盛夏の儚3️⃣
盛夏の儚3️⃣
-ピリカ-
盛夏のその日に、娘達にはある事情があって、今日辺りには客はないからと、男は一人で店番を任された。初めてのことである。
言われた通りに、いっこうに客はない。夜来からの途切れ途切れの暗鬱な雨が上がった昼間近に、白杖の女が入ってきた。
青いワンピースの豊潤な容姿を一瞥して、男に驚愕が走った。女が近付いてくると、霊妙な香りまで放っている。その顔を間近にして、男は再び息を飲んだ。やはり、あの菩薩顔の女医と瓜二つなのである。だが、忽ちの内に我に帰れば、明らかに別人なのであった。
女は弱視なのだった。輪郭程度は認識できると言う。草也のたどたどしい助言に従って、しなやかな指先で細やかに確かめながら、女は作業着を選び始める。眼前で穣ユタカな胸元が大胆に崩れたり、贅沢な乳房がぞんざいに揺れたりするから、思わず見入ってしまう。女が身体を屈めたりすると、熟れた桃色の乳首までがあからさま覗くのだ。その豊穣さは、あの盛夏の真昼に、男に与えられたあの女医の豪奢ゴウシャな乳房と、やはり見間違うほどなのである。
女の問いかけで幻影はたちどころに解かれた。作業着を選び終えた女が、戸惑いながらも、下着も購入したいと言うのである。そして、新しい幻覚が始った。男は茫茫と夢遊を漂うように女の要望に従った。
商品の包みを受けとる女が、しみじみと礼を言いながら、裸子植物の様な手で男の手を包んだ。妖しい柔らかさだ。崩れんばかりに熟した桃の香りが立ち上る。すると、こうするのは視線の代わりなのだと続けて、身じろぎもしない。
そうして、女が去った。甘く熟れた肉の残り香ばかりが息苦しい。言い知れぬ快感が男の体内に留まってしまっていて神経が発酵する。男は声に出して呻いた。
ふと目を放つと女の傘がとり残されていた。朝からの雨はすっかり上がり、八月の真昼の日差しが男に督促をする。外に出て素早く視線を巡らすと、遥かに僅かばかりの女の後ろ姿があった。矢庭に男は後を追った。
日射が突き刺す露天のバス停に女は佇んでいた。息を切らしながら男が話し寄った咄嗟に、驚いたのか、振り返った女が不意によろめいた。二人の汗が弾けた。傾いた熱い乳房の重圧を懐で支えながら、息も治まらないうちに、たちまちバスが来た。女の豊穣な尻の後に続いて男が乗り込んだ。
乗客は三人しかいない。皆が女に柔らかな視線を送って挨拶を交わす。女に促されて最後部に身を沈めると、そこは死角だった。傘を受け取った女は、男の手に手を置いて短く礼を言ったきり何も発しない。所々が開け放たれたバスの窓から入り込む温ヌルい風が、女の豊かな髪を解かしている。やがて、しなやかな桃色の指を男の手に怪しく絡め始めた。男は夢幻に陥ってしまう。
「私ったら、すっかり、上ずってしまって…」「忘れ物をしたのなんて初めてなのよ」「…だって、あなたのような人がいたんだもの」「今でも動悸が止まないのよ」女の頬が染まっている。この異様な暑さのせいばかりではない。上気しているのだ。「どうしたらいいのかしら…」
バスが激しく揺れて二人は接着した。熱い肉の息吹が密やかに伝わってくる。こうして、二人には矢継ぎ早に新しい秘密が生まれてくるのだ。女が一段と声を潜める。「私達は声だけでも判るのよ」「あなたは、きっと、理知な若者に違いないわ」「少しは気難しそうだけど…」「声音で判るのよ」「そんなあなたに、あんなお世話をかけたんだもの」「いつもの人がいないかったから。本当は買わずに帰ろうと思ったのよ」「あなただって、本当の店員さんじゃないんでしょ?」「わかるわよ」「厭だったでしょ?」「夢を見ているみたいだった」「男の人に下着を選んでもらうなんて…」「いつものおじさんだって断っているんだもの」「下着の中まで晒してしまうみたいで…」「…それに…」「派手だったでしょ?」「大きいし…」「夜の私を…。秘密の何もかもを覗かれたみたいで…」「そんなあなたとこんな風にしているんだもの…」
