盛夏の儚1️⃣

盛夏の儚 1️⃣
 

-娘-

 男子一系の御門が二千五百年に渡って統治する単一民族の国だと、この国の為政者は久しく高らかに謳いあげてきた。
 しかし、北辺の人々は西の王朝の理不尽な侵攻と支配に抵抗して幾多の戦いを繰り広げてきたのである。学術の一部も、御門の正統性や単一民族論を否定していた。この国の西半分と東半分では、民族も文化も明瞭に違うとすら主張しているのである。事実、ある北辺の少数民族を土人と規定した法律までが、未だに存在しているのである。
 だが、その北の国の悲壮で哀切な歴史は、全ての歴史の宿命として時間の彼方に埋もれようとしている。
 しかし、近年、ある小説がベストセラーになり、特異な民族が固有の古代文化を綿々と引き継ぐ、北の国のブームが到来したのである。

 西の王朝から蹂躙と収奪を受けて、長い歴程を辿った北辺の国々。
 ある県都はニ千年前の反逆の壮絶な戦いの拠点である。指導者のカムイは始祖と崇められて、高台の森に祀られている。あの忌まわしい戦時中には行幸の御門の暗殺未遂などもあった。
 その事件を指揮した警察署長はこの男の義理の曾祖父だったのである。だから、男にとってもこの地は来歴に満ちた古都なのであった。

 駅から降りて直ぐに渡る橋の上で初めて、彼方に鎮座する伝説の霊山に臨んで、風の肌合いが確かに違うと男は思った。
 あの戦争の後に拓けた郊外の街にある洋品店がある。穏やかな面持ちの夫婦が一代で築いたささやかな店構えだ。二十歳になろうとする潤沢で可憐な娘が手伝っている。神経の細やかな高校生の弟がいる。従業員は叔母の女が一人だ。

 男と娘に因縁が発祥したのは去年の盛夏だった。やはり北の国のある県の出の男は、隣県の県庁所在地で予備校に通っていた。旅から帰る途上の列車で娘と遭遇したのだ。
 男が車中に入って席を探し始めた途端に、娘が立ち上がって網棚に手を伸ばした。その瞬間に、半袖の薄いシャツとズボンの間に隙間が出来て、桃色の健康な腹が覗いたのである。衝撃だった。
 混んでいたわけでもないのに、男は妖しい蜜に引かれた虫の気分で、娘の斜め向かいの席に座ってしまったのであった。
 何を話したかもおぼろだが、互いの情念が交錯したのだろう、男の誘いに娘は下車したのである。そのまま、一つ年上の娘と一月ばかりを、安アパートで同衾したのであった。

  娘は、恋人と別離しての帰路であった。不感症なのだとも呟いた。
 海外のある作家に、この二人のいきさつと瓜二つの短編がある。古の厳格な一神教に帰依する民族の不感症の大学生の娘と、中年の売れない異教徒で異民族の作家が、深夜の狭いバーで出会う。豊満で男好きな容姿のその娘が不感症だと呟き、作家が治癒してやろうと豪語して、二人は交接する。ところが、作家が痴戯を凝らして払暁まで悪戦苦闘しても、娘の不感症は重篤なのだ。終に、娘の民族性を侮蔑するある単語で罵倒する。それで、娘は初めて愉悦に達するという小品だ。究極の体位は立っての後背位だと、作家は書くのである。
 男はそれを真似た。散々に身体を重ねたが、案の定、娘に変化は訪れない。終には、開いた貧しい押し入れの空間に娘を立たせて、こんな体位は初めてと口走る娘の背後から射精した。果たして、娘のうわごとは真実だったのか、男には知る由もない。ましてや、娘の症状が快癒したかなどとは、男もそうだが、娘すら確信がないのだ。男は娘の民族性はおろか、娘の性分すら、皆目知らないのだ。不感症のなんたるかさえ知らない。ましてや、娘の恥辱を罵倒して陶酔に導く踏ん切りなどある筈もない。第一、男そのものが交接の不思議に無知だったのである。全ては若さばかりの痴情だったのだろう。
 娘は初めての街で化粧品の販売員になったが、残りも僅かな盛夏が衰えると二人にはやるべきことも失せていたから、娘は家に戻ったのである。

