平凡な死1️⃣

平凡な死 1️⃣
 

 -遺骨-

 一九五〇年の盛夏。
 亡夫の葬儀を終えて一月ばかりの蒸しかえる夕刻である。
 仕事から戻った女がようよう家に辿り着いた。二間の平屋だ。借家である。薄いトタン屋根が灼熱にさらされた余熱を暑くて長い夕べに放出している。紅く厚い唇から熱い息を吐いて、有り合わせで作った貧相なポストを見ると、膨らんだ大判の封筒が飛び出している。取り出して裏を見ると、主府の住所と『××研究会』の記載がある。「いったい何かしら?」と、女が大きな瞳を曇らせて眉間に数本の皺を寄せた。全く覚えがない。ほつれ毛が数本、耳元からうなじに張り付いている。青い半袖の脇には汗がおびただしく滲んでいる。
 玄関脇の僅かばかりの隙間の一群れの葵もうなだれていた。その根元に小さな獣の死骸があった。幼い頃に一度だけ見知っていた土竜だ。いつからそこにあったのだろうか。干からび始めているのである。細い針金に変形したミミズをくわえたままに無数の虫に食い散らかされて、土になろうとしているのだ。
 鍵を開けて戸を引くと、案の定、むせかえる熱気だ。開け放したまま、慌ただしく粗末な靴を脱ぎ捨てて、豊かな尻を無作法に揺らしながら部屋に入ってた。卓袱台にバックと封筒を放り置くと、もどかし気に、シャツのボタンを外し始める。開き終えたシャツを脱いで、紫のブラジャーも取り払って、汗で蒸れる満形の乳房をようやくに解放した。スカートも脱ぎ払うと豊満な身体が現れた。紫の下穿きだけが、はち切れんばかりの肉に弱々しく貼り付いている。下穿きの端から数本の陰毛がはみ出していた。胸に汗が這っている。掛けてある青色のワンピースに目をやったが、着るのを思い止まった。
 放埒な乳房を揺らして、そそくさと台所に向かうと蛇口を捻った。指を驚かす温水があふれ出た。暫く流すと漸く冷水になった。コップに受けた水を喉をならして飲む。女の肉感的な唇から一条、ニ条が溢れて、首から桃色の胸元を辿った。
 勝手口を開けても一向に風はない。タオルを水にさらして絞ると、身体を拭き始めた。汗を吸った脇毛の草むらが姿を現した。
 居間に戻った女が南側の窓を開け放った。やはり沈殿した空気は微動だにしない。狭い庭を挟んで、向かいは大家の二階家である。幾つかの窓が女に向いてはいるが、相変わらず人気は全くない。
 女は卓袱台に座って煙草に火をつけた。吐き出した煙が流れて、その視線の先に、無造作に置かれた骨壺がある。女は昨夜の仕儀を思い起こしてしまうのだ。

 やはり蒸し暑い夜半に、性夢にうなされて目覚めた女は不浄に立った。戻る際に骨壺が目に入った。夢遊に漂う者の仕草で蓋を取ると一本の骨を拾った。女はそれを布団に持ち帰り、股間に挿入したのである。そして、つい先程まで耽溺していた甘美な夢の記憶を辿ろうとするのだが思い出せるわけもない。女は昼間の奇っ怪な出来事の記憶を復誦するのだった。


-所長-

 ある地区の復興事業の為に建られた小さな現場事務所に、男と女は市から詰めているのである。市の職員は二人きりだ。もう三月になる。 男は四十半ば。つい半年前に入庁したばかりだ。男の経歴は誰も知らない。それは取り分けて珍しくはなかった。あの戦争の敗戦から五年しかたっていない。すべての者の過去は不明確であったから、取り立てて詮索しようとする風もない。女も人並みの関心はあったが、敢えて触れるのを憚ったのである。
 男は磐城という。長身で痩躯である。寡黙というほどではないが、何処となく無頼な暗い影を漂わせている。女は、この男もあの戦争と深く関わってしまったのだと思った。


-赤芽子セシコ-

 男は戦前から国家主義思想のある団体の構成員である。この組織の実態は、未だに皆目、明らかではない。戦争中は半島や大陸で諜報活動で暗躍した。戦後は収集した膨大な情報と引き換えに懲罰を免れる密約を解放軍と交わした。その上で保守政権に近づき暗躍し続けている。 最近も、世情を揺るがす程のある重大事件に関与した男は、当初に計画した通りに暫く潜伏しなければならないのだ。ある国会議員の口利きで、この市の嘱託職員に採用されたのである。

