北帝1️⃣
北帝1️⃣
異聞ピリカの儚
精神科医の玲子が高校生の草哉に言った。
「この病棟の患者達はその様様な禁忌に抗い挑戦し格闘して。葛藤のあげくに破れて。神経を病んでしまった。そんな風に思えてならないの」「そんな心象風景を克明に記録したり、物語を創作するのが作家でしょ?ここにも作家が何人かいるのよ。投稿もしていて。覆面作家なんだけど。ひょっとしたら、『儚』の作者もいるんじゃないかしら?」
「一人は『北帝』というペンネームなんだけど。あの戦争で徴兵拒否をして。ある有力者のの口添えで入所したらしいんだけど」「振り返るほどいい男。四〇前かしら?」「やはり、院長の指示で、様子を見ながらだけど、まるで自分の家にいるみたいに娑婆を自由に出入りしているのよ。今頃はどんなものを書いているのかしら?あの人だって『儚』の著者の一人かも知れないんだわ」
敗戦の色濃い一九四×年の盛夏の満月。狂おしい程に蒸す異様な夜である。二二歳の三文作家と登場人物の女達が織り成す奇想天外な性の戯れ、痴戯の数々。これは顕ウツツなのか幻なのか。筆者の男にも判然とはし難い綺談なのである。
男のいう北帝キタミカドはペンネームである。本名北川辺帝也という。
一九四二年、二十の北帝は徴兵検査で徴兵そのものを拒否したが、担当した医師の計らいで精神病の診断が下されて咎めは受けなかった。 この医師は誰なのか。未だに北帝は知らないのである。
爾来、継ぐ筈だった家を離れた男は放浪して様々な仕事をしながら、執筆を続けているのであった。
儚一篇
-木の葉-
あの戦争最中の盛夏。府心の出版社からの帰途であった。
北帝は原稿の入ったボストンバックを自転車の錆びた荷台にくくりつけた。訳もなく、古びた皮のバックに目が釘付けになる。それは、ある事情があって手にいれた愛着のバックなのだ。ある女のすこぶる妖艶な面影がありありと立ち上るのである。 そして、気が付いた。妙に手元が明るいのだ。ふと、見上げると満月だった。黄金の光を厳かに惜しみなく放射している。世事にさいなまわれ続けてきた男などには、今までに見た事もない天空の光景だ。何事か、神々しい祈りの言葉が降ってくるごときの感覚に襲われるのである。何者かが、世界の闇の隅々までを照らし出して、その不条理の謎をつまびらかに解明して、男に示そうとするかの様な景色なのだ。
何気なく視線を返すと大きな赤提灯が目に入った。居酒屋らしいのだが、男にはこの様な店にはとんと覚えがないのである。
この付近の呑み屋はかつて知る男の居場所で、一週間程前にも近辺の路地で酔い痴れていたのであった。しかし、この場所に以前に何があったかすら、今では男には判然としないのである。
散々にたぎった夏の陽が落ちたばかりで、異様な湿気はまだまだ失せてはいない。丹念に水が放たれた居酒屋の入り口は引き戸が取り払われていて、極太の縄のれんが下がっている。風はない。
北帝がそれを分け様とした途端に呼び止められた。
「いけません。先生。開店祝いの祝儀を配り忘れたら、親方からえらく叱られてしまうのは、私なんですよ」と、一五、六の、下働きなのだろうが妙に艶っぽくて馴れ馴れしい女だ。
「今日の会計はこれでなすって下さいまし。私共の親方の心尽しだそうでございます」と、柏葉の束を差し出した。
「これは何だ?」「ご覧の通りにお金です」「こんなものが金のわけはないだろ?ただの葉っぱじゃないか?」大人ほどに豊かな乳房を揺らして娘が笑う。「厭だわ。先生ったら?」「朴念仁の素人みたいな事を言うんだもの」「だって、あなたは粋を極めた偉い小説家の先生なんでしょ?」「女を書かせたら天下に比類なしって、親方が誉めちぎっていますもの」「当たり前じゃありませんか。葉っぱがお金だなんて。洒落に違いないわ」男は困惑を噛み潰して、威厳を保とうと憮然とした。「嫌だわ、先生ったら。ご冗談だったんだわね?」「当たり前だろ?」「やっぱりだわ。こんな浅知恵なんかはとうにお見通しなんでしょ?」 「これは店の中だけで使えるお金なんです。今夕、大本営発表が御座いましたでしょ?」北帝は聞いていなかったし、実はさしたる興味もない。「あら?所用でご府内にお出掛けで聞いてない?それは残念でございました。南洋の大海戦で奇跡の大勝利で。御門様も呵呵大笑されて杯をあげられたとか」「そんな吉報と私共の開店記念が重なりましての、親方からの特段の振る舞いなんでございますのよ」
「今日が店開きなのか?」女が頷くので、成程初めて見る店だった筈だと、北帝は納得したが、「これで飲めるのか?」「嘘じゃありませんよ。一夜限りの大出血感謝なんです」「それは嬉しい」