  翌春の大学受験にも失敗した男は、折り合いの悪い実家に戻る覚悟とてなく、あてどなく娘の家に身を寄せたのである。曾祖父のこともあったが、娘の、北の国でも五十人に満たない苗字が、男の生家の隣村が発祥だと聞いたからでもある。
 これなどは、如何に若いとはいえ節操の寸分もないではないか。そうだとすれば、或いは、この頃にも男の神経は随分と病んでいたのかも知れない。
 男は十六の夏に、初めて精神科で診察を受けさせられたが、爾来、虚蝉を漂う虚無の様に神経を病んでいたのである。
 だが、それにも増して世相が混濁していたからなのか、男の狂気は時代の風に紛れ込んでしまっていたのかもしれない。
 片や、娘はといえば、現実に踏み留まって、手の届く堅実な夢だけを待ち望んでいるのだ。だから、遠くばかりを見る険しい旅人のような男の存在は、娘にとっては頗る曖昧だったに違いないのだ。男の若さは貧相にさえ映ったかもしれない。

  短い夏に性欲を瞬間的に共有したという以外には、男と娘にはさしたる確証はないのだった。だから、娘にとっては、この男は、或いは、茫洋とし過ぎて厄介な存在だったのかも知れないのである。
 あの夏に、不感症だと言う娘と一通りの性技を終えても、その甲斐も見せない娘に、男はあからさまに空疎だった。そんな空気を女が感受しない筈もないのだから、若さにまとわりつく特異な感性などは、二人にはついぞなかったに違いないのだ。
 だから、男は娘を求めてこの地に辿り着いたのではないのである。男は状況を夢遊していただけなのであった。
 男の関心は全く別な世界にあった。

 あの戦争に敗れた後の保守政権は、戦勝国との間にある安全保障協定を結んだ。革新勢力が強固に反対したが押しきった。その改定が一年後に迫っていて、両陣営の対決が再び激しくなっていた。とりわけ先鋭だったのが学生で、学費値上げ反対や、民主化の独自の運動とあわせて、日毎に過激化していく。あちこちの大学が封鎖されたりしていた。ある極左政党が作った学生組織が台頭して武装化に拍車をかけると、学生運動も分裂して、陰湿な内部抗争が勃発していた。
 そんな時に御門が倒れて病に臥したのである。後継の話がにわかに浮上した。御門には三人の男子がいて、順当なら長子の太子が次期の御門なのだが、父に似て愚鈍なのだ。それに、あの戦争を挟んだせいで情況は輻輳していた。
 御門に年の離れた異母弟がいる。母親は北の国の女だ。あの戦争には強硬に反対をし続けていた。この弟君を御門の第二子が心酔しているのだ。皇室は、長い間、二分されていたのである。
 革新勢力は御門の戦争責任の追求を再燃させて、弟帝を支持したから、国論にさらに激しい亀裂が走った。
 こうした最中に、野党第二党の党首が街頭で刺殺される事件が惹起した。犯人はあの戦争を指導した軍人グループの残党だったから、対立に油を注いだ。

  男は、こうした歴史の狭間の混沌とした政情の渦に飲み込まれて格闘しながら、我を失っているのだった。
 男は大学の現況を否定している。とりわけ、学生運動の内部抗争で死者が出る事態に、男は震撼し憤怒した。男には大学に進む明瞭な意思もないのだ。予備校にも殆ど通わずに駄文を書き連ねていた。受験も一校だけしかせずに、従兄の大学生の滑り止めの勧誘も一蹴した。成るべくしての不合格だったのだ。それなのに、就職もせずに曖昧に二浪を決め込んでいるのである。
 男にへばりつくその状況の息づかいは、質の悪い亡霊のようなものだ。それと同じくらいに男は矛盾の塊だった。この世界の全ては鵺なのかも知れないと、男は思った。

  温厚な容貌の娘の両親は、娘との確たる展望もなく転がり込んできた若過ぎる闖入者の無作法は心外だったが、娘のために怒りを押さえたに違いない。しかし、叔母は男の非礼を毅然としてなじり、娘に避妊を厳命した。それを聞き入れた娘から避妊具の装着を迫られて以来、男は娘を抱いてもいない。欲望がとりつくほどの執着はとうに失せているのだった。
 男の神経を切り刻む政情の歴史的なの軋みに直面して、肉欲の我執など無意味なのだ。さりとて、男には向かうべき新しい地平の目安とてさらさらもない。情況と交わりあえずに、時代の構成から見捨てられていた。
 男は何をするのでもない。季節の移ろいに寄る辺なく身を任せて、文芸誌などを開いては思惟ともつかない夢遊に耽溺していたのである。
 男の神経は、無闇と暑かったあの夏の日々と同じ様に、かなり病んでいたに違いない。或いは、あの盛夏から今まで、男の狂気の収まることはなかったのだろうか。
 
(続く)

盛夏の儚1️⃣

盛夏の儚1️⃣

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-07

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