 とは言っても、恥ずかしいばかりだが古希を越えた筆者には時間がない。推理の出来を競っている余裕などはないのである。賢明な諸君は『絹枝の魔性』を既に読まれただろう。そう、戦後間もなくの北の国で起きた国有鉄道の大脱線事件、あの事件の実行首謀者がこの男なのである。お分かりか?従って、この短編は、だから、独立した一編ではないのである。れっきとして『儚』の連作に位置を占める綺談なのだ。さて、筆を進めようではないか。

 男は単に身を隠したばかりではない。ある時にたまたま赤芽子を見知って、恐るべき利用価値を見いだした男は、この機会を利用して、この女を籠絡する計画を企んだのである。その筋書に添って、この市が男の潜伏先に選ばれたのであり、この現場事務所に女が配置されたのは、すべてが男の、即ち、この組織の差し金であった。

 男は、全てにわたって周到に罠を仕掛けていた。女の生い立ちはくまなく調査されている。女の家までも、既に、男によって造作もなく探索されていたのである。だから、下着のありかばかりか、秘匿した不義の手紙迄が暴露されており、女の個性や習癖のあらかたは把握されてしまっていたのだ。

 事務所には建設会社の現場責任者が出入りする。若い者も多い。必定、いかがわしい雑誌などを持ち込む。だが、男は禁じなかったばかりか、ある時に女がそうした雑誌を読んでいるのを目撃してからいっそう卑猥な、いわゆるエログロ誌を密かに紛れ込ませていた。女から特段の疑義の申し立てがある筈もなかった。

 ある日、事務所に向かいながら、幾多の修羅場を踏んで獣に似た感覚が身についた男は胸騒ぎを感じた。少し離れた道端に停車して、密かに事務所に近づいた。
 案の定、女は粗末なソファに座って雑誌を読んでいる。
 普段から取り立てて仕事があるわけでなし、特に今日辺りは盆の入りで業者が一斉に休暇に入っており、いかに役所の事情といえ事務所を開けること自体が不自然なのだ。
 女が長い息を吐いて傍らの茶をすすった。入り口に目をやるがそこには誰もいない。反対側の窓の陰に男は身を潜めているのだ。
 女が立ち上がってパンティを脱いで、青紫だ、事務机に行き引き出しに潜めた。戻ってソファに身体を仰臥させると、改めて雑誌を読み始めた。すると、忽ち青いスカートをめくったのである。桃色の豊かな太股に続いて陰毛までが明らかになった。男が息をのむ。
 女が身体を反らして指を噛んだ。

 女の狂騒が終った。男は車に戻って備えたウィスキーを飲みながら煙草を数本吸った。

 その朝、だいぶ遅れてきた男は開け放しの入り口から入ってくると、女の机に箱を置いて、「寸志だそうだ。乾麺らしいから昼に茹でて下さい。あとは持って帰ればいい」未だ上気の解けていない女が、「訳のないものなど頂けませんわ」と、抗う。「この前、ここに来て、工事の苦情を散々に言っていた戦争後家がいたでしょ?」「四十がらみの色っぽい方ですか?」「そうだ。その女からの寸志ですよ」「あの事案は解決したんですか?」「朝駆けして農作業を手伝ったら許してくれたよ」「体を張ったんですね」「まあ」「農作業だけですか」「…?」「厄介な女の扱いは所長さんの得意の分野なんですか?」と、皮肉がこもる。 「とにかく、暑くて堪らん」と、ぼやきながら今日の予定を聞く。女が手短に答えると、「明日は休みだし久方ぶりに暢気なもんだ」と、言い残した男は、飲みかけのウィスキーの瓶を手に外に出ようとする。


