神様「奴隷」
神様シリーズ二作目、「奴隷」です。シリーズものではありますが、一話完結型のお話なので、どの話から読んでも問題はありません。どうぞお気軽に、お楽しみください。
尚、公開現在は前編のみになります。後編は完成し次第の更新になるので、ご了承ください。
前編
男は、薄暗く澱んだ空気の漂う自室の隅で、積みあがった飲料やコンビニ弁当の残骸には目もくれず、ひたすらに目の前の薄明りを放つ液晶に映った、ネット上の誰が描いたとも知れぬ少女のイラストを凝視していた。イラストの少女は、明らかに「見る者に性的な興奮をもたらすこと」を目的としたデザインの、本来ならば隠していなければならない部分をわざと露出させた過度に装飾的な衣服を身に纏い、悩ましげな表情と体勢で画面のこちら側を見つめている。男は血走った眼でその「ある一つの目的」の為だけに描かれたであろう色と線の集合体の隅々まで視線を走らせたあと、その絵の存在意義たる行為を忠実に実行した。
静かな、外からも鳥の声とアパートに面した道路を時々通りかかる自動車の走行音程度しか聞こえてこない部屋の中で、既に最高潮から静まりつつある男の荒い呼吸音だけが、ぶ厚い遮光カーテンに吸い込まれていた。先ほどまで男が見詰めていた画面には、変わらず煽情的にこちらに視線を投げかけてくる少女が居たが、その可愛らしい顔や華奢な身体が映った画面の上には、厭に水っけの多い白く濁った男の体液が、液晶から発せられる光を醜く歪めながらまばらに張り付いていた。
男は放心して暫く椅子にもたれ掛かって中空を見つめていたが、昂った精神と呼吸が少し落ち着いてくると、いつでも手に届く位置に置いてあるティッシュ箱から箱の方向を見もせずにティッシュを二、三枚引き出し、画面に張り付いた自らの快楽の残り滓をおざなりに拭き取りはじめた。
男が液晶画面とPCの縁との間に入り込んだ体液を拭き取るのに躍起になっていると、突然、画面の左下側に見慣れない広告バナーが表示された。狭い画面の一角を真黒く縁どったそれの内側には、CGか何かなのか、やけにリアリティのある、スーツに身を包んだ骸骨の姿があった。骸骨は派手ではないが高級感の漂う木製の椅子に足を組んで腰かけ、こちらを悠々と眺めながらふんぞり返っている様子だった。手袋をした手の指先や足が微妙に動いている所を見ると、静止画ではなく動画らしい。骸骨の頭上には明朝体らしき文字で「あなたの願い、叶えます」とだけ書かれていた。
はじめは気を引かれてしばらく眺めていたが、そのうち、その動画の持つ妙な現実感というか、映っている骸骨の息遣いのようなものを徐々に気味悪く感じはじめ、早く消してしまおうとマウスに手をのばした。しかし、その時初めて気が付いた。その広告には、普通なら枠の右上辺りにあるバツ印、つまり広告の表示を消すためのアイコンがなかったのだ。実に厭らしい。仕方なく、男がインターネットブラウザのウィンドウごと消そうとマウスを動かしたとき――骸骨が、動いた。
カメラから少し離れたところにある椅子に腰かけていたあのスーツ姿の骸骨が、立ち上がり、こちらに向かって歩き出したのだ。なにか厭なものを感じ取り、男は冷汗を流しながら急いでブラウザを消すボタンをクリックした。が、ブラウザのウィンドウが消えても、件の広告は消えない。何度PC筐体の電源ボタンを押しても、PCは唸りを上げ続け、スピーカーは革靴のコツ……コツ……という足音を発し続ける。そして、画面左下の四角い縁取りが近づいてきた髑髏でいっぱいになった次の瞬間――内側から、窓枠でもつかむような気軽さで、骸骨が縁取りに手を掛けた。骸骨のものらしき黒の革手袋をつけた指が、五本、広告枠の内側からはみ出している。そして、その手に軽く力が込められ、画面の一角を小さく占拠していただけだった広告画面、その中に映った骸骨の顔面が、画面全体に拡がった。否、押し広げられたのだ。男は座っていた椅子から転げ落ち、脱ぎ捨てた服やカップ麺の残骸を自らの臀部で押しのけながら後方に這いずる形でPCから後ずさった。PC画面に視線を向けたまま、必死に手探りで何か頼りになりそうなものをと探して手に取ったのは、以前部屋に泥棒に入られて買った、侵入者対策用の木製バットだった。あんなもの相手にこれがどれほど通用するのかは判断しかねるものの、怯んだ心を少しばかり持ち直してなんとか立ち上がり、男は冷汗を流しつつも画面に向かってバットを刀のようにして構えた。
