天下泰平

天下泰平

艶ぼ~いのスピンオフ作品になりますので、シリーズを読み終えた人向けです。

本文

本文

(1)捕らわれの少年

何故、吉田松陰殿は極刑で俺は謹慎だけなのか。

考えても仕方ないことだとは理解ってた。それでも憤りは収まらない。

安政の大獄で多くの思想家達が殺された中、俺へのお咎めは随分と軽いものだった。

それは俺の母親が皇族だからである。

敬愛するご先祖様、家康様のことを考えた。

天照神君(家康)よ、貴方様は、天下泰平の為に幕府を開かれた。
今の幕府は貴方様からご覧になって如何か。
世を統べるのに相応しかろうとおっしゃっていただけるとは自分には思えないのです。

この国のため、平和の為に、幕府を滅ぼそう。そう決意しながらも、なかなかどうして上手くは行かない。
攘夷派に歩み寄り、手を組もうと画策するも、そこまで信用はされず、自分も相手を信じきることができない。

今のままの幕府では駄目だとしても、かといって攘夷派をそこまで評価出来るかと言えば微妙だった。彼等に革命は起こせたとして、その先の政治が務まるだろうか。

頭がすげ替わるだけで、今と変わらず不安定な情勢が続き、内戦が起こるなら、身を引く意味が無い。

誰も信用できない。自分の策すら正解とは思えない。

毎日、懸命に模索し、行動しながらも、決め手に欠ける。そんな日々を過ごしていた時だった。

奏音くん、俺は君に出会ったんだ。


「慶喜(けいき)様、壬生浪士組に不穏な動きがあります。」

使いのものが報告をするのに溜め息が出る。

「彼等が不穏じゃない時が無いよね。」

「異国の服を身にまとった二人を追いかけていたようで。一人は彼等の屯所に捕らえられました、一人は颯に追わせましたが逃げられました。」

「逃がした? 颯が?」

使いのものの中でも俊足を誇る追尾に長けたものであるというのに。

「あの二人組、ただものではない気がいたします、慶喜さま自らがご覧になるほうが良いやもしれませぬ。」

壬生浪士組の屯所に向かうと、確かに異国の服を纏った少年が尋問されていた。髪は不揃いに切られているが、肌ツヤが良く、育ちの良さを感じる。忍びや、攘夷派の密偵ではないように思えた。
異国人だと本人は言っている。試しに話させた英語の発音も、仕事上会話する外国人に近すぎる。日本人の通訳にもこんな発音の出来る者は居なかった。顔形は日本人にとても近い。母親が日本人か? そう尋ねると、そうだと答える。

だが怪しいのには変わりがない。嘘は確実についている。
日本語がよく解らない、というのは嘘だし、怯えている、というのも嘘だ、演技だろう。
周囲の状況を観察し、どうしたら切り抜けられるか考えている様子だ。

頭がいい。どうする? 何者か判らないが泳がせて利用するか?

それとも危険因子は早々に処分すべきか。

俺はとりあえず、秋斉にも意見を聞くべきだろうと考え、少年の身を預かることにした。


(2)不穏分子

「お灸の方がいいもの。」

人差し指にお灸のあとをたくさん残しながら口を尖らせて言う七郎麻呂に苦笑する。

「そんなに読書が嫌か。」

「俺は秋斉とは違うよ。武道は面白いけどさ、苦手なことは秋斉にやってもらうからいいんだ。」

ニシシと顔をくしゃっとさせて、小石を蹴ってくる。お付きの者に何度止めさせられても仕掛けてくる小石蹴り。あとで叱られるだろうが、可愛い弟の為に俺も付き合った。

成長し、お前が身分の違いに悲しむのを解りながらも、俺はお前の影となり支えるのだと決めた。

なのに一橋家を継いで慶喜と改名し長い謹慎生活を送ったお前は、父の見張りが無くなったのを良いことに昔のように俺にじゃれつくようになった。

まぁ、それはいい。お前がそうやって心を許せる相手が俺だけで、甘えられるのも俺だけだと言うならば、お前の望み通りに昔のように揶揄って遊んでやるのも悪くない。

しかし、だ。

「異人の学士らしいよ。」

お前、厄介事を俺の元に持ってきすぎなんだよ。

頭を抱えて慶喜を責めると、異人の学士だと主張する少年は「迷惑ならお暇します」と言い出した。
異人がお暇します、なんて使うだろうか? 怪しすぎる。

「秋斉から見てどう?」

「攘夷派では無さそうやが、得体が知れんのは確かや。あんさんのこと、徳川慶喜やとひとりごちてた。」

「へぇ。ずいぶん国内情勢に詳しい異人さんだね?」

「まったく、趣味が悪いわ、楽しんどるやろう。」

「鍛えれば使えると思うんだよね~、無謀かな?」

「医者の振りでもさせたら間者としては使い勝手がええやろうな。」

「医者? 父親が文化の研究者だとは言っていたけど、あいつ医者なのかい?」

「怪我してたやろ、包帯が不格好に巻かれてあったんやが、朝見たら、綺麗に巻き直されとった。手際がええ、隠しとるようやが医術の心得があるんやろ。」

「ふふ、やっぱり秋斉に見てもらって正解だったね。」

ニコニコと笑う慶喜に溜め息をつく。

「今朝も釘はさしておいた、裏切ったらただじゃおかないと。」

「あはは、秋斉にそう言われたならかなり怯えているだろうなぁ。」

「笑っとる場合か。あんさんにも言うとく。攘夷派では無いとは思うから利用出来るならするんは、とりあえず、よしとしようやないか、敵だったら容赦せえへん、消します。」


そんな風に会話を交わすほど。

最初の印象は良く無かったし、信用なんかひとつも出来なかった。

奏音はん、あんさんを守りたいと強く願うなんて、わては予想も出来んかったんや。


(3)君は味方なのか?

「慶喜さんは幕府側じゃないんですか?」

驚いた顔で、そう尋ねる奏音を不思議に思う。

昨日までは、たぶんもう少し異人の振りをしようとしていたはずだ。それをすっかり止めている。

話しながら、自分の無謀さに呆れてもいた。秋斉の言う通り、これは無謀な賭けかもしれない。

この少年はこちらの言うことの殆どを説明無しに理解する。佐幕派、反幕派、中道、政治用語や宗教用語、仏閣用語、慣用句まで理解している節がある、と秋斉も言っていた。

異人ではない、絶対に。それが秋斉の意見。

が、しかし、

こんな日本人が居るかい? 秋斉。

密偵だと仮定すると、不自然な点が多過ぎる。ひとまず泳がせて利用できるなら利用しようと、俺も秋斉も一致した大きな理由はそこにある。

疑わしきを隠そうとしないのだ。むしろ開き直ってる。

そして俺の仕事を引受けようとしている。密偵ならば疑われた時点で姿を消すか自害するか、刺客が現れて処分に来るはずだが、そんな気配もない。

何が狙いだ? 何者なんだ?

そう、思いながら。

「俺はこの国が良くなればどっちだって構わないんだよね、政治をするのが幕府じゃなきゃならない理由なんて無いと思ってる。」

言ってから、ハッとなる。

何を話してるんだ、俺は。疑いを持っていて、利用して、都合が悪くなったら捨てるつもりの奴に、何をさらっと本音を話してるんだ?

チラリと奏音の表情を伺うと。

真っ直ぐに俺を見ていた。真剣な眼差し。熱のこもった瞳。好意的な態度。そしてやがてにっこりと微笑む。

「ふふ、貴方がそんなこと口にしていいんですか。」

俺の立場を完全に理解していないと出てこない台詞。怪しすぎにもほどがある。なのに真意を込めた声色で、俺に誓いを立てるんだ。

「やります。俺に出来ることなら、なんでも。」

何者かはさっぱり理解らない、何が目的なのか、どこから現れたのか、何故、俺に仕えることを選んだのか。

ただ直感で思ってしまった。

こいつは、味方だ、敵じゃない。

阿呆、なんの根拠があって、そんなん言うねん!

秋斉の説教が聞こえてきた気がする。

これは賭けだ。俺の直感があたるかどうかの賭け。

まぁ裏切られたら、その時に考えればいいし。

そう言い聞かせながら。

俺は、もう、奏音のことを疑うつもりがあまり無い自分の気持ちには、気づかないふりをして、薄く笑った。

「じゃ、明日から、ひとまず町回りをよろしく。」

「はい!」


(4)深まる疑惑

「今日はわてと常連周りをしてもらいます。」

「常連周り? ですか?」

「せや。あんさんの場合、言動が怪しすぎるさかい、むしろ顔馴染みを増やしたほうがええ。長崎から来はった医者を目指してる学士や、藍屋の居候や、と町の人に覚えてもらうんや、そしたら多少変わりもんでも京の人は受け入れてくれはる。」

「あぁ、京の人って学生に優しいですもんね。」

「なんや、経験したみたいなこと言わはるな?」

「うっ、」

まったく、どうしてこう隙だらけなんだ、この少年は。自分の怪しさは自覚しているだろうに、それを隠すのが下手過ぎる。
頭はいいと思うのだが、どうしてこういう方面は疎いのか。よほど裕福な環境で育ったのではないか。それなら知識量には頷けるが、そうなると良家の子息が何故怪我を負って壬生浪に捕らえられていたのかの説明がつかない。

茶屋の桔梗屋に顔をだし、主人に挨拶をさせると主人が困り顔で言ってきた。

「下の子が咳が酷うてな。薬は苦い言うて吐き出してしまうんよ、どうにかならんやろか? 蘭医学は京のお医者さんとはちぃと異なるんやろ?」

さて、医術の心得は多少ありそうだったから、医者の振りでもさせようと思ったはいいが、まさかいきなり診てほしいと言われるとは予想してなかった。学士やから、かかりつけのお医者さんにちゃんと診てもらったほうがええんとちゃいます? と、なんとか断ろうとしたのだが。

「診せてもらってもいいですか?」

奏音は診ると言い出したのだ。おい、大丈夫なのか?

子どもが寝てる部屋に上がらせてもらう。布団に横たわっている子どもの胸をはだけて胸に直接耳を当て、口を開けて喉の奥を見たあと脈をとる。それなりに医者らしくは見える。

「綿花とか、さらし布なんてあります? あと菜箸もあれば。」

主人が店のものに用意させたそれを受け取ると菜箸の先に布を巻き付けて丸くしたと思ったら、懐から入れ物を出して中に入ってるものを先っぽに塗り付ける。

「藍屋さん、この子の頭押さえてもらっていいですか。」

言われるままに押さえると、口の中に菜箸を突っ込む。

「あ、がが、ぐぇ、ふぇぇぇ、痛いぃ」

子どもが泣き出すが口の中に突っ込まれている菜箸のせいで大きな声はだせない。おい、本当に大丈夫なのか?
主人も訝しんでいる。ヤブ医者? という表情だ。

菜箸を取り出すと、子どもは咳き込んで泣きだした。
主人の顔に怒りが混じり出す。まずいな、なんとか言い訳を、と考えていると。

咳が鎮まった子どもが、キョトンとした顔で呟いた。

「なんや、すーすーする。」

「苦しいの、少し減った?」

「うん、兄ちゃんあんがとー」

「これ、お医者さまや、ありがとうございます、て言い、」

「構いません、俺は勉強中でまだ医者じゃないですから。」

にっこりと微笑んで、奏音は少年の頭を撫でたあと、桔梗屋の主人に別な入れ物を渡す。

「これは胸に塗って咳を鎮める薬です。夜寝る前に塗ってください。肺から危ない音は聞こえませんでした。数日で咳も鎮まるでしょう。生姜湯とか梅粥を食べさせて、油ものは与えないでください、用意できるのであれば果物もあげてください。ビワでも桃でも。」

いったい何者だ、お前は。疑いはまえよりも深まった。

が、敵意は若干減っていた、ことには気付かなかった、この時はまだ。



(5)妖しの少年

宿屋の一室で奏音からの報告を受ける。奏音は砂庭と鹿威しを見ていて「こんなとこ借りたらいくらかかるんですか。」とおどおどしていた。
秋斉は良家の子息か、宮家の女性が駆け落ちして外国人との間にできた子どもではないだろうか、と俺に言っていたが、そうは思えないのだ、態度がどこか庶民らしい。知識量だけが、何者かと訝しくなるほどやたらとあるだけで。

奏音の父親の日本文化研究はそこまで精度が高いのだろうか、だとしたら、外国と日本の差に慄然する。

「薩摩藩は島津さんの影響で、現在のところは反幕派の力は弱いですね。」

「長州はどうだい?」

「桂さんが抑えていますね、慶喜さんの動向を見守るって動きのようです、ただ、桂さんたちは、何かきっかけがあったら、いつでも倒幕に傾きますね。そういう思想です。」

「う~ん、もう一度、会って説得しようかな。」

幕府側の長州弾圧を抑えるのには、長州過激派に派手に動かれると困る。抑えられるものも抑えられなくなってしまう。

「一度、植民地になったらどうなるのか、植民地にはどうやってされるのか、実例をあげて説明し、脅すのがいいかもしれませんね。理解しているのは一部だけなような気がします。」

「お前は実例を知ってるのかい?」

「はい。狙われるのは内戦中なんです。」

「内戦……」

「片方に列強の外国が耳打ちします、軍を貸すから、反乱分子を潰せ、と。そうして、他国の軍を本土に入れてしまったら終わりです。反乱分子の対抗から守る為だと居座り、実行支配され、民衆の命を人質に好き放題搾取されます、それが植民地化です。

いま、一番狙われているのは幕府でしょうね、甘い言葉で誘いをかけてくるんですよ、力を貸すから長州を潰そう、と。幕府がやたらと強気に長州弾圧に動いてるのが怪しいです、外国の差しがねかもしれません。」

ゾッとして、顔面蒼白になるのをなんとか堪えて笑ってみせた。

「それは怖いね。」

と。他の密偵が入手した噂に、フランスが長州弾圧を支持すると幕府に援助を申し出ていると聞いていたから。

「長州をなんとか味方にしたいですね、内戦だけは起こさせたらダメです、絶対に。」

「うん。それにしても奏音、すっかり自分の知識、隠さないようになったよね。」

「貴方の部下ですからね。」

ニヤリと笑って少年は言い切る。

「貴方の役に立つ為なら、知ってることはなんだって話しますよ。」

なんというか、落ち着かない気分だ。ひねくれた愛情表現しかしない兄貴と、態度は恭しいのに腹黒い幕府の狸どもに囲まれているせいか、こんなに真っ直ぐに、屈託無く好意を示されることが全く無かったから。
嬉しいような、恥ずかしいような、くすぐったくて、どんな表情をしたらいいのか判らない。

「その割には自分の身の上話はしないくせに。」

「しない、でも、できない、でも無いんです、判らないんですよ。」

「え?」

「俺が、何処から来て、何者なのか、この国の言葉でどうやって説明したらいいか判らないんです。妖しかなんかだとでも思っててください、それに近いです。」

なるほど、人間では無い何か、みたいな存在だと言うのなら、どんな育ちを想像しても当てはまらないはずだ、こんなこと秋斉なら絶対に認めないだろうけど。

「ふふ、妖しが部下ってのも悪くないね。」

「楽しいでしょ? そんな将軍様もありじゃないですか?」

「やめてよ、俺は将軍にはならないってば。」

お前の正体を知った時、俺は哀しくて泣くことになる、それは、まだまだ先の話だ。


(6)予兆

カタリ、と音がしたので、ふすまを開けた。

「奏音はん? 帰ったんか? えろう遅かったな、」

「え、奏音はん、まだ帰ってないん?」

台所に用でもあるのか向かう途中の花里が眉を寄せた。

「なんか、あったんやろか?」

「お世話になっとる旦那はんの具合を見に行かせたんや、話が長引いて捕まっとるのかもしれん。もう少ししたら、わてが迎えに行きます、あんさんは、はよ、寝なはれ。」

「ええ~、心配や、うちも起きてたい。」

駄々をこねる花里を宥めすかして二階に追いやる。自分の部屋に戻って帳簿を付け始めたが落ち着かない。

奏音は町並みをすっかり覚え込み、迷わずどこでも行けるようになっていた。慶喜の指示通りの場所に忍び込み、何故か、どうしてそんな情報まで手に入るのだ、どうやって近づいたんだと思われるものまで手に入れてきた。

「情報が近すぎるやろう、やはり間者やないんか?」

「間者なら、向こうの情報を明け渡す意味がないじゃない。」

「攪乱が狙いなんとちゃいます? 罠や、きっと。」

「奏音、言ってたよ? 同じ俺の部下なのにずっと秋斉に疑われてるってさ。」

「あたりまえや、ひとつも正体が判らんのに信用できるわけあるかいな。」

「奏音は、妖しなんだってさ。」

「はぁ?」

「何処から来たのか自分でも説明出来ないんだってさ。」

「あほらし。」

そんな会話を慶喜と交わしたあとしばらくした頃、奏音は偶然、古高殿とも知り合い、今は長州藩との連絡役にもなっていた。深入りさせすぎだろう、そう慶喜に言っても「あいつは大丈夫だよ」と笑うだけだ、なんで素性も判らずに信用出来る? 我が弟ながら理解に苦しむ。

ガタタと外で物音がして、表に出向く。

「奏音はん、と、高杉はん? か? どうして、」

顔をあげた奏音を見てギョッとする。泣いてる?

「どないしたんや、なんで泣いてはるんや」

「新選組の土方に殺されかけてたんだ。」

「は?」

何故、新選組が奏音を?
どうして高杉殿が一緒に?