 -農婦-

 資材がうず高く積まれた一隅に置かれたドラム缶に水を注ぎながら、男はウィスキーを飲むのである。スコッチの上等なものだ。女は事務所の机でそれを知りながら、咎めることなどには考えも至らない。下請けの建設会社の幹部も含めて、日頃の出来事なのだ。
 水が満ちると裸になり、男はドラム缶に身を沈めた。
 暫く時がたった。そして、この日に限って男が女の姓を呼んだのである。
 女が緩慢に歩み寄ると、男が思い付いたごとくの風情で、最近に指示しておいた業務の結果を求めた。女が簡明に答えると、「それでいい。完璧だな。まさに掃き溜めに鶴ですよ」怪訝ぶる女に、「あなたなどの人はこんな作業場にいるにはもったいなさ過ぎるんだ」「お上手ばっかり」「冗談なんかじゃない。本心ですよ。本庁はおろか、市長の政務秘書でもやらせてみたいくらいだ」「性務ですか?」女が軽口で返す。苦笑しながら、「そうだな。あんなどスケベのひひ爺はお断りか」と、はぐらかして、「ところで、事務所は暑いでしょ?よく我慢できるますね?」「もう慣れましたから」「この行水は思ったよりも快適なんだ。あなたも遠慮せずに入ればいい」「見せるほどの身体はしてませんから」「本当に入るんだったら、囲いなどはすぐに作りますよ」
 男が立ち上がる。女の目に陰毛とただならぬ陰茎が飛び込んできた。男が積み荷の上に置いた煙草を引き抜き火をつける。女に勧める。「頂きます」と、女も煙を燻らす。
 女の脳裏から男の隆起が離れない。その男がウィスキーを勧める。女が含んだ。
 「後家さんはどうでした?抱いたんでしょ?」「聞きたいんですか?」女が頷く。「据え膳はなんとやら、ですからね」「美味しかったですか?」「上等のお膳でしたよ。女もあの年頃が適当に熟して。食べごろなんだな。でも…」「最後まではしていませんよ」「射精はしなかったという事です」「どうして?」「邪魔が入って。親戚の方が訪ねてきたもんだから」「御愁傷様でした」「…そんなものですよ」「それでそんなに元気なんですか?」「これ?」「ご立派だわ」「失礼しました。子供の頃、混浴の温泉で育ったものだから。不用心でした」女がウィスキーを含む。
 「どこで?」と、呟くように女が言う。「畑ですよ」「訪ねたら、戸は開け放しなんだが、女がいない。独り暮らしと聞いていたから、大声で呼んだんだ」「暫くしたら、畑から声が返ってきた」「声の元に行くと、女が畑の整理をしていたんだ」「俺は黙って手伝い始めた。女も何も言わない。小一時間ほどたったら、女がお茶に誘うんだ」

 「あなたもしたくなったのかな?」「何を?」「交接だよ」「何を言ってるんですか?上司と部下ですよ」「駄目かな?」「怖い奥さんもいるんでしょ?」「独りだ。あなたもだろ?」女が頷く。
 「さぞかし自慢な逸物なんでしょうね?」「俺のか?」女が唇を舐める。「確かめてみたいか?」
 「寂しいだろ?」「まあ」「身体だよ?」「疼くだろ?」「そんな歳じゃないわ」「何を言ってるんだ。一番の女盛りじゃないか?どうなんだ?」
 「所長?」女が沈黙を破る。「凝ってるんじゃないですか?」「活躍してきたんでしょ?」「活躍?」「そこよ」「そうだな。だいぶ凝ってるな」「上司が疲れてるんだもの。部下としては…」「揉んであげましょうか?」「いいのか?」「療治だもの」と、女がドラム缶の中に手を入れて陰茎を握った。
 揉みながら、「やっぱり、ひどく凝ってるわ」「どんな具合なんだ?」「凄く固いわ。コチコチよ」「あの女が随分と使ったからな」「どんな風に?」「これが好きな女でね。散々に弄ばれたんだ」「こうかしら?」「そうだ」「この凝りを取るのは大変だわ」「どれくらいかかるかな?」「そうね。きっと、長丁場になるわ」「えらく上手いな?」「そうかしら?」「旦那が亡くなって…。一月か?」「早いものですね」「凄い事故だったらしいな?」「まあ」
 「不思議な噂を聞いたんだが?」「何ですか?」「ご亭主のが立っていたと言うのは本当か?」「何が?」「亡くなったご亭主のが勃起していたというんだ」「知りたい?」男が頷く。「いいわよ。本当だわ」
 「驚いたでしょ?急迫海綿体膨張という症状だと聞いたわ。珍しい症状だって」「それから…」「何?」「通夜の夜に遺体としたらしいという噂もあるんだ」「聞きたいの?」「したわよ」「驚いた?詳しく聞きたいんでしょ?」「何も不思議じゃないでしょ?夫婦の最後の別れだもの。手を握ったり頬ずりしたりするでしょ?」「そうだな」「たまたまそんな症状だったし。誰もいなかったから。そんな別れをしただけなんだわ」


(続く)

平凡な死1️⃣

平凡な死1️⃣

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更新日
登録日
2020-09-06

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