異聞カムイの儚2️⃣

異聞カムイの儚2️⃣


-トキ-

 トキは一九〇五年に北の国の最南端に生まれた。地主の末娘で、草也の祖父の年の離れた妹、すなわち大伯母である。
 女学校から首府の女子大に進んだ。卒業すると出版社に勤務した。
 二年後に同郷の青年将校と見合いをして、求められるままに結婚をした。夫の高張は長く皇室警護部隊に配属されて、有栖川の直属の部下であった。
 一九三七年の二二八事件で、高張は反乱軍の中心人物の一人だった。投降を説得しに来た上官と激論の果てに、上官に切りつけて射殺されたのである。遺体は塵屑の有り様で帰宅した。この時、高張三五歳。トキは三二歳。有栖川は四六。


-皇室の密教・陰陽経-

 その通夜の夜半に有栖川の読経が低く怪しく渦巻いている。 皇族の間に極秘に伝わる皇室の密教、陰陽経の経典だ。有栖川は今上御門の又再従兄弟である。
 有栖川の読経の呪文に包まれながら、トキは幼い時に歌った手まり歌を口ずさんでいた。そして、意識が次第に遠退いていった。


-いろは手まり歌-

空。ああ、蒼い。いっそう、うんと。えぇ、恐ろしいほどに碧い青い。そう言ったら、嘘みたいだけど。絵の具で描いたお話みたいな霞み。きっと、狂気を、狂った劇場に怪訝な言葉を差配している仕組みなのかしら。すっかり澄んで。清々として静粛。そして爽快。それは、ただ血ぬられたばかりの終の御門に問う難詰なのかしら。にわかに鵺が鼠を呑んで、羽ばたけば広がる風情。翩翻と帆。待つのは醜い陸奥の女なの。桃の破れ。夢見心地。蘇る裸。裏面に瑠璃の冷淡な牢獄。わあっ。ん?

 一九三七年の盛夏の満月である。首府の閑静な一角。
 敷布団に長襦袢だけを纏った水蜜桃の様な肢体のトキが仰臥して、甘く柔らかい寝息を湿った闇に漂わせている。
 月の光だけを受けて、単衣をはだけられた股間があられもなく照らし出されていた。両の太股が微かに開き、豊かに盛り上がった丘を漆黒の繁みが覆っている。
 昨日、後家にになったばかりの、信頼する部下の貞淑な妻だった女は、本当に気絶しているのか。有栖川は不可思議な悦びに酔いながらも半信半疑だ。
 二人きりの通夜の晩に、女は突然に気絶したのである。それから一時間も目を醒まさないのだ。女の寝息は静まる闇に安らかに溶けて、熟睡しているとしか見えない。
 しかし、或いは女はとうに覚醒していて、男の卑猥な所業を黙認しながらも、真から侮蔑しているのではないか。そうも考えると男はそら恐ろしくもなる。だが、男はたぎってしまった暴走をもはや押し止められないのである。
 
 トキは砂漠の水の全てを吸いとって咲く花の如くに絢爛な女だ。口角が尖った唇は紅く湿って、こぼれる歯は真っ白だ。肩まで伸びた烏色の髪。富士額、三日月眉。まつ毛は濡れ大きな目。座り心地の良い鼻に湿りが浮く。豊かな耳朶。膨らんだ頬。菩薩顔。しっかりした首すじとうなじ。麗しい声。中背。ふくよかな肉つき。ふっくらと張った腹。釣り鐘の乳房と桃色の乳首。豊かな太股。油をひいた様に艶めく肌。豊穣な丸く桃色の尻。潤沢な肢体は豊潤で頑健だ。農婦の如くに健康だ。しかし漂わせる気品は、居住まいも立ち振舞いも辺りを圧倒するのである。平素の所作も華族の因習を完璧に習熟している。閨房の女も平生と変わらずに淑やかさを決して崩さないだろう、と思った。
 トキは薄目を開けて全てを見ていた。トキにとって、有栖川などはいかに皇族とはいえ、愚かな男の一人に過ぎないのである。


-華子-

 トキとの秘め事は有栖川の妻に発覚した。華子といい皇族である。幼い時に今上御門と交接した女だ。
 しかし、有栖川とトキはその後も時おり密会をしていた。
 一九四五年八月一五日、戦争が終わった。トキは敗けるとは思っていたが、いざ現実になると玉音を聞き泣き崩れた。有栖川はその痙攣する尻を茫然と眺めている。
 御門は人間宣言をした。


(続く)

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更新日
登録日
2020-09-15

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