insecte

求めること


碌でもなければ人でもない。

(他人)がそういうのなら、そうなのだろうと(R)は思った。
ならば人でなければ俺は何なのだろうとも思う。
人の形をした肉塊は多少ブヨブヨとしているが見た目は(他人)と何等変わりはない。
幾らか心が損傷しているところも熱い鉄板の上でひっくり返せば、皆何かしらの身が出て歪になるのは知っている。それも(他人)と変わりはないのではないか。

夜風を浴びた雄は白濁した自分の分身を放出する為だけに闇を徘徊する。

それは(R)も例外ではない。
今宵は私と確かめ合っては如何でしょうと、慇懃な態度で女像に近寄っては己の欲求を吐き出し弄ぶ。

「お前がどうなろうと知ったことじゃない」

月が少し欠けた夜は蠱惑的な匂いがする。
その匂いに誘われてやってきた水銀灯の蛾は朝には死んでいた。

(R)が目覚めたころには太陽は残酷なほど熱を発していた。
となりで寝ていた女像も今じゃ涸びたヒナゲシのようだ。あんなに可愛かった花びらも萎れてしまえば何の興味も湧かなかった。
明け方四時前、この女像は(イデア)じゃないことに気がついたがいつもの事だと諦めた。
砂を流し込んだような喉にミネラルウォーターをぶちまける。ベトついた粘膜が不快に纏わりついてきた。その度に(R)は自分の短絡さに後悔した。



(ミッドナイトバーニ)は「お前が思ってるほど簡単なことじゃない」と言う。
彼のロケットペンダントには(イデア)の写真が入っている。誰も見たことはないがそう彼はいった。
通りに面したテラスで砂糖たっぷりのコーヒーを飲みながら彼は続ける。

「(イデア)なんてそういるもんじゃない。お前が見つけた(イデア)はみんなただの(他人)だ。ドードー海岸の砂浜から真珠を見つけるくらい大変なことだよ。向こうから寄ってくる場合もあるが、そんなのは期待しないほうがいい。そんな稀なことは俺が知ってる限り(Y)くらいなもんだ。だから期待しないほうがいい。ああ、そのほうがいい」

(ミッドナイトバーニ)は正しいことを言う。
だが彼の言うことは大抵は安全な選択だ。誰でも思うことを誇らしげに言う。
(R)はそんな彼を軽蔑していた。
だから一ヶ月後、(R)は彼が大事にしているアラベスク柄のオイルライターを運河に投げ入れてやった。
彼は泣きながら「ママ!ママ!」と慟哭し、石畳を殴りつけていた。石畳が黒に近い紅い血液で染まる。
(R)は彼の体内に流れる血液が紅黒かったことに落胆した。ずっと彼の血液は青色だと思っていたからだ。
昔(ミッドナイトバーニ)は自分は貴族だと言った。広大な土地を持ち、たくさんの雇い人がいたと。

「俺のこの封蝋の指輪がその証拠だ」とその時も砂糖がたっぷりのコーヒーを飲みながら、誇らしげにその指輪をみせていた。
そうなると誰もが彼の血は青いものだと思うに違いない。そして彼は雄弁だった。
アラベスク柄のオイルライターを失って以来(ミッドナイトバーニ)は姿を消した。

数日前、月が少し欠けた夜、列車の飛び込み事故がたった。
(Y)が言うには飛び込んだのは(ミッドナイトバーニ)だという。
鉄道警察が彼の指輪をポケットに入れたのを見たといった。
目の裏が少しだけヒリヒリする。結局は彼の(イデア)は自分のママだったのだ。

その後も“ドードー海岸の砂浜で真珠を探す”作業は続いた。
だが女像はすべて(イデア)じゃなく、女像にすぎなかった。毎夜毎夜と確かめ合っては何かをすり減らす。それが続くにつれ、(R)は疲弊していった。



マティーニで唇を濡らしながら、とうに(Y)は融合されたとリッチホステルに勤める女像が言っていた。

「ナイトラウンジで(イデア)らしい女像と狎れ合った後、エレベーターに乗ったわ」

随分と豪華なことだと(R)は毒突いたが、煙草の煙ほどにしかならないルサンチマンだと女像は鼻で笑った。

リッチホステルの女像と別れた後、(R)はひとり運河沿いを歩いた。
水銀灯が等間隔で並んでいる。ちらほらと蛾が飛んでいた。
時計を見るとまだ明日の手前で針は止まっている。
五本目の水銀灯の先にカフェの明かりが見えた。テラスには人影もある。
熱いカプチーノを想像したら自然と足はカフェへ向いていた。

運河沿いの席に座ると夜風が幌を揺らした。
その風と共に花の蜜のような甘い香りが(R)の鼻腔をくすぐった。
漂ってくる香りの先を見ると女像がいる。テラスに居た人影は彼女だった。

「パピヨン・ド・ニュイですか?」

(R)はいつもの慇懃さではなく、自分の声で語りかけた。

「いいえ。エフェメールよ」

その名前を言う彼女の声は小さな羽虫のようだった。
細い指先の一つひとつが洗練された造形物であり、美しかった。
その爪には紅いマニキュアが艶やかに塗られていて、触れられると動けなくなるような毒があるに違いないと(R)は心を振るわせた。
コーヒーカップにコツンと爪があたる音がする度に首筋の産毛が騒ぎ立つ。
彼女は髪を耳にかけ、人差し指で耳の淵をなぞる。
その仕草がすべての始まりであり終わりでもあった。



リッチホステルの部屋は静かだった。
(R)の鼓動だけが一際大きく聞こえるような気がした。それでも不思議と落ち着いているのは(イデア)の力なのだろう。
唇を重ねて舌を絡めた。ナイトラウンジで最後に口にしたワインの味がした。
お互いの息が荒くなると(R)はすでに毒に侵されていた。紅い爪が(R)の背中と首筋に食い込む。

陶酔した意識の中、彼が見ている景色は深い森の風景だった。
湿った土の匂いと微生物が死んだ生命の匂いが辺りに漂っている。
高い樹木のその上には小さな空が木々の間からのぞいていた。その空は果てしなく遠い。
たまに降ってくる水の粒がまだ見ぬ茫漠な空の世界のことをいろいろと教えてくれた。

一つずつ千切られていく様はきっと滑稽だろうと(R)は思っていた。
頭部を捕食されても躰は子孫のために動き続ける。
(R)の身体は(イデア)とその新しい生命の糧になり連鎖は永劫に繋がるのだと、安堵した。

「ああ、なんて無様な。ああ、なんて美しい」

アラベスク柄のオイルライターは燃え尽きる。
(イデア)が最後の(R)を捕食したとき、生命の秩序は保たれた。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-04

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