國鹿えつお

 山中のせまい洞穴で二人の男が身を寄せ合って居た。内戦に際して招集され戦闘に身を投じたが、撤収の折に置き去りにされて仕舞ったかわいそうな二人である。一人は片脚に重症を負った挙句に感染症の兆をみせていたが、もう一人は怪我も病もない全く健康な男であった。怪我のあるほうはガレで、ないほうはヤタといった。はじめガレのみ残される筈だったが、戦場で生死を共にした(文字通りに。彼らは実に半年間同じ敵を相手に闘い、同じ飯を食った)同郷の友人を見捨てる訳にはいかないとヤタも残ることとなった。そういう訳で既に人影のない戦地に二人になってから五日が過ぎていた。

「なあ、おれ、ひどいにおいだろう」
 鉛の弾によって深く抉られた傷口はすっかり膿んで、肉の腐った濃いにおいを放っていた。動けもしないのに掠れた声で恥ずかしい、ひとりにしてくれ、と懇願する姿は惨めそのものであったが、ヤタは微塵も気にする素振りをみせず手当を続けた。ガレははじめ両腕を無闇矢鱈に振り回し抵抗の意を示していたが、やがてそれも無意味と悟ると、自らの膝小僧が包帯でぐるぐると巻かれていくのを恨めしそうな目でじっと見ていた。巻かれ終わるや否や溜めに溜めた息を吐いた。
「包帯が勿体無いだろう。直ぐだめになるというのに」
「無いより大分いいさ……ところで、おまえを撃ったやつは腕がいい。たった一発、パアン、それだけだ。膝のど真ん中を狙って」
「敵ながら天晴れ」
「やつに比べて、隣の腰抜けは」
「あいつは馬鹿だったなあ。戦場で撃てないなんて。モタモタしてっから撃つまえに撃たれて死んだんだ」
「しかし守り抜いたよ」
「そうだなあ。嘸かし幸せに死んだのだろう」
「僕もそうするべきだったろうか」
「そんなら今頃おれは独りぽっちだ……」

 手当を施された後、ガレは疲れた気がして眠った。そうして夢を見た。唯一人の家族、即ち妹の夢だった。正確には妹夫婦の夢だった。澄み切った青空の日に彼女は結婚した。婿は線が細く少々頼りない印象があるが、心根がやさしく粥をあたためたような温度の男で、妻となった女を心底好いていた。二人はしあわせそうに笑っていた。それで穏やかな気分になっていた。目が覚めるとすっかり夜になっていて、肌寒く感じた。ヤタがもういいのかと声を掛けるとガレは静かに笑って風に当たりたいと言った。人の良い男は片脚に傷のある男を背に担いだ。

 二人が洞窟を出ると眩い光の集合が眼を襲った。頭上には溢れんばかりの星々が犇めいていた。目を見張るうつくしさに彼らは何も言えずに佇んでいた。暫くそうしていると、ガレがちいさく口を開いた。
「なんて……なんて、ああ、きれいだなあ」
 彼は輝く幾万の星、そのうちひとつを瞳におさめて「かあさん」と漏らし、自らを担ぐ男の項に目線を寄越した。指先はゆるく弧を描いていた。「だから包帯が勿体無いと言ったんだ」「そうだったなあ」「おれ、もうゆくよ」「うん」「……おまえ、もうすきにするといい」「そうするさ」「是非そうしてくれ、じゃ……」「それじゃ……」
 程なくしてガレは動かなくなった。

 ヤタは鼓動のないからだを背に乗せたまま歩を進めた。山を下り―抑々二人はすこしずつ下山を試みていて、最後に身を潜めていた洞穴は山裾にあったが、脚の傷が悪化し担ぐことさえ困難になったためにそれ以上下りることができなかった―野道を行きうろうろ彷徨っていると、故郷で暮らす老いた両親のことが頭を過った。妻と幼い子どもも共に暮らしていた。皆出征の日には頬を撫で手を握り涙を流して見送ってくれた。両親は厳しいが聡明で何時だって憧れだ。妻とはどんなに苦しいときも支え合って生きてきた。子どもは何よりも可愛い。愛していない者などなかった。皆が皆無辜の者達だ。無事で居るだろうか、故郷は戦場になっていないだろうか……等々考えていると突如視界が開けた。一面が星空だった。進むべき道はなかった。不思議に思って足元に目をやり、ヤタは漸く自らが何処かの崖まで来たことを知った。拠点への道を誤ったようで引き返そうとしたが、何か声が聞こえたような気がしてつい足を止めた。耳を澄ますと、声だと思ったのは波のさざめきだった。崖の下には海が広がっていたのである。
 ヤタは呆然とそれを眺めていた。咥内で引きずり回した郷愁の香りは鼻へ抜け、軈て溶けて空中へ消えた。膿のにおいがつよく鼻を突いていた。

 風は屑や葉を巻き上げながらゴオゴオと唸り、何時の間にか空は厚い雲で覆われていた。友を横たえ、軍服のジャケットを被せると、ヤタは崖の縁に立った。背筋は真っ直ぐ伸びていた。
「さ、僕もゆこう!」
 彼のからだはゆっくりと傾き、眼下の鈍色の海へ向かって真っ逆さまに飛んだ。澱んだ水面に響いた入水の音は木々の騒めきによって掻き消され、余程耳を攲てていないと聞こえないくらいだった。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-09-07

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