真昼の儚
真昼の儚
I県は北の国だ。駅から降りて直ぐに渡る橋の上で、確かに風が違うと男は思った。M市は古都である。
郊外に開けた街にA洋品店がある。F県出身の男が、隣県のS市で予備校に通っていた短いある時期に、とある誘惑が交錯してその家の娘と契り、翌春の大学受験に失敗して身を寄せていたのであった。
貧相で険しい旅人のような男の意思も立場もが、娘にさえ頗る曖昧だった。瞬間的な肉欲を共有したという以外には、男と娘にはさしたる確証はないのだった。不感症だと言う娘と一通りの性技を終えると、男はあからさまに空疎だった。
男は歴史の狭間の混沌とした政情の渦に飲み込まれ、無惨に格闘して我を失っているのだ。男にへばりつくその状況の息づかいは亡霊のようなのだ。鵺なのかも知れない。
元来温厚な両親も、娘との確たる展望もなく転がり込んできた男の若い無作法は心外だったが、娘のために怒りを押さえた。しかし、男を毅然となじる叔母の助言を聞き入れた娘から、避妊具の装着を迫られて以来、娘を抱いてもいない。欲望がとりつくほどの執着はとうに失せているのだった。男の神経を切り刻む歴史の軋みに直面して、我執などは無意味なのだ。
さりとて向かうべき新しい地平の目安とてさらさらもない。情況と交わりあえずに、構成から見捨てられたように、かなり病んでいたに違いない男は、何をするのでもなく、季節の移ろいに寄る辺なく身を任せて、文芸誌などを開いては思惟ともつかない夢遊に耽溺していたのだ。
その日、皆が揃って出かけるので男は店番を言いつけられた。
夜来の暗鬱な雨が上がった頃、白杖の女が入ってきた。
女は草也のたどたどしい助言に従い、目的の品を購入した。礼を言いながら、男の稚拙な助言で選んだ商品を受けとる女の手が、大胆に男の手を包んだ。
この時、女の掌の裸子植物の様な感触に男は撃ち抜かれた。すると、男の所作に反応した女が、謝りながら訳を続ける。
弱視なのだ、輪郭程度は認識できると言う。
女が去った。言い知れぬ快感が男の体内に留まっていて、神経の網羅が発酵する。男は声に出して呻いた。
ふと気付くと女の傘が残されていた。朝からの小雨はすっかり上がり、六月の真昼の日差しが男を誘う。
外に出て左右を確認すると、遥かに女の後ろ姿がある。矢庭に男は後を追った。
バス停に女は佇んでいた。男の息が治まらないうちにたちまちバスが来た。女の後に続いて男は乗り込んだ。
乗客は三人しか乗り合わせていない。二人は後部の死角に進んだ。並んで座り傘を受け取った女は短く礼を言い、男の手に手を置いた切り何も発しない。やがて指を怪しく絡め始めた。男は魔術師の夢幻に誘われる感覚に陥ってしまう。
細い道がうねうねと山脈に向かっている。濃い緑の洞窟に進入する。車体を軋ませながらバスが三〇分程走ると、寂れた停留所で二人は降りた。
一〇分余り歩き、浅い清澄な小川の朽ちかけた木橋を渡ると、段々の田圃と畑に囲まれた、牛小屋と棟続きの農家がその女の住まいだった。
背戸に迫る竹林から蝉時雨が降り注ぐ。庭の井戸水に瓜が冷えている。
一人暮らしだと女は言う。
暫くして女が瓜を運んできた。
女の紅い唇が汁で濡れた。
男は女に挑んだ。覆い被さる男に全く抵抗しないで女はなだらかに崩れた。キスをすると柔らかく応えるのだった。
-終-
真昼の儚