混乱した。

疑い続けていたはずだったのに。

身内で少しは信用出来るはずの土方に何故か怒りを覚える自分に狼狽して。

そして、自分が助けられなかったことを悔やんで。

目の前で肩を抱かれ、泣いているお前を見て、何故か、高杉殿に嫉妬していた。

この時はそれには気づいてなかったんだ、ただ訳のわからない気持ち悪さが胸を掻き回すだけで、

あんさんに惹かれていた、なんて解るのは、まだまだ、先のことやった。


(7)再生

「幼馴染みに会えた?」

「はい。」

ニコニコして報告する奏音に片目をつぶって問返す。

「はぐれたのは、兄、じゃなかったっけ?」

「あ。」

しまった、という顔をする奏音に笑ってしまった。話し方は理屈っぽいが、この少年は表情が豊か過ぎて嘘がつけないのだ、密偵は向いていても、間者には向いてない。

「この際だからさ、まぁ妖しだと言うなら何処から来たかはもう聞かないよ、話せる部分だけ俺には話さない?」

「そうですね、いろいろ隠してるとやり取りが面倒ですよね。」

「まず、医術の心得があるようだけど、何故あるのかな?」

「薬を研究しているカレッジ、ええと、こちらの言葉だと塾、ですか? そこに通っていました。だから、外科、ええと、腹を切ったり、骨を繋いだり、なんかは門外漢です、まるで解りません。怪我は応急処置くらいしか出来ません。ただ、薬を飲む病気には詳しいです、専門は植物から薬を作るほうです、京には薬膳料理が多いのでそれの研究に来ました。山には野草を調べる為に篭っていたんです、それで誤って沢から滑落しました。」

時折、言葉を言い直す癖がある。なのに門外漢なんて言葉はすらっと使う。

「日本語は何処で習ったの?」

「習ったというか、小さい頃から話してました。母親が日本人だと話しましたが、父も日本人なんです。父の母がイギリス人なんです、祖父がイギリスに渡ったときに産まれたのが俺の父なんです。だからハーフじゃなくてクォーターなんですよ。」

わら半紙に筆で1/2、1/4と表記する。なるほど合の子をそう表現するのか。

「育った場所は、」

「それは、話せません。」

「ふむ、京には薬の研究に来て、」

「はい、むしろ、藍屋さんに居候させてもらって食事の心配をしなくて済むし、山に入って植物採取は出来るし、医者道具も藍屋さんに買ってもらえましたから。俺の目的は叶ってるんです、慶喜さんの仕事を手伝いながらでも。」

「政治に詳しいのは何故だ?」

「父の研究対象が吉田松陰さんだからです。書物をよく読んでいました。それで慶喜さんから一橋慶喜って名前を聞いた時に、安政の大獄で謹慎されていた慶喜さんだ、と理解りました。」

「そういう、ことだったのか。」

直感は確信に変わる。奏音は敵じゃない、味方だ。

「俺の夢は、薬をもっともっと研究して、みんなが病気の心配をせずに長生きして、楽しく過ごせるような世界にする、その末端を担うことだったんです、でも、」

俯き、拳を握り締める。

「病気の前に、弾圧や内戦で人が死んだら、意味ないです、どんなに助けても。」

固い決意を瞳に宿らせて、真っ直ぐに俺を見つめる。

「だから、慶喜さんの理想を叶えます、次期将軍の手助けをしたいんです。」

「何度も言ってるけど俺は将軍にはならないよ?」

秋斉も俺を将軍にさせようとしてるみたいだけど、俺は幕府を崩壊させるつもりだ、将軍にはなれない。

「いいえ、なってもらいます、俺はそう動きます。貴方が将軍になったほうが世の中は良くなる。」

「なってすぐに壊すかもしれないのに?」

「はい、壊すなら、心臓部から壊しましょうよ。」

俺はそれは徳川家への冒涜だと思って迷っていたんだ。

「家康公が掲げた天下泰平を新しい組織でもう一度掲げましょう。家康公の再来と謳われる貴方の名のもとで。」

力強い言葉に、どうしようもなく惹きつけられる、もう、何者でも構わなかった。


(8)葛藤

とりあえず、疲れているようだから休ませてやってくれ、という高杉殿の提案を受け、奏音を部屋に向かわせた。

台所からお茶を持ってきて縁側に座る高杉殿に出すと

「なんだ、酒じゃないのか。」

と渋い顔をされる。

「呑みたいなら揚屋におこしやす」

「ふん、商売上手だな。」

「なんで新選組に狙われとったか聞きましたか?」

「土方の先走りのようだ、新撰組の総意じゃない、慶喜殿と我らを繋ぐ奏音を葬ろうとしたらしい、慶喜殿が幕府を裏切るつもりだと勘繰ったのだろうな。」

薩摩藩からの狙い撃ちには警戒して、その方面の仕事の時は気づかれないように手持ちの護衛をつけていた。まさか幕府側から狙われるとは。

最近の慶喜は奏音と一緒に居る事が多い、表向きは医者だが優秀な密偵だと敵側に噂されているのかもしれなかった。

「そんなに瀬戸際やったんか?」

あんな風に泣くほど。意外だった、頭が良く油断ならない、敵かもしれない少年。命を狙われたとは言え簡単に泣くようには思えなかった。

「安堵して積み重なってた寂しさが堰を切ったのだろう、家族に、二度と会えないのだと言って泣いていた。」

奏音は妖しなんだよ、慶喜の冗談を思い出す。何処から来たのか自分で説明出来ないと話していた。そんな馬鹿な話あるかと疑っていたが。

家族に二度と会えない、何処から来たか話せない。

つまり、なにか事情があって家族と離れ離れになり、それを他人には話せない、話せる立場にはない、ということだろうか、ならばそこを聞くのは酷か。

「俺は藩内の敵に狙われている身でな、しばらく京に潜伏する予定だ、暇潰しにあいつを護衛することにしたから、藍屋殿も協力を頼む。」

「高杉はん、今日初めて奏音に会うたんやろう? なんでそこまでするん?」

「古高殿や桂から聞いていたからな、優秀な密偵だ、我等に必要な存在だ、護るべきだろう。」

「得体がしれへんのに?」

「隠し事は多いようだな、だがそんな事情は誰にだってあるだろう、あいつは隠し事が多くても、語る言葉に嘘は無い。おべっかをつかう腹黒い連中より余程信用に値する、そんなの、」

ニヤリと笑ってお茶を飲みきると

「身近に居るあんたが一番判ってることじゃないのか?」

そう言って湯呑を置き高杉殿は「次は金を払って酒を呑みにくる、馳走感謝する。」と去っていった。

まったく、どいつもこいつも、あっさりと奏音を信用しくさって、誰も疑わなかったら、いざ裏切られたときにどないするつもりや、

俺だって、本当は、信用したい。

けど、慶喜の影として、すべての者に警戒を怠るわけにはいかないんだ。

心を許すな。どんなに、惹きつけられたとしても。


(9)線引きをしない

会津武士の性格を利用して、動きやすくする為に新選組の評判をあげたい。

奏音がこの提案をしてきたとき、俺は随分と複雑な思いを味わった。

「ほんに不思議な人どすなぁ、物騒な計画を持ち込む人らは多いけんど、あんなん言い出す人には初めて会いましたわ。」

「きっと、誰もが思うのかもね、こんな奴会ったことがない、いったい何者だ、ってさ。」

「慶喜様は、奏音はんを疑っとるので?」

「いや、俺はもう正体はどうでもいいや、心意気で信じてみようと思ってる。まぁ秋斉はいまだにいろいろ勘ぐってるみたいだけど。」

「性根かもしれまへんな、きっと藍屋はんには、わても疑われとるんやと思います。」

「まぁ、そうだろうね。」

「ほんに不思議な人や、奏音はんは、慶喜様もわてのことを半分は信じてへんやろうに。奏音はんは話した人はたいてい信じてしまわれる、たとえ、新選組であっても、仲良うしようとしはる。」

どんな風に、どんな場所で育ったらああなるのだろう、よほど平和な環境で育ったんだろうか。

そんな風に思っていたのに。

秋斉から土方に命を狙われた経緯を聞いた。ほとんど俺のせいだ。なのにそんなことはまったく気にも止めてないようで、

「新選組の評判をあげたうえで、長州藩の出入り禁止を撤廃して、薩摩、長州、土佐、会津、桑名で同盟を組みたいんですよね。」

などと、言い出す。

「それは不可能に近いんじゃない?」

と言っても

「いや、そうでもないです。拮抗した力関係はきっかけ次第でいくらでも変えられます。」

そうつぶやき、独り言でブツブツと策を練っているのだ。

命を落としかけたというのに新選組への私怨は一切持たず、将棋を差すかのように未来を見据えている。

「家族に二度と会えないんやて。」

秋斉が目を伏せて言った。それでも疑うことは止めない、という態度。ただ、

「疑いは持ち続けますけんど、本人には優しくしよかと思うとる。出身や故郷のことはもう聞かへん、狙いがあって隠しとるんかと思うてたけど、事情があって、言いたくても言えないだけかもしらん。」

茶化そうかと思ったけどやめておいた。俺にも住んでた場所は話せないと言っていた。妖し、なんて言って笑っていたけど、本当はもっと辛い理由なのかもしれなかった、それは聞くのは酷だろう。

「ところで慶喜様、奏音はんのこと可愛い部下やと思うてますか?」

「可愛い? いや、頼りにはなるけど可愛くはないよ、あいつ、けっこう嫌味なとこあって秋斉に似てる。今はお互い距離を取ってるみたいだけど、あの二人に手を組まれたら俺は毎日揶揄われるんだろうなって嫌な予感がするよ。」

「意外と鈍おすな。」

「は?」

「いえ、なんでもあらしまへん。」

扇子で口元を隠して、目で嫌味っぽく笑う。まったくこいつも秋斉に似てるよ、俺の周りにはこういう人を揶揄って喜ぶ人間ばかり集まるな。

さて、奏音はずいぶん憂鬱な顔を浮かべて、秋斉に協力を願い出に帰っていったけど、上手く、頼めたんだろうか?


(10)演技

「あ~また負けたぁ、奏音はん、強いわぁ。」

「だんだん速くなってきてるよ、花里ちゃんは反射神経がいいね。」

「はん、しゃ? て、なに?」

「ん~、と、目で見たものに対して即座に手が動く体の中の仕組みのことだよ。」

「へぇぇ、体のなかに? そんなんあるんや、ほんますごいなぁ、医者て、なんでもわかるんやなぁ。」

「いや、なんでも解るってことはないけど。」

相変わらず自分の知っていることをよお喋る。ちょっとは脳無い振りでもすれば疑われないものを。頭がいいんだか悪いんだかわからん人や。

自分の手や体を見て感心している花里の後ろから声をかけた。

「二人で盛り上がっとるようやけどなにしてますのや。」

「あ、旦那はん。旦那はんもやろうや、旦那はんなら奏音はんに勝てるかも。」

勝てる? 何かの勝負事か。向かい合って座る二人の間には絵柄が入った札が畳の上に乱雑に散蒔かれている。

「花札、ではないようやな?」

「似てますけどね、外国の花札みたいなもんです。」

「ほぉ。」

「やります? 藍屋さんなら確かに強いかも。」

「奏音はん、うちらには手加減するもんなぁ、旦那はんとなら良い勝負になりそうや。」

「言うときますけど。わては勝負事で負けたこと、ほとんどあらへんよ?」

「俺も将棋なら強いですよ?」

「わてとはやったことないやろう。」

「やります? 将棋。」

「ダメ! 将棋やったら、うちが見ててもわからんもん、おもろない!」

花里が口を尖らせて反対した。

「とらんぷ、や。旦那はん。すぴいど言うんやって。」

「一対一でやるものだし、遊び方が分かりやすいんですよ、頭での計算より、目で捕らえる力とか、手の速さが大切です。」

「花里の得意そうなやつやな。」

「うん、女の子で一番強いのはうちやねん。えへへ。」

「もお少し稽古もそんくらい一生懸命やってくれたらなぁ?」

「う。」

嫌味を言うと眉間に皺を寄せたあと、顔をぱっと綻ばせて言う。

「せや、旦那はんが奏音はんに勝てたらうち稽古頑張る!」

「阿呆、そんなんなくても稽古を頑張るんは新造の仕事やないか。」

「旦那はん、勝てへんの?」

ニマニマと笑う花里に

「あとで泣き言を言うても聞かんからな?」

と笑い返した。

遊び方を奏音に習う。とらんぷ、という絵札には外国の数字の下に筆で漢数字が書き足されていた。花里が見守る中、勝負をしたところ、

「やったぁ、奏音はんの勝ちや。」

「やっぱり藍屋さんは強いですね、本気でやったんですけど負けそうでした。」

「もう一回や」

「え?」

「あかん、賭けはうちの勝ちやもん」

「花里の稽古は別でええ、奏音はん、もう一回やろ」

奏音は呆けた顔をしていたが、やがてクスクスと笑って、

「いいですよ、お付き合いします。」

ととらんぷを切り始めた。

新撰組に潜伏させるようにした、と慶喜に話したら「ええ? だって奏音、土方君に斬られそうになったんだよね?」と驚いていた。

少しは泣き言か愚痴でも言ってくるかと思ったが奏音は問題なく通っているようだ。

「俺、武術とかやったことないから、楽しいです。」

「楽しい、か。」

「はい。」

小さい頃から、武術全般を習わされ、強くならなきゃならないことが当たり前だった。
慶喜を護る為、敵を殺す為、影となり、身代わりになって死ぬ為に。
辛いと思ったことはない。慶喜のことはずっと大事に思ってきたし、護りたいと思っている、今でも、これからもずっと。

決して負けることは赦されない、それは死を、そして慶喜を孤独に追いやることを意味する。だから力をつけた、学んだ、芸も磨いた、どんなことでも勝たねばならなかった。

「あ、惜しい、ちょっと奏音はんが速かった。」

「上達早すぎますよ、藍屋さん。すごいな。」

「もう一回やろ」

「藍屋さん、やるなら他の子も呼んでいいですか? 大人数で競える勝負もあるんですよ。」

「奏音はん、うちババ抜きやりたい。」

「それはあとでやろう、新しいのを教えるから。ポーカーっていうやつ。」

「それは、どんなん?」

「速さじゃなくて駆け引きと表情に出さず相手を黙せるか、が大事。」

「え~、そんなん秋斉はんが有利過ぎるやない。」

「うん、だから藍屋さんの好きな遊び方かなって。」

「ええのか? 奏音はん。それなら勝ってまうよ? あんさんの表情は読みやすい。」

普段、表情に出しまくりなくせに。とニヤリと笑う。

「俺は勝負事なら、無表情に出来ますよ。」

「へえ?」

「遊びの中で騙してもいいってお互いに了承してるなら罪悪感無いでしょう。」

……普段、嘘が付けないのは、そういう理由だったのか。

「なら、わてが勝ったら、夜、もう一回すぴいどで勝負や。」

「ははっ、どんだけハマったんですか。」

生き死にがかかってなく、負けてもいいけど、勝ちたい勝負。

それが、こんなに楽しいなんて。

あんさんに会うまで知らずに過ごしてたんや、奏音はん。


(11)勝負

「中川宮を幽閉しましょうよ。」

「へぇ!? これは驚きましたな。奏音はんまでそないなことを言い出すとは。」

揚屋での密会中、奏音が言い出した提案に古高は苦笑していた。

「長州の過激派のかたたちからも、何度か聞いたことやが……実現は不可能だと、わては思います。」

「けれど成功すれば長州藩の出入り禁止は有栖川宮様の力で撤廃出来ますよね? 公家落ちさせられた卿のかたがたも戻れる、そうですよね?」

「そら、幽閉出来たなら有栖川宮様がそうなさりますが……」

「なら、やりましょう。」

「どうやって?」

「女で誘き寄せます。」

奏音が策を話し出す。ここ数日ぶつぶつと練っていた作戦だ。
新撰組の評価を上げる為に遊女を救い出したのが第一手で今回が二手目だとするなら、この少年はどこまで先読みして手を考えているのだと恐ろしくなる。
味方だったからいいものの、こんなのに敵側に居られたらたまったもんじゃない。

「なるほど、屋敷に踏み込むわけやないんか。」

「そんなことしたら犬死にですね。」

「犬死に、なんて使うんだねぇ。」

「う、慶喜さんまで藍屋さんみたいなこと言いますか。」

「ふふっ、嫌だろう?」

「嫌ですよ、思い出すからやめてくださいよ。」

新撰組に連れて行かれてどうやって潜入させられたか、土方くんがどれだけ秋斉を睨んでいたかを奏音に聞かされて、俺は笑った。笑って笑って笑い過ぎて、奏音に「いつか仕返ししますからね。」と睨まれたのだ。

仕返しか、俺がそれを楽しみにしているなんて、知らないだろう? 奏音。

「奏音はんは……慶喜様のことをどれだけご存知なので?」

奏音が居ない時に古高に聞かれて、

「立場も裏の顔も全部知ってるよ。」

と答えると、古高は目を白黒させて、言う。

「そ、そうでっか。異人さんやから身分が気にならないんでっしゃろか。」

「俺はお前にそうやって丁寧に扱われるのも嫌なんだけどね、もっとくだけていいのに。」

「そんな恐れ多いこと出来まへん、堪忍してください。」

俺を雑に扱うのは秋斉くらいだ。他はどうしたって遜る。それを寂しいとは子どもの頃から何度も思った。本当の本当に小さい頃は、秋斉だって無遠慮に俺を弟扱いしていたのに、少し成長すると態度が変わった。
俺はそれを受け入れたくなくて反抗したけれど、そうすると、罰を受けるのは俺ではなくて秋斉なんだと判ってからは、その余所余所しい態度を受け入れざるを得なくなった。

親の監視からは解放され、秋斉に以前のようにじゃれつくことが出来るようになったのは嬉しい。
けれど子どもの頃に戻れたわけじゃない。秋斉の俺への扱いは雑だけれど、それだって俺がそれを喜ぶからやっているだけで、俺の部下が居る前や、御所に居る時は秋斉も俺に頭を下げる。
そして、あいつはいつだって俺を優先する。自分の望みなど持たず、影として生きる道を選び、俺の身代わりとなっていつでも死ぬつもりだ。

俺はそれが哀しい。寂しいし、悔しい。

だけどそれを秋斉に伝えたら、秋斉が困ってしまうから。

きっとあいつは俺のそういった気持ちも全部解ってて、それでも影を選んだ。

だったら俺はせめてあいつの望む通りの表を歩くべきだろう。

だけど。

「けど、最近、俺は慶喜さんの気持ちが解ってきましたよ。」

「ふ~ん? なんかあったのかい?」

「藍屋さんは負けず嫌いで、勝負事が好きなんですね。」

「え?」

「最近、トランプっていう花札に似てる外国の遊びが置屋で流行ってて。毎晩、勝負に付き合わされてます、藍屋さんは負けるともう一回もう一回って言うんですけど手加減は絶対にするなって言われてるから勝負が長引くんですよ。」

本当の本当に小さい頃。無遠慮に弟扱いされていた頃。

俺たちの遊びは如何に高い木の上に登れるかという勝負事だった。

秋斉は誰より高い木の枝に軽々と登って、悔しがる俺に「手加減されて勝ったって嬉しくないだろ?」と笑っていた。

どんな勝負事も全力で、全部俺に勝っていた秋斉。いつしか勝負自体をしてくれなくなった、周りが許さなかったから。

「慶喜さんが今度置屋に来たら七並べをやろうって藍屋さんと話してるんですよ。」

「どんな遊びなの?」

「性格に問題ある人が勝つ遊びです。」

「それ、絶対に俺が負けるじゃないか!」

「ええ!? なに自分だけ性格が良いみたいに言ってるんですか? 慶喜さんだってけっこう意地悪なくせに!」

「か、奏音はん、心臓に悪いから、慶喜様にそんな言い方は……」

秋斉ともう一回勝負事が出来る。秋斉が俺に勝つ気で手加減なしで仕掛けてくる。

それが俺にとってどんなに嬉しいか、知らなかっただろう?

奏音、お前のおかげで俺は最近楽しいんだよ、すごく。


(12)不可能を可能に

幕府を無くすつもりだと慶喜から聞いた時、俺は激昂した。

「お前がそんな事を言うな。」

立場も京言葉も忘れて睨みつけて言う俺に慶喜は辛そうな顔で目を伏せた。

「国の為には、その方がいいと思う。だから、俺は将軍にはならないよ。」

「わてはあんさんを必ず将軍にします。あんさんが将軍にならはったら幕府は変わる。倒幕派も鎮静できるはずや。」

250年続いた天下泰平を壊させてなるものか。外国に打ち勝つ為だと言いながら、幕府を潰し徳川家を亡くすことを最重要に考えている過激派の好きになんかさせない。

その為になら、なんだって厭わない。自分の身も、感情もどうだっていい、慶喜の希望すら、この大義の為になら犠牲にする。たとえどんなに恨まれても、必ず将軍にする。慶喜以外でこの情勢を打破できる者など居ないのだから。

そんな事を考えていた時だ、奏音、お前が現れたんだ。

最初は敵側の密偵だと思っていた。屈託ない態度も正直過ぎる振舞いも油断させる為の演技だと思っていた。

けれど。

「俺も慶喜さんが将軍になったほうがいいと思います、が、今すぐ、ではないですね。」

「へぇ? いつやったらええのや?」

「朝廷から外国討伐の許可を得たら、幕府の態度は反転すると思いませんか?」

「……ほぉ」

「龍馬さんに頼んで勝さんと手を組み、幕府を総大将にして長州、薩摩、土佐、桑名、会津連合で外国を打ち倒す。その功績で慶喜さんを将軍にします、その時期に将軍になったのなら、攘夷派の反発は薄い。」

「そんなうまいこといきます?」

「それに向けて布石を打ってるんですよ。」

「あんさんは囲碁用語まで嗜みますか、たいしたもんや。」

「う、まだそれ言います?」

困った顔でシュンとした犬のような態度に笑がこぼれた。頭をぽんぽんと撫でる。

「何者やろう、とは思ってますけど、敵やとはもう思ってない。嫌味言うのは癖や。」

「癖? 趣味じゃなくてですか?」

「ほぉ、あんさんも言うようになりましたなぁ。」

「う、ごめんなさい。」

俺はずっと国のために、徳川のために、慶喜のために、

自分の身や他人の命すら犠牲にして、大義を成し遂げるのが最善だと考えていたんだ。

敵は敵だ。個人的には恨みはないが、ぶつかったのなら、邪魔するのなら、情けはかけず排除する、それが正しい道だと信じていた。

けれどお前は自分の身を犠牲にしない。

自分のやりたいことを口にする。望みを捨てない。ぶつかったら話し合うのだと言う。協力を要請するのだと語る。
そんなことは無理だと嘆く周囲にニヤリと笑い、そんなこともない、と鮮やかに手本を見せる。

事実、長州と新撰組は敵同士であるのに、そのどちらもお前の事は敵だとは見なさない。お前が間に入って手を繋がせようとしていて、最初は絶対に無理だと思えたことが、いま、実現しようとしているのが見える。

長州の3秀が揃いぶみで奏音の言葉に聞き入る。土佐の坂本殿も居る。

バラバラの方角に進もうとし、ぶつかりあい、争っていた者たちが、並んで同じ方角に歩きだそうとしている。


「久坂さん、吉田さん。俺の目的は薩摩藩、長州藩、土佐藩、会津藩、桑名藩で連合をくみ、イギリスやアメリカの艦艇を沈めることです。叩き潰して思い知らせます、簡単に制圧出来る小さな島国なんかじゃないと。二度と植民地にしようなどと思わせないような強い日本を作る、それが俺の理想です。」


奏音、その言葉に俺がどれだけ震えたか、知らないだろう?

幕府は無くなる、徳川家も無くなる、それが最善だと語る風潮が増え始め、慶喜すらそれを受け入れようとしていたんだ。

けれど、お前は徳川家は潰さず、幕府を生まれ変わらせるのだ、と言った。滅ぼすのではなくて、新しく生まれ変わらせるのだと。

そんな望み、考えたことも無かった。それを叶えるのだと言う、そうして実現に向けて進んでいる。


知れば知るほど解らなくなる。

いったいお前は何者だ。

けれど、もう認めざるを得ない。

演技など出来ない、隠すことなど不可能だ。

俺はお前に惹かれている、どうしようもなく、心から。



(13)感謝

「奏音はんは、どうしてそんなに慶喜様にかいがいしいのやろ?」

「かいがいしい?」

かいがいしいって表現はおかしくないか、小姓じゃあるまいし。

古高のつぶやきに奏音は首を傾げる。

「なんでそんなこと聞くんですか、急に?」

「さっき奏音はんが言うてたからや。慶喜様の部下になったんは偶然やと。わてはてっきりもっと以前からの部下なんやと思うてた。奏音はんの慶喜様への忠誠は深いやろ? その理由が判りまへんのや。」

「なるほど、古高さんから見ると慶喜さんは尊敬に値しないと? だそうですよ、慶喜さん。」

「へぇ~そうなんだ? 古高、そういう気持ちだったんだね? 知らなかったよ。」

「め、滅相もありまへん、そんな意味やないです、堪忍して、奏音はん、相変わらず人を揶揄うのが好きな人や。」

奏音はクックッと腹を抱えて笑っている。そうなのだ、この少年は意外と悪戯好きなのだ。最近は秋斉と組んで俺を揶揄いだしたから質が悪い。

「苦労を表に見せずに、愚痴もこぼさず、飄々としながら、大変な事を成し遂げて、それを自慢しない、まだ足りない、もっと頑張らないとならない、努力しなきゃならない、と思っていて、自分が一番大変でしんどいくせに、周りに居る人間の心配までする、そういう人でしょう、慶喜さんって。尊敬するに決まってるじゃないですか。」

「奏音はん。」

「はい?」

「あんさんの言い方はほんま真っ直ぐというか含みが無いというか……」

「……だって日本語と、この国の文化をよく知らない俺が含みなんて持たせられるわけないでしょう、思ったことはそのまま形を変えずに言わなきゃ変な伝わり方しますもん。」

「せやな、確かに日本語は達者過ぎるけんど、ところどころおかしい部分ありますな。」

「でしょう?」

「けんど手加減したらんと、慶喜様が困りますやろ。」

古高が俺を見る。頼むから話をこっちに振らないでほしい。

「ああ、あれは解っててやってます。最近、藍屋さんと俺の二人で遊んでるんですよ、慶喜さんをいかに褒めて照れさせるか、藍屋さんと競ってるんです。」

「頼むから、その遊びやめて、ほんとに!」

そうやって頼んだのに、また俺は秋斉と奏音の二人に揶揄われている。なんかこの二人いつの間にか仲良くなってないか?
まぁもともと質は二人とも似ているのかもしれないけれど。

それにしても秋斉の化粧が巧いのか、随分と綺麗に化けたものだと思う。

黙っていると本当に遊女のようだ。身体は少し華奢だとは思っていたけれど、こんなに女に見えるとは思ってなかった。

奏音は秋斉と二人で俺を揶揄ってクスクスと笑っていたが、ふと真面目な顔をして俺に向き直り、畳に手をついた。

「俺、最初にここに来た頃、いろんなものを諦めて冷めてました。」

確かに、最初は心細そうにしていた。俺の事も何処か訝しむ様子だったと思う。奏音が真っ直ぐ俺を見つめて続ける。

「素性の怪しい俺を受け入れてくれてありがとうございます、仕事を与えてくれてありがとうございます、俺を信じて頼ってくれてありがとうございます、俺に生き甲斐と仲間を与えてくれたのは貴方です。約束します、俺は絶対に貴方を裏切ったりしない。貴方の理想を叶える為に。死ぬまで付いていきます。」

顔が真っ赤になるのを抑えられなかった。奏音は深々と頭を下げたまま、秋斉に、その格好でそんな男らしい挨拶するなと窘められてクスクスと笑うが、頭を上げない。おそらくは俺の為に。

……お礼を言いたいのは、俺のほうだ。

最初は、利用できるなら利用して捨て駒にしようとしてたんだ。

そのうち直感で味方だろう、と決めて腹を割った。

けれど、今は。

今は、秋斉と同じくらい信用している。

お前が、俺の傍に現れてくれて良かった。

奏音、お前の存在そのものに感謝する、ありがとう。


(14)正義とは何処にあるのか

中川宮の幽閉に成功し、有栖川宮の働きで長州藩の京出入り禁止が撤廃され、新選組が長州藩を追う必要も無くなった。高杉殿達は萩へ戻り、薩摩藩と同盟すべく活動を行っていた、届く文からすると順調なようだ。

しかし幕府側を慶喜が説得するのは苦労していた。幕府側は朝廷に許可を取らず通商条約を結んだことをきっかけとして、攘夷が活発化したというのにその過ちを決して認めなかった。条約締結は正しい、外国を穏便に受け入れることこそ国を救うのだと譲らなかった。

外国に対抗する武力など持ち得ていなかったのだから、条約締結には識者たちも納得していたのだ、問題はそれが朝廷の許可を得ていないことにある。

攘夷派はそれを問題にしていたのに、幕府はその思想を弾圧した。それが安政の大獄だ。

通商条約締結の際の過ちを認めることは弾圧の過ちを認めることにもなる。慶喜は弾圧の際に謹慎の罰を受けていたから、慶喜相手には尚更認めたくない、そんなところだろう。

苦戦する慶喜に対して、立場的にも身分的にもなんの手助けも出来ないまま、日常を過ごす。俺は情報を集める、奏音は薬を作る。

そんな風に過ごしていたある日だった。

「御用改である。」

置屋に新選組の取調べが入ったのだ。

「藍屋秋斉殿に相違ないな?」

知っているだろうに、事務的に告げていく。

「カナタ=パミュパミュに反幕の疑いがかかった。即刻身柄引渡しをせよ。」

二階から何事かと遊女たちが降りてくる。花里がわなわなと震えて言い返した。

「突然なんやの? 奏音はんなら、昨日まであんさんらと一緒におったやないの!」

「花里、やめなはれ。」

ギリリと奥歯を噛み締め、表情に怒りが出ないように振る舞う。

「奏音はんは慶喜はんの雇った通訳で医者見習いや、反幕の意志なんてあるはずがありまへん、なんかの間違いではおまへんか?」

「彼が、枡屋吉右衛門の店に通っているのをご存知でしょう、藍屋さん?」

「へぇ、なんや病気を治した命の恩人やと言わはって、贔屓にしてもろうとるみたいどす、薬の材料を頂いてると聞きました。」

「枡屋の番頭さんから密告がありました。大量の武器を保管しているのを発見、捕らえて屯所に連れていってます。反幕の罪をやがて吐くでしょう。パミュパミュさんも枡屋の仲間だという密告が我々にあがってきました。」

「この人手なし! 悪鬼! なんやの? なんやねん、その態度! おかしいやろ!?」

花里が泣き叫ぶ。沖田総司はそちらを見ることなく表情も変えずに俺を見ていた。

「奏音はんはなぁ、あんさんの薬の為になんぼ山に通った思ってんねん! どれだけたくさん野草を探して歩いてるんか知っとる!? 毎日、毎日、手ぇ傷だらけにして、薬つくって、あんさんに届けて、それを、それを、なんやの!」

今にも飛びかかりそうになっている花里を他の遊女や番頭が必死に抑えていた。

「奏音はんなら出かけました。置屋中を調べてもらうのは構いまへん、ただ遊女連中は起き抜けさかい、なるべく静かにお願い出来ますか。」

「旦那はん! なにこんなのの言う事聞くんや!」

「藍屋殿、彼の行き先に心当たりはありますか?」

新撰組の若い隊士が聞くのに、声が震えないように堪えて応えた。

「近藤はんが風邪を引いてるそうやな? それに効く喉の痛みを和らげる薬の材料を取りに行く言うて、いつもより早う出かけましたんや、あんさんらに捕らえられると知った後でも、薬を届けに屯所に向かうかもしれへんな? 奏音はんなら。」

怒りを抑えて静かに微笑むと、若い隊士が辛そうに目を伏せた。

声が聴こえる。

「新撰組のみんなも攘夷派も過激派も。一人一人に悪い人間なんて居ませんよ。」

「悪い人間なんて居ないなんて、綺麗事は言うつもりないですけど。完全悪の組織っていうのは無いと、俺は思ってます。」

話せば話すほど、何者か判らなくなるのに、知れば知るほど惹かれていく。

俺は勝手な人間だ。最初に奏音に会った時に何を考えていた?
利用できるなら利用して、都合が悪くなったら処分しようと言っていた。

「なにが命令や! なにが君主や! なにが任務や! そんなもんでなぁ、そんなもんで、自分の体の為に薬を作ってくれる奏音はんをいたぶるんやったら、あんたらの大事なもんてなんやねん! なにがしたいねん! 世話になった人一人守れんで、なにが正義や! あんたらなんか正義ちゃうわ!」

その通りや、花里。

本当に大事なこととは何か、俺はずっとはきちがえていた。
俺はお前のようには新撰組のことを責められない、俺も彼等と変わらないから。

どれだけの人間を殺めただろう。話も聞かず、解ろうともせず、いろいろな事から目を逸らして、仕方がないと言い訳をし、大義の為だとつぶやいて。

睨みつけ、怒鳴り続ける花里に、新選組の誰もが、無礼だなどと言い返すことはなかった。目を合わせず、彼等は命令通り任務を遂行する。

新選組が古高殿を捕らえて、ここに奏音を探しにきたということは、奏音はまだ捕まってはいないということだ。

奏音はん、

奏音はん、頼む、どうか、どうか、無事で居ておくれやす。


(15)上に立つもの

秋斉からの報告を受けた時は血の気が引いた。

「花里に、新選組は悪くない、て言うてたんやて。」

秋斉が呆れ顔で眉間を抑えた。

「正直者が騙される世の中が悪い言うとったそうや、組織が君主に忠誠を誓うんは悪いことやない、と。ほんまにあの人は……どこまで……自分の身が危険やとゆう時に。」

古高の店には長州に繋がる証拠などいっさい残してないと奏音は話していた。密告さえ無ければ新撰組が踏み込むことも無かっただろう。
大量の武器は外国船に対抗する為のものだ、反幕ではない、だが表向き一介の商人が持つものではない、それをアダに取られた。京の町中にある店で大量の武器を保管していた、とあれば、京都守護を務める新撰組や俺が捕まえないわけには行かなくなる、動くしかなかった。
俺が古高を庇うわけにもいかない。武器保持の目的と素性を調べないとならないが古高が口を割るはずはなかった。あの男の師匠もまた、吉田松陰殿と同じ弾圧と拷問で亡くなっている。

俺だけが。

俺だけが謹慎のみで、拷問から逃れた。

「奏音殿は昼間は一箇所に留まらず、ずっと歩き通していますね。」

「夜は?」

「動向が掴めません、日が暮れる頃から尾けていても撒かれてしまいます、なので刺客にも見つからないかと。」

敵の追尾に長けている俺の部下でも撒かれるのか、お前はいったい何者なんだろうね? 今はそれが安心材料になるけど。

「あの方は、本当に妖しなのかもしれませぬ。」

俺が奏音は妖しなんだと言ったら、どう反応したらいいのか困り顔で身をすくめていた密偵がそんなことを言い出した。

「千里眼を持っているとしか思えないのです。一度、夜に出会って話したことがあるのですが。」

「へえ?」

「相当遠くに見える藪に身を隠していた刺客の人数まで言い当てました。遠回りした方がいいと、言われてなければ、命が無かったかもしれませぬ。」

「確かに。どうやって手に入ったんだという情報もよく報告してきたよね、それが疑いの素になったりもしたけど。」

「あ、いえ、そういうことでなく。」

「うん?」

「……その、なので、あの方は隠れることや逃げることに長けているので、きっと無事で居てくれるはず、です。」

「……俺はそんなに参った顔をしていたかい?」

情けない。

誰もが弾圧されず、皆で話し合い、斬り合わない、そんな政治をする、それが俺の野望。

なのに全く上手く行かない。誰の立場も決定的には動かせない。俺が幕府に手こずっている間に、こんな最悪な事態を招いてしまった。
新選組が古高を殺めてしまったら終わりだ。幕府側と長州の和解は更にあり得なく なる、衝突は必至で、内戦に発展したら、そこを外国につけ狙われるだろう、支配されてしまうかもしれない。

全員と仲良くしようとして、全員に嫌われ、全員を危険に晒し、この国さえ亡くなる。

皆がひとつになるなんて実現不能な夢物語で、甘すぎる、犠牲を出しても最小限に抑え倒すものは倒し、この国が支配されるのだけは避ける、という手もあったんじゃないのか、俺のやり方は間違えていたんじゃないのか、何もかもを得ようとして、見誤り、何もかも台無しにするのではないか。

そうやって打ちひしがれ、密偵に心配までされて。

何が家康様の再来だろう、そんな風に呼ばれる資格、俺にあるとは思えなかった。

「頼りにならない上で済まないね、不満だろう?」

「いいえ。こんなに命を大事にしてもらえる君主は初めてです。」

「甘い、何も出来ない、では意味が無いよね。」

「奏音殿に聞かれました。上に立つ人間に必要なものはなにか? と。」

「そんな話したんだ?」

「はい、私は統率力と決断力ではないか、と答えたのですが。」

俺にはそれがあるとは思えなかった。

「違うと言われました。逆だと言うのです。」

「逆?」

「一人では決められなくて、周りに聞く優しい人がいい、と。みんなをひとつにまとめる力ではなくて、ひとりひとりに耳を傾けて悩む人がいいのだ、と。その方が支えたくなる、付いて行きたくなる、力になりたいと思う、頑張れる、と。そう言ってました。」

奏音。

お前が俺の傍に現れてくれて良かった。

「なるほど、と思いました。私も今はそう思います。慶喜様を支えたいのは、慶喜様が優しくて、悩む御方だからです。」

頼む、どうか。

どうか、早く、俺の傍に帰ってきてくれよ。


(16)嫉妬

息を切らして走るなんて、何年振りだろう。焦りと不安で身体が震える。身体は熱を持っているのに、芯から冷えている気分だ。嫌な予感が脳裏にこびりつき胸の中を泥で埋めていくような感覚。

慶喜が雇っている手下とともに今回の古高捕縛命令がどこから出たのかを探った。

根っこは幕府の大老やった。

慶喜の政敵。内戦を引き起こし、長州を武力で押し潰そうとする一派の親玉。

つまり狙いは慶喜と、奏音の首だ。

奏音は密偵として動きやすいように医者見習いという表の顔を晒しまくっている、狙いやすい、ということだ。刺客にとっては。

久坂殿が置屋に顔を出し、奏音からの伝言が伝えられた。新選組を攪乱し、屯所から引き離して欲しいとの依頼。

「奏音はんは何処へ?」

「屯所に向かい古高殿救出にあたると言っていました、内部構造を良く知っているのは自分だから、と。」

潜伏させ、探らせたのは俺だ。奏音なら間違いなく自分の身を一番危険な場所に置くだろうことも解っていた。

「藍屋殿。私は感激して泣いてしまいました。奏音殿はたいした男ですね。あんなに華奢で強そうには見えないのに、誰より心が強い。」

俺もそう思う、だが問答無用で命を狙ってくる政敵の刺客には弱い、勝てないだろう。新選組に見つかったとしても奏音なら乗り切れるとは思うが、怪我で動けない古高を抱えて刺客に見つかったらおしまいだ。

慶喜に奏音の状況を報告し、攪乱を頼み、再び走る。俺は屯所には向かえない、刺客は俺の顔を知っている、俺が目印となって奏音がかえって狙われやすくなってしまう。

走り続けてようやく目的の人物に出くわす。

「高杉はん!」

高杉は普段の俺からは想像もつかないような大声にギョッとして振り向いた。

「どうした、なにをそんなに慌てているんだ、あんたみたいな人が。」

「奏音はんが危ないんや、」

「なに?」

「今回の古高殿捕縛、命令出したんは幕府の大老や、新選組も古高殿も利用されたんや、狙いは奏音はんを孤立させ、殺すことや。」

「あいつは死なせたらダメだ!」

「わては幕府の刺客には顔が割れてます、かえって狙われやすうなる、頼みます、奏音はんを、護ってもらえまへんか。」

「いや、俺のほうが目立つ、それは藍屋殿がやったほうがいい。俺は屯所に向かい奏音に事情を話してくる、古高殿は俺が薩摩藩邸に運ぼう、あいつは一人のほうが逃げ切れる。」

「せやかて、奏音はんは潜伏が長引いて疲れとる、匿わなあかんやろ。」

「置屋に向かわせる。置屋で落ち合え、女の姿にしてあんたが安全な場所に連れていきゃいいだろう、あいつの女姿を知っているものは俺たち仲間だけだ。もう行くぞ。」

「京都御所に連れていきます。」

「それはいい、慶喜殿のもとなら安全だ。」

背を向けて走り去る高杉に懇願する。

「奏音はんを頼みます!」

置屋に戻る間、ガタガタと震える腕を摩りながら自嘲する。

自分だって始末しようとしてたくせに。

奏音はんを失うのが、今はこんなに怖い。

高杉が『俺たち仲間』と言った。久坂殿は感激して泣いたと言った。いったいどんなからくりを使ったんや、あんさんは。本当に妖しなのかとも思えてくる。

いっそのこと妖しであってくれ、とも思う。それなら、簡単に死んだりはしないだろうから。

置屋に戻り、奏音がまだ居ないことを確かめると周辺を探して歩いた。刺客や見張りは置屋周辺には居ないようだ、まさかこの場所に戻ってくるとは考えられないからだろう。

嫌な予感で身体がちぎれそうになる。もう間に合わなかった?

置屋にまた戻ると、二階に灯りが点っているのに気付いた。あそこは花里の部屋だ、慌てて二階にあがり、ふすまを開けると、

奏音が花里の腰を抱き寄せて、額を小突きあわせているのが見えた、瞬間、

頭が沸騰するような感覚。

人がどれほど心配したか、何をいちゃついてんねん、というのは半分も無かった、そのせいにしたけれども。

俺は、何故か、こう思ったのだ。

なんで、俺じゃなくて、花里が最初なのかと。

不安で離れ離れになって、最初に来るのが、どうして俺の元じゃないんだ、という嫉妬。

その感情に狼狽し、怒りが抑えられなく、俺は奏音を掴みあげて壁に背をうち付けるとギリギリと首を締めた。こんなこと、するつもりなかったのに、何故か止まらない。

ゴン、と鈍い音がして目眩がして座り込む。遅れて後頭部に痛みが走る。

「奏音はんは女の子や! なに首締めてんねん!」


(17)死なせない

襖を開けた時、片方は腰を浮かせ脇差しに手をかけた。武士の反応としてはそれが普通だ。

だがもう片方の男は盃を手にしたまま、上品に微笑んで言ってのけた。

「おや、ずいぶんと色男が道に迷ってきはった。言い寄る女から逃げてる最中どすか? 旦那はん。」

どんな時でも表情を崩さない、どんなに苦しくても、辛くても、痛くても、怒っていても微笑む。

壮絶な拷問にも耐え、それでも自分たちの考えは間違っていない、正しい道を歩け、と獄中から弟子たちに伝えて亡くなっていった識者たち。

この国のことを誰よりも愛し、誰よりも懸命に考える者たちを殺し続けた悪政。

あんなことは、二度と起こしてはならない、絶対に。

長州密偵の元締めが揚屋を密会場所に使っているらしい、という情報までは手に入るものの、それがどこの揚屋なのかはなかなか判らない。花街には揚屋はいくつもあって、そこに呼ばれる置屋の遊女たちも自分が明日どの揚屋に呼ばれるか判らないから、秋斉も呼ばれた揚屋での探りは出来ても、他の揚屋を探ることは出来ず、なかなか掴む尻尾さえ在処を見つけられずにいた。

そこで俺は金を湯水のように使い、揚屋を梯子して遊び歩く何処かのぼんぼんを装うことにした。髪を派手な色に染めたのもその為だ。
外国人の金髪が生まれつきの色なのは極稀で、ほとんどの人間は染めて出している色なのだと知って取り寄せてみたのだ。

ようやくたどり着いた男は、これは密偵には見つけられないだろうな、という優男だった。
どこから見てもやり手の商人にしか見えない。話してみると上品すぎる物言いに違和感があって気付く、という程度。遠目や二言三言の接触では気付くわけもなかった。

「顔の広い貴方に聞きたいことがある。」

「へぇ? なんでっしゃろ?」

「揚屋を密会に使っているらしい、長州密偵の元締めの噂を聞いたことはないかい?」

「そんな噂があるらしいどすな、わてにはさっぱり。見ての通り、商人が儲けた金を使って遊ぶ道楽者ですし。」

「俺には君が道楽者を演じてるだけに見えるんだが。」

「ならあんさんは遊び人を気取って何を隠してるんやろうね?」

「会って話がしたいんだ、元締めと。」

「話? 斬り合いではなく?」

「この国の未来について話したい。俺は、安政の大獄で亡くなったかた達は間違えてないと信じてる。あのかた達の理想を継ぎたい。俺は、残念ながら弟子にはなれなかったけど。」

昔から学問は嫌いだった。秋斉は書物を読むのを好んだから学術は秋斉がやって、俺は得意の武道を磨いてあいつと助けあえれば二人で天下を取れると思っていた。
けれど身分の違いと、その哀しさと秋斉の境遇の苦さを知らされて、仕方なく学術も磨き始めた、秋斉の為に。あいつが父に殴られないように、鞭を打たれないように。
俺の出来が良くなれば監視役の秋斉が怒られずに済む。
そうして様々な書物を読み漁る中、俺は彼等に文字の中で出会ったんだ。

「無益な争いは止めなきゃならない。恨みや仇で政治を動かしてはダメなんだ、あのかた達の遺志を継ぐ元締めなら、きっと同じことを考えてると思うんだ、俺たちは解り合えるし、話し合うべきだ。」

一気に言葉を注ぐ俺に微笑みの消えた隙の無い視線を向けていたお前は

「わてが元締めどす。あんさんは何者でっか。」

そう言ったあとに俺が明かした身分に随分と驚いていたっけ。

秋斉も古高も、そして奏音、お前もだ。

どうしてこう俺の周りは自分の身を犠牲にすることを厭わないのか。

お前たち、なんにも解ってないね。

誰も弾圧されない、好きな考えを全員が言えて、みんなで未来の日本を作っていく政治。

その実現の為に、お前たちが犠牲になってどうする。

誰かを犠牲にして成り立つ平和なんか、ちっとも俺の理想じゃないんだよ。

捕らえられた古高はきっと思ってる。自分が犠牲になっても他の志士たちが理想を叶えてくれるなら本望だ、とでも。

秋斉は俺の理想の実現の為に、いつでも俺を庇って死ぬ覚悟をしている。

ふざけるな。

死なせない。誰も死なせない。甘いと言われようが、無理だと言われようが、俺はその理想を追い続ける。

新選組の屯所に踏み込むつもりの奏音の為に、俺は京都御所に陣営を組んで、軍に指示を飛ばし続けた。
奏音たちは長州の軍勢が京に責めてくる可能性がある、と噂を流していた。俺はそれに乗って京都守護に動いた、振りをしていた。

そこに秋斉が息を切らして走ってきた時に嫌な予感がした。
あいつがあんなに慌てて息を切らすところなんか、俺は子どもの頃から見たことが無い。

「慶喜はん、今回の件、親玉は大老や。狙いは古高やなかった、あんさんの邪魔をする為に、奏音はんを狙うつもりや。奏音はんが孤立するように仕組まれたんや。」

全身の毛が逆だった気がした。

幕府よ。

家康様の理想を継いだはずの幕府よ。

俺たちが、いましていることを、家康様の前で、伝えられるか?

天下泰平を強く願う者たちを殺してどうするんだ。


(18)邪魔

奏音はんが女?

まったく思ってもいないことを聞かされて、受け入れられず、嘘をつくな、と花里に言うと、奏音が着物をはだけさせて乳房を見せた。目の前であらわになる白い肌と丸い乳房から腰にかけて流れる曲線は間違いなく女の身体だった。どうして気付けなかったんだろう。

花里に簡単に肌を見せたらダメだと怒られて謝る奏音に、この少年にしか思えない振る舞いで気づけるわけない、とも考える。華奢な少年だとは思っていたが。まさか女だったなんて。

花里はずいぶん前から知っていたらしい。

「奏音はん、なんで言わなかったんや。」

知っていたら、あんな危険な任務はさせなかった、夜出歩かせることも。

「そうやって手加減したり守られたりするのが嫌だったんで。」

こちらの考えを先読みし首に手をあてニヤリと笑ってみせる様はやはり少年にしか見えなかった。

女装を簡単に済ませ、京都御所に急ぐ。医者の格好をしてなければ何人もの刺客に一気に襲われることはないだろうが、俺の姿を見つけて一緒に居る奏音に目をつける可能性はあった。顔が知られているのだから、女装でも近くまで来られたらバレるだろう。

早く京都御所に匿いたい。そう思っていたら、後ろでドサリと音がしてヒヤリとする。

「奏音!」

「かすっただけです。大丈夫。」

「弓矢か。」

傷の形から弓矢の飛んできた方角にあたりをつける。二階からではない。暗闇で姿は見えないが気配を探り、視線を辿る。物音を立てれば気づかれると知っている刺客は間違いなくこちらの様子をまだ見ているはずだ。闇の中にチラリと動く物を察知した、目が人影を捉えた。

「居た。」

一気に走り向かう。人影は逃げるか、迎え撃つかの判断が遅れて、追いついた。この距離で弓を撃つ猶予などない。刀は抜いているはずもない。間合いに入った頃、相手がようやく刀を抜いた、もう遅い。

振り抜いた刀が相手の両腕をもぎりとり、腕が刀を掴んだまま宙に舞う。斬り口から血が降ってきて返り血を顔に浴びた。

奏音のもとに戻ろうと踵を返すと、奏音が顔面蒼白で立ち尽くしていた。おそらく人が斬られたのを初めて見たのだろう。へなへなと地面に座り込む、腰を抜かしたか。

「立てるか?」

歩み寄って気付く。様子がおかしい、呼吸がうまくできていない、まさか、弓矢に毒か?

奏音を抱えあげて京都御所に走る。随分と軽い。前にもこうやって抱きあげていたら女だと気づいたかもしれない。

いや、そうだろうか?

中川宮の幽閉をする為に誘惑の罠をしかけ、かかるのを待った翌日、俺が護衛をしながら遊女姿の奏音と潜伏した時、中川宮の従者が橋に現れた時は二人で笑いを堪えるのが大変で、奏音が俺の口を手のひらで塞いだ。
その白くて華奢な指先の感触に、ふと笑いを引っ込めて、奏音の瞳を覗いた。
奏音も笑うのをやめて、視線が絡まる。奏音が指先をつつ、と唇になぞらせた時に、思わず煽られた自分に驚き

「なんや、中川宮の誘惑の練習かえ?」

そう言って誤魔化すと。

「ははっ、藍屋さんを騙すのは無理ですよね。」

奏音も指を離した。

もしかして、俺はあの時に気付いていたんじゃないのか、尊敬と友愛が勝り、その信念と強さに惚れ込んで、理想の仲間だと思うあまり、間違いなく男だと考えていたかっただけで。

京都御所に着き、入った座敷の畳に奏音を座らせる。毒を盛られたのかと確認すると違うと言うように首を振る。かこきゅう? とはなんだ、病名では解らない。対処法を訊ねると、自分の吐いた息を吸えばいいのだと言う。ならば俺が吐いた息でもいいのだろうか、と人口呼吸の要領で奏音の口に何度か息を吹き込んだら、状態が鎮静した。
人が死ぬのを初めて見たのか、と聞くと、友人が目の前で何人も亡くなったのを思い出したのだと話す。
高杉が言っていたことを思い出す。家族に二度と会えないらしい奏音。どんな平和な育ちをしたらこうなるんだと考えていたのは誤りだったのかもしれない。こいつも訳ありで色々なものを抱えていながら、それでも強い眼差しで和平を宣言する奴なのだろう。

奏音が泣きながら、自分の弱さを謝る。

お前はなにも自分のことを解ってない。お前の強さに、どれだけ周りが憧れているか、

俺がどれだけお前に心惹かれているか、

どれほど好きか、ひとつも判ってない。

奏音の頭を掴み、背中に手を回して抱き寄せて、人口呼吸ではなく、唇を吸う。

「んっ、藍屋、さん?」

戸惑う瞳をじっと見つめる。そしてもう一度唇を重ねる。下唇を甘噛みして、離す。髪を優しくすきながら微笑むと、意味の通じた奏音は顔を赤らめて目を伏せた。その目を追いたくて、抱き上げて膝の上に奏音を乗せて下から覗き込む。
逃げ場の無くなった奏音はおずおずと俺の肩に置かれていた手を俺の首後ろに回した。瞳をじっと見つめたまま着物の裾から手を差し入れて膝から太股に撫であげていく。

「んぅっ」

内腿を優しく摩りながら深く口を吸いあってたっぷりと濡れている突起をコシュコシュと撫でた。

「やんっ」

奏音が堪らず出した高い声に酔ってしまいそうだ、その時。

「奏音殿! 古高殿をこちらに運んでまいりました! 手当てをお願いしたい! どちらにおられますか!」

俺に抱きついていた奏音は名残惜しそうに俺から離れると

「手当てに行ってきます。」

と赤らめた頬をパシパシと叩き、少年の顔を取り戻して部屋から出ていった。

……

……一瞬腹黒い気持ちになったが、確かに今はあんなことしてる場合じゃなかったと反省する。

邪魔をされたのは惜しいが、まあいい。

奏音が嫌がらず、物足りなそうに残念そうに向かったのだから、充分だ。これからゆっくり堕として、俺だけのものにする。

今まで、自分から何かを欲しがったことなんかない、いつだって慶喜に譲ってきた。

俺は人生で初めてこんなことを思っているんだ。

奏音、お前だけは、他の男になんか渡さない。


(19)想定外

薩摩藩邸に古高が無事運び込まれたようだ、と手下から報告があがった。

攪乱は上手く行った。だが奏音と秋斉は無事だろうか。

枡屋の店から武器を押収し京都御所に運ばせた。これはそのまま船に積んで外国船対抗の為に持っていこう。

いや、待てよ。武器だけじゃダメだ。

「他に薬品や薬草や薬を扱う道具類もあっただろう、それらも全て押収するように。」

命令を下す。奏音が一生懸命集めた材料や道具類は奏音に返してあげられるように。

それから手下に薩摩藩邸の古高も押収した道具に紛れこませて京都御所に運ぶように指示を出した。奏音から結城君も奏音と同じ医術や薬の知識があると聞いてはいたけれど、薬品や人手に限界があるだろう、京都御所で奏音や医療班に治療にあたらせたほうがいい。

「藍屋殿と奏音殿が無事、御所に着きました。怪我をしていますが、軽傷でした。座敷を用意して休んでもらっています。」

「そうか、古高が来るまではゆっくり休ませてあげてくれ。」

心から安堵した。良かった、二人とも無事で。俺は攪乱の為に軍に指示を飛ばし続け、古高も回収し、医療班と奏音に治療にあたらせた。

翌朝、殆ど寝ていないが、目が冴えて中庭の井戸に顔を洗いに行く。

「おはようさん、あんさんも眠れへんかったんか。」

秋斉が苦笑する。

「疲れたねぇ、さすがに。けどまぁみんな無事だったし。」

「内戦も防げたな。」

「うん、良かった、本当に。」

そこに奏音も来たので、休むように勧めた。治療でほとんど寝てないはずだ。

なのに奏音は自分はこのくらいしか出来ないから、寝なくていいなどと言いだす。

……頭に来た。

気がついたら平手打ちをしていた。

奏音が、誰かを殺す覚悟と強さを自分も持たなきゃいけない、なんて言い出したから。

馬鹿だね、お前は。

そんなの全然、強くないのに。

お前の方が、よっぽど、誰よりも強いのに。

「お前の気持ちは解るよ。お前は俺たちと共に戦うなら、俺たちと同じにならなきゃならないとでも考えてるんだろう? いいかい、奏音? よく聞いてね。

同じ土俵に立つことと、同じ修羅に堕ちることを履き違えちゃ駄目だよ。」

秋斉もつぶやく。

「いつも悪夢に襲われますな、殺される夢やない、人を殺して、殺して、笑う夢や、おっとろしくて、ゾッとするわ。」

「そんな経験しなくていいんだ。」

「強くなることと、虚しさに慣れることはちゃいます。」

「お前は」

「あんさんは」

「今のままが、一番、強い。」

奏音は目に涙をためて俺を見上げていた。

「お前は本当に不思議だよね、知っても知ってもよく解らない。この国で育ったとはとても思えないけど、この国の言葉を知り過ぎていて、外国から来たとも思えない、まるで外側からこの国を見ていたみたいだよね。もしかしてさ、奏音って天からの使いなのかい?」

なのに俺がそう言うと表情を急に変えた。

「うわ、なんすか、そのメルヘンチックな発想!」

「めるへん?」

「英語です。まるで小さな女の子が思い浮かべる夢のような事を言いますねって意味です。」

「なっ、だっ、誰が女の子さ!」

顔が熱い、恥ずかしい表現をしないで欲しい。横でププッという笑い声が聞こえて、秋斉が、もう我慢ならないというかのように

「はは、はっ、堪忍して、慶喜はん、昨日の今日で疲れとるのに、あんま笑わさんで、ふっ、ははっ、」

「天からの使いなのかい?」

追い打ちをかけるように奏音が俺の真似をすると秋斉は腹を抱えて崩れ落ちた。

「やめっ、奏音はん、堪忍、」

「二人とも意地悪だよ!」

怒ったふりでその場を離れる。秋斉はまだ笑っている。あいつ笑い上戸なんだよな、意外と。

揶揄われるのは恥ずかしいし、悔しいんだけどさ。

俺は、俺は、本当は、奏音と秋斉に揶揄われるのは、すごく嬉しいんだ。

昔に戻ったみたいで。

秋斉が俺の純粋な憧れの兄だったあの頃に戻れたみたいで。

そこに奏音、お前が加わって、俺の弟でさ。

三人でずっと今まで遊んでたみたいな、そんな錯覚があるんだよ。

そう思ってた。そのまま過ごせるような気がしてた。

ずっと三人で仲良く、兄弟みたいに。

そう思ってたのに。

夕方、一緒に風呂でも入ろうと言いながら浴室に入ったら。

そこには女の子の奏音くんが居たわけで。

ええっと。

これからは妹みたいに思えって?

