蒸気の街から
その日は二十代最後の日だっていうのに、悪いニュースと最悪なニュースが手を繋いでやって来た。
行きつけのドーナツショップが駅前から姿を消した。これが悪いニュース。
勤務先である工場に解雇された。これが最悪なニュース。
あえて楽観的に受け止めるのであれば、今日からぼくは週に一度の浪費をせずに済むようになったし、一日十二時間の拘束と夜勤から解放されたわけだ。
とはいえ、収入を失った以上、アパートを追い出されるのは時間の問題だった。ぼくはその日のうちに荷物をまとめ、切符を買い、駅のホームにぽつんと佇む塗装の剥がれかけたベンチに座っていた。
新たな資源を得るべく国が吹っ掛けた侵略戦争が敗北で終わったと聞いたときから、こうなるだろうとは薄々感じていた。だから、ぼくは最悪の気分ではあったけど、途方に暮れて自暴自棄になることは無かった。
戦争に負けたと言っても、『負けた』という結果が残っただけで、ぼくら一般人の生活が大きく変わることは無い。いや、仕事を失ったぼくの生活は大きく変わったわけだが、それでも世間一般においては、いつもと変わらぬ歯車がグルグル回っているだけだ。国の支配者が変わることも、政治や経済に相手国が介入してくることも無かった。
資源が枯渇しかけているというのに、人々は相変わらず、黒い煙を吐き出す機械に依存している。かく言うぼくもその恩恵に甘んじている一人なわけだが。
車輪が上げる甲高い悲鳴を引き連れて、白い蒸気の尾をなびかせながら、汽車がホームに入って来る。平日の昼間だからか、待っている人はまばらだ。ばかでかい荷物を持った自分が、異質な存在に思えた。
量産型の機械兵なんぞに任せるから負けたのだ! と、祖父は義手を振り上げて、淡々とニュースを読み上げるラジオに向かって怒鳴った。ラジオは顔色一つ変えずに、我が国の資源問題についての討論を流している。
「資源が無い無いと言う前に、ある物をもう少し大事に使えんもんかね。技術のある職人を潰して大量生産の大工場ばかり増やすから質が落ちちまうんだ。わしは前っからそう言って……」
適当に相槌を打ちながら祖父の愚痴を聞き流す合間に、冷えたビールを煽る。昨日まで『大量生産の大工場』に務めていた身としては肩身が狭い。
「ところでお前、次の仕事は目星付いてんのかい」
唐突に水を向けられ、ぼくはコップに口を付けた状態のまま固まった。祖父の工場を手伝うつもりで駆け込んだはいいものの、まさか工場が既に潰れていようとは思いもしなかったのだ。
今時、祖父のように個人で経営する工場は少なくなっていた。それでも、祖父の工場だけは永遠にそこにあり続けるのだろうと、ぼくは根拠も無く思い込んでいた。
「そう言うじいちゃんこそ、これからどうするのさ」自分のことは棚に上げ、ぼくは言い返す。「これからの生活。年金だけじゃ足りないだろ」
「わしはどうせ老い先短いんだから心配いらねぇよ」
「そんなこと言わないでよ」
祖父の冗談を、ぼくは冗談だと受け取れなかった。
物心付いた頃から見ていた祖父の背中は、近寄り難い雰囲気を纏った岩のようだった。朝から晩まで工場にこもり、機械に向かって黙々と部品を作り続けていた祖父。その手はゴツゴツと硬く、油と金属屑でいつも真っ黒だった。
仕事をしている間、祖父はいつも無表情で、ピリピリとした雰囲気を纏っていた。仕事を終えて食卓に着き、祖母の作った夕食が湯気を立てているのを見付けて、ようやく祖父の顔は綻ぶのだ。
幼い頃、祖父に訊ねたことがある。「仕事は好き?」と。祖父は「さあな」と一言だけ呟いて、仕事場へと戻って行った。
街へ出て働くようになってからも、祖父のことをよく思い出した。夜勤中眠気と戦っているときも、休日に突然出勤を命じられたときも、幼いぼくがぼくに問いかける。
「仕事は好き?」