すると、娘がいかにも声を潜めて、「先生。お酒だけではありませんのよ」「そんなんじゃ、この戦勝景気にはいかにも無粋じゃありませんか?」「何だと言うんだ?」「他にも勝手気ままに使えるんですのよ」「私だって、こんな扮装はさせられてはいるけど…」
確かに、娘の身なりは奇抜なのだった。桃色の半襦袢は股の付け根ぐらいの丈だから、豊かな太股が剥き出しだ。下穿きを着けているとは到底思えない。「小説家なんだもの。真相は、どうしても知りたいんでしょ?」頷くと、「私も先生の秘密を探りたいわ」と、素早く身体を寄せて男の臭いを嗅ぎ始めた。
「先生?街に出かけてオイタをなさいましたね?」北帝が少しばかり狼狽えた。「図星なんだわ」「相も変わらず、音に聞こえし浮気の帝王なんだもの。まあ、独身なんだから勝手気ままなんでしょうけど」「先生?辺り構わずはいけませんよ」 「こんなご時世なんだから」「権力の怖さは骨身に染みてらっしゃるでしょ?」「どこに目があり耳があり、でしょ?」「でも、こんなにいい男なんだもの。いつだって、女が放っておかないんだわ」「無理もないんだわね」娘が擦り寄る。
-温泉-
「ところで、先生?温泉風呂があるんですよ」「きっと、お好きでしょ?」「勿論、天然、かけ流しですわ」「湯浴みしながらの一献などは極上の愉楽でしょ?」「勿論、私が酌をしますの」「その身体に染み付いた街の性悪女の淫靡な臭いも、汗も埃も。先生?すっかり、洗い流しましょうかしら?」
「浴衣も用意してありますし。湯上がりの着流しで開店ホヤホヤの居酒屋にも行けますから」「勿論、お帰りまでには、先生の洋服は綺麗に洗濯しておきますわ」「お代はみんなあのお金から頂くんですもの」「素敵でございましょ?」
月明かりに照らし出された路地に入り、松の大木の傍らで引き戸を引くと、そこは大浴場の洗い場なのである。
たち騒ぐ湯気の中で、女はかいがいしく男の衣服を脱がせる。真裸にさせると剥き出しの陰茎に顔を寄せて、改めて臭いを嗅いだ。
「先生?これって?」「最前までここに挟まっていたのは…」と、更にかぎ分けたあげくに、「女医のだわね?」と断定した。「私にはすっかりお見通しなんだもの」「何故だ?」「消毒液ですよ」「きっと丹念に殺菌している女なんだわ」「そうでございましょ?」
娘は古代桧の大浴槽に男を浸らせると姿を消したが、直に戻ってきた。浴槽の縁から徳利を載せた盆を男に勧める。
「湯加減は如何ですか?」と、女の桃色の半襦袢の立て膝の奥には、案の定、漆黒の股間が息づいているのである。
「お前は幾つなんだ?」「どうして?」「どうしても子供には思えない」「一七はもう充分に女ですよ」「それにしても奇っ怪だ」「どうして?」「そこだよ」と、男が指鉄砲を作り湯を発射した。すると、軌道は娘の股間に突き刺さって飛沫をあげる。「先生ったら。悪戯っ子みたい」「どうしてそんなに濃いんだ?」「何が?」「その陰毛だよ」「大胆な物言いなんだもの。乙女心は驚きますよ?」「白々しい。それが乙女の様か?」「どうだって言うんでしょう?」「まるで、交接直後の肉の喘ぎの態じゃないか?」「先生ったら。余りに赤裸々だわ」 「処女なのか?」「この歳だもの、当たり前ですわ」「その色といい、熟し具合といい、信じられないな」「そんな事を言われても困ります」
「だから、本当は幾つなんだ?」「だったら、先生のご所望は?」「若いのは好きじゃない」「どうして?」「話が噛み合わないんだ」「そうかしら」
「それに…」「なに?」「処女は嫌いなんだ」「どうしてかしら?大抵の殿方は喜ぶでしょ?」「臭そうで厭なんだ」「何処が?」「そこ」「ここ?」「毎日、きちんと洗ってるか?」「どうかしら?」「だから、消毒女となさるのね」「だったら、ご自身で納得なさればいいわ」「そうよ。ご随意に…」「だったら、よく見せてみろよ」「もっと広げて」「こうかしら?」
「先生?もっと、ふしだらをなさりたいんでしょ?」
女は半襦袢のままで湯に入ってきた。「ここ?」「ここがどうかしたんですか?」「濃い」「何が?」すると、みるみる内に乳房が膨れてきた。「どうしたんだ?」「何か不可思議でしょうか?女体はこのようなものでしょう?」男が怪訝気だ。「だったら、確かめて?」と、襦袢の襟元を緩めた。男が胸元を探ると豊かな乳房なのである。「どう?」「まるで、七変化だな?」「女なんてものは、皆、そうでしょ?」「違いない」
その裸体を男の眼前に沈めたのである。髪を解いた女は、到底、今ほどまでの童女ではない。慣れた手付きで酌をする。やがて、陰茎を水面に出させるとしゃぶり始める。
