盛夏の儚2️⃣
盛夏の儚2️⃣
-女医-
高校ニ年の夏休みに入るとすぐに、男はある精神病院で診察を受けさせられた。男の急激で異様な変化に、我が身の危険をすら感じたであろう父親の半ば強制な説得に抗しかねたのだ。
男は柱時計の秒針の進む音も気に障って眠れずに、夜毎に様々な妄想に浸るようになっていた。それでも耐えきれずに少しばかりは眠るのだが、その僅かばかりの安息も悪夢にうなされるのだった。
それまでは夢などは殆ど見たこともなかったが、覚醒と幻覚の合間に次々と男を襲うのは、悍ましい夢ばかりだ。
肉色の雲が脳裏一面に広がったかと思うと、忽ちの内に塊となり女体が現れる。義母だ。自慰をしながら手招きをしている。甘美な肉ではない。蒙昧で自堕落な姿態だ。この女は狂ってしまったに違いないと、男は思う。近くの巨木の陰には、やはり裸の義妹が息を殺している。あの女も狂気に取り憑かれているに違いないのだ。そして、男も裸なのである。義母や義妹へのおぞましく淫らな妄念はおろか、父親の殺害をすら妄執する有り様だから、見た目にも不気味だったに違いない。父親が危機感を抱いたのも当然の成り行きだったのだろう。
昨夜からの熱波が冷めきらぬまま、追い討ちをかける様に、朝方から、かってない蒸し暑い日だった。
男を迎えたのは女医だった。看護婦の姿は見えない。義母に似た爛熟した身体を白衣に隠した女は、幾分は若く見える。三〇半ばだろう。その女医が大きな瞳を更に見開いて男を見つめながら、問診を始める。時折には、真っ白い歯で笑みを創るのである。
その瞳に映った自分をとらえながら、男は不可思議な気分に陥った。何故かは知らないが、この女が同類であるかのような錯覚に気付いたのである。男には生母の明瞭な記憶はない。父親とは疎遠が久しい。義妹はおろか、実妹とも反りが合わない。そんな男が、知らずにいた血脈の姉と突発に遭遇した類いの感性に捉われたのだ。
女医は膝頭を組んだり外したりしながら、一通りの問診を済ませると、極彩色の水玉模様が散りばめられたカードを広げた。何に見えるかを言え、と言う。
この時には、男の混乱は頂点に達していた。この検査に男は知識があった。精神状態を分析する常套の手法なのだ。
男の不安は、入院の診断が下った場合にあった。今しがた、病院の駐車場に入りがけに、異状な集団と遭遇したのだ。十数人の似たような風貌の一群が、監視の男に導かれて無気力に歩いていた。
ここの患者だと、侮蔑の視線を浴びせながら、父親が言う。皆、眼差しが虚ろだ。前の者の肩に両手を掛けたり腰に手を繋げたりして、とても一人では歩み得ない風情なのである。精神を病む人間を間近に見たのは初めてだった。悪寒が走った。もしかしたら、自分もあんな容貌になってしまっているのではないか。不眠などは単なる気のせいだったのではないか。精神病院の検診を高をくくっていた自分を悔いた。彼らはそれぞれが何かを、休むこともなしに呟いていて、時折には甲高く奇声を発する者もある。自己を全く失っている有り様なのである。狂えば自己を喪失する現実の恐怖を、男は初めて悟った。絶対に本物の狂気に陥ってはならないと覚悟した。 とりわけて、最後尾の女は異様だった。他の者達はくすんだ一団の塊と化しているのに、なぜか、この女だけが鮮やかな青いワンピースを着て、一人、途切れているのだ。三十路半ばの豊潤で艶やかな女である。
男の眼前まで来た女が立ち止まった。稚拙な行進は女を取り残してぐずぐずと歩み去る。女が傍らのベンチに座った。宙をさ迷う大きな瞳が潤んでいる。すると、にわかに裾をめくった。無防備な下半身から一群の濃密な陰毛が現れた。そして、躊躇いもなく、女が股間に手を忍ばせて自慰を始めたのである。男は万華鏡の幻影の様な有り様に目が眩んだ。
「どうかしたのかしら?」「見て、感じたままを正直に言えばいいのよ」女医の赤い唇が別な生き物の様に濡れている。「むしろ、正直に言ってもらわないと困るの」