ずるり。そんな擬音が聴こえてくるようだった。デスクトップPCの画面はノートPCなどよりは少し大きめとはいえ、人一人が潜り抜ける窓枠として考えると、やはりどう考えても狭い。骸骨は先に右手と頭を画面のこちら側に向かって、まるで通り抜けられることが当然のように突っ込む。そして、それはやはり何の抵抗もなく画面のこちら側、男の部屋の中という現実の中にぬると這い出てきた。右手が、PCの置いてある机の縁を掴む。そして、PCの枠を内側から掴んだ左手と、机を掴んだ右手に引かれ、骸骨は少し窮屈そうにしながら、ゆっくりとその体を画面の中から引っ張り出した。画面の縁を肩が超え、胸も抜けて腹まで出てきたところで、骸骨は一気にこちら側に滑り込んできた。勢いをつけて乗り込んできた、というよりは、バランスを崩して殆ど転倒に近い形でなだれ込んできたと表現した方が、より適切だ。そして、そのままの勢いでゴミや衣服で散らかった床の上に投げ出され、柔道の前回り受け身でもするように一回転、前転して背中から床にどっ、と叩きつけられた。埃が舞い上がり、遮光カーテンの隙間から零れる光の筋を空中に浮かび上がらせる。静寂。きっとそれは数秒のことでしかなかったが、掌に汗を滲ませながらバットを握りしめ、画面の中から這いずり出てきた異形を注視する数秒は、男からすれば永久にも感じられるものだった。
やがて、骸骨はゆっくりと立ち上がった。身に付けている、見るからに高級感漂うスーツの脚や背中を見回して、取り澄ました様子で埃を払う。
「ふむ……いや、今回は失敗でしたね……面白い演出になるかと思ったのですが……」
男のことなど気にもかけない様子でそう独り言ちていた骸骨だったが、ふと、男の切羽詰まった視線に気づいたのか、その伽藍堂の双眸を男に向け、
「ああ、どうも、お邪魔します、私は、か――
男は思い切り、バットで殴りつけた。殴りつけた、が。
「――私は、神様です。あなたの願いを叶えに来ました」
手ごたえすら、なかった。確実に、男のバットは正確に骸骨の頭蓋を捉えていた。当たりもした。だが、本来、何か硬いものを殴りつければバットを握る手に感じるであろう反動、衝撃が、一切存在しなかった。頭蓋に接触した時点で、バットがただ「停止」した。そのことが、余りに異常な現象であることは、今までバットで何かを殴ったことはおろか、ボールを打ったことすらない男にも理解できることだった。手ごたえがあるなら、よく分からないがそういう生き物なのだろう。バットがすり抜けるのであれば、きっと幽霊か何かなのだろう。だが、”当たったうえで何も起こらない”というのは、余りにも常軌を逸していた。
「な……なんなんだ、お前は……」
止まらない冷汗を拭うことすら出来ず、真っ白になった頭の中から男がなんとか捻りだした言葉は、酷く凡庸で、震えていた。
「先ほどもお伝えしたように、『神様』です。……やはり、少し驚かせすぎてしまったでしょうか。やはりこの演出は失敗でした。次やるときはもう少し控えめにするとしましょう」
バットで殴りつけられてもなお、のんきにスーツの汚れを気にしている「神様」を自称する骸骨の、その余りにあっけらかんとした様子に拍子抜けしてしまい、男はへなへなと力なくその場にへたり込んだ。
「神様……神様、ねぇ……なんで、そんなもんが俺の家に……」
独り言に近かった男のつぶやきを聞きつけた「神様」は応えて、
「なぜあなたかと聞かれたら、特に理由はありません。適当に選んだ対象があなただった、というだけのことです。買ってない宝くじに当たった、ぐらいに思ってくだされば結構です」
