夢日記 2020.9.10

s

僕の仕事は簡単でした。依頼人の名前と、生年月日、そして忘れたくない記憶を書類に記入し、施術を受けた依頼人にその記憶だけを返す、それだけでした。施設で働いているのは僕と、施術を行う先生の二人だけです。一つだけ決められていたのは、施術室に入っていいのは先生と依頼者だけ、ということでした。施術室の中で何が行われているのか僕にはわかりませんでした。
入り口を抜けて右にまがったところにある受付室と、受付の向かいにある小さな部屋が僕の職場でした。予約制はありませんでしたが、依頼人は必ずこの施設が何のための施設か理解して訪れるのでした。そのことを確認して、保険証を預かったあと、僕は依頼人を向かいの部屋に案内します。その部屋には机を挟んで二つの椅子が置かれていて、窓の外には月桂樹が植えられていました。書類に必要事項を記入し終えると、僕は廊下の突き当たりにある施術室の扉をノックし、先生を呼びます。僕の仕事はそれまででした。
忘れたくない記憶を聞き出すのには時間がかかるので、その前に僕はお茶か、紅茶か、コーヒーか、どれがいいですかと聞いて、用意してから話を聞くようにしていました。数行で終わる記憶もあれば、何ページにもわたる記憶もありました。僕はとにかく、できるだけ具体的に、丁寧に記憶を書くことを心がけていました。依頼人が語るのは残してほしい良い記憶だけで、消したい記憶が何なのかは僕には知らされませんでした。僕は、おそらく人が一生のうちに経験することよりもずっと多くの「残したい記憶」を聞き、そしてそれを施術を受けた依頼人に返しました。

その日は朝から雨が降っていて、施設を訪れる人は一人もいませんでした。受付で座り、ぼんやりしていると、施術室から白衣を着た先生が来ました。先生は立ちながら受付の台に頬杖をついて、
「今日は誰も来ないみたいだね」
と言いました。雨が降っているからですかね、と僕が答えると、先生は「コーヒーでも飲もうか」と微笑みました。何か僕に話があるようでした。
コーヒーカップをおぼんに乗せて部屋に入ると、先生は僕がいつも座っていた奥のほうの椅子に、足を組んで座っていました。依頼人用の椅子に座って、僕がコーヒーに砂糖を入れてかき混ぜていると、先生は、
「君は、何か忘れてしまいたい記憶はある?」
と僕に聞いて、ブラックのままコーヒーをすすりました。
どうでしょう、と言いながら、昔のことを思い出していくうちに、いろいろな記憶が綾糸のように絡まって、頭の中がぐちゃぐちゃになりました。
先生は何も言わず、カップを置いて、窓の外を眺めていました。月桂樹の影になって、窓には雨粒はついていませんでした。それでも雨音は確かに聞こえていました。

施術室へ先生が戻ったあとも、施設を訪れるひとは一人もいませんでした。あれからずっと忘れたい記憶のことを考えていました。ずっといままでの人生のことを考えていました。けれど、頭に浮かんでくるのは、いままで多くの依頼人が語った「忘れたくない記憶」ばかりでした。雨はまだ降り続いていました。
気がつくと、先生が目の前に立っていました。
「どうしたの?今日はもう終わりだよ」
先生が言いました。
あの、先生、と、ぼくは立ち上がって言いました。先生は僕の目を見つめ、いつものように微笑んで
「決めたんだね。用意ができたら、施術室においで」
と言い、また施術室へ戻りました。
僕は引き出しから書類を取り出し、自分の名前と生年月日を書きました。忘れたくない記憶を記入する欄には何も書きませんでした。それを持って、僕は施術室の扉をノックしました。

夢日記 2020.9.10

夢日記 2020.9.10

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-09-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted