草矢の儚7️⃣
草矢の儚 7️⃣
-海子-
常陸高原の施設に海子はいたのであった。食堂の担当である。この時、四四歳。
草矢とはごく自然に親しくなった。父親を知らない海子だったが言い知れぬ温もりを感じたのである。ある夜、様々な出来事が重なって草矢と一度だけ同衾した。草矢が首尾を果たせたか否かは、もはや古稀を過ぎた筆者の関与するところではない。
一年後の二〇一二年の盛夏である。
「海を見たい」と、海子が言った。原発が爆発したあの海を見たいと言うのだ。
「あの海を見たい」一息ついて、「一緒に行ってくれますか?」と、海子が草矢を覗き込んで、「体は大丈夫かしら?」と、気遣った。もちろん、運転は海子がする。倫子には秘密だ。草矢が頷いた。
-北子-
一九六八年の盛夏の北国の要都であった。
国防法改悪に反対する大規模な抗議集会のデモ隊が、最前線の女性国会議員と県警警備責任者の些細な口論をきっかけに総崩れになって、瞬く間に暴徒化した。過激派の一群が県警本部に向かって疾走すると、ある一群はてんでに路上の車両を転覆させて放火した。随所で火炎瓶が飛び交い、機動隊が怒りを露に殴りかかる。放水が始まりガス弾が水平に発射された。ビルの野次馬からは怒声ばかりでなく様々な物が投げ落とされ、歩道の野次馬も暴動に加わった。騒乱状態だ。
大学生の北子は二二歳。騒擾の最中に、傷をおって逃げ惑っていた草矢と遭遇した。二人は静寂を求めて路地から路地を走り抜けて、気がつけば北子のアパートに辿り着いていた。
北子は甲斐甲斐しく傷の手当てをするのだった。草矢は予備校に通う一八である。
程なく逮捕状が出た北子の身辺が騒がしくなって逃亡したが、すぐに逮捕されて間もなく退学した。やがて、女児を出産して海子と命名した。実家は盛岡だが帰らずに草矢にも連絡はとらない。
ある生協に勤務しながら政治活動を続けて、あの翔子とは無二の親友となり継子とも同士だった。三〇歳でカムイ党の市会議員になった。当選を重ねたが、震災時には病没している。
-謎-
海子は母と同じ大学へ進み、二七歳である男と結婚した。男は高校の同級生だったが、一〇年ぶりに再会して結ばれたのだった。海子は処女だった。
夫は電力会社に勤務していたが二〇〇六年に事故死した。次の年に母の北子も死んだ。子供はいない。原発に近い○○浜の小さな家のローンの残債は、亡夫の生命保険で完済した。電力会社の売店で働き、あの男、草和と昵懇になった。
ある盛夏のある日、泣き砂のあの浜、『異人の儚』の小島で、草生と写真を撮り交接したのである。
二人は二年間、不埒な情交を重ねたが、原発が爆発してちりじりになったままだ。
ところで、先に書いたように、草和の実父が草矢の可能性は否定できないのである。海子の父親が草矢である可能性も、また、事実として存在している。 だとすると、海子と草生の関係は、海子があれほど忌み嫌った異母姉弟の相姦だったのかも知れないのであった。
避難して県外のある避難所に身を寄せていた海子はある原発労働者と交接したが、その男の行方が知れないのであった。海子はある刑事から事情を聴かれだがお座なりなものだった。
-死生-
そうして瞬く間に一年が過ぎた。書きためたものを整理すると、小説集と評論や随筆、詩、俳句で数冊になるほどだった。自家製本をするかとも考えた。しかし、そんな事で内省を顕在化したところでなんの意味があるのか。男は否定した。
書く営為は愉快だった。時を忘れて集中もした。そして、無為に書き進んだ。
いつの頃からか、書けば書くほど空疎になるのを草矢は実感していた。ある地平に男は佇んでいた。そして、もはや全てを書き尽くしたと男は悟った。
『儚』の連作については、筆者とてその真相に未だに辿りつけず、草矢が言及すべき局面ではないのである。
確かに、倫子や海子の存在は貴重だとも思えた。だが、女達は自身を名状に肯定し、確固とした意味と価値を与えて生きているし、生きていくのだろう。
倫子も草矢も互いに厳粛な個体の存在として歴程を創り、それぞれが終演を迎え様としているのだ。その尊厳こそを守るべきではないかと、男は考えた。
だから、何れにしても、真空の余生などはもうこれ以上は要らないのではないかと、男は凄絶に煩悶したのである。
盛夏のある日の午後、数日前から男の様子に怪訝を感じていた倫子が、ふと胸騒ぎを覚えて、男の部屋をたどたどしくノックした。
ー倫子ー
男との一年が何と充足していた事か、倫子はつくづく思い知った。それを直截に伝えていなかった事を悔やんだ。
倫子は一目で男の虜になったのだ。射ぬくような目、意志の強さを示す口元、なによりも男が漂わせる無頼な空気に魅了された。それでいて時おりみせる知的な表情も好きだった。
この流浪しているのであろう男の魂は何処に漂着しようとしているのか。毎日の著述に何を求めているのか、女は知る術もなかったが、男が時おり醸す危険な香りにも敏感だった。そして、女は男の徒然に寄り添いながら、自身の変化を感じていた。男といる事でもっと大きな変化がたち現れるのではないかという、言い知れぬ予感もあった。
高原に移っても女の暮らしは何一つ変わらない。最早、そう遠くない時に、終の住み処と定めたこの山麓に埋もれていくのだ。幾人かの係累の死も既に漠漠とし、そして女はただひとりなのである。今さら女のところに留まるような男ではないと思えた。しかし、女は今この時こそ自らの感性を信じようと思った。男を失ってはならない。男とは結ばれる縁なのだという、激しい啓示に包まれるのだ。この愛しい男とすべてを分かち合いたいと願った。
ドアが開いた。平生の男がそこにいた。倫子がすがり付いた。
(続く)
草矢の儚7️⃣