好きでも嫌いでもない、とぼくは答える。きっと、祖父もそうだったんだろうと思いながら。
機械いじりは昔から好きだった。細かい単調な作業も苦ではない。だが、あくまでも仕事は生活費を稼ぐ為のものであって、それ以外の何者でもない。
好きでも嫌いでもない。たまたまぼくにその仕事をこなす能力があって、会社がぼくを適材として採用しただけのこと。結局、のちに解雇されることになるのだが。
「この際、好きな仕事に就いたらどうだ」
祖父の口から出た言葉に、ぼくはすぐには答えられなかった。
「そんなの無理だよ。今から大学に行く金なんて無いし、ぼくだってもう三十路だ。これから新しいことを始めるなんて……」
「そう言うってことは、やりたいことがあるんだな?」
やりたいこと。夢。身の程を知らない幼い頃は、持っていたかもしれない。それがなんだったのか、思い出せないけれど。
「まあ、せっかくクビになったんだ。ゆっくり考えればいい。今年中は失業保険も貰えるし、お前一人養うくらい屁でもないわい」
「ぼくだって貯金くらいあるし。養って貰わなくても結構ですよ」
そう言った瞬間、ふっと頭に浮かんだ光景があった。
あ、これだ。ぼくは直感的に理解する。
「あのさ、工場の裏の畑、まだ使える?」
「ん、だいぶ荒れてるが、整備すれば使えるだろ。野菜でも作るのか?」
「そう。今は二人とも収入が無いんだから、食べるものくらいは自給しないと」
祖父は、ふむ、と唸って、ゴマ塩ヒゲをさする。
「農業なんてわしも経験は無いが……まあ、ばあさんの細腕でも出来たんだ。なんとかなるだろ」
結論から言えば、なんとかならなかった。
かつて畑だったその土地はびっしりと雑草が生い茂っており、地面に隙間無く張り巡らされた根に阻まれて、錆付いた鍬ではまったく歯が立たなかった。土がむき出しになった土地は現代では希少だ。雑草たちの気持ちもわからなくは無いが……。
ぼくはなけなしの貯金をはたいて農具を揃え、肥料と種を買い、業者に頼んで雑草を除去した。野菜の種は繰り返し収穫出来る種類のものを選んだ。これからの食費を考えれば、元は取れるはずだ。
そう考えていたが、見立てが甘かった。その年の冬は例年に無い猛吹雪で、冬野菜は全滅。翌年の夏は日照りが酷く、夏野菜も全滅。唯一上手く出来たのは、春先に一玉だけ採れたキャベツだけだった。
「一年中キャベツばかり食べてるわけにもいかないしなあ……」
農業は難しい、と話には聞いていたが、家庭菜園ですらここまで手こずるとは思っていなかった。やはり知識と経験の不足は否めない。
生身のほうの手で義手をいじりながら、祖父は頭を抱えるぼくを机越しに眺めてニヤニヤしている。
「なに」少しばかりイラッとしつつ、ぼくは顔を上げた。
「いや、お前がそんなに熱中するとは思わなかったからな」
祖父のニヤニヤした目の奥にあるものを見て、ぼくの苛付きはすんとしぼんでいった。
祖母の料理に喜んでいた、あのときの目だった。
「うん。そうだね。全然上手くいかないけど……楽しいと思う」
「続けるのはいいがよ、そろそろ生活のための仕事も探さないとな」
「わかってるよ」祖父の言葉がぐさりと刺さる。ぼくは苦笑を浮かべる。
「楽しいならやめるなよ。金は別の仕事で稼げばいいんだ」
祖父の目は義手をいじる職人の目に戻っていた。しょっちゅう見ているのだから不具合も無いだろうに、小さなドライバーを片手で器用に操って、ネジを外したり締めたりを繰り返している。
「仕事しながらなんて無理だよ」
「無理の無いようにやりゃあいい」
「どうやって?」
「さあな」
それきり、祖父は黙り込んでしまった。職人気質の祖父に答えを期待するのはおかしなことだった。
ふっと時計を見る。そろそろ夕食の仕度に取り掛からなければならない。
ぼくは空になったコーヒーカップと椅子に引っ掛けていたエプロンを手に、台所へ向かった。
蒸気の街から