「さて、本番はどんな女が宜しいでしょ?」と、言いながら壁を押すと、その壁がゆるゆると開いた。覗き窓の向こうには別な大浴場が広がっているのであった。
一〇人程の女が様々な姿態で湯浴みをしている。
四〇位の豊満な桃色の女と二十ほどの浅黒い女がじゃれあっている。何とした事だ。若い方の股間に陰茎が付いているのだ。陰嚢までぶら下がって揺れている。
座った浅黒が自分の陰茎をしごき始めた。寝そべった桃色が、いとおしそうに陰嚢を揉む。
-羽後-
居酒屋に入った途端に、威勢よく甲高い声が飛んできた。カウンターの中には狸顔の中年の男がねじり鉢巻に太鼓腹をつきだして、手を揉んでいる。
どれくらい呑んだのだろう。北帝は昼間や先程の湯の疲れもあったのか、朦朧としてきた。
「幾らだ?」「おや?今日はお早いお帰りで?」「今日?俺は前にも来た事があるのか?」「ご冗談を。いつもたっぷりとお楽しみで…」「今日が開店じゃないのか?」「新装して心構えも新たに致しました」「この店はいつからあるんだ?」「もう、かれこれ一〇年にはなります」「俺は?」「あの時以来のご贔屓で…」「あの時?」「二年前に瀕死のあの女を助けて頂きました」
この胡散臭い主人が投げた視線の先には奇妙な情景があった。
隅のテーブルの脇に佇んだ女が、いかにも所在なげにしていたが、北帝の視線を受けると、女はテーブルの角に股間を擦り付け始めたのだ。人間には極めて不自然な動物的なしぐさだと、男はふと思った。男の視線に女が絡み付く。紅い舌を出して、これ見よがしに唇を舐め始めるのである。すると、浴衣の裾を尻までまくり上げて、袂に手を忍ばせるや乳房を取り出したのだ。北帝はその豊かすぎる乳房に見覚えがあると、茫茫と思ったが、しばらく先の過去なのか、ついさっきに出会ったばかりのあの娘のものなのか、混沌とするばかりなのである。
「あなた様はあの女の命の恩人なんでございます」「寝ても覚めてもあなた様の話ばかり」
いささか酔いすぎたかと、北帝は、「もう勘定にしてくれ」と告げると、「先生?珍しい鞄ですね?中身は何です?」「原稿だ」「ゲンコウとは?」「小説の原稿だ」「見せてもらってもいいですか?」男が原稿を渡すと、暫く目を落としていた主人が、「これは凄い代物だ」と、隅の女を手招きをして、「お前も拝ませてもらいなさい。女の器量を磨くには滅多にない指南書の様なもんだ」と、誉めちぎる。
「さすがに北帝先生。あの羽後大先生がベタ誉めなさっていた、たぐいまれな才能ですな?」「羽後?」「何でしょう?湯中たりでもなさいましたか?羽後大先生ですよ?」「それは何者なんだ?」「嫌ですね。お友達。いや、飲み仲間。或いは師弟。いずれにしろ、切っても切れないお仲間じゃありませんか?」「だから、そいつは何者だというんだ?」
「内科医にして高名な精神科学の権威、御門の御医、海軍顧問の羽後大先生じゃありませんか?」「とんと覚えがないな」「何とも不義理なお方だ」「何故だ?貴様ごときに避難される覚えはないぞ?」「これは笑止千万。あなた様の徴兵拒否を承知の上で見逃したのは羽後大先生じゃありませんか?」「徴兵拒否?」「はい」「俺がそんな不心得をしたというのか?」「まあ。ヌケヌケと。それとも陽当たり、湯当たり、女当たり。いずれにしてもご恩は忘れちゃなりませんぜ」 「無礼な奴だな。俺はな、徴兵などは半島でとうに務めあげて。お上から才能を買われて従軍記者の内示を受けて、今度は大陸に羽ばたかんと、今や遅しと待つ身なんだぜ」北帝の剣幕に主人は縮身上がったとみえて、「それはそれは。ご事情等も知らずに失礼三昧。ご容赦ください」と、深々と腰を折った。「解ればいいんだ」
「今日のお代はこの原稿、一束で充分です」北帝が、「木の葉銭で払うんだろ?」「大先生?その木の葉銭は今日限りのもの。この原稿一束には木の葉銭一〇日分をつけさせて頂きますよ」
北帝は酩酊した脳裏で素早く計算したが、幾つかの概念が交錯した。「五〇枚もないぞ。そんなものでいいのか?」「充分すぎるほどで」「それをどうするんだ?」「私の知り合いに地下出版の元締めがおりますので」「そこで出版するというのか?」「それは先方の専門家の評価次第かと」「出版の暁の印税は?」「お説の通りにいたしますです」いずれにしても悪い話ではないと、北帝は酔った頭で納得したのである。
店を出ると女が追いかけてきたのだ。「先生?お一人でお帰りなどと殺生な。私などはこれでは生殺しではありませんか?」
(続く)
北帝1️⃣