そして、戯けて

凛悦

始めようとすること

溶け出したシベリアの永久凍土から、ほぼ完璧に近いマンモスが発見されたとテレビのニュースから聞えてきた。

初夏の風がベランダから入ってくる。切っていた足の小指の爪が何処かに飛んで行った。

ホモサピエンスに狩られたのか、それとも逃げ延びたものの、致命的な傷を負ってその場で力尽きたのか。それか全く違う理由で絶命したのか。耳だけ向けて想像していた。もし自分の身体がこのマンモスのように長い年月を経て見つかったら嫌だなと思う。死ぬ間際だったら早く見つけてと思うだろうけど、もうこんなにも時が経ってしまったらほっといてほしいと思うだろう。マンモスも哀れだ。また切った爪が何処かに飛んで行った。

スマートフォンから間の抜けた音がする。メッセージの着信音。イトウからだった。

「あと10分くらいで着く」

「りょーかい」

「なんか買ってくのある?」

「新しい水着」

「自分で買えよ」

一応、干していた下着なんかを片付ける。そうはいってもイトウも男だ。気にはしないだろうがこっちも女だしねと雑にチェストに押し込んだ。

インターホンが鳴った。
スマートフォンの着信音と同じくらい間抜けな音だ。玄関のドアを開けるとイトウが立っていた。手には6缶パックのビールを持っていた。

「こんちは、お邪魔」

ビールを冷蔵庫に入れて代わりにアイスティーを出した。イトウはもう小さな食卓テーブルの椅子に座っていた。

「夕方から雨らしいよ」

イトウはアイスティーをひとくち飲んでそう言った。そういえばさっきのニュースでもそんな事を言っていた気がする。

イトウはたまにふらっとやって来る。
「これから用事ある?」から始まり「なんか買ってく?」と聞いてくる。とくに予定がない時は断る理由もない。

中学二年の時にイトウは引っ越して来た。
同じクラスだったが特に仲がよかったわけでもない。一緒だったのはこの年だけで、その後も社会人になるまで接点は無かった。
接点といっても、驚くような再会でも運命的な出会いでもない。当時の同級生の誰かが主催した飲み会で顔を合わせた。ごちゃついた中で地味な二人がたまたま隣同士になり、話さないわけにはいかない状況だっただけで、特別なシンパシーを感じたわけでもなかった。
イトウもそうだと思う。わたし自体、探りながら会話を寄せていこうなんて気もなかったし、イトウも野菜スティックをハムスターのようにボリボリと噛みながら、こっちの話を聞いているのか聞いていないのか分からない感じだった。こんな状態なのだから終始会話が弾むことはなかった。たまに酔った勢いでお酒を注ぎにくるやつが「なになに?秘密のお話?」なんて絡んできたけど、明らかに盛り上がってないと感じるとそそくさと離れていった。
そんな雰囲気だったのに帰り際、イトウから連絡先を聞かれた時は正直驚いた。
その後、イトウから連絡がきて食事に行ったりしているうちに二年が経ち、そして今の距離感になった。別に付き合っているわけでも、からだの関係があるわけでもない。ただふらっとやってきて取り留めのない会話をして帰っていく。

ベランダから西日が差す頃、細い雨が降り出した。
反対側のキッチンの窓から見える空は灰色だった。西日と対照的で不思議な感じがする。この部屋を境に天気が別れているみたいだ。
遠くで雷の音がして少し胸が縮まる。今年初めての雷だった。

「やっぱ降ってきたね」

冷蔵庫からビールを出してイトウに渡す。タブを起こすと小気味よい音がした。

「ねえ、イトウってさ、こっちくる前どこにいたの?聞いたことないよね?」

「いつの事?」

「中学の時だよ。転校して来たでしょ」

「あれ?言わなかった?」

「そん時はイトウと話した事なかったし、聞いてたとしても覚えてない」

「ロシア」

また面白くない冗談を言い出したと茶化すようにビールを傾けた。

「本当だよ。ウラジオストクに居た」

「なんで?」

「親父の仕事だよ」

「なにやってるの?」

「ピロシキ職人」

またビールを傾けた。

「って冗談。たぶん貿易の仕事だと思うけどよくわからない。その前は札幌に住んでた」

「ロシア語は?」

「喋れるよ。Добрый вечер」

「ん?」

「挨拶。こんばんはとかそんな感じ。喋れたのは日常会話程度だし、日本に帰って来たらまったく喋らないから殆ど忘れた。学校も日本人学校だったし」

イトウがビールを飲む。ロシア人がウオッカを飲む姿を想像してみるがイトウからそんな要素は全く感じられなかった。

「中学になってすぐに彼女が出来たんだ。ロシア人のね。その時住んでた同じマンションの子で、すごく肌が白くてさ、背が俺より少し大きかった。親父さんが熊みたいに大きな人でさ、怖かったよ。でも遊びに行くと優しいんだ。いつも甘いお菓子いっぱいくれたよ」

