イノチワタリセ

椎葉あきら

イノチワタリセ

 すずむしさんが、りんりんりん。
 でんわをかけてる、りんりんりん。
 いつまでも、なりやまない——。


 薄手リネンの羽織が吸い切った汗、其れと仲睦まじく微塵切りを恐れた証拠である無数の乾き切った躊躇い傷とが求愛を互いに重ねている。観客も失せ切った深夜、袖の中で濃密な恋愛映画。誰一人ときめきやしないラヴ・シーン。規則的に並んだ傷と、手触りで惚れ込んだ布、彼女達の橋渡し役・或いは当て馬である僕とて、ぼうやりと宛てもなく、ふうわりと風も無く、そんな路の湿度の高さへ寄せる鬱陶しい心持ちが先立つが故に眼中にも胸中にも出入りを許せない。

 天国へだか地獄だか、或いは無へ土へ還るのみであるのか。何れでも構わなかった。地上数十メートル、己の痩身に屹度似合いの避雷針に成り切り、飛行機が二体僕の頭上を素知らぬ顔して通過したならば、高所の酸素を充分に吸込んだよき塩梅の頃とし、跨ぎ、跳び、見るも鮮やかな景色と走馬灯の見較べを行い乍らの、降下。そうして、したたかに温いアスファルトで骨だ内臓だを打ち、二度と深夜の散歩が、思考が、呼吸が、脈動が、叶わぬ器と成り果てる筈であった。

 死に損ないの口笛が暗道を切裂くに連動する如く、息も絶え絶えと云った格好で明滅を繰り返している親近感を誘う独りぼっちの外灯。鈴虫が鳴くは何処の草の根からだろうか、今窄めた唇から吹く旋律に吹き込まれた詞も僕も、何故生まれてしまったのだろうか。駈歩で逃げ去った猛暑日達は何も教えちゃくれなかった。滅多な者は今、僕が好き好んで引摺りがちな靴音を進めている最中にある道は選ばない。故に此の場限りの自由を、社会的拘束やヒト共との交り、希死念慮、凡ゆる鬱陶しい路からはぐれられた気分を、何度でも夜の隠れ場に決めてきた。今晩とて例外無く、逃避の先に在るやら定かでない自由を探しに、或いは確りと僕を無愛想乍ら受容してくれる暗闇に心を預けたく、足を運んできたのであった。

 草叢に両側から盗み見を働かれたとて安易に仕留めるは先ず不可能だと云った路もまた、好い。何度も上機嫌で訪れた。時には闇夜の降り幕に護られつ嗚咽を殺した日もあった。見慣れ、足慣れ、空気の味にも地面の表情も、何処を引き摘めど馴染みの欠片を集積して完成していた筈の、いつもの散歩道。だが、今夜は、違った。不意に視界端へと飛び込んだ大きな違和が僕の眼球を掻っ攫った。其の主は、公衆電話ボックスだった。硝子張りの直方体、彩度が極めて低い電気に鈍く照らされた内部には緑色をした、現代では希少である型の電話。如何してかな、何も考えず、屹度あちらの呼び声でも拾ったか、綿でも敷かれた地面をゆく様な不安定な足取りにて、誘蛾灯ヘふらつく虫宛らに公衆電話ボックスに導かれていた。

 暗雲に似た鈍さで開けた扉の中ヘ踏み込んだ靴の、ざり、との鳴きは厭に鋭利。深闇を其処だけ刳り貫いた白濁の小さな電灯付近で各々、酩酊的に舞う複数の羽虫。彼等を知るやら否やら、端が煤けた年老いておりそうな電話帳に凭れられつ、ライト・グリーンの肌が所々に剝げて見窄らしい公衆電話はさも罰の悪そうなだんまりで台へ腰掛けていた。

 彼は、此の電話は、恐らく仕事を完遂しきり、永き睡りに落ちたに違いない。心の有無を探るべくし、噛癖が深爪を負わせた人差し指で、慇懃無礼な顔貌の十と二ツ在る小さき押釦どもに触れ、無言で問い、確かめる。所作のさなかにちらと外を窺うたのは、屍体紛いの此奴と生き様醜きぼくの指との出逢いについて潜在意識下で罪悪感が繁っていたから。良かった。誰も居ない、生き物の鳴きは聴こえない。聴こえない? 先程迄は、秋虫が唄の美を一寸した競い合いに適した駄々広き会場であったのだが。

 なにか、が、おかしい

 直感的な鋭角が脳に切り込みを入れ始めた刹那。鼓膜を左右へ貫通させんとするかの硬質さを芯としたけたたましさで、記憶の底面に揺らいでいる曾祖父宅の黒電話が寄越す愛らしい呼声、あれの兄弟めいており、然し其のか弱さとは似ても似付かぬ呼出音で公衆電話が叫んだ。焦燥の中で受話器を掴み取ったが、止んでくれるどころか、呼出音の音量は時増しに。耳が痛い。脚が竦む。受話器を取り落とした手は深爪と皮膚の狭間迄も凍り付く。足指のあいだ。撞き返されたばかりの指。全てが瞬時にして氷点下へいざなわれる。

 悍しき速度で黒が足元に集う。影、化物、何だ、此れは。錯乱付近で回転性の眩暈にぐらつく垂れ頭を片手で受け、不休で集束し僕を蝕みたがる黒を凝視する。犇いていたのは、夥しき翅数の鈴虫だった。血の気が瞬く間に引き下ろされる。狭まる気管支辺りからヒュ、と呼気を漏らすが精一杯で抗うにも困難だった。けれども歯の根が合わず口腔奥から僕の怯えの体現に至る細やかな硬音は、己が捉えた光景から湧いて出た恐怖と云う無色透明なゴム紐にとびきりの勢いではじかれ、鳴り止まぬ呼出と充分に張り合えるであろう悲鳴を飛び出させた。

 手が。黒い手が巻き付いてくる。黒が襲っている。此の身を、或いは僕の生命を。タスケテクレ、僕は其の旋律しか奏でられない笛吹きと化す。鈴虫の大群が両足を登って腰へ這い上り、喉を渡り、幾つかは衣服の中へと脱落しつつ、口内に、眼球に、僕の絶叫が咽せ涸れても構うでなく、肺に、内臓に。ふつり、意識はいとも簡単に、虫どもに喰い殺されて。


 全休符。

 ニンゲン クラッタ、
 イノチノ ワタリセ。
 オツギハ ドナタノ、
 イノチヲ ワタスカ。

 終止符。


 螺旋状コードと共に垂れ下がる受話器に悲鳴はすっかりと吸い込まれゆき、ボックス内は閉鎖空間を成す。男の生命を何処かへ運び取込んだ鈴虫、否、無数の卑しき欲を恥
じもせず剥き出して生える腕の形は、散りも解れもせず艶かしく踊り蠢く。時折生きた鈴虫を、ぼとり、ぼとり、溢し乍ら。
 りりり、りりりり、りりりりり。公衆電話ボックスの四面を囲む張硝子に、出処も知れないコールタールの如き粘性の極めて強い闇色が上部から重みを持ってのたりのたりと垂れゆく。
 りりり、りりりり、りりりりり。やがて内部が真面に覗けぬ泥状の陰が箱内を覆い隠そうと、此の長方体の主人として据わる電話は尚も、張り裂けんばかりの露骨な嘲りの意を孕んだ笑い声を立て続けていた。

 いつまでも、鳴り止まない。
 いつまでも、鳴り止まない。
 りーん、りーん、りんりんりん——。

イノチワタリセ

イノチワタリセ

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-09-14

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