それ、無理あるよ、奏音くん。


(20)宣戦布告

看病で疲れたであろう奏音が少し眠ったあと、すぐにまた古高の看病に戻るのを制して、風呂でも入っておいでと勧めた。

「藍屋、はん? ここ、は何処でっか?」

「御所や。」

「平気なんでっか?」

「心配要りまへん、狙いは長州やなかった。奏音はんの首や。根っこは大老どした。」

「大獄の時の一派でっか。」

「その生き残りやな、ひつこいなぁ、ほんまに。」

「ということは慶喜様の首も狙っとる刺客に、奏音はんが。」

「そういうことやな。」

「奏音はんは? 平気やろか?」

「沈んどったなぁ。余計なことを考えてたみたいや。あんさんの傷を見て。」

「わての?」

「自分にはこんな拷問に耐えられる覚悟が無い言うてた、枡屋に居るときに捕まらなくて良かったと思った自分が情けないんやて、そう言うてたわ。」

「何を言うとるんやか……奏音はんがあんな拷問受けとる思うほうが気ぃ狂います。」

古高が眉根を寄せる。全くだ。どこまで男らしくあろうとするんだ、お前は。

「奏音はんは、強くなりたい、て、よう言いますやろ。」

「言わはるなぁ。」

お前は充分強いのに、どうしてそうこだわるんだろう。

「守れへんかったもんが沢山ある言うてましたんや。」

「へぇ?」

目の前で友人を何人も亡くしたと言っていた。家族に二度と会えないとも言っていた。

「薬を学ぶんもその為やと。」

古高がじっと俺を見つめる。

「藍屋はんは、もう気づいとるんやろう? 奏音はんのこと。」

「気付く? てなんのことやろ?」

フフっと古高が笑って続ける。

「奏音はんは、守られたない、言いますけんど、どうか守ってあげてください。わては、もう、何も出来まへん。」

「出来てますやろ。」

「え?」

「あんな多くの材料の仕入れ、わてには出来んかった。たいしたもんや、あんさんの商才は。これから、奏音はんがやろうとしてることに、大量に薬や道具が要る言うてましたえ、その材料を全部用意したそうやないか。さすがは大御所の旦那はんや、居候の奏音はんにも金を使うてくれはって。毎度、藍屋をご贔屓に。」

「は、はは、う、」

「笑うと骨に響きまっせ。」

奏音に指示された通り、手ぬぐいを絞って熱を持った肌にあてがって冷やす。

「ずいぶんとましにはなったんどす。前は喋ることも出来へんかった。奏音はんが作った痛み止めは効くなぁ。ほんま何者なんやろう、藍屋はん、調べられんかったん?」

途中から探る気を無くしたということは言わないでおく。

「今のところ、天の使いやということになっとります。」

思い出してクックッと笑うと、

「それ、慶喜様が言わはったん?」

と古高も笑いを堪えられなくなって、痛みに顔をしかめていた。

「心を許してる、と言ってましたんや、奏音はんが。」

「心を?」

「へぇ。わてにも慶喜様にも藍屋はんにも高杉はんにも。信頼して甘えてて、とっくに心を許してる、だから、欲しい言われたら身体くらいいつでも差し出すと、そう言うてました。」

なるほど。だから抵抗しなかったのか。俺のみへの好意では無いということか。

そしてそれをわざわざ口にだすということは。

「牽制でっか?」

「ええ、まぁ。動けまへんから。口くらい出しときまへんと。」

まぁ。

お前と関わる仲間でお前に惚れない男のほうがどうかしてる。

それを奏音本人がまったく自覚して無いのが困るんだが。

「言うときますけど。」

ニィと口角を持ち上げて笑う。

「わては勝負事ではほとんど負けたことあらへんのや。」


(21)抵抗

白煙の湯気の中に立つ女の子。白い肌、くびれた腰、丸くて形のいい乳房。

綺麗な身体だなぁ、と思う。その少女は、ついさっきまで少年だと信じていた奏音くんの顔をしている。

奏音はしばらくきょとんとしていたけれど、やがて、口を開いた。

「こっち来て座ってください。お背中お流ししますよ、将軍様。」

え、えぇ?

なに、その余裕? あれ、俺の目の錯覚? 女の子の身体に見えるんだけど、やっぱり少年なのか?

「どうしても俺を将軍にしたいんだね。」

「なってもらいますよ、っていうか、俺がさせます、必ず。」

そう言って笑って、俺の肩を掴んで座らせると、背中を洗い出す、素手で。

細い指先が肌に直接触れて、股間が膨らみかけるのを懸命に堪えた。

「あ、あのさ、奏音くん、なんで手で直接洗うのかな?」

「磨き石だと余計な皮脂まで剥がれて肌に悪いんですよ。」

いや、肌に悪くてもいいよ、素手で洗われると、心臓に悪いよ。

もしかして、奏音の生まれ故郷では、こういうのが普通、なのかな?
それとも、冗談だと思っていた妖しというのは本当で実は性別というものが無いのかもしれない。女体に見えるけど、女体しか居ない妖しなのかもしれない。
じゃないと、こんなに落ち着いてられないだろう。だったら俺が変に意識したら奏音にとって迷惑なんじゃないのか?
そうやって必至に自分と自分の下半身を落ち着けていた束の間

「前も洗っていいですか?」

奏音が腰骨に指を滑らせて聞くから、

「そっ、それは自分で洗うから、いいです!」

焦って断り、振り返って奏音の肩を掴んで距離を取った。そんなことされたら絶対に我慢出来ない。

「背中、俺も洗ってあげるよ。」

後ろを向いてほしくて、そう言った。何言ってんの俺、そんなことして大丈夫? とは思うものの奏音が意識してないなら乗り切るしかない。そう思って口にした言葉。

「えっ?」

奏音が驚いて目元を赤くして俯いた。

あれ?

「あ、の……慶喜さんが俺を洗うのは、変、じゃないですか?」

「へっ?」

なんかおかしい。お互いにものすごい誤解をしてる予感がある。

「あの、俺は、奏音くんの国では、一緒にお風呂に入るのも洗い合うのも普通のことなのかな、と思ったんだけど、もしかして、違う?」

「俺は、慶喜さんは将軍になる家系の生まれだから、女中に入浴を手伝わせるのが普通なのかな、と思ってたんですが、」

「そんなことしないよ!」

「そ、そうですか、じゃあ、俺の誤解でした。あの、だから、本当はめちゃくちゃ恥ずかいしいんです、今。恥ずかしがるのが慶喜さんの気を悪くさせたら困るなぁと思って顔に出さないようにしてただけで。」

俯き、恥ずかしそうに身体をくねらせて、それでも怯えているわけではない様子に目眩がした。

「かわいい。」

「え?」

脇の下に手を滑らせて背中を引き寄せると泡とお湯でぬるぬるとして奏音の身体が簡単に密着する。

華奢でふにゃっとした柔肌に股間が膨らんだ。止まらない。

「奏音くん、かわいい。」

「かわいいって、なに言って、俺なんて、色気もなんにも無いですよ?」

額をコツンとあてて瞳を覗く。腰を振ってヌリュヌリュと股間を擦りつけた。

「んぁっ、や、けぇき、さん、」

「なんで、嫌がらないの? 俺の部下、だから? 奏音くん、よく言うよね、ついてく、とか尊敬してる、とかさ。」

俺は、そんなの欲しくないんだ。

同じ目線でいて欲しい。

「かわいいからです。」

「え?」

「俺より慶喜さんのほうがずっとかわいい。揶揄っても、あんなにムキになって返してくる大人の男の人あんま居ませんよね。」

クスクスと笑う奏音。あれ、同じ目線じゃなくて、俺、下に見られてる? もしかして。

身体を離して、ザブリと湯船に入る。

「今のうちに、先にあがってて。お願いだから。」

「怒っちゃいましたか?」

「怒ってない。」

「怒ってるじゃないですか。」

「頭冷やさせて。このままだと止まらなくて、奏音くんを傷つけちゃうのが嫌なんだ、頼むよ、その、大事なんだ、男とか女の子だったとか、そんなの判る前からずっと、一人の人間として、大事なんだ、お前のことが。」

「……わかりました、殿。」

ニヤリと少年の顔で笑って奏音が出ていく。絶対、下に見られてる。

「でも、俺、慶喜さんには十分過ぎるほど大事にされてるの身にしみてますし、慶喜さんになら何されても傷つかないですよ? 襲われても嬉しいだけです、抵抗なんてする気もなかったですよ、あと、」

恥ずかしくてこのまま湯船に頭まで浸かりたい気分になった。けれど続きが聞きたいから、そうしない。

「風呂入ってたら、頭冷やすの無理じゃないですか?」

なのに揚げ足を取るだけの言葉に聞かなきゃよかったと思った。

「ほんと、奏音くんて意地悪い!」

「ははっ、すみません、」

クスクスと笑いながら出ていく奏音を見送って、ブクブクと泡を吹かせながら俺は湯船に潜った。


(22)何が欲しい?

古高奪還からほどなくして、薩摩藩、長州藩、土佐藩による3藩の同盟が結ばれた。

対幕府ではなく、対外国が目的とされた同盟。そのうえで朝廷に外国討伐の出兵の許可を取る動きを見せながら、幕府側に一緒に出兵をしようと誘いをかける。

幕府側はなかなか動こうとはしなかった。だが着実に揺れ動いてはいて、慶喜や対外国船に向けた海軍を作るべきだとしていた勝海舟の発言力は日増しに増えていった。

もう少しでなんとかなるんじゃないか、と慶喜が話すなか、俺や奏音は対外国の為の準備に追われていた。

今、起きていることが信じられない。幕府は無くなる、徳川は滅びの道を辿る、長州戦争は避けられない、求心力を失った幕府は敗北するだろう。

そんなことを言う奴が多かったんだ、俺はそれに憤り、絶対にそんなことはさせない、と必死にやってきた。

なのに、今、長州が犬猿の仲と言われた薩摩藩と手を組み、さらに長州討伐を仕掛けた幕府に出兵協力を打診している。

いったい。

いったいどんなからくりを使えばこんなこと出来るんだ?

目の前の少年のような女、奏音を見て、そんなことを考えていた。

「ま、眩しい。」

「我慢してください。骨の再生には日向ぼっこが効くんです。」

「へぇ、そら、奏音はんがそう言うなら効くんでっしゃろうけんど、眩しいもんは眩しい。」

「なんかワガママになってませんか?」

あれは、わざとだ。俺の前で奏音に甘えてみせているんだろう。

俺は甘える、というのは、どうも苦手だ。

「たっぷり治療費請求したらええ、忙しい奏音はんの手をわずらわせてるんやから。」

「いや、俺の使ってる薬とか道具、全部古高さんに買ってもらってますし。」

「だいたい密偵の大元が番頭に密告されるような隙を作るとはどういうこっちゃ。」

「すんまへん、油断しとりました、毎日、薬を作りに通ってくる奏音はんに見惚れてましたんや。」

「奏音はんが、毎日帰ってくるのはわての店やけどな。」

「……なんかあったんですか? お二人仲悪くなってません?」

「いや、なんも?」

「気のせいや、奏音はん。薬の材料や道具は密偵に雇ってた代金換わりや。治療費は別に払いますよって。」

「そんなのいいですよ。」

「なんも欲しいもんないん?」

奏音が欲しがるものなんて想像がつかない。着物やら簪なら沢山良いものを買ってあげられるけど、そういうものに興味が無さそうだ、いや、自分の故郷の着物なら欲しいんだろうか? どちらにしろ手に入るものでは無さそうだが。

「いま欲しいのは顕微鏡ですね、でも無理かなぁ。」

「けん、び、きょう? とはどんなものでっか?」

「眼鏡のもっとすごいやつです。200倍とかに拡大できるんですけど。それがあったら発酵させたものから害にならない菌だけ分離して取り出せるんだけどなぁ。乳酸菌を作りたいんですよね。眼鏡を作ってる職人さんは知り合いに居ます?」

「居ります、あたってみまひょ。」

「それともうひとつ欲しいものがあるんですけど。」

「なんでも言いなはれ。」

「トランプを沢山作ってくれませんか。船旅は長いんで、みんなに教えて大会でも開こうかと。」

「藍屋はんがはまってるあれでっか。」

「はい。藍屋さん、負けず嫌いだけど、勝負事楽しそうにするんですよ。普段あんまり表情動かないんですけど、トランプする時はすごく楽しそうで。大会とかきっと嬉しいかなって。」

「表情動かない、ねえ。」

古高がニマニマと笑って俺を見る。本当に嫌味な奴だ、人の事は言えないが。

「そんなこともないようやけどな? 奏音はん後ろ見てみなはれ。」

「え?」

奏音が振り向く。扇子で口元を隠してはいたけれど赤くなった目元には気づかれた。

「ははっ、どんだけトランプ好きなんですか、大会、そんなに楽しみになりました?」

大会はすごく楽しみだけれども。

お前は解ってない。

俺が嬉しさを表情から隠せないのは、お前が、

お前の欲しいものが、俺を喜ばせる為のもの、だった、ことだ。


(23)兆候

「あ、おかえりなさい、慶喜さん。」

なんだか複雑な心境だ。幕府を説得するべく、勝や対外国船出兵に賛成派の幕臣たちと幾度も会合を重ねる。京都御所はもともと俺の住処として使用しているから毎日帰るのだけど、そのたびに奏音が言う「おかえりなさい」に嬉しくなる一方で、

「お疲れ様どした、慶喜様。」

奏音から看病をされている古高から言葉をかけられると、なんか、うまく言えないんだけど、腹が立つ。

いや、激励されてるのも理解ってるんだけどさ、俺の説得工作が遅れたせいで酷い拷問をされたことを申し訳なくも思ってる。

なのに、なんだか、古高が嬉しそうにしてる感じがするのが気に食わない。

なんなんだろう、この感情は。俺、疲れてるのかな。曲者の幕府の古狸を相手にして余裕がなくなっているのかもしれなかった。

「体の具合はどうだい? 済まなかったな、俺が至らないばっかりに、お前を師匠と同じ目に合わせるところだった。」

あんな大獄のような弾圧や拷問は二度と起こさせない、と誓い、懸命に動いてきたはずだったのに。

「慶喜様のせいやありまへん、わてが油断したばっかりに迷惑をおかけしました、奏音はんまで巻き込んでしまって。」

「奏音が狙われたのは俺のせいでもある。」

「慶喜様との仕事が危険なのは奏音はんも承知してたことどす、けんど、奏音はんを一時でも慶喜様や藍屋はんから孤立させたんはわてのせいや。」

ゴッ! と音がして、古高が痛みに顔をしかめた。

「黙れ、そんなこと二度と言うな、次言ったら殴るって言いましたよね?」

奏音が古高の額を殴りつけた音だった。

そんな約束してたんだ?
で、本当に殴るんだ?
しかも拳骨で!?

「奏音はん、酷い仕打ちや、手加減なさすぎやろう、」

「慶喜さんもです、なんなんすか、二人して。俺を蚊帳の外に置くのはやめてください。」

蚊帳の外に置いてるつもりはないんだけどな。

「俺のこと、強いって言ってくれたの嘘ですか?」

「嘘なんかじゃないよ? ただ、」

「藍屋さんが俺と同じ目にあっても、慶喜さんは心配すると思います、守ろうとするって理解ってます。けど、謝ったりはしないでしょ、相手が藍屋さんなら。」

奏音が悔しそうな顔で俺を見つめる。

ホント、お前って奴は。

あんなにちゃんと女の子の見た目をしているのに、中身は少年そのままだ。

俺も、秋斉相手にあんな顔をして、似たようなことを言った覚えがある。

「弟扱いはいいけど、弱虫扱いはしないでよ! 俺だって、秋斉を助けたい、守られてばっかりじゃ嫌だ! もっと頼りにされたいんだ。」

だから、奏音の気持ちはすごくよく理解った。そして言われる立場になってみて、あの時の秋斉の気持ちがやっと判った。

弱虫だなんて思ってないよ。ただもう少し甘やかしたいんだ、もっと甘えてくれないと、ちょっと寂しいんだよ、奏音。

「俺は、強くなりたいんです、目の前で大切な誰かが死んでいくのは、もう、嫌だ。俺に出来ることは何だってしたい。だから、甘やかさないでください、必要以上に守ろうとしないでください、もっと頼って甘えてください、みんなして俺のこと甘やかすのやめてくださいよ。」

「奏音はん、すんまへんどした。甘えていいんやったら、おでこ冷やしてもろてもいいですか? ちょっと腫れてる感じがするんやけど。」

古高が奏音にそう声をかける。

「うわ、本当だ、腫れてる!」

「力強く殴りすぎや、奏音はん。」

「ごめんなさい。」

奏音が古高の前髪をかきあげて額を柔らかく撫でた、あの華奢な白い指先で。風呂場で腰に回された指先を思い起こして顔が熱くなる。

「おでこ赤くなったのは俺のせいですけど。頬っぺも真っ赤ですよ?」

「意地悪なお人や、それも奏音はんのせいやろう。」

「なんで?」

クスクスと揶揄って奏音が笑う。あれ、なんだろう、おかしいな。

俺、どうして、少し奏音に腹を立てているんだろう?

「奏音くん、なんか、古高相手だと態度違うよね?」

「そうですか?」

「なんか、仲が良すぎる気がする。」

「あ~、故郷に居た時の恋人に似てるからかもしれません。」

「……え?」

恋人なんて居たんだ、いや、そうか、19歳だし。居たとしても不思議ではないか。

「わてに似てるんでっか?」

「見た目は似てないですけどね、年齢が近いです。相手32歳でしたから。」

19歳と32歳。なんだかよろしくない想像をつい、してしまう。

「揶揄うと面白いところとか、情けない感じとか、ついつい虐めたくなるところとか似てます。」

「なんて、酷い言いようや、」

顔を歪めながら、それでも顔を赤らめて嬉しそうに照れている様子に俺だけが喜べない。

なんだろう、俺、どうして、

どうして、こんなに腹が立つのかな?


(24)心踊る

朝からずっと大騒ぎだ。

「なぁなぁ、うちの簪知ら~ん?」
「それはこっちに詰めよ、重すぎたら運べへん、」
「鏡どうする? 割れたら嫌やわぁ、これお気に入りやねん、」
「これ使い、奏音はんがくれたんや。」
「うわぁなんやの? これ? やわこいわぁ」
「なんやったかな、えあぁぱっくん? みたいなもんや言うてた」
「ちゃうて、えあぁぱっちょんや、」
「えあぁばってん、やなかった?」
「ま、どれにしたって英語は判らんわ」

奏音からその提案を受けた時、俺は自分の気持ちを自分の言葉で表現するのが難しかった。

「藍屋さん、遊郭をやめて新しい商売を始めませんか?」

「へぇ?」

何を言い出す気やろう?