ビールをひと口飲む。張り付きそうな喉がゆっくりと湿っていく。

「最近、その時の事を思い出したんだ。普通だったら忘れられないような出来事なのに、その時まですっかり忘れてたんだよ」

「何が?何を忘れてたの?」

「いつくらいだろう?もうけっこう寒かったから十一月とかかな。その付き合ってたロシア人の彼女が森に行こうって誘ってきたんだ。朝も早い時間に。眠たいし寒いから面倒くさかったけど、強引さに負けて行くことにしたんだ。なんかその時はすごく彼女も引かなくてさ。行こう行こうの一点張り。外に出たらやっぱり寒かったよ。でも彼女の機嫌が良かったから、すぐに楽しい気分になったんだ」

また雷が鳴った。今度は近い。

「しばらく歩いたら公園があって、あ、公園といってもただの空き地なんだけどね。その公園の奥にフェンスがあって、隙間から森に入れるんだ。そこから先はずっと深い森になってるんだけど、あまり奥まで行っちゃうと帰ってこれなくなるから帰れる範囲で散歩するんだよね。あと森の中でも行っちゃいけない領域があって、そこは危ないから普通の人は行かないんだ。だから森に行くなんて親には絶対に言っちゃいけなくて、もちろんその時も内緒で行ったんだ。いつも森の奥まで行かないしね。だけどその時の彼女は奥まで行こうとするんだよ。もうこの辺にしておこうって言っても聞かないんだ。いつも散歩する範囲はとっくに越えてるし。そしたら彼女がいいもの見せてあげるって言うんだ。何を見せてくれるのって聞いても、まだ秘密ってしか言わなくて。そんなやり取りをしてたらいつの間にか好奇心が大きくなってた。でも正直言って怖かったよ。だってヤバイところはホントにヤバイからね」

薄暗くなった部屋に気づき、ソファーの横のフロアランプを点けた。蛍光灯は苦手で夜は殆どこのランプで過ごしている。アンティークショップで見つけたお気に入りで、少し高かったけど無理をして買った。
よくこういう買い物は自分へのご褒美とかいう。そう言い聞かすような言葉は自分を甘やかすようで以前は好きにはなれなかったけど、最近はもっと力を抜いて生きていったほうかいいって思えるようになった。
それをしたからといって悪い事や良い事が起きるわけじゃないし、むしろ自分にちょこっと針を刺す程度の厳しさなんて変な言い訳を作るための材料に過ぎないのだから結局は同じ事だ。
どうせ同じなのだから、べっとりと甘えた方が楽に決まっている。そう思うとこのランプがもっと愛おしくなった。

そのランプが放つ暖色系の灯りにイトウの輪郭が浮き出る。つるんとした横顔が少し赤く見えた。

「急に足を止めた彼女が俺の腕を引っ張って指差すんだ。彼女の指の先を見ると、何か黒いような茶色いような塊があって、すごく異様な見たことのないもので、なんていうか胸がずんとなる塊。初めはなんだか分からなかったけど、よく見るとそれ、人なんだよ。人間。彼女さ、俺に死体を見せたかったんだ」

背中の産毛が騒ついた。こめかみが熱くなるのを感じる。

「お互い死体に近づこうとはしなかったよ。立ち止まった距離から見ただけなんだけど、男の人だった。彼女に誰なのって聞いたけど、知らないって。今思えば何で彼女はあの森で死体を見つけたんだろうと思うけどね」

「それでどうしたの?」

「どうもしないよ」

「通報とかしなかったの?」

「しないよ。森に行ったってだけで怒られるのに、死体を見つけたなんて言えないだろ」

雨の音が大きくなっていた。

「けっきょく彼女とも自然消滅っぽくなって会わなくなったよ。同じマンションだったから会うと気まづいなって思ったけど、不思議と会わなかった気がする。むこうも避けてたのかな。
しばらくして森で死体が発見されたって聞いたんだ。両親が話してたとかそんな感じで耳にした気がする。あるサーカス団のピエロを演ってた人だって。だけど俺たちが見た死体がそのピエロの死体かどうかって分からないよ。そんなニュースは割と多いから。でもそれを聞いて凄く悲しくなったのを憶えてるよ。ピエロってさあんなに楽しそうに戯けるだろ。それが死んだら森で見たような、一瞬何か分からないただの塊になるんだから。人間って生きてるうちにどれだけ明るく戯けても死んでしまえばああなるんだって。それが凄く悲しくてさ。もちろん今はそんな考え方しないけど、あの時は悲しかったな。いや、思春期の感情は難しいから寂しいって思ってたのかもしれない」

昼間のマンモスのニュースを思い出していた。
長い年月が経って見つかるなんて、ある意味滑稽だ。今だってみんな戯けて生きている。その事を考えると悲しくなるから気づかないふりをして生きている気がした。
それを逆手にとってなのか、ピエロという道化が存在するのは、見る側のガス抜きのようなものだと思った。そんな彼を見てみんなが笑う。普段の自分の姿を誇張して演じてるそのピエロが森で塊になってたらやっぱり悲しいと思った。

雨の音がする。

今年の夏は冷夏だと言っていた。

わたしとイトウの間にはテーブルしかない。
小さいテーブルだから両手をついて顔を近づければイトウに届くだろう。

わたしが溶け出してきたのが分かった。暑くなると色々なものが溶け出す。道化のような関係を始めるには十分な距離だった。

そして、戯けて

そして、戯けて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-09-12

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