見つからない言葉のかわりに

伝えたいこと

放課後の美術室はいつも湿ったにおいがした。

七森依子(よりこ)はこのにおいを嗅ぐと自分のからだからもこのにおいがしているのではないかと時々不安になったが、然程嫌ではなかった。
ただ人が嗅ぐとあまりいい気がしないのではないかと思う。
絵の具と人のにおいが混ざりあう、湿ったようなそのにおいは美術室の隅々まで染み込んでいた。

中庭をはさんだ向かいの音楽室からは、吹奏楽部のチューニング音が響いている。
それだけ聴いていたら眠たくなる音。BGMにするにはあまりにも無理があった。

そんなにおいと音が満ちている美術室には依子より先に大森直人(なおと)がいた。

「やあ大森」

「やあナナモリ」

美術部員は四人。
七森依子と大森直人の二年生二人と三年生の部長一人。部長は大学受験の為、たまに顔を出す程度で殆ど来なくなっていた。もう一人今年の一年生がいるが三日くらいここに来ただけで、あとは学校にすら来ていない。
なので、実質活動している部員は七森依子と大森直人の二人だけだった。

依子は鞄を置いて、少しずれた眼鏡を直した。
さっき暖房を入れたばかりらしく、美術室はひんやりとしている。
秋も終わり、冬になろうとしているこの時期、暖房を入れると美術室のにおいはいっそう強くなる。

直人はイーゼルを立ててキャンバスを置いた。その前には以前顧問の先生が持ってきた古いロッキングチェアと、その上にはヴィオラが寄り添うように置かれていた。
季節のせいだろうか、その物たちはまるで亡くなった人の遺品のように見える。
どこか物哀しく泣いてるようだった。
直人はロッキングチェアの上にドライフラワーの花束も置こうとしていた。

「それ、やめたほうがいいよ」

「そうかな?もうちょっと色味があったほうがいいかなと思ったんだけど」

「なんか哀しくなってくる」

「それもそうだね。持ち主が死んじゃったみたいだ」

結局、直人はロッキングチェアの上に譜面と数本のドライフラワーを置いた。

依子もイーゼルを立てデッサンの準備をした。
だけど直人が置いたその物哀しげな品々を描く気にはなれなかった。

「それ描くの?」

「描くから準備したんだろ」

「ふーん」

直人は鉛筆を走らせている。
依子は直人から少し離れた場所で彼の横顔を見ていた。

「そのヴァイオリンはどうしたの?」

「これヴィオラだよ。吹奏楽部から借りてきた。どっかが歪んでて使えないって言うから、しばらく貸してくれることになった」

「ふーん」

依子は直人にだけ気のない返事ができる。
幼なじみだということもあるが、直人にはそれを許す何かがあった。
元々キッチリとした性格の依子。
後ろに束ねた黒髪は襟足までしっかり結ばれている。
制服も留めるところは留める。
仕舞うところは仕舞うと隙がなかった。
同じクラスの女子からコソコソと何か言われてるのは知っていた。
それは男子からも同じだった。

「七森さんってなに考えてるかわからないよね」

「朝、わたしの後ろに立っててびっくりした」

「あいつ地味だよな」

「あんま声聞いたことないし。笑ったとこも見たことない」

でも依子は気にしなかった。正確には気にしないようにしていた。
なるべく目立たないようにしてきたつもりが逆にまわりの目を引いていた。
そして気付いた。みんなと同じでいなくてはいけない。みんながそうだよねと言えばそうだと同意しなくてはいけない。同じような物を持って、同じような髪型で、同じような喋り方をしなくてはいけない。だけどそれ以上やってはいけない。頭をひょっこり出したら叩かれる。みんな叩きたくてうずうずしているのだ。
しかしもう遅かった。出す場所が違っていても叩かれるのだ。
今の依子という生き物は脱皮することも冬眠することも出来なかった。
しかし直人のまえでは違った。
依子という生き物がどんな行動をしようと、直人はそれを静かに受け入れ、良い意味で触れてこない。だから直人には気のない返事が出来た。彼のまえでは依子は変に気を張ることがないのだった。

いつのまにか吹奏楽部のチューニングが終わり、練習曲に変わっていた。いろんな楽器が混ざり合い調和の取れた音色になる。
もしそこに依子が混ざれば不協和音が起きるのではないかと時々思った。大勢のなか、自分の音で自己主張するなんて依子には想像もつかないことだった。


直人は来年の市民コンクールに出展すると先週から言い出した。
顧問の先生から七森もどうだと言われたが、まだ返事を出していない。

「それ出展する絵?」

「うん。ナナモリは出さないの?」

「考え中」

所在なく鉛筆を動かす。

「なんで急に出展することにしたの?あまりそういうの乗り気じゃなかったでしょ」

「いちおう美術部だからね。そういうの出したほうがいいかなって思ったんだよ」

「ウソ。明確な何かがないと大森は動かない。わたしは知っています」

依子は何となく直人をスケッチしていた。
絵を描いてる人を描く。
直人の横顔は輪郭が薄くぼやけていた。どこかふわふわとした掴み所のない顔。
唇は薄く、切れ長の目。その視線は遺品たちとキャンバスを行き来していた。
右手の鉛筆は忙しなく動いている。
しばらく沈黙が続いた。

「入賞したら芹沢さんに告白しようと思う」

洋服を買おうと思う。
熱帯魚を飼おうと思う。
明日、図書館に行こうと思う。

それくらいさらりと直人は言った。
依子も聞き逃しそうになるくらい抵抗なく、なめらかな口調でその言葉は耳に届いた。

「芹沢さんって大森のクラスの芹沢涼子さん?」

今、直人が描いているヴィオラを音楽室の入り口で芹沢涼子から直人に渡される場面が依子には浮かんだ。それは彼女が吹奏楽部だったからだ。
彼女は直人と同じクラスだし、最近ふたりの仲がいいのも依子は知っていた。
直人のクラスを通りがかったときに二人で一緒にいるのを見たことがあった。

「うん。ウチのクラスの芹沢涼子」

「べつに入賞しなくたって告白できるでしょ。最近仲よさそうだし」

「なんかキッカケっていうか、ポンっとおされるような出来事が欲しいんだよ。今みたいに友だちのままでもいいんだけど、何かタイミングがあればそういう仲にもなってみたいし」

「ふーん。じゃあ入賞しなかったら今のまま?どっちでもいいって感じじゃ失礼だよ。大森のそういうとこ良くないよ」

「どっちでもいいってわけじゃないよ。今回は入賞したら言ってみようってこと。入賞しなかったら他のキッカケを考えるよ」

「なんだかんだと自分に理由をつけてるわけね。そういうのモテないよ」

「ナナモリが言うなよ」

日は傾き美術室を照らしていた。窓から見える空は雲が薄かった。
入道雲が山のように浮かんでいたのは、つい最近だったように感じる。
依子はいつも思う。直人は雲のようだと。その時々で形をかえる。やっぱり掴み所のない人間だと。
依子の右手はそんな直人の横顔を描き続けていた。

それから週に三日ほど、直人は美術室で絵を描いた。
依子も週に三日ほど、直人を描いた。
一緒に描く日もあれば、直人だけの日もある。誰もいない日もあれば、依子だけの日もある。
最近では美術室のドアを開け、直人がいないと何故かほっとした。
絵が完成に近づくにつれ、その意識は強くなっている。
なぜわたしは大森の絵を描いてるんだろうという疑問がそれを強くしているようだった。
先週、依子は顧問の先生に出展すると言ってしまった。直人にはそのことを言ってない。
直人の横顔の絵を出展するつもりはないのに、心の何処かではこの絵を出展するつもりでいた。
自分のよろよろとした気持ちを考えると、直人の「曖昧な告白」がわかるような気がする。
依子は今の気持ちを明確なものにするのが怖かった。なぜ怖いのかはわからない。ただ、小さなつむじ風がそのことによって大きくなり、何もかもを巻き上げてしまうような気がしたからだ。
気難しい青い風はいつも依子に吹いていた。



今年の二月は、吐く息まで凍ってしまいそうなくらい寒かった。
毎日のように寒波だとニュースでは言っていた。午後になっても気温は上がらず、帰りのバス停は「ここだけ温度が低いのでは」と思えるほど辛かった。
依子はバス停の近くにあった自動販売機でポタージュ缶を買ってポケットに忍ばせた。
マフラーに耳あてと手袋。足元は真っ黒いタイツとロボットみたいな防寒靴。
歩くと寒さで雪鳴りがした。雪の結晶が擦れる音。

きゅっきゅっきゅっきゅっ…

なんだか痛がっているようで依子はこの音があまり好きではなかった。
バスを待っているあいだ、ポタージュ缶をポケットの中で転がす。右に入れたり左に入れたり。
鼻までマフラーを巻いているから眼鏡が曇った。

「こんにちは」

突然、後ろから声がした。
驚いた依子は素早くカラダごと振り向いた。そこには芹沢涼子がいた。
ぎこちない動きに曇った眼鏡。
芹沢涼子は「ぷっ」と笑った。

「七森さんでしょ?」

依子は首だけコクリとうなずいた。

「大森くんがよく七森さんの話をするから。チャンスがあったら話しかけてみようと思ってたの」

とてもキレイな声だった。
マフラー、耳あて、手袋…
どれも依子と同じアイテムなのに何処かあか抜けていた。
身に付ける人によって、こんなに違うものかと依子は思った。

「あ、バス来たね。一緒に座ってもいい?」

また依子はコクリとうなずいた。

並んで座るといい匂いがした。
バスが揺れるたび、芹沢涼子からその匂いがする。
依子からはあの湿った美術室のにおいがしているのではないかと不安になった。

「…芹沢さんもこっちなの?」

「ウチは違うよ。並木町のほう」

直人と同じ方角だ。

「今日は買い物があるからこっちなの」

「…そうなんだ」

「大森くんが七森さんと幼なじみだって。小学生のときまで近くに住んでたんでしょ?大森くんが並木町に引越すって言ったら『ふーん』って言われたって。『久しぶりに高校で会ってもナナモリは“ふーん”しか言わない』って笑ってたよ」

自分の知らないとこで、そんなはなしをされているなんて依子は恥ずかしくなった。
自分の羞恥な部分を見透かされているような気分だった。

「…大森が借りてきた吹奏楽部のヴァイオリンって芹沢さんが頼んでくれたの?美術室にあるんだけど」

依子は話題を変えようとした。

「七森さん、あれヴィオラだよ」

「あ、そうだった…」

「ずっと使ってなかったから、先生に貸していい?って聞いてみたの。あとで大森くんもお礼に行ったみたいだけど。大森くんがわたしに借りたって言ってたの?」

「あ、いや、その、勘です。勝手にそう思っただけで…たまたま芹沢さんと大森が一緒にいるとこ見かけたから」

変えた話題が失敗だったと依子は後悔した。

「七森さんは鋭いんだね」

芹沢涼子はクスクスと笑った。
彼女はよく笑うのだろうか。
右側にだけできる笑窪が印象的だった。

「ところで大森くんって、わたしのことは何か言ってる?」

言われることが嫌なのか、言われないことが嫌なのか。彼女の表情からは判断がつかなかった。

「…とくに何も」

コンクールのことは黙っていた。
直人はキッカケが欲しいと言っていたから前もって芹沢涼子に「入賞したらキミに告白する」なんて口が裂けても言うはずがないだろうし、もちろんそんなことを言うような性格でもない。
ここでわたしがぺろんと言ってしまうほどとぼけていないと依子はくちをつぐんだ。

「そう… あ、わたしここで降りるね。それじゃあ」

車内では次の停留所のアナウンスが流れていた。

「あ、うん。それじゃあ」

とくに次も会いましょうとかお話しましょうとか、そういったこともなく芹沢涼子は降りていった。
彼女の残り香が依子の鼻孔をくすぐる。
バスは走りだし、車窓から消えようとしている芹沢涼子の後ろ姿は、主人を亡くしたあのヴィオラのように哀しげに見えた。



並木町は郊外にある住宅地で、近くには公園とそれに併設して図書館や運動施設があった。
整備された公園には銀杏並木があり、秋になると沢山の落葉が歩道を黄金色に染める。
冬は雪が積もり、黄金色から白銀へと色を変え、時折風が吹くと枝に積もった雪が落ちてきて、小さな雪の結晶が目の前を白くした。

直人の家はこの公園を抜けた先にあった。赤い屋根のスウェーデンハウス。庭に白樺の木を植えてあるので土地勘のある人に説明すればすぐに分かる。
芹沢涼子が同じ並木町に住んでいると直人が知ったのは、夏のいちばん暑い時期だった。
その頃に彼女は母親の旧姓に苗字が変わり、並木町に引っ越してきた。
夏休みに直人がコンビニでアイスを選んでいると芹沢涼子に声を掛けられた。

「暑いね」

「あ、芹沢さん。なんでここにいるの?」

とくに驚くでもなく直人は言葉を返した。
そしてすぐにまたアイスを物色する。

「なんでって、わたしんちここの近くだから。先月引っ越してきたの。大森くんも近く?」

「んー、俺んちも近く」

同じクラスなのに会話をしたことがなかった。
引っ越した先の近所のコンビニに、たまたま同級生がいたから思わず声を掛けてしまったが、直人の素っ気ない受け答えに涼子は少し呆気にとられていた。
クラスでも直人はとっつきにくそうだなと感じていたがその通りだと涼子は思った。

「アイス食べる?おごるよ。どれがいい?」

「え?いいの?ありがとう。じゃあ…同じの」

いろいろと手にとっては戻してを繰り返して、結局はじめに選んだチョコバーを二本持ってレジに並んだ。
先に買い物を済ませていた涼子は外で待っていた。
後から直人がコンビニから出て来ると、どちらともなく並んで歩いた。
木陰のある公園のベンチに座り、直人は涼子にアイスを渡した。

「もう溶けてきてる」
直人はアイスを下からなめた。

「大森くんの家ってどこ?」

「公園を出てすぐ右の家。白樺の木があるとこ」

直人は家のある方角に目線を向けた。

「あ、あそこって大森くんの家なんだ。可愛い家だよね」

「可愛いかどうかは分からないけど、わかりやすいとは言われるよ」

直人の色白な肌が、高い日差しとは不釣り合いに見える。

「なんか幸せそうな家だよね。あんな家がよかったのになあ。ウチは古いアパートで、狭いしすごく地味な感じ」

「幸せそうなのは見た目だけかも。家族で同じ家に住んでてもバラバラなことだってあるし、それじゃ意味がないよ」

直人のアイスがぽたぽたと地面に落ちていた。

「大森くんちは違うでしょ?」

「どうだろう。ウチは父さんが仕事で殆ど居ないから。なんかスカスカした感じ」

「そうなんだ…ウチはバラバラだったけど、お母さんと狭い部屋に引っ越したらちょっとはまともになったかも」

「新しい苗字は慣れた?」

「まだ…かな」

長いようで短い沈黙が続いた。
近くの木に蝉がいるのだろう。ずっと忙しなく鳴いている。
涼子はそれ以上何も言わなかったし、直人もそれ以上何も訊かなかった。

ぽたぽたと地面に落ちたアイスに蟻が群がっている。

「たまにこうして会おうよ。近所なんだし。学校じゃ落ち着いて話せないでしょ?アイスおごってくれたから今度はわたしが何かおごるね」

沈黙の答えのような言葉を探した。
直人も何を伝えたいのか分からなかったし、涼子もそれ以上の言葉が浮かばなかった。
もっと大人になれば分かる事でも、今の二人には難しかった。

それから二人は定期的に公園で会うようになった。
秋も終わり頃には肌寒く、図書館やたまに喫茶店でも会うようになった。
それでも頻繁に会うことはなく、二人は一定の距離と時間を保っていた。
それはそうしようと決めた訳ではなく、自然と出来上がったものだった。
その頃には涼子もはじめに思っていた直人のとっつきにくさを感じなくなっていた。

「芹沢さん、吹奏楽部で使ってないヴァイオリンってない?」

「うーん。ヴィオラならあるけど。どうしたの?」

「絵を描きたいんだけど、貸してもらえないかな」





コートから薄手のカーディガンになる生徒が増えてきた。
依子もダッフルコートをクローゼットの奥に仕舞った。
朝の通学路はまだちょっと肌寒く、少しではあるが所々にまだ雪が残っている。
北の冬はしつこい。

三年生になって美術部の部長は依子になった。
結局二年生はいないが、新入生が三人入部を希望してきた。一応、廃部にはならないらしい。先生に聞いても「そんな話しは出てないよ」と言っていた。美術部自体、あってもなくてもどちらでも良いのだろう。
今まで通りひっそりと活動していればいいかなと依子はほっとしていた。

結果、市民コンクールは直人の絵が入賞することはなかった。
直人本人の絵が入賞することはなかったが、彼の横顔は入賞することができた。それが直人にとって望ましいことなのかどうなのかは別として、彼も素直に喜んだ。

依子は絵を提出する日に直人に出展することを告げた。
自分の横顔が出展されることに直人は嫌な顔をしなかった。
なぜ自分の横顔なのかは疑問だったがさして問うこともしなかった。

放課後、美術室のドアを開けると先に直人がいた。

「やあ大森」

「やあナナモリ」

直人はいつものようにイーゼルを立てていた。
少し開けた窓から春のにおいがしたけれど、その後から湿ったにおいがやってきた。

新学期の前に芹沢涼子は遠い南の街へ引っ越していった。母親の実家がそこにあるらしい。
登校最後の日、依子のところにも涼子はあいさつに来た。

「元気でね。さようなら」

直人は想いを告げたのかは分からない。絵が入賞することはなかったけど何か他のキッカケが見つかったかもしれない。
本人が言わないのであれば依子も訊く必要はなかった。
最後に見送りに行ったのは知っていたが、あえてそこにも触れなかった。

「ナナモリを描く」

「いや、やめてください」

音楽室から吹奏楽部のチューニング音が聴こえてくる。
あのヴィオラは使っているのだろうかと依子は思う。
北国育ちの二人にとって、遠い南の街は異国に近かった。
きっと涼子もそう思っただろう。
すべての環境が新しくなる。大人の事情とは残酷だ。

入賞した絵は依子の部屋の押入れに仕舞ってある。
これはキッカケなのだから直人になにかしらの気持ちを伝えてもいいのではないかと考えるが、やめにした。小さなつむじ風を大きくする必要はない。

美術室のにおい。
吹奏楽部の練習曲。
窓から見える空は、青い春の色だった。

見つからない言葉のかわりに

見つからない言葉のかわりに

  • 小説
  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-03

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