なんだそれ、絶対詐欺じゃねぇか、と思いつつも、男は、もうどうにでもなれと半ば投げやりに、半分嫌がらせのようなつもりで、思いつく限り最低の「願い」を投げかけた。
「願い、か……はん、そんなら、何でも俺の思い通りになる性奴隷の一人でも寄越してくれよ」
男は、目の前の骸骨が本当に神様なのかも、願いを叶えられるかも知ったことではなかったが、少なくともこんな道徳から外れも外れた願いは「神様」を自称するなら突っぱねるだろうと、たかをくくっていた。
「ええ、わかりました、性奴隷ですね、どうぞ」
骸骨は、まるで知り合いに友人を紹介するかのような気軽さで、軽く指をそろえて伸ばし、自分の右側の空間を指し示した。そこに目線を向けても、骸骨の向こう側に自室のうす汚れた床と壁が見えるだけだったが、殆ど無意識に行った一つの瞬きと同時に、「それ」は現れた。
身の丈は、百五十センチ足らず。思わず白磁と見紛う、見る者に危うさすら感じさせる程の脆さと透明感を湛えた清らかな肌。頸元が露わになる程度に短く切りそろえられた、思わず手を伸ばしてその手触りを確かめてみたくなるほどに細く艶やかな黒髪。静かに輝く大きな瞳と、小鳥のように小さく可愛らしい唇が湛えるのは、媚も穢れも含まない、理想的な「少女」の笑み。
「そうですね……あなたのイメージする理想の少女をこちらで勝手に再現させていただきましたが、直前まで『使用』なさっていた映像が少なからず影響しているようです、ご了承ください」
そう、たしかにそうだった。男が、この自称神様が画面から這い出てくるまで執拗に性的な目でもって眺め続けた、あの画像の少女が纏っていた衣装とほぼ同じものを、目の前の「それ」は身に付けていた。無垢な微笑みからは掛け離れた、局部を露出し強調するために設計された衣装。各所に、確かアラベスク調と言ったろうか、美しい曲線を成す蔦や花をモチーフにした銀糸の刺繍がちりばめられたそれは、まるで中東の王族の秘蔵する愛妾が身に纏うような妖艶なエキゾチシズムを漂わせていた。
「如何です?お気に召しましたか?」
余りの出来事に、息を呑むことしかできない。目の前に、夢にまで見た完璧な美少女が、男に向かって眩いばかりの笑みを向けながら佇んでいる。
「ふむ……そのご様子でしたら、問題なさそうですね。では、ここに私が居てもお邪魔でしょうし、この辺りで失礼いたしましょう。この子は私ができることなら大半のことはできますから、まあ、この宇宙を丸ごと木端微塵にしたい、ぐらいの願いでなければ、その子に願うといいでしょう。私は見えないところから様子を見ていますので、何か用事や聞きたいことでもあればいつでも虚空に向かって呼びかけてください。では、また」
返答できずにいる男に構わずそれだけ捲し立てると、神様を名乗る骸骨は初めからそこにいなかったかのように虚空に搔消えていった。
部屋に、沈黙が降りる。
男は、あの骸骨が忽然と姿を消して数分が経過して尚、目の前に在る「それ」に対して、一言も言葉を発することが出来ずにいた。いつまで経っても微動だにしない男を不思議がるように軽く首を傾げ、男が普段見ているアニメや漫画、そしてそれをもとに描かれたインターネットに無数にアップロードされる卑猥なイラストの美少女たちのもつような、人体の頭部の構造を明らかに無視したその大きな瞳を、真っ直ぐに男に向けている。
「それ」の向ける無遠慮な、それでいて威圧感や不快感は一切感じさせない視線は、更に幾分かの時とともに、男の精神を支配していた驚愕、混乱といった感情を、すこしずつ解きほぐしていった。そして、精神の弛緩と反比例するように男の下腹部の底から湧き上がってくるものは、やはり性欲だった。そして、こんこんと内から湧き上がるその低劣な欲望は、男の中でかろうじて働いていた、目の前に在るあまりにも奇妙な状況に対する疑念や不安を、瞬く間に覆い尽くしていった。