問診は難なくやり過ごしたつもりだが、これは勝手が違う。ここに至って、正常を装う答などは男に出来得る筈もないのだ。最早、感じたままを答えるしかない。
入院は身震いするほどに恐怖だが、狂っている筈がない。あの後で、玄関のガラス戸に写した姿は、あの患者達とは明らかに違っていたではないか。目に力を入れてみた。焦点は定まっていて、むしろ険しいくらいだったのだ。あの者達は茫茫として、すっかり無表情だったが、俺は違う。笑顔までを写すことだって出来たじゃないのか。
或いは、ノイローゼくらいの診断は下りるかも知れないが、服薬や通院程度であれば止むを得ない。そういえば、この女医はさっきの患者の女にも良く似ているではないか。この女とまた会えるなら、それもいいのではないかと、思ったりもした。
「どうかしたかしら?」女医が、また、足を組み替えた。太股の奥までが覗けそうな風情なのである。
「駐車場で奇怪な情景を見たんだ」「何を見たの?」「-自慰をしていた」「青いワンピースの女ね?私の患者なのよ。驚いた?当然だわね。でも、あなただってするでしょ?」「健康な青年なら当り前の事だものね?何故、するのかしら?いい気持ちだからでしょ?」男が頷く。「夕べもしたの?」「-あなたは?」「-私?」「そう」「-したわ」「今度はあなたの番よ?」男が頷く。「ちゃんと答えて?」「-した」「だったら、あの人も同じじゃないかしら?私も。あなただって、同じだわね?そうでしょ?」「違っているのは、あの人が人前でもすることだわ」「どうして、そんなことをするのかしら?」「あの人には禁忌が無くなってしまったの」「この社会にはタブーがあるでしょ?何だと思うう?」「-革命」「そう。それから?」「-御門制」「そうだわ」「-御門の戦争責任」「そうよ」「原発反対運動」「そうね。それから?」「性」「そうよ」「そして、自慰もそうだわ」「でも、あの人の禁忌は弾けてしまったの。精神に余程の衝撃を受けたに違いないんだわ。でも、何も言わないの。自己保全の記憶喪失に陥っているのか」「あの人は?」「ある門前で行き倒れのところを助けられたの。その人も手に余って入院させたんだけど。入院費もその人が払っているのよ。資産家の独り身の老人よ」「本人は巫女だと言っているわ。それ以外は何もわからないの」「周期的に暴れるのよ。そんな時はその老人に来てもらうしかないの。個室で二時間ばかり-。すると、おとなしくなるのよ。何をしていると思う?」「-性交?」「そうよ」「私は反対したのよ。そんなことが許される訳がないでしょ?」「でも、院長がその老人に頭が上がらないのよ。全くの言いなりなんだもの」「老人は、あの戦争中にはこの街の市長だったの。軍需産業を誘致して、戦争政策を拡大させたのもあの人よ」「だから、激しい空爆を受けて。工場ばかりじゃない。街の東半分が焼け野原になったのよ。死者は千人を越えて-」「戦後は身を引いたけど、院政をひいて-。だって、戦争中の政策が、この街を北の国随一の工業都市に発展させたのも事実なんだもの」「だから、今でも隠然と君臨する実力者なのよ。この前も、御門から勲章を授与されたばかりなんだもの」「戦後から僅かばかりなのに、あんな惨禍が、あっという間に忘れ去られてしまうんだわ。それとも、余りに凄惨な体験だから記憶にすら留めたくないのかしら?」「一種の防衛本能なのね」「虚言癖が自分がついた嘘を忘れるようなものだわ」「一番に卑怯なのは、御門だ」「そうね。あなたの言う通りだわ。この国の権力者は、きっと、狂ってい
るんだわ。あの戦争で取り付かれた狂気を、今だに引きずっているのよ。そればかりか、御門の世を作ろうとした時から気が触れていたに違いないんだわ」
「だったら、始めましょうか?」女医がカードを広げて、男が答えるゲームが始まった。数枚目の模様は異様だった。「これは何に見えるかしら?」男が戸惑う。「どう?」「-蛇が-」「蛇?」「そう」「蛇がどうしたの?」「白い蛇と青い蛇が絡まっている-」「どんな風に?」「複雑だ」「何をしていると思う?」「思った通りに言って欲しいわ?」「-交尾-」「驚いたわ」「だって、あなたが初めてなんだもの」「実はね。私もそう思ったのよ」女医が姿態を屈めてくねらせた刹那に、白衣の下に隠れている乳房が覗いて、重厚な肉の塊が揺れた。「蛇の交尾って、見たことあるのかしら?」「ない」「そうよね」「あなたは?」「面白い人ね。知りたいの?」