「貿易商の若旦那になってほしいんですよね。」

「ぼうえき……?」

「はい。外国の衣服や家具や雑貨や食品、嗜好品を輸入して売るんです。」

そんなもん売れるかいな。京の異人嫌いを知らんのか、と以前の俺なら言っていた、多分今でも他の京の商売人ならそう言うだろう。

けど、今は。

今の俺は、奏音の凄さを信じてる。

奏音がそう言うということは採算が取れるということなのだろう。今までだって、無理だと思われてきたことを次々と実現したのだから。

「遊女のみんなに売り子をしてもらいます、デパートガールになってもらおうかと。」

「でぱぁとがぁる? 売り子て、あん子らに突然そんなこと出来るやろうか?」

「強体験をさせましょう。これまでに想像もしなかったようなことを経験させて、価値観を一気に反転させます。」

「どう、やって?」

「外国との戦い。藍屋全員を連れていくんです。もちろん番頭さんも。」

外国との攻防や、政(まつりごと)は武士や貴族がやるもんやと思ってた。
無意識に、そう思ってたことに気付かされた。
だが言われてみると、はたとなる。

誰もが意見を言えて、弾圧もされず、殺しあわず、みんなで国をつくる政治。

そんな理想を掲げる慶喜、それを影となり支える自分。

けれど奏音の指す【みんな】は。

この国に住む、全ての人間を指しているんだ。

「奏音はん、」

「なんですか?」

「なんて言ったらええのかわかりまへんのや、祭りの前の夜のような、けど不安やら、怖いと思う気持ちも来たあとに、また先に何が起こるんやろう、わてに何が出来るんやろう、というこの気持ち、どう表現したらええんやろ、奏音はんに、新しくとらんぷの遊び方を教わる時の気持ちが一番近いんやけど、」

奏音がニヤリと笑う。「それはですね、たぶん、」


「旦那はん、もう少しで運び終わりそうやで。」

花里がたすきがけをして捲った腕をパンと打つ。なんだか奏音の影響を受けている気がする。
これ、はしたないやろ、と前なら怒ってた。けどもう必要ない。男をもてなし、楽しませる商売ではもう無くなるのだから。

「旦那はん、奏音はんとはどうなったん?」

ニマニマと笑う花里に笑って言い返す。

「堕としてる最中や。」

「うわぁ、めずらし! 旦那はんが本音言うたわ~」

「そら、奏音はんを狙うんやったら、一番仲ええ花里に嘘ついてもしゃあないやろ、」

「うちは旦那はん推しやねん、勝ってね? 秋斉はん、」

「推し? まさか賭けとるん?」

「菖蒲姐さんは高杉はんに賭けとるの。秋斉はんは押しが弱いからやて。」

クスクスと笑う花里を睨む。

「やかまし。誰が奥手や。」

「うちが言うたわけやないもん、文句なら姐さんに言うて。」

「一番は誰なん?」

「枡屋はんやなぁ、なんせ条件がええやろ? 優しいし、色男やし、羽振りがええし、秋斉はんは奏音はんに意地悪で厳しいから、て他の女の子は言うてるんやけど。」

あんな真似、俺には出来そうもない。

「うちは、奏音はんは厳しくされんの好きやと思うんや、だから秋斉はん推しやねん。」

本当か? 真に受けて駄目だったら恨むぞ。

「それにしてもあれや、旦那はん、うち変やねん、」

「どうしたん? 疲れたか? 休む?」

「なんか、こう、胸が変やの、これから船乗って、奏音はんや旦那はんと行ったこともないような遠くに行くやろ? 異人の前で舞も踊らなあかんやろ? 怖いんや、怖いはずやのに、なんや祭りの前みたいな、楽しみやけど、怖い、けど楽しみ、それの繰り返しなんよ、なんなんやろ? これ?」

奏音の声が聞こえる。それはですね、たぶん、

「わくわく、しとるんや」

「わくわく?」

「奏音はんが言うてた。そういうのをわくわくする、言うて。」

「わくわく、かぁ、うち今わくわくしてるんや?」

奏音はん。

わては、もしかしたら、あんさんに出会った時から、わくわくしとったような、そんな気がするんや。


(25)大空の彼方

奏音に頼みがあると呼び出され、向かった先はひらけた小高い丘だった。何故か二人っきりを期待していた俺は、そこに大勢の人間が居るのに少しだけ胸を痛めてそれに首を傾げる。ほんと、おかしいな、俺は。どうしちゃったんだろう。

そして目の前の光景に唖然とした。大きな翼のような木で出来た張りぼてに、つけられている自転車。

「慶喜さんなら、自転車乗ったことあるでしょう?」

いや、あるけどさ。羽は付いてなかったよ?

「他の人には頼めないんですよね、怖がるだろうし、すぐ落ちそうだし。慶喜さんなら結構な飛距離を出せるんじゃないかと思って。」

え、本気? 本気でこれに乗せようとしてる? と訝しむ気持ちが半分。けれどやってみたいという好奇心も半分。

「こんなに大きな羽は必要なのかい?」

「自転車の重さと慶喜さんの重さを計算するとこのくらい大きくないと飛ばないですね。」

「奏音くんて、飛行機も作れるんだ?」

「俺じゃないです。慶喜さんに文を書いてもらったでしょう、前に。」

谷田部藩領に住む飯塚伊賀七の弟子宛に一筆書いてほしいと奏音に頼まれた。からくり人形や人力飛行機を作り飛行実験を繰り返して藩に捕えられたという人物らしい、が、何故奏音はそんな人物を知っているのか。

使いを出すと本当に居た。

奏音を妖しだと話していた密偵は興奮して「やはり、奏音殿は千里眼を持っておられるのでは!?」と言っていたっけ。

その人物を呼び寄せ、作りたいものがあるから、資金を用意して欲しいと頼まれ、古高にもつての職人をたくさん紹介してくれないかと言って、奏音が看病の傍ら色々と行動していたのは知っていたけど、
まさかこんなことになっているとは思わなかった。

「日本の職人はやっぱり凄いなぁ。」

組み立てられていく羽を眺めて奏音がつぶやく。

「こんなんでいいんか? 奏音はん。」

「はい、完璧です、ありがとうございます!」

奏音は自転車に跨る。

「え!? 奏音くんが乗るの!?」

「テスト飛行ですよ、俺が飛ぶのを見たら、あとで慶喜さんもお願いしますね。」

丘の上から滑り落ちるようにどんどん速くなっていくのを、俺は丘のしたの平地で見守っていた、不安しか感じない、自分が乗るほうがまだいい、もし、落ちて、奏音が怪我をしたらと思うと怖い。

飛ばないでしょ、ただ滑り落ちてるだけじゃないか、あんな大きな羽飛ばないって、奏音くん、無理だよ。

そう思ってた。

「おおぉぉ、」

湧き上がる感嘆。フワリと大きな羽つき自転車が浮き上がり、少しずつ上昇していく。丘の上をゆっくりと旋回し、しばらく空を飛び回る、まるでとんびのように。

「すごい! ほんまに飛んでる!」

「ほんになぁ、あんな大きな羽無理やと思うたのに。」

その中にひとり立ち尽くして空をじっと眺める人がいた、目には涙を浮かべている。

もしかして、彼が弟子なんだろうか。

広く敷き詰められた藁の上にゆっくりと奏音が降りてきた。

俺は走り出して奏音に駆け寄り、自転車から降りた奏音を抱き上げた。

「すごい! 奏音くん、すごいよ!」

空をじっと眺めてた弟子と思われる男が俺を見て目を見開いた。

「ね? 言った通りの人でしょう?」

ニシシと奏音がイタズラっぽく笑う。

「なんの、話?」

「伊賀七さんは飛行実験を咎められて藩に囚われたんですよ、天上人の頭上を飛び回るなんて、けしからん、って理由で。」

「え。」

そんなこと考えもしなかった。

「だから俺は自慢したんです、俺の仕える殿様はそんなこと絶対に言わない、って。実験が成功したら、一緒に喜んでくれるから、って。」

降ろした奏音が俺を見上げて笑う。

「身分に関係無く、同じ場所で、同じものを見て、同じものに怒り、一緒に笑ったり泣いたりしてくれる、俺は、そんな慶喜さんだから、何があろうがついていく、そう決めたんですよ。」

胸が締め付けられるような苦しさ、なのに嬉しくてたまらなくて。

俺は奏音を強く抱き締めた。

どうしよう、なんだろう、奏音くん。

俺、変なんだ。奏音くんへの気持ちが前とは変わってる気がするんだよ。


(26)一枚上手

ちらりと視線を動かすと奏音と目が合った。すっと真一文字にされていて、いつものようには表情が読めない。

その隣に視線を動かすと、慶喜があまりにも解りやす過ぎる目の動かし方で手持ちの札がほとんど判る。

「ぱすや」

「パス2」

「ええぇっ!?」

思わず笑いそうになった。そんなあからさまに叫んでどうする。

目の前の2人は逆だなぁと思う。慶喜は仕事の時は演技も無表情も自在なのに遊びとなると表情を作るのが途端に下手になる。

かたや奏音は遊びとなると演技が巧くなる。幽霊役を楽しんでいた時など、役者になったらどうだと薦めたものだ。

なのに真面目に思想を語る時は、演技が出来ない。

逆なんだ。

逆なはずだが。

何故、二人とも人心を惹き付ける力があるんだろう。

「あ~また負けたよ。」

「パス1回多かったから藍屋さんに負けたのかなぁ。」

「ちゃうわ、慶喜はんの降参負けが早すぎたんや、あと1回まわってきたら奏音はんの勝ちやった。」

「意地悪すれば勝てる勝負、俺には無理だよ、君らには勝てないって。」

「何を寝ぼけたこと言うてますのや、自分だけええかっこして。」

「ん~……一休さんってのがあるんですけど。これは絶対俺が負けるしなぁ。」

「そんなこともないやろ、奏音はんが痛い言うて泣きそうな顔したらええんやから。」

「嫌ですよ、そんな手加減されて勝っても嬉しくないです。」

「ほんまあんさんは男みたいやなぁ。今でも疑わしいくらいや。」

「どういう遊びなの?」

「日頃の憎たらしさをぶつけたい相手の手を思いっきり叩ける遊びや。」

「えっ!?」

「違いますよ!」

「あの~、慶喜様、」

三人で言い合いをしている船室に慶喜の手下が入ってきて遠慮がちに声をかける。

すっと慶喜の表情が変化し「どうした?」と立ち上がった。

「あ、いえ、邪魔だてするつもりはなく、ただ会津公の具合が……」

「船酔いですかね、俺も行きます。」

「すぐに向かう。」

あっという間に去っていくその背中を見て思う。逆やけど、おんなしやなぁ。二人とも見ている場所が一緒なのだ。
俺は慶喜を見てる、奏音を見てる、藍屋の遊女たちを見てる、徳川家を見てる。
関わり、大切に思う者たちの為に動く、周りと足元だけを見てる。

けどあの二人は全体を見てる。この国、他国、過去、未来。だから民衆を人心を惹き付けるんだろう。

しばらくすると奏音が戻ってくる。

「どやった?」

「船酔いでした、吐き気止めを飲ませて寝かせてあります。」

「慶喜はんは?」

「眠るまで話し相手になるって言ってました。」

「奏音はん、全員分船酔い止めの薬作ってたやろ? 効かなかったんやろか? わてや慶喜はんは平気なのに。遊女たちもおかしな様子ないんやろ?」

「プラセボ効果でしょうね。」

「ぷらせぼ?」

「たとえば、ただの水を霊験あらたかなお坊様が息災安全に効くと唱えると、なにか水の味が違う、と思うことってあるでしょう。」

「勘違いやってこと?」

「いえ、人は信心で味覚すら変わるってことです、その人が信じてれば、その水で病気が本当に治ったりします、病は気から、というのは医学的にもほんとうなんですよ、それをプラセボ効果って言います。つまり、俺が効くよ、と出した薬を効くと信じてる人ほど効果が高いってことです。」

「なるほど、せやったら、わてらには効くはずや。」

奏音がニマニマして俺を見上げた。

「なんやその顔は、気色わるぃ。」

「藍屋さん、俺のこと疑ってないんだなぁ、と思って。」

「……」

言葉が止まる。何を今更、と言いそうになって、その言葉の意味に気恥ずかしさを感じて、けど、まだ疑ってるなんて嫌味は演技でも言いたくなくて。
そこまで考えて、奏音が人と接する時に演技をしないのは、きっとこういうことかと嬉しくなる反面、その公平さに妬いた。
少しでいい、贔屓して、俺のことだけ見てほしい。
そんなことを考え出すと、ますます言葉がでなくなって。

「天の使いやないかとは疑っとる。」

「アハハ、それ、どんだけ気に入ったんですか。」

冗談ではぐらかしたつもりだった。

「けど、さっきまだ男じゃないかと疑ってるって言いませんでしたっけ?」

奏音が俺の指先をそっと掴んだ。俺は奏音の髪を撫でて微笑んだ。

「せやな、途中やったから、続きしましょか?」

「いっ、今はダメです。」

「いつやったらええの?」

耳元に囁くと首筋がみるみると赤くなるのが嬉しくて唇を這わせた。

「んんっ、そこ、だめ、」

「どこやったらいい?」

「もうっ、」

するりと奏音が俺の腕の中から逃げていく。

「どこ触られても嬉しいですけど、今はダメです! このあと会議あるんですから!」

「わてを揶揄おうなんてするからや。」

照れさせて虐めるのは好みだが、自分がやられるのはあまり好きじゃない。

「藍屋さんてほんと意地悪ですね。」

「何を今更。」

クックッと笑うと奏音がますます顔を赤らめた。あながち花里の指摘は真実かもしれない。「奏音はんは好いとる男に意地悪されんの好きやと思うから、秋斉はんには有利や。」奏音を手を招いて呼び寄せる。

「もう意地悪せえへんからおいで。」

おずおずと近づいてきた奏音の腕を引き、胸の中に閉じ込めて今度は逃がさないようにした。

「嘘ついたんですか!?」

「嘘やない、意地悪せえへん、優しくする。」

後頭部を引き寄せて、優しく、何度も唇を落とした。

(27)自覚

大型の技術力の勝る外国船にどうやって打ち勝つのか、その作戦が話し合われたのは、長州に入り、高杉君や薩摩藩、土佐藩と船で来た俺たちが合流してから行われた。奏音が目の前で器具を使い、分厚い鉄板に丸く茶碗ほどの大きさの穴を開ける。

確かにあれだけの穴が開けられるなら時間はかかるが船は沈むだろう、渦がある場所に誘き寄せたのなら尚更だ。

「身分にとらわれず、協力体制で。外国を打ち倒すんです。藩を越えて協力するだけじゃなくて、商人と職人と漁師と百姓と。日本人全員で手を組むんです。この器具は刀鍛治職人が作ってくれました。資金を用意してくれたのは俺が診察した商人たちです。潜るのは漁師。作戦を考えるのは薬屋の俺。」

奏音が海図を指差し宣言した。

「今度は武士の出番です。奴等をここに追い込み、銛漁師が船底に潜れる為の戦術を考えてください、お願いします。」

頭の中で、戦術を幾度となく組み立てる。目の前の海図を睨み、船の配置、誰を船に乗せるか、舵はどう切るか、読みあさった兵法の書物知識を頼りに討論を交わした。

「慶喜殿。自らを最前線に配置する総大将などあまり居らぬぞ。」

「最前線のほうが動きを組み立てやすいからね。」

「しんがりはどうする?」

「大山殿か、土方君かな。」

「では、土方殿に頼もうか。」

大事なしんがりをかつての敵に依頼する。きっと奏音の為にだろう。土方君が頬をピクリとさせ、戸惑い気味に高杉君を見た。

奏音は誇らしげな顔で高杉君を見ていた。そのことにツキリと胸が痛む、のをやり過ごす。何故俺はこんな小さなことで嫉妬しているのか。

作戦を詰めて、夜襲を仕掛けることになり、人員配置と役割を決めていくとあっという間に夜中になった。決行は二日後。奏音が決めた。

「奏音、言われた通り、こっちに来てからずっと天気を書いていたぞ。」

高杉君がそう言ってわら半紙を差し出すと、それを見ながらいつも見ている黒い箱を取り出し何かをする。

「明日と4日後は雨の可能性が高いですね。海が荒れます。銛漁師が潜れなくなる。明後日の夜にしましょう。」

「承知した。」

「高杉さん、明日1日で銛漁師を説得出来ますか?」

「俺を誰だと思ってる、任せろ。」

どうしてそんなこと解るんだ? とか本当に晴れるのか? なんて一切聞かない。

頭をグリグリと撫でられ「だから、それ痛いんだって! ごつい手なんだからやめてくださいよ!」と言う奏音にハハハと笑って尚も頭を撫で回す。

仲良しの兄と弟に見える。微笑ましい光景なんだと思う。事実、周囲はまた始まったよ、とでも言うかのように微笑んでいた。

たぶんこの場で、俺だけが嫉妬している。

きっと俺は奏音くんのことを好きなんだとは思う。

けれど、こんな感情は初めてで、よく、判らない。

女を知らないわけじゃないし、過去に幾人とも身体を重ねたことだってある。

だけど、その彼女たちとの関係や気持ちとは、全然違うから、判らないんだ。

そもそも俺は自分の身の上や理想や葛藤や悩みを他人に話したことなんか殆ど無くて。
秋斉に時折本音や弱音を吐くことがあったくらいだ。

奏音にだけだ、こんなに、何もかもを話してるのは。

信頼に、好意が重なったから、なのか?

どうしてこんなに嫉妬するんだろう、ただ奏音が他の人とも信頼関係を築いてるというだけで。

「慶喜殿。」

低い声で呼ばれる。振り向くと土方君だった。

「俺がこんなこと言うのも変ですが、睨み過ぎかと。」

「え?」

睨んでた? もしかして高杉君のことを?

「予想外のことばかり、というか、予想を越えたことしかしない部下を持つと大変ですね。」

土方君は奏音のこと、どこまで気づいているんだろう、まったく知らないのかな。

「貴方は、ご自身のものを誰かに分け与えたことはあっても、欲しいものが手に入らなかったご経験がないんですよ。」

俺は、そんなに傲慢だろうか?