細くて荒い裸道がうねうねと山脈の麓を北に辿っている。正面に座した流麗な一山が見え隠れする。あの霊山に向かっているのだと、耳元で女が囁いた。時折には濃い緑の洞窟にも進入する。この鬱蒼とした繁りにも似て、女の身体はうっすらと湿ってくるのである。
その時に、バスの中に大きな紫の蝶が飛び込んで来た。番いだ。風に巻かれて危うげに乱れて飛び回る。「キタノオオムラサキだわ。ここら辺にしかいないのよ」と、女が言う。「番いでしょ?」「そう」「そんな光景は、なかなか見られないのよ。だから、見た人は幸せになるって言われているの」やがて、番いは二人に向けて飛び寄ってきて、二人の回りを旋回する。終には、女のワンピースのなだらかに盛り上がった下腹に止まって、羽を揺らして交尾を続けるのである。
あの盛夏にもこんな蝶がいたと、男は思いを巡らす。
古戦場を女医と散策していた時に、満開の夏ツツジの繁みに蝶の大群が舞っていた。「番いもいるわ。これを見た恋人は結ばれるというのよ」と、女が手を伸ばした途端に小さく叫んだ。
「刺されたんだわ」二の腕に赤い跡がついている。「少しは痛いけど。小さな蜂だから大丈夫よ」と、言う女を遮って、男がその痕跡を吸うと、汗の後には甘い肉の味が忍び寄ったのである。
男の回想をかき消す様に、女がしなやかな桃色の指を男の手に怪しく絡め始めた。バスが激しく揺れて二人は、さらに密着した。熱い肉の息吹が密やかに伝わってくる。こうして、二人には矢継ぎ早に新しい秘密が生まれてくるのだ。
細くて荒い裸道がうねうねと、山脈の麓を北に辿っていく。正面に流麗な一山が見え隠れする。あの霊山に向かっているのだと、耳元で女が囁く。時折には濃い緑の洞窟にも進入する。この鬱蒼とした繁りの様に、女の身体もうっすらと湿ってくる。
そうして、複雑に車体を軋ませながらバスが三〇分ほども走ると、寂れた停留所に二人は降り立った。
-白蛇-
五分ばかり歩くと小川にさしかかった。酷く蒸す真昼なのに、この辺りばかりは清涼なのだ。水面からはただならぬ冷気が立ち上っている。男は何らかの結界に違いないと思った。欅の大木の影に身を潜めた女が汗を拭いながら、「あの霊山の深い森に降り注いだ雨が地中を潜って、二百年をかけて流れ落ちてくるのよ」と、病んだ視線を彼方に放った。その先に、男が今までに見ていたのとはすっかり趣を変えて、あの霊山が常磐色も豊かに迫っているのである。
小川は底の白砂までが覗ける透徹な水が、淀みと見間違うほどたおやかに流れ下っている。両岸には見たこともない巨木が立ち並ぶ。椚や山毛欅、桜と様々だが、いずれも古代からの命をそのまま受け継いだ風情で辺りを圧していた。
その時に、向かいの柳の大木の根方に、白い蛇がうねうねと現れた。三メートルもの大蛇だ。一条の光の様に流麗に煌めいている。雌に違いないと、訳もなく男は思った。「この土地の守り神なの。代々、一匹の雌だけが住み着いているのよ」と、平然と女が言い、由来を語り始めた。
古代のあの反乱の折に、終いには、御門の圧倒的な軍勢に包囲されて死期を悟ったカムイは、恋人のピリカを始め、生き残った僅かばかりの一族をこの霊山の奥地に逃がして、自らは王朝軍に投降して惨殺されたのであった。その時に、ピリカに守り神として与えたのが白い大蛇だったという伝承があると、言うのだ。すると、未だに白蛇に守護されているこの女は、ピリカの末裔なのか。
