狂女と老人

狂女と老人



-巫女-

 草哉はあの狂ったように蒸す盛夏の日の、あの女医の玲子との会話を反芻するのである。

 「あの日に病院の駐車場で奇怪な情景を見たんだ」と、強張った草哉が言うと、「何を見たの?」女医は顔色ひとつ変えない。「自慰をしていた」男の二の句を遮って、「青いワンピースの女ね?」「私の患者なのよ」と、続けて、「自慰をしたんでしょ?」と、男の視線に視線を絡めた。「驚いた?」「当然だわね」「でも、自慰はあなただってするでしょ?」「勿論、人前ではしないでしょうけど」女医は真剣なのである。
 「健康な青年なら当り前の事だものね?」草哉はにわかには同意はできない。見られてはならない秘密を暴かれそうで困惑しているのだ。それならば、あの女は衆人の眼前で、何故あのような行為に及んだのか。「何故するのかしら?」「いい気持ちでしょ?」女の囁きが余りに柔らかかったから、思わず男が頷く。「夕べもしたの?」
 「…あなたは?」と、高校二年の男の思いがけない逆襲に三七の女がたじろいだ。「…私?」女医がいずまいを正して、「あなたって随分と豪胆なのね。そうね。今時の男どもが軟弱過ぎるのね。あなたのような男はあの戦争でみんな死んでしまったんだもの」「そう、したわ」すると、二人の間の空気が濃密になった。女がつけているのだろうか、なも知らぬ大人の香りが漂った。
 「今度はあなたの番よ?」男が頷く。「ちゃんと答えて?」「…した」「そうなのよ。だったら、あの人も同じじゃないかしら?」「私も、あなただって。同じだわね?」「だって、性欲は基本的な欲求の一つなんだもの。それが、人間に限らず、この世の生き物を存続させてきたんでしょ?」「そうでしょ?」「違っているのは、あの人が人前でもすることだわ」「どうして、そんなことになってしまったのかしら?」


-禁忌-

 「神経を病んだせいで、あの人には禁忌が無くなってしまったんだわ」「この社会にはタブーがあるでしょ?」「それって、何だと思う?」男の脳裏を様々な言葉が駆け巡る。そういえば、この社会は制限や禁忌ばかりではないのか。 「自慰だってそうだわ。勿論、そんな話は居酒屋だってしないし、小説にだって書かないでしょ?」「そんなことはない」と、草哉が断言した。「あら?そうかしら?」「『法悦の儚』という綺談がある」「それって、『儚』の連作の?」「最近、発表されたんだ」「どこに?」「『聖女と薔薇』」「知らないわ」「地下出版の雑誌だよ」「凄いのを読んでいるのね?詳しく教えてほしいわ?」「自慰ばかりじゃない。性の描写が直栽なんだ」「他の連作よりも、なの?」「あえて挑戦してみたと、後書きに告白してあった」「あの連作の作者は一人じゃないって、噂があるでしょ?」男が頷いた。

 「この病棟の患者達はその様様な禁忌に抗い挑戦し格闘して。葛藤のあげくに破れて。神経を病んでしまった。そんな風に思えてならないの」「そんな心象風景を克明に記録したり、物語を創作するのが作家でしょ?ここにも作家が何人かいるのよ。投稿もしていて。覆面作家なんだけど。ひょっとしたら、『儚』の作者もいるんじゃないかしら?」

 「禁忌って?」「…革命」「革命?凄いテーマね。そうね。それから?」「…御門制」女医はもう驚かない。「そうだわ」「…御門の戦争責任」「そうよ」「原発反対運動」「そうね」「…それから?」「…性」「そうよ」「みんなタブーだわよね?」
 「自慰もそうだわ。誰にとっても禁忌なの。普段なら、ひっそりと秘密にしておく概念なんだわ」「でも、あの人の自慰は弾けてしまった」「あの行為に関わって精神に余程の衝撃を受けたに違いないんだわ」「でも、何も言わないの」「何が拒絶させているのか…」「或いは、ある種の記憶障害に陥っているのか」

 「あの人は…。ある家の門前で行き倒れのところを助けられてたんだけど。そこの家人も手に余って、ここに入院させたのよ。入院費もその人が払っているのよ」「資産家の独り者の老人よ」