「悪い意味ではないです。無礼は承知ですが、どうもご自身の感情に戸惑っておられるように見えたもんで。」

そんなに顔に出てしまっているのか。

「欲しいものが全て手に入る自分と、そうではない身分のもの、その違いに心を痛め、分け与え、平等を目指す、それが貴方だと俺は思ってます。だから、どうしても欲しいのに、手に入らないもの、それを人から取らなきゃいけない状況に弱いんじゃないかと、思ってます。」

土方君が淡々と話しながら、俺の顔は見ない。

「貴方は会津公に似ておられる。我が殿もそうです、身分の違いに心を痛め、民に分け与え、ご自身の気持ちをないがしろになさる、ご自身を犠牲にされる。

ですが、持たざる者が、持つ者から奪うのみなのは、真の天下泰平ではないでしょう。貴方だって、欲しいものは欲しいと奪ってもいいんじゃないですか。身分の違いを無くすとは、そういうことを指すんじゃないですか? 俺は学が無いのでこんなことを貴方に進言するのは差し出がましいかもしれませんが。」

欲しいものは、欲しいと、奪ってもいい。

そんなこと、今まで考えたことなかった。

「俺は武士の総大将が不戦敗ってのは、どうも嫌なもんで。」

迷っている人ほど、力になりたいと願う、支えたくなる。奏音、お前の言う通りだね。

俺はなんだか、とても部下に恵まれているみたいだ。土方君が面白くなさそうに高杉君を睨む。

「外国を打ち倒すのに、手を組むのは異存ないですが、あの野郎に全部持ってかれるのは個人的に気に食わねぇってのもあります。」

「あはは、言うねぇ。」

奏音くん。

俺は、お前のことを独り占めしたいって思ってたみたいだ。



(28)船上の攻防

夜襲を仕掛けてる最中の船上で甲板に立っている奏音を見た瞬間、鳥肌が立つ。あれほど船室から出るなと忠告したのに、ひとつも人の言う事を聞かない。敵船の砲弾が帆軸をかすって人の頭大ほどの木の破片が落ちる、奏音の近くに。
俺は走りよって奏音を抱きかかえて後ろに飛び退いて、甲板に背中から倒れた。
腰をぐっと抱き寄せて話す。

「船室におり、言うたやないか、ほんま危なかっしい。」

「嫌です、自分だけ隠れるなんて。」

と反論する奏音を子どもを抱くように抱き抱えて無理やり船室に運んだ。

「ちょっ、藍屋さん、嫌だって言ってるのに!」

船室の中に下ろし、なおも反論しようとするので、口を手で押さえてもう片方の指で黙れという仕草をする。

「あんさんのことは、ちゃんと認めてる、邪魔になんて思ってへん。」

「でも、」

口を押さえていた手で頭を優しく撫でる。

「頼りにしてるのはこの頭の中身や。誰も替わりは居ぃひん。腕っぷしは他の人らに任しとき。」

「うう、」

「みんな、そう思っとる。だから、ここに居なはれ、ええな?」

歯を食いしばり悔しそうな顔をする。ほんにあんさんはそういうとこ少年やな。

「ええな?」

「……はい。」

不服顔で頷く奏音に苦笑した。

「しかし、長いな、持つやろうか。」

渦周辺にはもう誘導済みだ。小舟はだいぶ前に出している。

船上は砲弾を何発も撃ち込まれてボロボロだ。他の船も同じだろう。このまま外国船が沈まなかったら、全滅だ。

奏音がガクガクと震えている。自分の作戦が巧く行かなくて仲間を死なせるのが怖いとでも思っているんだろう。

「心配せんでええ。」

背中をさすってふわりと抱きしめる。髪をすきながら何度も頭のうえに口付ける。

「わては、いつ死んでもええ思うとった。けどあんさんに会うたら死にとうなくなった。ずっと傍にいたい。それでもあんさんの為なら死ねる。誰もあんさんを恨んだりせえへんよ。」

「俺は、誰も、死なせたくないんです、」

「知っとる。けどわてらはな、夢の中に居るんよ。外国船と互角に戦い、勝とうとする作戦なんて、誰も言いださなかったし、出来るなんて思ってなかったんや。けどわてらは今、勝つ為に戦ってるやろう、信じられへん、こんな未来があるなんて、思ってなかった。みんなあんさんに感謝しとる。この船の上で全員が誇りを持って戦っとる。信じるんや、みんな仲間やろ?」

ポタポタと奏音が涙を落とす。頬に口付けて涙を拭い、唇を柔らかくかするようについばむ。

「うおぉぉぉ!」

外で叫び声が聞こえると、それを合図にしたかのように一斉に皆が騒ぎだした。

「沈む! 沈んでるぞ!」

「よし、よし、よ~し!」

「やった! やった!」

「我々の勝ちだっ!」

奏音と顔を見合わせる。2人の顔に笑顔が広がって健闘を讃えて強く抱き合った。

「良かった。本当に良かった。」

大粒の涙を流す奏音の頬を手のひらで包んで、首筋に唇を這わす。

「あ、の、藍屋さん、」

「うん?」

「あの、船沈んだから、次の作戦決行に行かないと、なんです。」

腰を抱えて船室のべっどの上に押し倒し舌を差し入れて口中をくすぐる。

「もうっ! 俺の話聞いてます?」

「あんさんの言葉は一字一句覚えて反芻しとる。」

「反芻?」

「どこ触られても嬉しいですけど、とか?」

ニヤリと笑うとみるみる奏音の顔が赤くなっていく。

「船、沈みだしても、時間かかるんやろ?」

「それはそうですけど、でも皆が、」

「不謹慎だと誰になじられてもあんさんを抱きたい。」

「ふぅっ、そこ、ゃだ、ダメ、藍屋さ、んっ」

「秋斉、や。」

「え?」

「名前で呼んでくれるんやったら止めます。」

「……」

「そんなに呼びたくないんか、本当は止めてほしくないんかどっち?」

「うう、」

「どっち?」

「意地悪、」

「意地悪されんの好きなくせに。」

奏音がギュッと首に抱きついて耳元に囁く。

「秋斉さん、お願い、骨抜きにしないで。」

「骨抜き?」

「今だって、俺、秋斉さんに見つめられると、見惚れて、秋斉さんのことしか考えられなくなって、ずっと抱きしめててほしい、って思っちゃうのに。抱かれたら、もっとそうなります、戦えなくなっちゃう。しなきゃいけないこと、まだたくさんあるんです、だから、手加減してください。」

奏音、阿呆か? 押し倒している女に、目元を真っ赤にさせ、涙で瞳を濡らしながら、そんな可愛いことを言われて、我慢してくれ、と言われて我慢出来る男が居ると思ってるのか?

「あんさんのほうが意地悪いやんか。」

「え?」

「なんでもあらしまへん。」

あらゆる神経を総動員して、いきり立つ自身を押さえつけ、奏音を抱き起こして微笑む。

「行っといで。」

「はい!」

奏音は以前もそうしたように赤くなった顔をパシパシと叩き少年の顔に戻す。が、何かを思いついたようにニマリとイタズラっぽく笑うと。

不意打ちで俺に口付けて言った。

「居候なのに、すごく帰ってきてほしい、って思われてるんですね、俺。」

照れで顔が赤くなる。それを見て奏音が満足気に語る。

「そういや前に古高さんに言ってましたもんね、俺が帰ってくるのは秋斉さんのもとに、だって。」

「よう覚えてはる。」

「行ってきます。帰ってくるのは、秋斉さんの傍です。」

「あんまし可愛いこと言うてると、気ぃ変わって押し倒すよ?」

「作戦終わって、京都に戻る船の中なら、そうして欲しいです、いつでも。」

にっこりと微笑み立ち去る奏音。

あかん。

そんなん言われたら楽しみすぎて毎晩寝られへん。


(29)夢

『あなたがたは何か大きな勘違いをしておられるようだ。

日本を何だと思っておられた? 鎖国が続き、文化レベルの低い、知恵もない野蛮人が住む国だとでも?

こんな小さな島国、簡単に占領し搾取できるとでも?

武力が無いから、外国に抵抗しないとでも?

そんなふうに思われていたのなら、


勘違いも甚だしい。我々をなめないで頂きたい。』

伊藤博文殿が通訳する言葉を聞きながら、敵船に乗っていた異人に奏音が英語で演説を垂れるのを見ていた。
伊藤殿が訳しているので、奏音にしては口調が固い。奏音なら我々なんて使わないだろう。
花里や菖蒲、他の遊女たちも真っ直ぐに奏音、お前の背中を見つめている、いったい今、彼女たちは何を考えているだろう。
お前は強体験をさせて価値観を反転させると話していた。
けど、

強体験ならとっくにしてたんだ、お前との出会いがそうだ。

『長年鎖国し、交流が無いから、あなたがたの言葉を解する人間は少ないでしょうね。だが我々の技術はなんら外国より劣っているものなどない。船が沈んだのは偶然ではない、我々の技術です。

国に帰って伝えられよ。我々は誠意を示して、交流と貿易を望む国であれば真心をこめておもてなしをする。

ただし侵略の意志や、不当な条件で貿易を求め搾取の意志を察した場合、ただちに叩き潰す。次に大砲を積んだ船で来てみろ、今度は助けぬ、一隻残らず海の藻屑にするぞ。』

京には諦めが落ちてた。時代の流れ、長年贔屓にし、信じてきたものが崩れ落ちていき、それを止められない己の無力さ。
日本は外国に倒され、壊されるだろう、という不安。
どうやって反抗したらいいのか判らず、怯えていた、それでも日々を楽しくしようと、明るく懸命に、励ましあって生きていた、みんな。
立ち上がり、計画を練り、行動し、仲間を集め、反対する者は弾圧なんかせず敵にも回さず斬り合わず説得する。そんなやり方があるなんて誰も知らなかったんだ。

「謙虚なのは日本人の良いところですよ。でも、侵略者相手にも礼儀を通しもてなす必要はない。誰にでも判りやすい言葉と態度で自らの意志を世界に伝えること。それが外交です。」

外国人を長崎まで送る商船を見送り、敵船の居ない海を港で眺めながら、奏音がニヤリと笑って言った言葉に、その場は一気に沸いた。

「宴だ!」
「呑むぞ!」
「食うぞ!」
「歌いまひょ、旦那はんら、」
「踊りまひょ。わてらと、」
「騒ぐぞ!」

宴の準備が始まる。手伝いを申し出る奏音に遊女たちが言う。

「あほ、立役者がなに言うてんの!」

「奏音はんは休んでなはれ、働き過ぎや。」

「秋斉はん、」

「旦那はん、奏音はんを見張っててや、働こうとしだしたら止めるんやで?」

そうして座敷の一室の襖を閉めてクスクスと笑いながら去っていく。「これで賭け勝てるなぁ、」「わからんわぁ、お膳立てしても秋斉はん奥手やから、」

誰が奥手や、聞こえてるっちゅうねん。

「奏音はん、お疲れさんどした。」

「俺、別に疲れてないんだけどなぁ、働いたのはみんなも変わらないのに。」

「あんさんに感謝して、あんさんをもてなしたいいう、あん子らの気持ちを汲んで休んどき。」

お茶を入れて湯呑を奏音に差し出す。

「立派やなぁ、あんさんは。」

「えぇ?」

慶喜から聞いたことを考えていた。ここに来る前の奏音の夢。薬の研究をして、みんなが病気の心配をしなくて幸せになれる為の手伝いをする。
なのに、病人を助けても弾圧や内戦で殺されたら意味が無いと、だから慶喜の手助けをするのだと話していたらしい。

「なんでみんなの事を考えられるんやろうな、あんさんも、慶喜はんも。」

「慶喜さんは凄いですね。上に立ってきた人なのになんでそんなことできたのかな、俺とは全然違いますよ。」

「わてには同じように見えますけど?」

「京を出る前に強体験をさせて価値観を反転させる、って話したの覚えてますか?」

ちょうどさっき思い出していた。

「俺はそれです。周りの人の事を強く考えられるようになったのは、災害で友人の半数を亡くしてからです。」

「せやったんか。」

「だから、もう誰も死なせたくない。そのために強くなりたい。」

「ならやっぱし慶喜はんと同じや。」

「え?」

「安政の大獄、慶喜はんが変わったのはそれやろう。」

「そっか、ですよね。」

「……」

「あれ、そんなことまで知っとるんか? って秋斉さんが言わないなんて!」

「言わへんようにしてたのに、なんであんさんが言うねん!」

アハハと笑う奏音。辛さや寂しさを隠して笑う、そういうところもそっくりだ。

「やりたいこと、みんなあるねんな。」

慶喜の影になると決めてから、そんなこと考えもしてこなかった。それが当然だと思ってたし、嫌だとも思ってなかった。
けど、奏音と居るとわくわくする。
真っ直ぐに未来を見つめて、あそこに行きたい、あの夢を叶えたい、みんなであそこまで行きましょう、と、呼びかける奏音を見てると、眩しくて羨ましくて仕方がない。
慶喜も古高も高杉も維新が無事に終わったら叶えたいことがあると奏音に語っていたそうだ。奏音は今度はその手伝いをするらしい。
俺は何もない。徳川家がお家断絶にならない為にだけ動いて、それだけを考えてきた。

「あ、秋斉さんもあったんですか? すみません、じゃあ俺、勘違いして押し付けちゃったかな?」

「え?」

「秋斉さん、遊郭の仕事以外に珍しいもの仕入れてお客様に説明するの好きだったでしょう? だから貿易商とかどうかな? って思ったんですけど、他にやりたいことあるなら、俺はそっちを手伝いますよ。」

「珍しいものを仕入れて説明するのが好き……?」

「え? だって仕事に関係ないものいっぱい仕入れてましたよね? お客さんだけじゃなく、番頭さんにも俺にも良く見せてくれてて。番頭さん言ってましたよ? 他の楼閣の旦那さん、そんなことしないって。秋斉さんは人を驚かせたり楽しませるの好きだから、って。アハハ、そうだ、そういや幽霊の格好つくる時も、より幽霊らしく見える着物とか仕入れてましたっけ。……秋斉、さん? どうかしたんですか?」

俯いて、顔を上げることが出来ない。

何が表情隠すの下手とか奏音に言ってるんだか。
番頭さんにもそんな風に見抜かれていたなんて。

そして、そんな自分のことを、自分がまったく気づいてなかったなんて。恥ずかしくてたまらない、恥ずかしくて、

恥ずかしくて、嬉しくて、奏音の顔が見れなかった。



(30)号泣

頭の中で算盤をはじく。奏音にもこれだけなら全勝できた。

「なんや医者やのに数に弱いんか。」

「薬屋は化け学だから文系なんですよ。」

「化け学? あんさんは狸の妖しやったんか。」

「頬っぺ掴みながら言わないでください、嫌味だな!」

その丸顔が可愛いのに「幼く見られるし、舐めてかかられるのが嫌なんですよ。」とふくれる。お前、時々自分が女だってことを忘れてないか?

ぶらっくじゃっく、という遊び。二枚の札の数字が足して21に近い数字の者が勝つ、ただ21を超えてしまうと、相手がどんな低い数字でも負ける。
札の数字は1~13の4種類しか無いので自分のめくった札、相手がめくった札の数字を覚えていれば相手の数字の領域を予測出来る。

「算盤で商人に勝てるわけないじゃないですか。」

と奏音が苦笑していた。勝ち続けるのも面白くないので奏音と一番やるのはやっぱりすぴいどだ、あれは楽しい。
けど大会となったら別だ。勝ち続けるのはめっぽう楽しい。

行きの船の中で奏音は全員にとらんぷを教えていた。長い航海、他にすることもなく殆どの人間がたいそう夢中になった。すぴいどでは花里とあたって苦戦した。奏音としょっちゅう遊んでるだけあって強い。

そして奏音が稽古に通いながら以前からとらんぷを教えていた新撰組も強かった。

そんな好勝負を制して。

「優勝おめでとうございます。」

「奏音はんに当たるかと思うたのに。」

「途中で菖蒲さんに負けちゃって。」

「嘘つき。手加減したやろう。」

奏音が微笑む。いつだってそうだ。相手を楽しませることを優先するんだ、お前は。

「はい、これ優勝賞品です。」

奏音が冊子を差し出す。わら半紙に筆で書かれ綴じられたそれは、新しいとらんぷの遊び方がぎっしりと書きこまれていた。

「これ、ほんまに賞品?」

俺くらいだろう、これもらって喜ぶの。

「優勝すると思ってたんで。」

ニマニマと奏音が笑う。戦いの支度、作戦の詰め、古高の診察、慶喜との会議、そうとう忙しかったはずだが、いつこんなに書いたんだろう。
嬉しくて顔が赤くなるのを誤魔化したい。そう何度も照れさせられるのは悔しい。

「わてはおあずけくらってる奏音はんが欲しかったんやけど?」

ついと顎を持ち上げて微笑む。からかったつもりだった。けれど奏音は俺の首に抱きついて唇を重ねてくる。不意打ちに驚いて後ろに倒れかかるとそのまま体重をかけられて押し倒された。髪をつかまれ舌先を首や鎖骨に這わされて煽られる。

「奏音はん? どないしたんや急に。」

「俺はみんなの賞品じゃない。冗談でもそんなこと言わないで、」

「すんまへん、そないなつもりは」

「身も心も、秋斉さんだけのものです。」

はっきりと真剣に示された好意に目眩がした。背中を抱き寄せて深く口を吸い合う。

「わてもや、全部、あんさんのものや。」

着物の裾から手を差し入れて、奏音が一番声を出すところを探る。

「そこやだって言わへんの?」

切ない声でそう言わせるのが好きなんだが。

奏音がクスクスと笑う。

「言ったでしょう、秋斉さんのことしか考えられなくなって戦えなくなるから手加減してください、って。ヤダはそういう意味だったんです、だから、もう言いません。」

「なんやおもろないなぁ、あれ可愛いのに。」

「ほんと意地悪いんだから。」

「知っとるやろ。」

「秋斉さんだって知ってるでしょ、俺が嘘つけないって。あ、待って、まだほかに行かないで、もういっかい触って、んっ、もっと奥かきまわしてくださ、あぁっ、」

奏音の望み通りに指先を動かす。お互いに堰を切ったように相手の身体をまさぐって、今度は邪魔も入らずに深く繋がって、突き上げて果てたあと、抱きしめていた奏音が俺の胸にしがみついて泣きだした。

「奏音?」

どうして泣くんだ。痛がってはいなかったし、嫌がってもいなかったのに。

「離れたくない。」

ぎゅう、と背中に回された手に力が入れられ、そんなことを言う。

「離さへんよ?」

「傍にずっと居たい。」

「居ればええ。お嫁に来なはれ。あんさんが望むんやったら普段は男の格好で政治に関わっても怒らへん、なんやわてが躾にうるさい心配でもしとるん?」

花里から聞いたのだ。他の遊女が俺に賭けない理由。「奏音はんは男のまま仕事したいのに、飾りつけられて閉じ込められるんちゃうかって思って旦那はんは選ばない思うんよ。」しかし遊女達は好き放題言わはる、ひどい子たちや、あんなに面倒みてきたのに。
けれど奏音は男の姿のまま仕事をしたいと願うのでは、という予想は当たってるかもしれなかった。むしろ俺にとっても好都合だ。奏音が可愛いなんて誰にも気づかれたくない。

「ここに居られなくなったんです。」

泣きながら奏音が言う。そうして着物を脱ぎ出す。

「待っ、奏音はん、わてらの国ではな、肌はこういう時でも見せへんのが、普通、で……」

あらわになった上半身。けど目を奪われたのは左腕だった。肘周辺が透けて消えかかっている。

「消えたくない、傍に居たいよ、秋斉さんっ、」

顔をくしゃっとさせて大泣きしだす奏音をただ抱きしめることしか出来ない。

混乱する頭の中にじわじわと哀しみが滲み出していた。



(31)未来のために

江戸へと向かう船の中で、大泣きする奏音を慰めて抱きしめながら、長い航海中、すこしずつ事情を聞いた。

未来の日本から来たこと。本来の歴史。その歴史を変え過ぎたこと。腕が消えかかっていることに気づいたのは宴の直前だったらしい。俺が酔い潰れていた時に、結城君と話していて泣いていたことも聞いた。

「あんさんが一番辛いときに酔い潰れてるなんて、不覚や。」

歯噛みする俺を奏音がふわりと抱きしめて微笑む。

「そんなこと言わないでください。俺、すごく嬉しいんです。」

「嬉しい?」

「秋斉さん、言ってたでしょう、ずっと影だったって。徳川家の為だけに動いてきたって。その事に疑問さえ感じなかったって。嫌だなんて思ったことないって。哀しかった、すごく。秋斉さんの好きな事、やりたい事をしてほしくて、それを叶えてあげたいって思ったんです。だから秋斉さんが酔い潰れるほど楽しいって感じてくれて、すごく嬉しいんです。」