しかし、男はすぐあることに気付き、高揚はすぐに落胆へと転げ落ちた。肝心の「モノ」が、反応しないのである。というのも、前日の深夜まで男は動画サイトでアニメを見続けた後、眠る前に一度「モノ」を慰め、さらに翌日である今日の午前十時から開始するアルバイトへ出勤するぎりぎりの時間に目覚めたのにも関わらず、起床後の男性特有の生理現象に喚起された衝動を抑えることが出来ず、お気に入りの画像をモニターに呼び出し、それに向かって濁った欲望を吐き出したばかりなのである。これが十代や二十代の若者であるならばともかく、男は三十代後半、いや四十手前と言って良い年齢であり、日頃の不摂生や運動不足も相まって、体力、もっと有り体に言えば精力は若い頃に比べかなり衰えていたため、いくら目の前に男の肉欲を激しく喚起する「それ」が存在していたところで、行為に及ぶことは不可能だった。
不可能だったかに、思われた。
おもむろに、「それ」は屈み込むように男に近づくと、その細く小さくしなやかな指をそっと伸ばし、男の下腹部の辺りに、優しく触れた。すると「それ」に触れられた箇所を中心に、奇妙な、それでいて心地良い暖かさが、波打つように男の全身に広がっていった。
変化は劇的だった。つい先程まで欲望を発散した直後に特有の気怠さに支配されていた全身には、男が十代の頃ですら感じたことの無いほどの活力が漲り、そして、どれだけ精神が興奮しようとも縮こまって微動だにしなかった「モノ」は、男が寝間着として履いているジャージのズボンを内側から押し上げて大きな山を作るほどに激しく怒張し、一刻も早く目の前にある「それ」の未熟な肉体を欲望のままに貪れと男に訴えかけてくる。
自分の身に何が起こっているのか、目の前にある「それ」は一体どのような存在なのかといった微かな疑念は、下腹部から際限なく湧き上がる情欲の濁流に呆気なく飲み込まれ、気が付けば男は「それ」の小さな体に覆いかぶさっていた。
それは、久々に体感した、心地の良い自然な目覚めだった。コンビニのアルバイトのような煩雑な業務と長時間立ち続けることによる不快な倦怠感ではなく、激しい『運動』に伴う健全な疲労によって喚起され、何者にも邪魔されることのない健やかな覚醒。そして、その時男が一番に感じたのは、男のだらしの無い腹部の上に横たわる、慣れない重みだった。次第にぼやけていた意識が輪郭を取り戻し、「それ」がなんであるのか、自分が何をしていたのかを、男は思い出す。男は目の前の、いや、腹の上の非現実的な現実から目をそらすように、敷きっぱなしの布団の横でいつも充電器に繋いであるスマートフォンに手を伸ばす。開いたその画面を埋め尽くすように表示されていたのは、バイト先のコンビニエンスストアの店長から送られてきた大量の電話着信やショートメッセージの通知だった。一つ一つのメッセージの内容を見るまでもなく、これまで幾度となく繰り返してきた遅刻や仕事に対する消極的な態度も併せて考慮すれば、まずこの職場でこれ以上働くことは不可能だろう。男は、淡々と店長の電話番号を着信拒否に設定して、スマートフォンを軽くその辺りに放り投げた。
そして再び、男は腹の贅肉をクッションにして安らかな寝息を立てる、少女のような何かを見遣った。それは、男が今まで、男の愛好するアニメや漫画でしか見たことのなかった、ある種の神聖ささえ感じさせるような少女の美しい寝顔だった。しばらくの間、今まで画面越しでしか見ることのできなかった奇跡のような光景に目を奪われていたが、不意に男は自分がかなりの空腹状態にあることに気がついた。それもそのはずだ、男はコンビニの菓子パンのような軽いものを出勤直前になって慌てて口に詰め込むことが長い間習慣になっていたが、今日に限っては、そうする前にこの一連の非現実的な出来事が液晶の向こう側から雪崩れこんできたのだ。先程スマートフォンで確認した時刻はもう既に午後の三時を回っており、男は昨日の晩からこの時間まで何も口にしていないことになる。そんな事実に思い至ってしまえば、空腹はこれまでより明確に、胃袋を抉るように自己主張を強めていく。とにかく何か食べようと、男は己の腹上で透き通るような寝息を立てる薄幸の天使を起こしてしまわないよう、男の掌の内にすっかり収まってしまうほどに華奢な両肩にそっと手を添えて、自分の体の右側に横たえた。