「読書は?」「好きだ」「今はどんな本を読んでいるのかしら?」「『原発の儚』」「あの覆面作家の最新巻ね。私も読んでいるところよ。今、あの海岸に建設しようとしている原発が、一〇年後には爆発するという話でしょ?」「近未来の予告だよ」「本当に原発が爆発すると思う?」「必ずするよ」「ここいら辺りはどうなるのかしら?」「ある学者なんかは、拡散した放射能は東の高原にまで降り積もると言っている」「すぐそこね?」「風速が平均の場合の計算だよ。風が強かったら、この街だって人が住めなくなるんだ」「あなたも建設には反対なの?」「推進している奴らの気が知れない。北の国を愚弄してるんじゃないか?首府の埋め立て地にでも作ればいいんだ」「過激なのね?」「公憤だよ」「公憤?」「そう」「儚シリーズは?」「みんな読んでる」「私もなのよ。何だか嬉しいわ。あのシリーズの何に共感するのかな?」「-論理、反骨、反権力、義憤。-公憤かな。それに-」「何?」「さっき、あなたが言った禁忌の暴露だな」「それって?」「御門制と性だよ」「作家が誰かわからないのも面白いわね?」「作品は独立するから、誰が書いたかなんてたいした意味はない」「あなたも書くんでしょ?」男が頷いた。「読んでみたいわ」
「診断だけど-。そうね。あなたは正常だわ。あえて言えば、気鬱ね。気の迷いみたいなことよ。ニキビみたいなものだわ。悩み多い年頃なんだもの。悩まない青春なんて無意味でしょ?若さの特権なのよ。そうは思わない?」男が頷く。「そうでしょ?でも、不眠は困るわね。若いから余り勧めたくはないんだけど。睡眠薬を飲んでみる?」「そうね。薬は矢鱈に飲むものじゃないのよ」「あなた?簡単で覿面な治療法があるのよ。私が発見したの。聞きたい?」「毛を剃るの」「頭はもちろん。-あなたのは短いから。全身よ。脇の下も。-陰毛もよ。どう?」「毎日が暑いでしょ?今年は特別だわ。こんな陽気だもの。誰だっておかしくなるわよ」
「あなた?秘密を守れるかしら?」「私だって、そうなのよ。鬱陶しくなると、剃るの。夕べも剃ったばかりだもの」「やってみる?」「ジクジク考えていたのが嘘みたいに、さっぱりするわよ」「どうしたの?」「そうね。初めてだものね」「どうしようかしら-」「いいわ。あなただったら。特別に手伝ってあげようかな?」
「私は、あなたのお父さんの教え子なのよ。国民学校の六年の時だわ。あなたの家にも何度も行っているのよ」「そうなの。あなたのおむつも代えたのよ。驚いたでしょ?」
「離婚したばかりの先生が急な出張で困っていて、一晩だけあなたを預かったのよ。覚えてる?」「あなたがテーブルの角にぶつかって。余りに辛そうだったから。医師の卵だもの。診てみようと思って。脱がせたら、赤くなっていて。ここが痛いのって聞いたら、頷くから-。膨らんで。腫れてるみたいだったんだもの。可哀想で-。思わず、舐めてしまったの」「ご免なさい」「覚えてる?」「ねえ?覚えてる?」「あんなこと。忘れるわけがない」「ご免なさい」「謝ることなんてないよ。治療だったんだろ?」「勿論だわ」「だったら、いいじゃないか。また、ぶつけたら?」「どうして欲しいの?」「治療?」「-医者だもの」
「思い出したわ。『儚』シリーズの第六巻だわ。女医と学生が蛇の交尾を見るシーンがあるでしょ?」「あのモデルになった場所は特定されているのよ」「鯉の大滝だ」「そう」「だから?」「行ってみたいわ。あなたと私の不思議な因縁が解明できるかも知れないでしょ?先生には絶対に秘密なのよ?」
三日後の日曜にバスに乗った男はある寂れた史跡で降りた。そこの駐車場に女の車は既にあったのである。
(続く)
盛夏の儚2️⃣