい。どうか、おれを信じてください」
課長の皮肉な笑いが、本物の哄笑になった。
「あははは、信じるもなにもボクにはど~でもいいことだ。ボクもね、あの会社を早期退職したんだ」
「え?」
陣洛の手から箸が落ちたが、彼はそれすら認識できなかった。
荒木課長は休職ではなかったのだ。
「ボクにとっては子会社の部長なんて、とんでもない屈辱さ。だから辞めてやった。今は悠々自適だよ」
言葉通り悠々自適は事実だった。
が、荒木はやはり荒れた。
家庭内でも気難しい彼は、退職によって、今や暴君になっていたのだ。
心やさしい妻や、彼女によく似て穏やかな息子の、微笑ましい動作や言葉がいちいち気に入らない。
営業部でいかんなく発揮された怒声が家庭での日常になった。
妻も息子も思いやりを持って辛抱強くそれに耐えたが、彼らの思いとは裏腹にエスカレートしていき、ある時、荒木はついに妻を叩いた。
「出ていけっ。2度と現れるなっ」
居丈高な言葉は本心からのものではなかったが、それが潮時だったのだろう。
彼女は彼のもとを去って実家に帰り、そのままなしのつぶてになっていた。
しばらくして息子も消え去り、新住所だけを記したメールが来た。
家庭内を修復しなければ、といまさらながらに思ったが、プライドの高い不器用な荒木に自分から折れるなど出来ようはずもなく、そのまま月日がったっていたのだ。
5
やがて日は暮れていき、彼らはデッキから室内に移った。
荒木はウイスキーに移行し、陣洛は日本酒を口にした。
彼は何度が誤解を解こうと野上と水島の話題を小出しにしたが、そのたびに皮肉な笑いに押しとどめられ、荒木は最後にこう言って終止符を打った。
「ボクには関係ないと言ってるだろ。いつまでもそんな話を持ち出すのは、きみ自身、後ろめたいと思っている証拠だ。不愉快になるからやめたまえ」
陣洛は一言もなく黙した。
自分の本心を他人に理解してもらうのは難しい。
相手が拒否するなら、なおさらのことだ。
それでも荒木課長との会話は決して不快ではなかった。
「課長、おれ、感謝しています。あなたがここに来てくださって。偶然、お会いしたと思ったけど、必然だったのかも。『ある人が、ぜひとも必要とするものを見い出したとする。それは……』
「『それは偶然ではなく、必然が彼を導くのだ』」荒木が言葉の末尾を引き取った。「ドイツの文学者、ヘルマン・ヘッセの至言だ」
「はい。課長もご存じとは…」
意外そうな言葉に荒木は含み笑いを漏らしたが、不愉快からではなく、むしろ楽しげだった。
「ボクもきみに誘われてここに来てよかったと思ってる。最初はきみのことを、コイツ、のうのうと何やってるんだ?と思ったんだがね。いや、ここの景色と空を見ながら美味いもんを食ったらどうでもよくなった。ボクもね、むかっ腹立てて会社を辞めたけど、40代末で隠居ってのは早すぎる。第一、ヒマで飽き飽きするよ。別に金に困っているわけではないから、ボランティアでもしようかなってさ。『小人閑居して不善を成』しちゃいけないだろ?」
確かに、ビシバシ営業畑を走りぬいてきた荒木課長にとって、職がないというのはヒマを持て余すだろう。
しばらく黙考していた陣洛はあることを思いついて、思わず声を弾ませた。
「じゃあ、ちょうどよかったです、課長。おれ、親父の会社で新社長になって、企画営業部ってのを立ち上げたんです。おれ以外はヒラばかりです。もともと、カンパニーって、お友達とか仲間って意味ですからね。でもやっぱり、おれ以外の中枢が欲しい。なんでもかんでもおれに集中しちゃっててんてこ舞いなんです。もし、よければ部長待遇でお迎えします。野上と水島もいますし、荒木課長の能力ならみんな納得しますよ」
我ながら名案だと思った。
これなら、荒木課長のプライドも傷付かない。
「わははは、イヤなこった、だよ」
大笑いしながらだったが、意外な返事が返ってきた。
「きみも策士だねぇ。ボクに軍門に下れってかい?野上と水島と組むのも懲り懲りだ。却下するよ」
「そんな…」
口ごもる彼に荒木は言い足した。
「ボクはもう、営業職に未練はないんだ。そうだな、今までとは全く違った第2の人生っていうのかな?ノウハウがあれば農業でもやってみたい気分さ。ここの風景を見てごらん。清々するじゃないか」
陣洛も開け放した窓から見える畑を見渡す。
街灯がまばらだから誘蛾灯の青白い光だけではほとんど闇だが、それでも点在する農家や別荘の明かり、道路を走る車のライトで、その存在を知ることはできる。
さやさやと夜の陸風が吹きわたって、東京の熱帯夜がうそのようだ。
「ホント、気持ちいいですね」
陣洛の言葉に荒木がうなづく。
それっきり2人ともしばらく押し黙ったまま、優しい風に身を任せていた。
眠気のさすような平和な時間だった。
「課長?」
ややあって、彼が呼びかける。
またなにか思いついたようだ。
「では、この別荘の管理人になっていただくのはどうでしょう?これから本格的に社員用の別荘にしようってことで、おれ、様子を見に来たんです。ここは別荘地ではないので管理はしてもらえないから、市のシルバー人材センターなんかに頼んで草刈とかしてもらってるんですけど、建物とかやっぱり手がいきとどかない。庭は250坪ありますから、畑にでもなんでもしてください。新たに管理棟を建ててもいいですよ。奥さんも呼んで、ご夫婦でいかがでしょう?ま、おれが給料を支払うのがお気に召さないでしょうが、労力には報酬が付き物ですから」
目を輝かせてまくしたてる彼に荒木は首をかしげる。
「きみはホントにおぼっちゃまだなぁ。よくもそんなに突拍子もないことを思いつくよ。30にもなってまるで子供だ」
「え?そうですか…」
陣洛は一瞬、鼻白らんだが、自分のアイデアに酔っていて止まらない。
「いい思い付きだと思うんだけどなぁ…。息子さんが卒業して会社員になったとしても、在宅ワークとか推進しているトコなら楽勝ですよ。週に2,3回なら三浦半島からでも通えますよきっと。ま、今のご自宅をどうしようってことになりますが…。あっ、そうだ、これ」
おもむろにポケットを探って鍵の束を出す。
「ほら、これ。ここの合いカギです。課長にお渡ししときますから、持っててください。ね、ねっ」
荒木はしばらく、デーブルに置かれたキーに目を落としていたが、やがて静かな微笑とともに手を伸ばした。
「そうだな…。いい夢を見せてもらった記念に持っておくか」
「えっ?」陣洛が聞きとがめる。「夢じゃないです。これから現実にしようって話じゃないですか」
「あはは、よくわかった。きみと話していると笑うしかないよ。こうして腹を割って話すと人となりがよくわかる。陣洛くんは善人で、幼稚で、おせっかいで、ついでに人の気持ちがわからないところがあるな」
荒木課長らしい辛辣な診断に陣洛も苦笑する。
「いや、非難しているわけではないよ。会社ではプライベートなことは、あまり話さないから、やっときみというものが見えてきた気がする。心配するな、野上と水島は自己の判断できみの会社を選んだんだ。世間がどう言おうときみは自分の利益のために引き抜きをするような人間ではない」
「ありがとうございますっ」
思わず席を立って最敬礼していた。
課長にはぜひとも納得してほしかった事実が、今こそ彼の心に通じたのだ。
「お、もう、0時か…。いや今日は楽しかった」
荒木の声に陣洛も時計を見る。
話を中断するのはちょっと惜しいが、彼は明日には一旦、社に帰らなければいけない。
「課長、おれ、明日の昼ごろ帰ります。おれの決済を待っている連中がいるんで。良ければ課長はここにしばらく滞在していただけませんか?人がいれば防犯になるし…。観光や食料品の買い出しなんかはガレージのチャリを使ってください。2日後の土日には、おれ、飛んで戻ってきますから」
「うん…。まぁ…いや、ああ…そう…だ…な…」
ちょっと歯切れの悪い返事を陣洛が気にとめることはなかった。
6
翌朝、10時に目を覚ました彼は朝食の準備をし、昨夜の深酒で爆睡しているらしい荒木を起こしに行った。
いくらノックをし、声をかけても返事がない。
なんとなく不安に駆られて、断ってからドアを開ける。
「えっ?課長…?」
ゲストルームはもぬけの空だった。
それっきり、荒木課長は行方不明になったのだ。
連絡を取ろうにもスマホは解約してある。
自宅の置き電話はコールするものの、だれも出ない。
荒木が退職した会社にさりげなく連絡を取り、妻の実家の電話番号を聞き出したころには1週間がたっていた。
当然、この失踪を家族は知らないから、大騒ぎになったらしい。
その数日後には警察が聞きこみにやってきて、陣洛は別荘での会話を洗いざらいしゃべった。
事件性はなく、自殺の可能性も低いということで彼らは去って行ったが、それならどこに消えたのだろうという疑問は残されたままだった。
40末のひとりの男が忽然と姿を消すからには、それなりの事情があるはずだ。
陣洛は思い出す。
荒木課長は笑いながら、こう言ったのだ。
『陣洛くんは善人で、幼稚で、おせっかいで、ついでに人の気持ちがわからないところがあるな』
そして、こうも…。
『ボクに軍門に下れってかい?』
そう言えば課長はいつになくよく笑った。
それは酒のせいではなく、自嘲を隠す笑顔だったのだろうか?
課長の役に立ちたいと思う気持ちが、自意識の高い荒木には負担だったのだろうか?
もし、そうだとしたら、野上のような苦労人の説得なら、彼は承諾してくれたのだろうか?
陣洛にはわからない。
ただ、できることは荒木がいつ戻ってもいいように電気・ガス・水道のライフラインを維持することだ。
この別荘の合いカギは、まだ、荒木課長の手にあるからだ。
陣洛はヒマを見つけると、いつも三浦半島に車を走らせる。
戦時中の掩体壕の向こうに白い別荘を認めると、彼はいつも胸が騒ぐ。
ガレージに車を入れると玄関ドアが開き、きっと荒木課長が顔を出す。
「陣洛くん、遅くなったが農家資格を取ってね。ボクも立派なファーマー(農夫)さ」
あははは、という明るい笑いを聞きながら、陣洛も笑うのだ。
「いやだなぁ、課長。急に消えたから、びっくりしましたよ。もう、鴨居にでもブラ下がってるんじゃと、屋根裏まで家探ししましたもん」
楽しい幻想を瞼に描きながらカギを取り出す。
今日こそ、きっと、きっとドアの向こうに気配がある。
賭けをするような気持でノブを回す彼の背中に、あの8月めいた日差しが照りつけていた。
それは8月のこと