上で身じろぎするたびにしつこく軋み声を上げる安物の折り畳みベッドの、混ざり合った粘液の池と化しているマットレスから立ち上がり、そのあたりに投げてあった適当な服で体を拭うこともそこそこに、何か口に入れられるものはないかと、男は冷蔵庫を漁り始めた。が、やはりというべきか、ろくなものは入っていない。時折思いついたように自炊を試みては投げ出した痕跡(確認するまでもなく賞味期限の過ぎているであろう調味料、使い切れずに捨て置かれた野菜屑のミイラたち)が雑然と散らばっていると言った具合だ。冷凍庫に至っては、霜が下りているせいか開けることすら叶わなかった。米の備蓄などあるはずもなく、それ以前にその米を炊くための炊飯器すらも、食べ残したご飯の処理を怠ったせいで黴の温床と化したものをずっと昔に捨てて以来、この部屋に再び備えられることは無かった。
わかっていたことではあったが、やはりと男が深い溜息を吐くその背後から、
「なにかお作りしましょうか、ご主人様?」
と、身に慣れないようでいて、何故かどこかで幾度ともなく聞いたことのある心地もする、か細いながらも音としてはよく通る、少し鼻の奥に引っ掛けるような声に、男は振り向いた。
果たしてそこには、男の許に舞い降りた、少女の形をした奇跡の姿があった。やはり、幻では無かったのだ。天使は、いつの間に取り出したのか、胸元をフリルでハート形に飾った可愛らしいエプロンを身に着けながら、空腹の男を心から気遣うような、いじらしい眼差しを男に向けていた。
「あ、ああ……でも大丈夫なのか?本当に何にもねぇぞ?」
目の前の少女に向けて、ただ”美しい”という感情を抱くことしかできずにいる男がほとんど上の空で少女にそう問い返すが、
「大丈夫です、ご主人様が食べたいものをご用意します!お疲れでしょうからぁ、ご主人様はあちらで出来上がるのを待っていてくださいね」
提案を受け入れられたことが余程うれしかったのだろうか、少女は花が零れるように笑みを綻ばせながら、真白いフリルを揺らして鼻歌交じりに食事の支度にとりかかり始めた。
あの悲惨なほどに何も無い台所でどうやって食事を作るのか疑問ではあったが、本人は大丈夫だと言っているし、何よりあの惨状を生み出した張本人である男に何か手伝えるようなことがあるはずもなく、男は素直に彼女に従い、拾い上げたスマホを弄りながら座して待つことにした。
いつものように惰性でSNSに目を通しながら、男はぼんやりと先ほど聞いた少女の声に考えを巡らせる。やはり、どこかで聞き覚えのあるような……そして、はたとその答えにたどり着いた。声優だ。あの天使の発する、絹を撫でるようなような声は、男がこれまでに見てきた美少女の登場するアニメやゲームに幾度となく登場し、彼の愛欲を掻き立て続けてきた、ある一人の声優のそれと酷似しているのだ。全く同じではなく「酷似」である理由が、元になったであろう声優の声から更に男の理想に近づけられた結果なのか、それともスピーカーを通してではなく目の前で肉声として聞くことで印象が変わるからなのかについては、男には判別がつかなかったし、またどうでもいい事でもあった。
「ご主人様ぁ、おまたせいたしました!」
体感にして十五分もかからず、ふたたび少女から声がかかった。調理している間に食卓の上を片付けるといった程度の気配りもできない男を咎めるそぶりも当然なく、少女はゴミや一見ゴミのようだが一応は使っている物たちの積みあがった机の上を手早く片付けて汚れをふき取ると、その数か月振りに空気に触れたばかりの卓上いっぱいに料理を並べ始めた。
たっぷりのチーズと薄切りトマトとサラミが載った、直径30センチはあろうかという大きなピザや、油を吸うためだけのものとしてはやけに小洒落たチェック柄の紙を内に敷いたバスケットに、山と盛られた黄金色のフライドチキン。半年に一度行くかどうかのファミリーレストランでしかお目にかかることのない、木製の枠に熱した鉄板がはめ込まれたステーキ皿の上で、賑やかに香ばしい音を立てる分厚い牛肉と、ゴロゴロと大きめにカットされた付け合わせのフライドポテト。ほかにもエビフライ、ハッシュドポテトなどといった揚げ物類、脂がたっぷりと乗ったトロやサーモン、甘エビの握り寿司……そこには、男の”想像しうる”ありとあらゆるご馳走の数々が所狭しと並べられ、そしてまた、男が嫌うピーマンやニンジン等の野菜類は一つとしてそこには存在しなかった。