奏音の頬を包んで額を合わせて目を覗き込む。なんて愛おしいんだろう。

「秋斉さん、その癖はちょっとやめてほしいんですけど。」

「うん? 癖?」

「目、じっと見るの、」

「目見られるの嫌いなんか?」

「反らせなくて、抱いて欲しくてたまらなくなるんです、」

「ええことやないか。」

「人前だと困るんですよ、あと仕事の直前とかにするの、意地悪い!」

「なら二人っきりの時だけにします。ほんで今なら抱いてもええ?」

「聞かなくていいです、言ったでしょう、秋斉さんのしたい事は全部叶えてあげたいって、何されてもいいです。」

俺はその癖を直して欲しい。煽られすぎてどうにかなりそうだ。言わないけど。

「消えたくは、ないです。ずっと傍に居たかった。けど、歴史を変えたことは後悔してません、これからも消える直前まで変える為に動きます。怒らないでくれますか?」

「怒られへん、そういうあんさんに惚れたんやから。ただ、」

「ただ?」

「なるべく長い時間、俺の傍に居て。」

きゅぅ、と奏音の締め付けが強くなる。

「なんや、京訛りないほうが好みなん? 離さへん、ってここが鳴いとる。」

「ほんとに意地悪い!」

「どっちがええの? 言葉遣い。」

「秋斉さんの話す言葉ならなんでも好きです。」

密偵の為に覚えた様々な地方の訛りで耳許に囁くと「アハハ、ほんとにいろんな訛り覚えてるんですね」と奏音が笑う。

人を殺す為に覚えた訛りが、使い方次第で愛おしい人を笑わせられる、そういう事を。
お前が教えてくれたんだ、奏音。

消えてほしくはない、哀しいし、泣きたい気持ちはずっとある。
けれどお前が歩いてきた道を、こっちに行こうと示してくれた道を、眩しくて、本当にこんなことが出来るのか、と付いてきた道を、心の底から愛おしいと思うから。

だから哀しくても笑おう。いつか居なくなるなら出会わなければ良かったなんて絶対に思ってない。それを態度で伝えたい。

「愛しとります。」

目を覗きこんで言うと、奏音が涙目になりながら微笑んでくれた。

江戸へ着いたあと、下関での外国船討伐の詳細を瓦版で流布し、慶喜が将軍になったあとは、慶喜が幕府だけではなく、みんなで、身分に関係無く民も交えて、この国をよくする為の政治をしましょうと考えている、呼びかけていることを瓦版に書く。奏音によると、まにへすと、と呼ぶらしい。

奏音は慶喜が将軍になったあとに条約を改稿して締結しなおす必要がある、と不思議な箱で調べものをしたり、老中を説得する為に工作が必要だと言って方々に出かけては人に会っていた。勝殿と面会し、海軍操練所に視察に出向いた。

俺はこの時まだ知らなかったんだ。お前がそこまでして歴史を変えたい理由を。

やがて条約が締結されると奏音は今度はわら半紙に憲法草案を書き貯め始めた。

「ほんまよう働くなぁ、疲れへんの?」

「受験勉強の時よりは余裕ありますね。食べる寝る以外ずっと机にかじりついてました。」

「未来は忙しいんやな。」

「忙しいと長生きするんですよ。暇が命を短くします。」

「逆やないんか?」

「未来の平均寿命は85歳です。110歳とかたくさん居ましたよ。日本の平均寿命は世界一で、労働時間も世界一です。」

奏音の話は驚くことばかりだ。俺はというと奏音の身の回りの世話をしながら奏音に不思議な箱を借りて英語を学び始めた。

夢の為に学ぶのは楽しくてたまらない。

お前はいったい、どれだけのわくわくを俺に与えるんだろう。


(32)全員一致

江戸城で憲法成立の為の第一回内閣会議が開かれた。天皇の命を受ける形で選出された内閣は奏音の案をもとに慶喜が朝廷に提出した人員配置で俺もその中に組み込まれていた。俺が政治家? そんなこと考えたこともなかったな。
会議場所は江戸城の庭の一角に建てられた洋館。城の改装はしたくない、と奏音が言っていた。歴史的価値は出来るだけそのまま残したいのだと言う。建物の外観は和風だ。スーツという洋装の礼服に身を包み、それぞれ書記役の秘書を連れて錚々(そうそう)たる面々が集まった。

奏音が毎日時間を割いて書き溜めていた憲法草案のわら半紙を全員に配り、新政府の動かし方を語っていく。たいしたものだ。未来人とはこうも聡明なんだろうか、それとも奏音、お前が特別なのか?
政治思想の文献はたくさん読んできたが、どの論客とも主張が違う。まったく新しい手法に、その場はただただ感嘆していた。
集まった面々の半分は密偵の時から奏音に面識がある。
もう半分も外国船撤退作戦の時から奏音を知っている。
当然、奏音が初代総理大臣は坂本龍馬殿にしたいと話した時に、高杉が「お前のほうが適任だろう?」と進言すると全員一致で奏音を推薦した。

奏音はそれは出来ないと話す。そうして語り出す、未来から来たこと、歴史を変えてしまったこと、腕をまくり肘を見せて、身体が消えかかっていることを話す。
俺は消える決定的な理由は聞いていなかった。ただ奏音には解っていたのだ、消えてしまう訳、それを話し出す。

「第2次世界大戦に参戦しない未来を創りたいんです。」

初めて聞く話だった。

「今から60年後、昭和に入った頃から、日本の周囲で世界的な戦乱が起きます。多くの文化人が絶対に参戦してはならないと訴えていたのに思想弾圧が起きて反戦派は迫害を受けます、非国民と呼ばれ、虐げられる。

伊藤博文さんが忠告をしていた。北に関わるな、と。南アジアの国と仲良くし、日本には素晴らしい風土があるのだから、なにも、ただ広いだけの枯れた大地など植民地にする必要はない、どこの国も攻める必要はなく、国土を守れば日本は沈まない、そう言っていたのに。

戦争に参加し、枯れた大地、満州を手に入れ、浮き足立ち、考えもせず、ひた走り、軍の内部にも、この戦争に意味はない、と訴える人間が何人も居たのに口を封じ、その結果、

原発を落とされて、町が二つも滅びました。何もない荒野になったんです。沖縄は侵略され、植民地になった。」

大きな戦争を止める為に、明治政府を作り変える、それがお前の話していた夢、か。自分が消えてまで叶えたい夢か。
大きな戦争があっても奏音の時代は平和だったんだろう? と皆が問う。何も自分が消えるようなことしなくていいだろう、と説得する。けれど奏音は引かない、引くわけないんだ、だからこの結果を導き出せた、ここにたどり着けた、俺たちはそれを知っていたけど、それでもお前に消えてほしくなかったんだ、奏音。

「あなたがたに出会ったからです。」

力強く前を見据えて、お前は話す、いつものように、今までそうしてきたように。

「皆が意見を出しあい、誰にも弾圧されず、皆で仲良く政治をする世界。せっかく、その理想が叶ったのに。あんたたちが命懸けで守ったこの国を、風土を、景色を、人びとを、たった60年で焼け野はらにするなんて、侵略されるなんて、俺は我慢がならない!

ここに来る前は、あんたたちに出会う前は、そんなこと考えたこともなかった。歴史なんてよく知りもしなかったんだ。

けど、俺は解ったんです。俺は12歳の時にめちゃくちゃデカイ地震と津波で友人の半数を亡くしました、家も思い出の品も全部波に流されて、遊んでた公園とか学校とか全部瓦礫になったんです。

そんときに政治家の誰かが言いました、日本人は贅沢をし過ぎたから、天罰が下ったんだって。俺は幼くて自分の言葉でその時の怒りを説明出来なかった。

けど、今なら解る、言える。人が大勢死ぬことに

"あって良かったなんて絶対に無い"

なのに未来の俺たちは戦争があったから今の経済発展と平和があるんだとか平気で言いやがる。きっと俺も言ってた。あの震災が無かったら平気な顔で、そう言ったと思う。

そんな時に。ここに来て、俺は、あんたたちに出会ったんだ。

それで解ったんです。日本人は昔から日本人で。日本人の良い所は、あなたがたの時代から、ずっと引き継がれたものだ。未来の日本には江戸時代の文化が色濃く伝わってる。江戸時代の文化は本当にすごいんだ、世界中どこを探したって、こんなに優秀な文化は無い。なんでそんなにすごいのか、解ったんです。

250年。俺が居た未来よりももっと長く、日本人は戦争をせずに平和に過ごした。明治時代も大正時代の文化も江戸から引き継ぎ素晴らしいものがたくさん残ってる。

不幸でなんか人は変わらない。

人間を豊かにするのは平和なんだ。」

涙が出た。あとからあとからこぼれ落ちて止まることが無い。

この理由を聞いて、お前を止められる人間が居るだろうか。

全員一致で否だ。お前を愛しているほど、尊敬しているほど、大切に思っているほど、お前の邪魔は出来ない、ただ泣くことしか出来なかった。

(33)新時代の幕開け

泣きながら、全員が笑った。その場は騒然となった。

神が辻褄合わせの為に、奏音の存在した記憶を俺達から消すのだと言うならば俺達が絶対に奏音を忘れなければ消せないだろう、神に抗うぞ、全員でだ!

……むちゃくちゃな理屈や。けれどその強さで長州を、外国人を、多くの人心を捉えて離さない男はやはり強いな。神さんに打ち勝つとは。

高杉が奏音の腰を抱いて、頭をぐりぐりと撫で回している。奏音は笑いながら文句を言っている。「俺、高杉さんの弟に似てるらしいんですよ。」と話していたが。

奏音、お前鈍すぎだろう、気づかれてるぞ、あの態度は。

すたすたと歩み寄って奏音の顎をついっと掴む。

「奏音はん、他の男に触らせ過ぎや、そんなに旦那に妬かれたい?」

「え? え?」

奏音が顔を赤らめて困惑しているうちにすいっと奏音を引き寄せて後ろから抱きすくめると、

「わての嫁はんや、あんま触らんといてや、高杉はん。」

と表向き微笑む。

「なんだ、もう手をだしてたか。藍屋殿は奥手だろうと横から拐うつもりだったんだがな。」

首に手をあてコキと鳴らしてニマリと挑戦的に笑った。
やっぱり気付いとったやないか、何が弟や奏音はん、危なかっしいなほんまに。だいたいどいつもこいつも何の根拠で奥手や言うねん。

「……嫁?」

「まさか、え、嘘ですよね!?」

「奏音殿が、女!?」

「はい、実はそうなんです。」

奏音に耳打ちで囁く。

「肌見せたりしたら許しまへんえ。」

「しませんよ、さすがに、なに言ってんですか!」

「未来だと、このくらいの背格好の女の子が普通ですね、もっと背の高い子たくさん居るんですよ。」

と結城君が周囲に説明していた。ざわざわと騒ぎと興奮が入り交じるなか、視線を感じる。慶喜だった。俺はそちらに歩いていく。

「慶喜はん。」

「うん?」

「いつも、譲ってきましたけど。今回は譲りまへん、わてがもらいます。」

じっ、と慶喜が俺を見る。寂しそうな、けど嬉しそうな表情でクスクスと笑い出す。

「変だな、悔しいはずなのに、何故か嬉しい。」

「なんやそれ。」

「秋斉が手加減無しで勝負してくれたの、小さい頃以来だなって思ってさ。」

まだ、純粋な兄弟だと、お互い思っていた頃の話だ。
けれど、俺たちは、もしかしたらあの頃に戻れるのかもしれない。奏音の描く、身分に関係無く政治に関わる、そんな時代が造れたら、俺たちは純粋な兄弟に戻れるのかもしれないんだ。

「俺は奏音くんのこと大好きだけど。秋斉のことも同じくらい大好きだから、いいや。」

「気色悪ぅっ、」

「酷いよ! そんな言い方ないでしょ!」

泣きそうな顔をする慶喜に笑った。

背後では吉田殿と久坂殿が奏音を説得にかかっていた。

「何故ですか、消えなくて済むのなら、奏音殿が総理大臣になればいいじゃないですか!」

「総理が無理なら、せめて秘書ではなく、大臣を担ってください!」

「俺も賛成だな。何故、政治家にならないんだ?」

高杉の質問に、奏音が答えるべく、すうっと息を吸い込んで大きな声を出した。

「会議を再開しましょう! 全員席に戻っていただけますか!」

その一言で喧騒はぴたりと止み全員各々の席に戻る。俺も思うな、お前が総理になればいいんじゃないか?

「消えないって判ったんで、内閣のメンバーを変えようと思います。」

その場はみな、お前が内閣に入るのかと思った。でも違ってた。お前はいつだって俺たちの予想なんか遥かに超えたことを言い出すんだ。

「俺は近々自分が居なくなるのを前提にこのメンバーにしたんです。あの戦いに参戦した人達だけで構成して造った、けど、消えなくて済むなら、その必要はない。これから説得し、話し合って、他の藩主を加えていきたい、ここに居る人には他にやってもらいたいことがあります。

制度を変えて、それを受け入れてもらって浸透させるのは労力と時間がかかります、それは解ってたけど、時間が無いからみんなを中央に集中させました、でもゆっくり浸透させたほうが世の中を良くするには効果がある。そのためには、信頼できる仲間を、全国に広く散らさなきゃならない。消えないで済むならそれが出来る。

みなさんにお願いがあります。俺の夢と理想と計画に。俺を信頼して、乗ってもらえませんか?」

しばしの沈黙の後に感嘆のため息。

ほんまにあんさんという人は。どこまで男らしいんや。

「ふはは、大変だな、藍屋殿。こんなに男を魅了する嫁を貰っては気が休まらないだろう。俺が貰い受けてやってもいいぞ?」

「お気遣い無く。予想外のことばっかりしはる困った大物の扱いは慣れとりますから。」

「それ、俺のこと言ってる!?」

どっと笑いが起こる。

「法案の中身の説明を再開しましょうか。なんか山田さんて人がばら撒いちゃったみたいなんで拾ってもらえます? 俺がひと月寝る間も惜しんで書いたものなんですけど。」

「うわ、ごめんなさい!」

「市ぃ、あとでお仕置きだな。」

「その呼び方やめてくださいよ! お仕置きは、受けます、すみません、」

「高杉さん、お仕置きとかの暇ないと思いますよ。」

「うん?」

「半年で英語を話せるようになってもらいます。他のかたは一年で覚えてください、高杉さんは外務大臣にするんで、他の人の半分で覚えてもらいます。俺と翔太で交代で教えますから。」

「お、おう、承知した。」

奏音が夢を語り出す。明治政府の構想、みんなの役割、覚えてほしいこと、学んでほしいこと。

みな真剣に耳を傾ける。その表情は明るい。目は真剣で、なのに口元がうっすらと緩む。
俺はその表情の意味をもう知っている。

この場に居る全員が、わくわくしとるんや。

(34)夢を拡げる

手触りを確かめる。ふむ、ちゃんと高級なやつやな。色味もいい。だが。

『ちぃと高いな。もうちょい安くならんの? お兄さん。』

『こちら最高級のものとなっておりますので、どうしてもこの値段に。』

『う~ん、』

『希少価値があるんですよ。』

どうしようか悩む。高いが、売れると思う。仕入れた方が良さそうだが。

すっと目の前に反物が出される。

『ならこちらの日本の生地と交換して納得の行く差額を払うと言うのはどうです?』

「Cool! so beautiful!」

「冷たい? って言うてる? わて失敗したやろか?」

「いえ、この場合はスゲー!って意味です。」

「ええ? そんなん判らんわ。」

「慣れたら判るようになりますよ。」

相手の顔を商売人の顔で見るのを保ちながら日本語で内輪の話をする。

「しかし、この反物は安物やで?」

「異人には金刺繍が入ってるだけで高そうに見えますから。利用しましょう。」

反物をいくつかと、そこに差額を乗せて、ウールを仕入れる。

「売れるやろか?」

「売れると思いますよ。こう着物の襟元に付けたらいいと思います。」

「ワンポイントってやつやな?」

「そうです。ふふ、だいぶ英語上達しましたよね。」

1年間。奏音は明治新政府の立ち上げに毎日かかりきりで殆どを江戸で過ごしていた。
俺は京で藍屋百貨店を軌道に乗せる為に商売に奔走していた。

その後、奏音は慶喜たち内閣に政治を任せると、京に戻ってきて塾を開いた。

子どもたちに読み書きや英語や、世界の国々のことを教えている。その側ら俺の仕入れの為に渡航に付き合って、最初は通訳をしてくれていた。俺が英語を話せるまで覚えるようになると、現地で手分けして良さそうな素材を探して歩く。

日本へと帰る船の上、奏音に訊ねた。

「でも良かったん? あんさんの夢を叶えるには内閣の傍に居たほうがええんやないの?」

俺の為に傍にいてくれるのは嬉しいが。俺が枷になってお前が不自由になるのは嫌だった。

「近いうちに消えてしまうかもしれなかった時は、急いでました。だから内閣の傍に居ようとしてたんです。

でも今は違う。長くこの世界と一緒に歩めるのなら、俺は、ほんとうにやりたかったことが出来ます。」

「ほんとうにやりたかったこと?」

「秋斉さんが自分の夢を見つけられたのって何故だと思いますか?」

「あんさんに会うたからや、あんさんの生き方に影響されたんやろう。」

「違います、俺はきっかけにすぎません。秋斉さんの夢は、最初からここにありました、秋斉さんの中に。」

奏音が俺の胸に手をあてて微笑む。

「秋斉さんは俺を通して新しい世界を見た、そのあとで、自分自身に深く潜って自分の奥にあるものを見たんです。世界を知る、新しい価値を知る、それは知識量を増やすのが重要なんじゃない、ものの見方の角度を増やすことに意義がある。

どんなに優良に思えるシステムを作っても、素晴らしい技術を開発しても、それを動かす人間がダメなら、その国は滅びます。だから真の天下泰平を目指すなら、俺たちは、人の心を豊かにするために動かないとならない。

人が自分自身を奥底から見つめるきっかけ、知ってるでしょ、秋斉さん、」

知っている。

お前が俺にくれたものだ。

「わくわく、やな。」

「はい! 世界から珍しいもの、楽しいもの、驚くものを仕入れて、国中の人をわくわくさせましょう、俺と一緒に!」

ニマリと笑う奏音を抱きすくめる。

頬や首筋に口づけると奏音がくすぐったそうに身をよじって笑った。

「好きだ。」

瞳を覗きこんで、口にだした言葉に心が震える。

本当に、本当に、好きだ、お前のことが好きでたまらない。

腕の中の少年が、大人の女の顔になる。愛おしそうに俺の頬を包んで俺を求めてくる。

波をかきわけて船は進む。

これからも一緒に新しい街並みをお前と歩き、見たこともないような品物を探そう。

それを持ち帰って、世間の人を驚かし、わくわくさせるのや、

その人の価値観がくるりと反転する。今まで思ったこともないような願いを願う。考えたこともないようなことを語り出す。

それはその人の心の奥底にあったもの。本人も気付かなかった自分の中にある宝物。

それが国中に拡がって、大勢に影響して、そのわくわくが、

今度は世界に返っていく。日本という小さな島国が世界を驚かせわくわくさせる未来。考えるだけで、楽しくてたまらない。

慶喜が天下をとり、俺はそれを支える。

奏音、お前はそれも叶えてくれた、俺が予想もしなかった形で。

あかん。

明日の楽しいことを想像したら、わくわくして毎日寝られへん。

イラスト

イラスト

挿絵担当のかたに描いてもらってるものを色々追加しております。

天下泰平

こちらに掲載したものは藍屋秋斉さん分岐になります。blogにて掲載しているほうは徳川慶喜さんの分岐もあります。
よければそちらもお楽しみください。

天下泰平

艶ぼ~いのスピンオフ作品です。シリーズを読み終えたかたむけです。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-11-14

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 本文
  2. イラスト