 「患者本人は巫女だと言っているわ」「それ以外は何もわからないの」「だから、その老人が名前をつけたんだわ」「幸子よ」


-老人-

 「幸子は周期的に暴れるのよ」「そんな時はその老人に来てもらうしかないの」「個室で二時間ばかり過ごすんだわ」「すると、おとなしくなるのよ」「何をしていると思う?」「…性交?」「そうよ」
 「私は反対したのよ」「卑しくも病院なんだもの。そんなことが許されるわけがないでしょ?」草哉の視線は女医を咎めている。それを打ち消すように、「院長がその老人に頭が上がらないのよ」「全くの言いなりなんだもの」

 「老人は、あの戦争中にはこの街の市長だったの」「軍需産業を誘致して、戦争政策を拡大させたのもあの人よ」「だから、敗戦間際には激しい空爆を受けて。工場ばかりじゃない。街の東半分が焼け野原になったのよ」「聞いてる」「そうでしょ?死者は千人を越えたんだわ」「戦後は身を引いたけど、未だに隠然とした力を誇示して。院政みたいなもんだわ」「だって、戦争中の政策がこの街を北の国随一の工業都市に発展させたのも事実なんだもの」だから、今でも隠然と君臨する実力者なのよ」「この前も、御門から勲章を授与されたばかりなんだもの」「戦後から二〇年もたたないのに…」「あんな惨禍のみんなが、あっという間に忘れ去られてしまうんだわ」「それとも、余りに凄惨な体験だから記憶にすら留めたくないのかしら?」「精神の均衡を保つ一種の防衛本能なのね」「嘘つきが自分がついた嘘を忘れるようなものなのね」

 「一番に卑怯なのは御門だ」と、草哉が吐き捨てると、女医が頷いて、「あなたの言う通りだわ」「御門ばかりじゃない。この国の権力者は、きっと、誰もが狂っているんだわ」「あの戦争で取り付かれた狂気を未だに引きずっているのよ」
 「御門の世を作ろうとした時から気が触れていたに違いないわ」「二人が入る部屋は?」と、草哉が呟き、「普通の病室なの?」「どうなんだ?」と、詰問に変えた。「…違うわ」「特別観察室よ」「治療効果を確認する特殊な部屋よ」「…だから」「言うんだ」「…覗き窓がついているんだわ」「覗き窓?」「そうよ」「…二人の行動を?」「そう」「そこから見ているのか」「そう」「性交してるんだろ?」「そう」
 「老人を呼ぶのに反対したんだろ?」「したわ」「だったら?」「でも、そうなってしまった限りは、医療行為として監督するのは医師の努めでしょ?」「病室の監督責任は理事長じゃないの。担当医の私なのよ」「原因はどうあれ結果責任の全ては私にあるんだもの」「違うかしら?」「それに…。性交は人間の本源的な欲求なんだもの」「あの人の狂気の原因を突き止められるかもしれない…」「医師としての当然の探究心だわ」女の息が乳房の微動と連動している。「そうじゃないかしら?」「ねえ?」
 「どんな光景だったんだ?」「何が?」「二人だよ」「言ったでしょ?性交してるんだわ」「だから?」「何?」「どんな風に?」女医が答える筈もない。「全てを見ていたんだろ?」「そうよ。だったら?ねえ?聞きたいの?」「聞きたい」「どうして?」
 「『法悦の儚』に風子という狂人の女が出てくるんだ」「風子?それって、『ピリカの儚』の風子なの?」草哉が深く頷いた。「それがどうかしたの?」「凄まじい性交をするんだ」「それを率直に、むしろ露悪に表現しているのね?」草哉が頷く。「あなたは幸子が風子じゃないかと考えたのね?」草哉が頷く。「一人の読者としては、実に興味深い仮説だけど。でも、医師の私には守秘義務があるのよ。わかるでしょ?」「わかっている」「それでも、なの?」「喉が乾いたわ」「外ならいいのかしら?」

 賢明な読者諸氏には胡乱な筆者の意図などはとうにおみとうしに違いない。幸子と名付けられた女は、草哉が推量した通り、あの『ピリカの儚』の風子なのであった。


(続く)

狂女と老人

狂女と老人

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted