盛夏の儚総集編

草也

盛夏の儚 総集編
 

-娘-

 男子一系の御門が二千五百年に渡って統治する単一民族の国だと、この国の為政者は久しく高らかに謳いあげてきた。
 しかし、北辺の人々は西の王朝の理不尽な侵攻と支配に抵抗して幾多の戦いを繰り広げてきたのである。学術の一部も、御門の正統性や単一民族論を否定していた。この国の西半分と東半分では、民族も文化も明瞭に違うとすら主張しているのである。事実、ある北辺の少数民族を土人と規定した法律までが、未だに存在しているのである。
 だが、その北の国の悲壮で哀切な歴史は、全ての歴史の宿命として時間の彼方に埋もれようとしている。
 しかし、近年、ある小説がベストセラーになり、特異な民族が固有の古代文化を綿々と引き継ぐ、北の国のブームが到来したのである。

 西の王朝から蹂躙と収奪を受けて、長い歴程を辿った北辺の国々。
 ある県都はニ千年前の反逆の壮絶な戦いの拠点である。指導者のカムイは始祖と崇められて、高台の森に祀られている。あの忌まわしい戦時中には行幸の御門の暗殺未遂などもあった。
 その事件を指揮した警察署長はこの男の義理の曾祖父だったのである。だから、男にとってもこの地は来歴に満ちた古都なのであった。

 駅から降りて直ぐに渡る橋の上で初めて、彼方に鎮座する伝説の霊山に臨んで、風の肌合いが確かに違うと男は思った。
 あの戦争の後に拓けた郊外の街にある洋品店がある。穏やかな面持ちの夫婦が一代で築いたささやかな店構えだ。二十歳になろうとする潤沢で可憐な娘が手伝っている。神経の細やかな高校生の弟がいる。従業員は叔母の女が一人だ。

 男と娘に因縁が発祥したのは去年の盛夏だった。やはり北の国のある県の出の男は、隣県の県庁所在地で予備校に通っていた。旅から帰る途上の列車で娘と遭遇したのだ。
 男が車中に入って席を探し始めた途端に、娘が立ち上がって網棚に手を伸ばした。その瞬間に、半袖の薄いシャツとズボンの間に隙間が出来て、桃色の健康な腹が覗いたのである。衝撃だった。
 混んでいたわけでもないのに、男は妖しい蜜に引かれた虫の気分で、娘の斜め向かいの席に座ってしまったのであった。
 何を話したかもおぼろだが、互いの情念が交錯したのだろう、男の誘いに娘は下車したのである。そのまま、一つ年上の娘と一月ばかりを、安アパートで同衾したのであった。

  娘は、恋人と別離しての帰路であった。不感症なのだとも呟いた。
 海外のある作家に、この二人のいきさつと瓜二つの短編がある。古の厳格な一神教に帰依する民族の不感症の大学生の娘と、中年の売れない異教徒で異民族の作家が、深夜の狭いバーで出会う。豊満で男好きな容姿のその娘が不感症だと呟き、作家が治癒してやろうと豪語して、二人は交接する。ところが、作家が痴戯を凝らして払暁まで悪戦苦闘しても、娘の不感症は重篤なのだ。終に、娘の民族性を侮蔑するある単語で罵倒する。それで、娘は初めて愉悦に達するという小品だ。究極の体位は立っての後背位だと、作家は書くのである。
 男はそれを真似た。散々に身体を重ねたが、案の定、娘に変化は訪れない。終には、開いた貧しい押し入れの空間に娘を立たせて、こんな体位は初めてと口走る娘の背後から射精した。果たして、娘のうわごとは真実だったのか、男には知る由もない。ましてや、娘の症状が快癒したかなどとは、男もそうだが、娘すら確信がないのだ。男は娘の民族性はおろか、娘の性分すら、皆目知らないのだ。不感症のなんたるかさえ知らない。ましてや、娘の恥辱を罵倒して陶酔に導く踏ん切りなどある筈もない。第一、男そのものが交接の不思議に無知だったのである。全ては若さばかりの痴情だったのだろう。
 娘は初めての街で化粧品の販売員になったが、残りも僅かな盛夏が衰えると二人にはやるべきことも失せていたから、娘は家に戻ったのである。

  翌春の大学受験にも失敗した男は、折り合いの悪い実家に戻る覚悟とてなく、あてどなく娘の家に身を寄せたのである。曾祖父のこともあったが、娘の、北の国でも五十人に満たない苗字が、男の生家の隣村が発祥だと聞いたからでもある。
 これなどは、如何に若いとはいえ節操の寸分もないではないか。そうだとすれば、或いは、この頃にも男の神経は随分と病んでいたのかも知れない。
 男は十六の夏に、初めて精神科で診察を受けさせられたが、爾来、虚蝉を漂う虚無の様に神経を病んでいたのである。
 だが、それにも増して世相が混濁していたからなのか、男の狂気は時代の風に紛れ込んでしまっていたのかもしれない。
 片や、娘はといえば、現実に踏み留まって、手の届く堅実な夢だけを待ち望んでいるのだ。だから、遠くばかりを見る険しい旅人のような男の存在は、娘にとっては頗る曖昧だったに違いないのだ。男の若さは貧相にさえ映ったかもしれない。

  短い夏に性欲を瞬間的に共有したという以外には、男と娘にはさしたる確証はないのだった。だから、娘にとっては、この男は、或いは、茫洋とし過ぎて厄介な存在だったのかも知れないのである。
 あの夏に、不感症だと言う娘と一通りの性技を終えても、その甲斐も見せない娘に、男はあからさまに空疎だった。そんな空気を女が感受しない筈もないのだから、若さにまとわりつく特異な感性などは、二人にはついぞなかったに違いないのだ。
 だから、男は娘を求めてこの地に辿り着いたのではないのである。男は状況を夢遊していただけなのであった。
 男の関心は全く別な世界にあった。

 あの戦争に敗れた後の保守政権は、戦勝国との間にある安全保障協定を結んだ。革新勢力が強固に反対したが押しきった。その改定が一年後に迫っていて、両陣営の対決が再び激しくなっていた。とりわけ先鋭だったのが学生で、学費値上げ反対や、民主化の独自の運動とあわせて、日毎に過激化していく。あちこちの大学が封鎖されたりしていた。ある極左政党が作った学生組織が台頭して武装化に拍車をかけると、学生運動も分裂して、陰湿な内部抗争が勃発していた。
 そんな時に御門が倒れて病に臥したのである。後継の話がにわかに浮上した。御門には三人の男子がいて、順当なら長子の太子が次期の御門なのだが、父に似て愚鈍なのだ。それに、あの戦争を挟んだせいで情況は輻輳していた。
 御門に年の離れた異母弟がいる。母親は北の国の女だ。あの戦争には強硬に反対をし続けていた。この弟君を御門の第二子が心酔しているのだ。皇室は、長い間、二分されていたのである。
 革新勢力は御門の戦争責任の追求を再燃させて、弟帝を支持したから、国論にさらに激しい亀裂が走った。
 こうした最中に、野党第二党の党首が街頭で刺殺される事件が惹起した。犯人はあの戦争を指導した軍人グループの残党だったから、対立に油を注いだ。

  男は、こうした歴史の狭間の混沌とした政情の渦に飲み込まれて格闘しながら、我を失っているのだった。
 男は大学の現況を否定している。とりわけ、学生運動の内部抗争で死者が出る事態に、男は震撼し憤怒した。男には大学に進む明瞭な意思もないのだ。予備校にも殆ど通わずに駄文を書き連ねていた。受験も一校だけしかせずに、従兄の大学生の滑り止めの勧誘も一蹴した。成るべくしての不合格だったのだ。それなのに、就職もせずに曖昧に二浪を決め込んでいるのである。
 男にへばりつくその状況の息づかいは、質の悪い亡霊のようなものだ。それと同じくらいに男は矛盾の塊だった。この世界の全ては鵺なのかも知れないと、男は思った。

  温厚な容貌の娘の両親は、娘との確たる展望もなく転がり込んできた若過ぎる闖入者の無作法は心外だったが、娘のために怒りを押さえたに違いない。しかし、叔母は男の非礼を毅然としてなじり、娘に避妊を厳命した。それを聞き入れた娘から避妊具の装着を迫られて以来、男は娘を抱いてもいない。欲望がとりつくほどの執着はとうに失せているのだった。
 男の神経を切り刻む政情の歴史的なの軋みに直面して、肉欲の我執など無意味なのだ。さりとて、男には向かうべき新しい地平の目安とてさらさらもない。情況と交わりあえずに、時代の構成から見捨てられていた。
 男は何をするのでもない。季節の移ろいに寄る辺なく身を任せて、文芸誌などを開いては思惟ともつかない夢遊に耽溺していたのである。
 男の神経は、無闇と暑かったあの夏の日々と同じ様に、かなり病んでいたに違いない。或いは、あの盛夏から今まで、男の狂気の収まることはなかったのだろうか。
 
 
 -女医-

 高校ニ年の夏休みに入るとすぐに、男はある精神病院で診察を受けさせられた。男の急激で異様な変化に、我が身の危険をすら感じたであろう父親の半ば強制な説得に抗しかねたのだ。
 男は柱時計の秒針の進む音も気に障って眠れずに、夜毎に様々な妄想に浸るようになっていた。それでも耐えきれずに少しばかりは眠るのだが、その僅かばかりの安息も悪夢にうなされるのだった。
 それまでは夢などは殆ど見たこともなかったが、覚醒と幻覚の合間に次々と男を襲うのは、悍ましい夢ばかりだ。
 肉色の雲が脳裏一面に広がったかと思うと、忽ちの内に塊となり女体が現れる。義母だ。自慰をしながら手招きをしている。甘美な肉ではない。蒙昧で自堕落な姿態だ。この女は狂ってしまったに違いないと、男は思う。近くの巨木の陰には、やはり裸の義妹が息を殺している。あの女も狂気に取り憑かれているに違いないのだ。そして、男も裸なのである。義母や義妹へのおぞましく淫らな妄念はおろか、父親の殺害をすら妄執する有り様だから、見た目にも不気味だったに違いない。父親が危機感を抱いたのも当然の成り行きだったのだろう。
 昨夜からの熱波が冷めきらぬまま、追い討ちをかける様に、朝方から、かってない蒸し暑い日だった。
 男を迎えたのは女医だった。看護婦の姿は見えない。義母に似た爛熟した身体を白衣に隠した女は、幾分は若く見える。三〇半ばだろう。その女医が大きな瞳を更に見開いて男を見つめながら、問診を始める。時折には、真っ白い歯で笑みを創るのである。
 その瞳に映った自分をとらえながら、男は不可思議な気分に陥った。何故かは知らないが、この女が同類であるかのような錯覚に気付いたのである。男には生母の明瞭な記憶はない。父親とは疎遠が久しい。義妹はおろか、実妹とも反りが合わない。そんな男が、知らずにいた血脈の姉と突発に遭遇した類いの感性に捉われたのだ。
 女医は膝頭を組んだり外したりしながら、一通りの問診を済ませると、極彩色の水玉模様が散りばめられたカードを広げた。何に見えるかを言え、と言う。
 この時には、男の混乱は頂点に達していた。この検査に男は知識があった。精神状態を分析する常套の手法なのだ。
 男の不安は、入院の診断が下った場合にあった。今しがた、病院の駐車場に入りがけに、異状な集団と遭遇したのだ。十数人の似たような風貌の一群が、監視の男に導かれて無気力に歩いていた。
 ここの患者だと、侮蔑の視線を浴びせながら、父親が言う。皆、眼差しが虚ろだ。前の者の肩に両手を掛けたり腰に手を繋げたりして、とても一人では歩み得ない風情なのである。精神を病む人間を間近に見たのは初めてだった。悪寒が走った。もしかしたら、自分もあんな容貌になってしまっているのではないか。不眠などは単なる気のせいだったのではないか。精神病院の検診を高をくくっていた自分を悔いた。彼らはそれぞれが何かを、休むこともなしに呟いていて、時折には甲高く奇声を発する者もある。自己を全く失っている有り様なのである。狂えば自己を喪失する現実の恐怖を、男は初めて悟った。絶対に本物の狂気に陥ってはならないと覚悟した。 とりわけて、最後尾の女は異様だった。他の者達はくすんだ一団の塊と化しているのに、なぜか、この女だけが鮮やかな青いワンピースを着て、一人、途切れているのだ。三十路半ばの豊潤で艶やかな女である。
 男の眼前まで来た女が立ち止まった。稚拙な行進は女を取り残してぐずぐずと歩み去る。女が傍らのベンチに座った。宙をさ迷う大きな瞳が潤んでいる。すると、にわかに裾をめくった。無防備な下半身から一群の濃密な陰毛が現れた。そして、躊躇いもなく、女が股間に手を忍ばせて自慰を始めたのである。男は万華鏡の幻影の様な有り様に目が眩んだ。
 「どうかしたのかしら?」「見て、感じたままを正直に言えばいいのよ」女医の赤い唇が別な生き物の様に濡れている。「むしろ、正直に言ってもらわないと困るの」
 問診は難なくやり過ごしたつもりだが、これは勝手が違う。ここに至って、正常を装う答などは男に出来得る筈もないのだ。最早、感じたままを答えるしかない。
 入院は身震いするほどに恐怖だが、狂っている筈がない。あの後で、玄関のガラス戸に写した姿は、あの患者達とは明らかに違っていたではないか。目に力を入れてみた。焦点は定まっていて、むしろ険しいくらいだったのだ。あの者達は茫茫として、すっかり無表情だったが、俺は違う。笑顔までを写すことだって出来たじゃないのか。
 或いは、ノイローゼくらいの診断は下りるかも知れないが、服薬や通院程度であれば止むを得ない。そういえば、この女医はさっきの患者の女にも良く似ているではないか。この女とまた会えるなら、それもいいのではないかと、思ったりもした。
 
 「どうかしたかしら?」女医が、また、足を組み替えた。太股の奥までが覗けそうな風情なのである。
 「駐車場で奇怪な情景を見たんだ」「何を見たの?」「-自慰をしていた」「青いワンピースの女ね?私の患者なのよ。驚いた?当然だわね。でも、あなただってするでしょ?」「健康な青年なら当り前の事だものね?何故、するのかしら?いい気持ちだからでしょ?」男が頷く。「夕べもしたの?」「-あなたは?」「-私?」「そう」「-したわ」「今度はあなたの番よ?」男が頷く。「ちゃんと答えて?」「-した」「だったら、あの人も同じじゃないかしら?私も。あなただって、同じだわね?そうでしょ?」「違っているのは、あの人が人前でもすることだわ」「どうして、そんなことをするのかしら?」「あの人には禁忌が無くなってしまったの」「この社会にはタブーがあるでしょ?何だと思うう?」「-革命」「そう。それから?」「-御門制」「そうだわ」「-御門の戦争責任」「そうよ」「原発反対運動」「そうね。それから?」「性」「そうよ」「そして、自慰もそうだわ」「でも、あの人の禁忌は弾けてしまったの。精神に余程の衝撃を受けたに違いないんだわ。でも、何も言わないの。自己保全の記憶喪失に陥っているのか」「あの人は?」「ある門前で行き倒れのところを助けられたの。その人も手に余って入院させたんだけど。入院費もその人が払っているのよ。資産家の独り身の老人よ」「本人は巫女だと言っているわ。それ以外は何もわからないの」「周期的に暴れるのよ。そんな時はその老人に来てもらうしかないの。個室で二時間ばかり-。すると、おとなしくなるのよ。何をしていると思う?」「-性交?」「そうよ」「私は反対したのよ。そんなことが許される訳がないでしょ?」「でも、院長がその老人に頭が上がらないのよ。全くの言いなりなんだもの」「老人は、あの戦争中にはこの街の市長だったの。軍需産業を誘致して、戦争政策を拡大させたのもあの人よ」「だから、激しい空爆を受けて。工場ばかりじゃない。街の東半分が焼け野原になったのよ。死者は千人を越えて-」「戦後は身を引いたけど、院政をひいて-。だって、戦争中の政策が、この街を北の国随一の工業都市に発展させたのも事実なんだもの」「だから、今でも隠然と君臨する実力者なのよ。この前も、御門から勲章を授与されたばかりなんだもの」「戦後から僅かばかりなのに、あんな惨禍が、あっという間に忘れ去られてしまうんだわ。それとも、余りに凄惨な体験だから記憶にすら留めたくないのかしら?」「一種の防衛本能なのね」「虚言癖が自分がついた嘘を忘れるようなものだわ」「一番に卑怯なのは、御門だ」「そうね。あなたの言う通りだわ。この国の権力者は、きっと、狂ってい
るんだわ。あの戦争で取り付かれた狂気を、今だに引きずっているのよ。そればかりか、御門の世を作ろうとした時から気が触れていたに違いないんだわ」

 「だったら、始めましょうか?」女医がカードを広げて、男が答えるゲームが始まった。数枚目の模様は異様だった。「これは何に見えるかしら?」男が戸惑う。「どう?」「-蛇が-」「蛇?」「そう」「蛇がどうしたの?」「白い蛇と青い蛇が絡まっている-」「どんな風に?」「複雑だ」「何をしていると思う?」「思った通りに言って欲しいわ?」「-交尾-」「驚いたわ」「だって、あなたが初めてなんだもの」「実はね。私もそう思ったのよ」女医が姿態を屈めてくねらせた刹那に、白衣の下に隠れている乳房が覗いて、重厚な肉の塊が揺れた。「蛇の交尾って、見たことあるのかしら?」「ない」「そうよね」「あなたは?」「面白い人ね。知りたいの?」
 「読書は?」「好きだ」「今はどんな本を読んでいるのかしら?」「『原発の儚』」「あの覆面作家の最新巻ね。私も読んでいるところよ。今、あの海岸に建設しようとしている原発が、一〇年後には爆発するという話でしょ?」「近未来の予告だよ」「本当に原発が爆発すると思う?」「必ずするよ」「ここいら辺りはどうなるのかしら?」「ある学者なんかは、拡散した放射能は東の高原にまで降り積もると言っている」「すぐそこね?」「風速が平均の場合の計算だよ。風が強かったら、この街だって人が住めなくなるんだ」「あなたも建設には反対なの?」「推進している奴らの気が知れない。北の国を愚弄してるんじゃないか?首府の埋め立て地にでも作ればいいんだ」「過激なのね?」「公憤だよ」「公憤?」「そう」「儚シリーズは?」「みんな読んでる」「私もなのよ。何だか嬉しいわ。あのシリーズの何に共感するのかな?」「-論理、反骨、反権力、義憤。-公憤かな。それに-」「何?」「さっき、あなたが言った禁忌の暴露だな」「それって?」「御門制と性だよ」「作家が誰かわからないのも面白いわね?」「作品は独立するから、誰が書いたかなんてたいした意味はない」「あなたも書くんでしょ?」男が頷いた。「読んでみたいわ」

 「診断だけど-。そうね。あなたは正常だわ。あえて言えば、気鬱ね。気の迷いみたいなことよ。ニキビみたいなものだわ。悩み多い年頃なんだもの。悩まない青春なんて無意味でしょ?若さの特権なのよ。そうは思わない?」男が頷く。「そうでしょ?でも、不眠は困るわね。若いから余り勧めたくはないんだけど。睡眠薬を飲んでみる?」「そうね。薬は矢鱈に飲むものじゃないのよ」「あなた?簡単で覿面な治療法があるのよ。私が発見したの。聞きたい?」「毛を剃るの」「頭はもちろん。-あなたのは短いから。全身よ。脇の下も。-陰毛もよ。どう?」「毎日が暑いでしょ?今年は特別だわ。こんな陽気だもの。誰だっておかしくなるわよ」
 「あなた?秘密を守れるかしら?」「私だって、そうなのよ。鬱陶しくなると、剃るの。夕べも剃ったばかりだもの」「やってみる?」「ジクジク考えていたのが嘘みたいに、さっぱりするわよ」「どうしたの?」「そうね。初めてだものね」「どうしようかしら-」「いいわ。あなただったら。特別に手伝ってあげようかな?」

 「私は、あなたのお父さんの教え子なのよ。国民学校の六年の時だわ。あなたの家にも何度も行っているのよ」「そうなの。あなたのおむつも代えたのよ。驚いたでしょ?」
 「離婚したばかりの先生が急な出張で困っていて、一晩だけあなたを預かったのよ。覚えてる?」「あなたがテーブルの角にぶつかって。余りに辛そうだったから。医師の卵だもの。診てみようと思って。脱がせたら、赤くなっていて。ここが痛いのって聞いたら、頷くから-。膨らんで。腫れてるみたいだったんだもの。可哀想で-。思わず、舐めてしまったの」「ご免なさい」「覚えてる?」「ねえ?覚えてる?」「あんなこと。忘れるわけがない」「ご免なさい」「謝ることなんてないよ。治療だったんだろ?」「勿論だわ」「だったら、いいじゃないか。また、ぶつけたら?」「どうして欲しいの?」「治療?」「-医者だもの」
 「思い出したわ。『儚』シリーズの第六巻だわ。女医と学生が蛇の交尾を見るシーンがあるでしょ?」「あのモデルになった場所は特定されているのよ」「鯉の大滝だ」「そう」「だから?」「行ってみたいわ。あなたと私の不思議な因縁が解明できるかも知れないでしょ?先生には絶対に秘密なのよ?」
 三日後の日曜にバスに乗った男はある寂れた史跡で降りた。そこの駐車場に女の車は既にあったのである。 

 
 -ピリカ-

 盛夏のその日に、娘達にはある事情があって、今日辺りには客はないからと、男は一人で店番を任された。初めてのことである。
 言われた通りに、いっこうに客はない。夜来からの途切れ途切れの暗鬱な雨が上がった昼間近に、白杖の女が入ってきた。
 青いワンピースの豊潤な容姿を一瞥して、男に驚愕が走った。女が近付いてくると、霊妙な香りまで放っている。その顔を間近にして、男は再び息を飲んだ。やはり、あの菩薩顔の女医と瓜二つなのである。だが、忽ちの内に我に帰れば、明らかに別人なのであった。
 女は弱視なのだった。輪郭程度は認識できると言う。草也のたどたどしい助言に従って、しなやかな指先で細やかに確かめながら、女は作業着を選び始める。眼前で穣ユタカな胸元が大胆に崩れたり、贅沢な乳房がぞんざいに揺れたりするから、思わず見入ってしまう。女が身体を屈めたりすると、熟れた桃色の乳首までがあからさま覗くのだ。その豊穣さは、あの盛夏の真昼に、男に与えられたあの女医の豪奢ゴウシャな乳房と、やはり見間違うほどなのである。

  女の問いかけで幻影はたちどころに解かれた。作業着を選び終えた女が、戸惑いながらも、下着も購入したいと言うのである。そして、新しい幻覚が始った。男は茫茫と夢遊を漂うように女の要望に従った。
 商品の包みを受けとる女が、しみじみと礼を言いながら、裸子植物の様な手で男の手を包んだ。妖しい柔らかさだ。崩れんばかりに熟した桃の香りが立ち上る。すると、こうするのは視線の代わりなのだと続けて、身じろぎもしない。
 そうして、女が去った。甘く熟れた肉の残り香ばかりが息苦しい。言い知れぬ快感が男の体内に留まってしまっていて神経が発酵する。男は声に出して呻いた。
 ふと目を放つと女の傘がとり残されていた。朝からの雨はすっかり上がり、八月の真昼の日差しが男に督促をする。外に出て素早く視線を巡らすと、遥かに僅かばかりの女の後ろ姿があった。矢庭に男は後を追った。

  日射が突き刺す露天のバス停に女は佇んでいた。息を切らしながら男が話し寄った咄嗟に、驚いたのか、振り返った女が不意によろめいた。二人の汗が弾けた。傾いた熱い乳房の重圧を懐で支えながら、息も治まらないうちに、たちまちバスが来た。女の豊穣な尻の後に続いて男が乗り込んだ。

 乗客は三人しかいない。皆が女に柔らかな視線を送って挨拶を交わす。女に促されて最後部に身を沈めると、そこは死角だった。傘を受け取った女は、男の手に手を置いて短く礼を言ったきり何も発しない。所々が開け放たれたバスの窓から入り込む温ヌルい風が、女の豊かな髪を解かしている。やがて、しなやかな桃色の指を男の手に怪しく絡め始めた。男は夢幻に陥ってしまう。
 「私ったら、すっかり、上ずってしまって…」「忘れ物をしたのなんて初めてなのよ」「…だって、あなたのような人がいたんだもの」「今でも動悸が止まないのよ」女の頬が染まっている。この異様な暑さのせいばかりではない。上気しているのだ。「どうしたらいいのかしら…」
 バスが激しく揺れて二人は接着した。熱い肉の息吹が密やかに伝わってくる。こうして、二人には矢継ぎ早に新しい秘密が生まれてくるのだ。女が一段と声を潜める。「私達は声だけでも判るのよ」「あなたは、きっと、理知な若者に違いないわ」「少しは気難しそうだけど…」「声音で判るのよ」「そんなあなたに、あんなお世話をかけたんだもの」「いつもの人がいないかったから。本当は買わずに帰ろうと思ったのよ」「あなただって、本当の店員さんじゃないんでしょ?」「わかるわよ」「厭だったでしょ?」「夢を見ているみたいだった」「男の人に下着を選んでもらうなんて…」「いつものおじさんだって断っているんだもの」「下着の中まで晒してしまうみたいで…」「…それに…」「派手だったでしょ?」「大きいし…」「夜の私を…。秘密の何もかもを覗かれたみたいで…」「そんなあなたとこんな風にしているんだもの…」

 細くて荒い裸道がうねうねと山脈の麓を北に辿っている。正面に座した流麗な一山が見え隠れする。あの霊山に向かっているのだと、耳元で女が囁いた。時折には濃い緑の洞窟にも進入する。この鬱蒼とした繁りにも似て、女の身体はうっすらと湿ってくるのである。

 その時に、バスの中に大きな紫の蝶が飛び込んで来た。番いだ。風に巻かれて危うげに乱れて飛び回る。「キタノオオムラサキだわ。ここら辺にしかいないのよ」と、女が言う。「番いでしょ?」「そう」「そんな光景は、なかなか見られないのよ。だから、見た人は幸せになるって言われているの」やがて、番いは二人に向けて飛び寄ってきて、二人の回りを旋回する。終には、女のワンピースのなだらかに盛り上がった下腹に止まって、羽を揺らして交尾を続けるのである。

  あの盛夏にもこんな蝶がいたと、男は思いを巡らす。
 古戦場を女医と散策していた時に、満開の夏ツツジの繁みに蝶の大群が舞っていた。「番いもいるわ。これを見た恋人は結ばれるというのよ」と、女が手を伸ばした途端に小さく叫んだ。
 「刺されたんだわ」二の腕に赤い跡がついている。「少しは痛いけど。小さな蜂だから大丈夫よ」と、言う女を遮って、男がその痕跡を吸うと、汗の後には甘い肉の味が忍び寄ったのである。

 男の回想をかき消す様に、女がしなやかな桃色の指を男の手に怪しく絡め始めた。バスが激しく揺れて二人は、さらに密着した。熱い肉の息吹が密やかに伝わってくる。こうして、二人には矢継ぎ早に新しい秘密が生まれてくるのだ。
 細くて荒い裸道がうねうねと、山脈の麓を北に辿っていく。正面に流麗な一山が見え隠れする。あの霊山に向かっているのだと、耳元で女が囁く。時折には濃い緑の洞窟にも進入する。この鬱蒼とした繁りの様に、女の身体もうっすらと湿ってくる。
 そうして、複雑に車体を軋ませながらバスが三〇分ほども走ると、寂れた停留所に二人は降り立った。
 

-白蛇-

 五分ばかり歩くと小川にさしかかった。酷く蒸す真昼なのに、この辺りばかりは清涼なのだ。水面からはただならぬ冷気が立ち上っている。男は何らかの結界に違いないと思った。欅の大木の影に身を潜めた女が汗を拭いながら、「あの霊山の深い森に降り注いだ雨が地中を潜って、二百年をかけて流れ落ちてくるのよ」と、病んだ視線を彼方に放った。その先に、男が今までに見ていたのとはすっかり趣を変えて、あの霊山が常磐色も豊かに迫っているのである。
 小川は底の白砂までが覗ける透徹な水が、淀みと見間違うほどたおやかに流れ下っている。両岸には見たこともない巨木が立ち並ぶ。椚や山毛欅、桜と様々だが、いずれも古代からの命をそのまま受け継いだ風情で辺りを圧していた。
 その時に、向かいの柳の大木の根方に、白い蛇がうねうねと現れた。三メートルもの大蛇だ。一条の光の様に流麗に煌めいている。雌に違いないと、訳もなく男は思った。「この土地の守り神なの。代々、一匹の雌だけが住み着いているのよ」と、平然と女が言い、由来を語り始めた。
 古代のあの反乱の折に、終いには、御門の圧倒的な軍勢に包囲されて死期を悟ったカムイは、恋人のピリカを始め、生き残った僅かばかりの一族をこの霊山の奥地に逃がして、自らは王朝軍に投降して惨殺されたのであった。その時に、ピリカに守り神として与えたのが白い大蛇だったという伝承があると、言うのだ。すると、未だに白蛇に守護されているこの女は、ピリカの末裔なのか。
 突如、鏡のような水面に細波が立った。覗くと、一面に赤い塊が泳ぎ下っている。「アカセという鮭の一種よ。ここだけの固有種なの」
 再び、男が目を見張った。その魚の群れを追うように、小川の上流から巨大な青大将がゆらゆらと流れ下ってきたのである。辺りを睥睨して雄に違いない威風を放っている。「あの霊山の奥から下ってきたの。この頃のいつもの習わしなのよ」と、女が言う。
 青大将は忽ちの間に柳の岸に泳ぎ着くと、あの白蛇が鎌首をもたげる根方に向けて這い登って行く。女が、「今が盛りの時なんだもの」と、頬を染めた。すると、瞬く間に二匹は絡み合って白と青の斑模様を作り始めた。女に伝えると、「これから十日間は休みなしに交尾をし続けるのよ」「眠る時も、決して、解かないんだもの」「そうして、あの蛇も私達も永らえてきたのよ」と、事もなげだ。
 男は息を呑んだ。だったら、この女の相手は誰なのか。そして、この女はどの様にして子孫を産んだのか。そこで男は初めて狼狽えた。この女には夫があるに違いないのではないか。子供だっているだろう。こんな肝心な現実を、なぜ、疑わなかったのだろう。終ぞ確かめもしなかった。露ほどの思慮もなくここまで来てしまったのだ。果たして、男は、またもや、あの狂気の幻想をさ迷い始めてしまったのか。