突如、鏡のような水面に細波が立った。覗くと、一面に赤い塊が泳ぎ下っている。「アカセという鮭の一種よ。ここだけの固有種なの」
再び、男が目を見張った。その魚の群れを追うように、小川の上流から巨大な青大将がゆらゆらと流れ下ってきたのである。辺りを睥睨して雄に違いない威風を放っている。「あの霊山の奥から下ってきたの。この頃のいつもの習わしなのよ」と、女が言う。
青大将は忽ちの間に柳の岸に泳ぎ着くと、あの白蛇が鎌首をもたげる根方に向けて這い登って行く。女が、「今が盛りの時なんだもの」と、頬を染めた。すると、瞬く間に二匹は絡み合って白と青の斑模様を作り始めた。女に伝えると、「これから十日間は休みなしに交尾をし続けるのよ」「眠る時も、決して、解かないんだもの」「そうして、あの蛇も私達も永らえてきたのよ」と、事もなげだ。
男は息を呑んだ。だったら、この女の相手は誰なのか。そして、この女はどの様にして子孫を産んだのか。そこで男は初めて狼狽えた。この女には夫があるに違いないのではないか。子供だっているだろう。こんな肝心な現実を、なぜ、疑わなかったのだろう。終ぞ確かめもしなかった。露ほどの思慮もなくここまで来てしまったのだ。果たして、男は、またもや、あの狂気の幻想をさ迷い始めてしまったのか。
男の脳裡には、数年前にあの女医と見た光景がまざまざと蘇った。やはり、こんな盛夏の狂気にも似た蒸し暑い真昼に、二人は白い大蛇の交尾を凝視していたのであった。まるで、あれからの時間が止まってしまったかの錯覚に男は襲われる。
二人はある古戦場で初めて抱擁した。背後から男に抱かれながら女医が、「あの小説にも書いてあるけれど、ここいら辺は北の国と御門軍の最前線だったんだわ」と、囁く。「朝廷軍の侵入を阻もうとしたイワキ族は勇猛で、率いたのはアブクマだ」「きっと、あなたの様に威丈夫で精悍な若者だったに違いないわ」「アブクマには年上の恋人がいた」「アズマね?」「多分、あなたのように豊潤な人だったんだ」「アズマは祀り事を司る神女で、白い大蛇はイワキ族の守り神だったんだわ。二人もこんな風に、世にも妖しい交尾を眺めていたのかしら?」「奇妙な甘美だ」「性の本源だわ。性は魔性の世界なのよ。あなたには何もかもを教えてあげるわ」「イワキ族は随所に築いた砦を拠点に果敢に戦ったが、御門軍の最新鋭の軍備に、やがては敗退した。アブクマは、北の国の、さらに奥地で蜂起しているカムイと合流しようと決めたんだ」「アズマも同行を願ったんだけど、アブクマは許さなかったのね?」「死を決意していたアブクマは、恋人だけは助けたかったんだ」「アズマは身ごもっていたんだわ」「だから、二人の血脈は、この地に営営と続いているに違いないんだ」「私達もその一人なのね?」「そうに違いないよ」「アズマはアダタラの山に隠ったのね?」「そして、アダタラはカムイの元に走ったんだ」「その最期の別れの時に、アスマが白い大蛇を託したんだわ」
「どうかしたの?」女の囁きが聞こえて、男は夢幻から引き戻された。だが、そこが現実なのか、新しい幻影なのかは、男には知る由もない。
「-その後は?」「務めを終えたら、青大将は霊山に帰るわ。あそこの守り主なんだもの」
樫の大木の木陰で呆然と佇む男を残して、女が歩み始めた。
結界に架かる朽ちかけた木橋を渡ると、東にはなだらかな段々の田圃と、西側の畑に囲まれた牛小屋と棟続きの農家がその女の住まいだった。
輪郭の明瞭な様々な大輪の花々が咲き乱れる庭の井戸には、木桶に瓜が冷やされている。軒の下には女の下着が数枚、鮮烈に震えている。牛小屋には大きな赤牛が慌ただしい。女が男に言い置いて、草を与え始めた。
(続く)
盛夏の儚3️⃣