男は思った。きっとこれは、夢なのだと。今まで生きてきて何一つとして良いことなどなかった自分が死の間際に見る、一抹のしあわせな夢なのだと。きっと自分はあの時、あの骸骨の化け物と出会った時に本当は死んでいて、今は自分という存在そのものが消えてしまう刹那、そこで本来見るべき、思い出したくもない人生の走馬燈の代わりに、この幸福な夢を見ることが奇跡的に許されているのだ、と。許される?誰に?あの神を自称する化け物に?知らない、知りたくもない、どうでもいい、あんなものと出会ったことすら忘れたい。男は、考えることを放棄した。せっかくの、いつ終わるとも知れない夢なのだ。楽しまないでどうする。貪らないでどうする。男は「いただきます」の一言すら忘れて、目の前のフライドチキンの一つを手に取り、かぶりついた。
「どうださくら、面白いだろ?」
それまでに観てきたものの中で、もっとも素晴らしい作品の一つであると男が信奉するアニメ作品のヒロインにちなんでそう名付けられた、自分の膝の上にお行儀よく座る少女に、男は自慢げにそう問いかけた。耐用年数をとうに過ぎて使い古されたプラスチック製の椅子は、普段支える重量のおおよそ1.5倍の荷重に晒されて、ギィギィと苦しげに軋み声を上げている。
「はい!すっごく面白いです、ご主人様!」
精巧に細工された硝子玉のようなエメラルドグリーンの瞳を輝かせてそう答える少女が見せられているものは勿論、彼女の名前の由来となった少女が活躍するアニメ作品だ。男は、日常的に他人とほとんど言葉を交わさないために所々で言葉に詰まりがちではあるものの、普段の口数の少なさからは想像も付かないほどの流暢さで、時には動画を一時停止することも交えながら、作品の各シーンに関する蘊蓄や登場人物の感情の解説、世界観や演出に関する考察などを少女の頭上から垂れ流し続けた。もっとも、それらの殆どすべては男がインターネットで拾い読みした受け売りの情報に過ぎないものであったが、その作品を何度も繰り返して見ることや、作品に関する情報を眺めることのために捧げた膨大な時間は、男の人生における数少ない誇りの一つであった。
「ほら、ここ……この電車の外から撮影してるような構図だと、電車の窓から外を見るさくらと、えっと……そう、電車の窓に反射して見える東京タワーを同時に画面に収められるから、視聴者に、さくらが窓の外の東京タワーを眺めてるって状況が、いっぺんに伝わるんだよ」
「ほぇ~、ほんとうだ……すごいです、ご主人様!」
「さくら」は、頭上から降りかかってくる男の口臭と言葉の滝、唾の飛沫にも嫌な顔一つせず、その大きすぎるほどに大きな瞳を真剣に画面に向けたまま、男の話に興味深そうに相槌を返してくる。たのしい。男は心から、そう思った。男が、他人と会話をしていてこんなにも楽しいと思えたことは、それまでに一度もなかった。身近にこんな話題を延々と続けられる人間がいないことは当然として、SNSで自分の好きな作品についてあれこれ語ることをしようとしたこともあったが、大抵は何の反応も得られず、虚空に向かってしゃべり続けるような虚無感に襲われて、すぐにやめてしまった。そんなことを思うと、男の内にしみじみと愛しい気持ちが湧きあがり、恐る恐る少女の小さくて優しい香りのする頭に手を乗せて、軽く撫でた。細く艶やかな髪の毛のさらさらとした手触りが、心地いい。頭頂部の突然の感触にすこし驚いたように、少女は画面から目を離して男を不思議そうに見上げたが、その表情はすぐに、見るもの全ての心を安らげるような、ふわりとした笑顔へと綻びた。
ジリリリリ!ジリリリリ!!!ドンドンドン!!!ドンドンドン!!!ジリリリリ!!!ドンドンドン!!!
