水星
水星物語
音楽と社会
序論:
古代ギリシャの時代から既に、人々は音楽が社会においての役割について考え始めたのである。例えば、古代ギリシャの音楽の道徳論や、中国の礼楽刑政などがあります。しかし、このような考え方は、何とも統治者が民衆を教化する道具として使われ、現代社会で通用することはまず少ないのだろう。もっとも、音楽の多様化によって、音楽の機能も単一的ではなく、開放的になり、様々な分野で使われるようになった。では、音楽の役割はどのように、社会の変遷に応じて変化していったのかについて、また、それと現代社会における音楽のあり方との共通点及び今後の展望について以下で考察する。
本論
音楽の語源となるギリシャ語の「ムーシケー」、すなわち「ミューズの恩寵にあずかる人間の営み」、は音楽、詩作、舞踊からなる包含的な、かつ宗教からの影響が大きい概念だった。そのため、音楽は元々、宗教儀式から発生したではないかという説もあります。やがて、前7世紀、音楽の中心地となったスパルダが民衆を教化するために利用、音楽が厳格な教育手段の一つとして、市民生活のなかに取り入れることになった。
ところが、演奏技術の発達により、フリユニスやティモテオスなどの音楽家の現れ演奏技術の発達により、音楽の技巧的な側面が他の要素を副次的なものにしてしまう。ギリシャの哲学者のプラトンがそれを反対する。彼は、音楽は人の精神を左右させると考え、そのような新しい音楽は人を堕落させると主張してます。しかし、プラトンの主張に関わらす、音楽はムーシケーから独立し、音楽だけを指すムーシケーという言葉が近代ヨーロッパに継承されて、今に至るまで使われている。
前146年、ギリシャは好戦であるローマ軍によって占拠された。一番最初、音楽は古代ローマ人に軽蔑されたが、結果としてギリシャの時代より更に人々の日常に染み込んだのである。ギリシャ人による音楽の道徳論の縛りがなくなり、音楽は実用化され、音楽教育が盛んになされ、スターのような存在すら現れ始めたのである。古代ローマ人は、音楽を娯楽のみに使う、いわゆる快楽主義の傾向があった。
しかし、このような社会は早くも破綻し、ミラノ勅令が発布され、キリスト教が国教となった。・社会は大きいな変動をしはじめ、音楽の機能性もそれに伴って、大きく変貌していく。
キリスト教の禁欲主義のせいか、中世に入ると、音楽は再び、人を教化する役割が絶対的になった。ただし、ギリシャなどで発展した音楽文明は、キリスト教に取り入れられ発展を続けた。
。中世には、そのころ形を成したグレゴリオ聖歌を正確に書き残し、伝えるために楽譜の模索が始まる。16世紀頃、現代の五線譜や音符が、音楽の伝授を更に簡単にした。
その後は、周知の通り、わずか300年間で、音楽史での進展が、バロック時代ーー古典派時代ーーロマン派時代で急激な変貌をしていった。筆者は、それらの時代や、先ほど述べた古代ギリシャやローマ音楽に、共通するものがあると考えているーーすなわちある一つの特性が度を超えると、その前の時代の特性に影響されつつ、全く違う特性の持つスタイルが盛んになってくる。例えば、複雑な対位法技術の代わりに、次世代ではモーツァルトのようなシンプルに分かりやすい音楽が主流になったが、対位法は消えたのではなく、より人々に聞きやすい形で
継承されたのである。特にルネサンス期以降は、啓蒙主義の浸透や理論の発達により、新しい音楽の主流は国家や宗教に制限されことも少なくなり、どんどん音楽も急速な変化を遂げる。
ただし、20世紀後半に入ると、こういった共通点を全て捨て切るような傾向に向かいはじめる。全く共通点がなく、特異性を目指す音楽が出てくる、だがそれも、「昔にあったもの」に対する反逆で、結局この「昔にあったもの」が存在しなれば、それらを反逆するような音楽も存在できないだろうと、筆者はこういう風に考えています。また、ポストモダニズムの芽生えより、こういった前衛的な時代の行き詰まりを指摘する声も徐々に大きくなり、今に至る。だが、それもまた、近代主義に対する完全なる否定ではなく、あの時代に開発された様々な理論は、現在のコンテンポラリーの身ならず、ポップスやジャズといった商業音楽にも影響を与えているのである。
結論
今までの歴史を振り返ってみると、やはり音楽の歴史というのは何らかのを周期で回っており、多様化の時代からだんだんある面で統一され、統一されてもまた分裂するような繰り返しをしている。今の音楽も、芸術音楽と商業音楽が影響しあって、最終的には両方の境界線というものがなくなり、また一つの概念になるのではないでしょうか。
水星