 男の脳裡には、数年前にあの女医と見た光景がまざまざと蘇った。やはり、こんな盛夏の狂気にも似た蒸し暑い真昼に、二人は白い大蛇の交尾を凝視していたのであった。まるで、あれからの時間が止まってしまったかの錯覚に男は襲われる。
 二人はある古戦場で初めて抱擁した。背後から男に抱かれながら女医が、「あの小説にも書いてあるけれど、ここいら辺は北の国と御門軍の最前線だったんだわ」と、囁く。「朝廷軍の侵入を阻もうとしたイワキ族は勇猛で、率いたのはアブクマだ」「きっと、あなたの様に威丈夫で精悍な若者だったに違いないわ」「アブクマには年上の恋人がいた」「アズマね?」「多分、あなたのように豊潤な人だったんだ」「アズマは祀り事を司る神女で、白い大蛇はイワキ族の守り神だったんだわ。二人もこんな風に、世にも妖しい交尾を眺めていたのかしら?」「奇妙な甘美だ」「性の本源だわ。性は魔性の世界なのよ。あなたには何もかもを教えてあげるわ」「イワキ族は随所に築いた砦を拠点に果敢に戦ったが、御門軍の最新鋭の軍備に、やがては敗退した。アブクマは、北の国の、さらに奥地で蜂起しているカムイと合流しようと決めたんだ」「アズマも同行を願ったんだけど、アブクマは許さなかったのね?」「死を決意していたアブクマは、恋人だけは助けたかったんだ」「アズマは身ごもっていたんだわ」「だから、二人の血脈は、この地に営営と続いているに違いないんだ」「私達もその一人なのね?」「そうに違いないよ」「アズマはアダタラの山に隠ったのね?」「そして、アダタラはカムイの元に走ったんだ」「その最期の別れの時に、アスマが白い大蛇を託したんだわ」

 「どうかしたの?」女の囁きが聞こえて、男は夢幻から引き戻された。だが、そこが現実なのか、新しい幻影なのかは、男には知る由もない。
 「-その後は?」「務めを終えたら、青大将は霊山に帰るわ。あそこの守り主なんだもの」
 樫の大木の木陰で呆然と佇む男を残して、女が歩み始めた。
 結界に架かる朽ちかけた木橋を渡ると、東にはなだらかな段々の田圃と、西側の畑に囲まれた牛小屋と棟続きの農家がその女の住まいだった。
 輪郭の明瞭な様々な大輪の花々が咲き乱れる庭の井戸には、木桶に瓜が冷やされている。軒の下には女の下着が数枚、鮮烈に震えている。牛小屋には大きな赤牛が慌ただしい。女が男に言い置いて、草を与え始めた。

 

盛夏の儚総集編

盛夏の儚総集編

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更新日
登録日 2020-09-08

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