「ちょっと!今岡さん!いるんでしょう!出てきなさいよ!ねえ!うるさいんだよ!」
突然の大きな音に、男は心底驚いて、少女を乗せたままの体はビクンと跳ね上がり、古びた椅子はより一層大きくギシィと悲鳴を上げた。不意のことで、何が起こったのかを理解するのに少しだけ時間がかかったが、急に鳴った音は男の住む部屋のインターホンを鳴らす音と扉を乱暴に叩く音であり、ドアの前でがなり立てる声は、男が「隣に住んでる口煩いババア」とだけ認識している五~六十代の女性のものであることがわかった。
心底億劫な気持ちになった男だったが、渋々といった様子で、少女の両脇に手を入れる形で持ち上げて膝の上から降ろしてやった。少女は体が持ち上がる瞬間に「んっ……」と少しだけ声を上げたが、おとなしく男の手に体を預け、椅子の横に危なげなく足を下した。ぼろ椅子の、ようやく重荷から解放されたと安堵するような軋み声と共に男も立ち上がり、洗濯されて綺麗に畳まれた適当な下着とズボンを棚から取り出して、立ったまま履くのに足元のバランスを崩しそうになりながらも、どうにか身に着けることに成功した。その一連ののろまな動作の間にも、絶え間なくチャイムと乱暴なノックは交互に繰り返され、喚きたてる声も途切れなかった。
「はーい!今出ます!」
とりあえず諸々の騒音を一旦おさめるために、長時間しゃべり続けて掠れた声を無理やり張り上げてから、塵ひとつないフローリングの清潔な感触を足裏に感じつつ、玄関ドアの前までおおよそ五、六歩で到達した。
返事をしたことによって、さすがに激しい音は止まったが、ドアの向こう側からは未だに無音の圧力のようなものを感じる。鬱陶しい。怠い。折角の幸福な時間に水を差され、男の胸中には、どす黒い靄が蟠るようだった。
「ねぇちょっと!返事したなら早く出てきなさいよ!」
相手にすることすら面倒だったが、これをさらに放置していてはドアそのものを壊されかねないと思い、男は苦々しい気持ちになりながらも、解錠してドアノブを回し、ゆっくりとドアを押した。すると、三センチも隙間が開かないうちにドアが向こう側から思い切り引っ張られ、急のことに男は思わずつんのめった。咄嗟にドアノブを持っていなかった左手を壁に置くことでバランスを取り、何とか転倒することは避けられたものの、空いたドアの前で仁王立ちでこちらを睨みつけている「口煩いババア」の無遠慮な振る舞いに、蟠る靄は更に大きさを増していく。
「あんたねぇ、前々から不潔で臭いもキツいしゴミの出し方はめちゃくちゃだしで色々酷かったけど、ここ三日ぐらいは本当に何なのよ!でっかい音で朝から晩までギシギシアンアン、大音量でAVでも流してんの?かと思ったら今度はなに?あれアニメの音?キンキンピーピー甲高い女の子の声とかドカンドカン爆発したり、ここ壁薄いんだからもうちょっと音下げられないわけ!?あんたには気遣いってものがどこにもないの?そんなんだからその年になってもそんな汚らしい格好のままでいても平気でいられるんだろうねぇ、あぁやだやだ、本当に気持ち悪い!このままあんたが近所迷惑続けるってんなら、大家さんに言ってあんたをここから叩き出してっ……え……?」
「口煩いババア」が、そこから先の言葉を吐き出すことはなかった。彼女の胸の中心には、心臓に達するほど深く、一本の包丁が突き立てられていた。そして、その柄を握っていたのは、
「ご主人様、大丈夫ですかぁ?」
他ならぬ、「さくら」だった。
神様「奴隷」