草矢の儚6️⃣

草也

草矢の儚 6️⃣


ー錯誤ー

 手術して11年半にして症状に変化の兆しが現れた気がした。
 もはや無益な価値しかない勃起の現象が不可解に蘇生したのである。当初は不鮮明だったが、それが順順に男が驚愕するほど克明になった。
 しかし、錯誤かも知れないと草矢は否定した。半疑だった。確信してその後に症状が逆行するのも恐いのだ。
 薄紙をはぐという現象が確かに訪れているのではないか。しかし、可逆の畏怖が再び沈黙させる。
 そして、また思い直す。神経が本来の静寂を取り戻しつつあるのではないか。
 まだ神経が暴れている、一〇年して快癒した患者もいると言った医師の言葉の意味が、ようやく解釈できる様な気分だ。その神経が暴れる現象が随分と沈静化した気がするのだ。
 顔の左半分の、とりわけ目の疎ましい違和感が消えつつある。全身を駆け巡っていた痺れが和らいでいる感じが何となくする。
 足首と膝が楽になって割りとしっかり歩ける様になった気がする。
 目眩感は殆ど消えたのではないか。
 みな辛うじてだが、玉葱の皮がむけカボチャを切る力があるのに驚いた。
 シャツのボタンを痛みをこらえてだがようやくだがはめられる様になった。
 何より朝、顔を洗う気力が湧いたのだ。歯磨きも楽だ。入浴の意欲も戻ったみたいだ。
 車の運転もだいぶ楽になった。時おりは、用もないのに出掛けたい位だ。
 ポストを毎日覗いても苦にならない。
 そして、あれほど煩悶した勃起がいつの間にか回復したのだ。衰退していた自信が甦る気分だ。

 いつしか男にある渇望が宿った。野望と言うほどのものではない。あの女をもう一度見てみたい。ただそれだけの事だった。

 その銀行員の女と出会ったのはそんな時だった。
 同衾を前に草矢が言った。「この病気をどう説明するのか。尻込みして怠ってしまった。謝罪するしかない」草矢の話を聞き、事も無げにあの女に似た笑顔の女が言った。「私の父と同い年だもの当然だわ。膀胱だって老化するもの。貴方は父なんかより若く見えるわ。気になさらないで。何でもするわ。おしっこも精液も同じ様なものだもの」
 男は感激した。女が続ける。「フィラチオは2万。挿入は5万。みんなコンドーム付けてね」

 草矢は時おり正気に戻る。
 眼前で看護師の女が豊かな腰を屈めている。見回すと見覚えのある光景だ。精神病棟の個室だと思い至る。
そして、振り向いて破顔したその看護師の女は、あの銀行員の女ではないか。
 つい今しがたまで男と性交していた女が、なぜ突如、看護師に転身したのか、男にはさらさら理解できない。しかし、男の直感では、看護師のこの女の身のこなしも欲求不満の所以なのだ。満たしてやらなければならないと男は確信した。盛夏の陰湿な昼下がりである。


-放射能の女-

 草矢はしばしば妄想に耽溺する。それは狂気に留まらないための必然の営為なのだ。いわば妙薬であり、快癒のための儀式なのだ。

 原発が爆発して四カ月後の盛夏。
 放射能の侵入を防ぐために長く締め切った草矢の家に、あの女が突然に訪ねてきたのだ。会うのは五年ぶりだ。
 草矢はそもそもクーラーが苦手だったし、手術以来は身体が冷えていた。追い討ちをかけて、影響が全く判然としないあの醜い放射能は、涼風と共に侵入して来るのか来ないのか。どこからも発信がないのである。必定、エアコンなどは動かさないのが至極賢明なのだ。だから、居間は異様に蒸しかえっている。

 椅子に座って向き合った女は、半袖の青いチャイナドレス風の、裾にスリットを入れた服で熟れすぎた身体の線を浮き立たせている。精一杯のおしゃれのつもりなのだろうが、男には爛れた意図を包み隠しているとしか思えない。かつての様に窮屈な下着で締め上げているのだろうが、乳房や下腹、尻などの際立った肉の存在を露悪に主張しているばかりなのだ。
 女が足を組み代える都度に、裂け目から浮き上がった太股がよこしまな来意をあからさまに告げる。
 改めてぎこちなく挨拶を済ませるが、越し方の交換もおどろおどろしくしか進まない。
 放射能はいざ知らず、原発に対する考えが両極なのは解っていたから、敢えて話題にするのを避けた。
 そもそも、女の来訪の意図は不純なものに違いない。何れにしても結語は金だろうと、男は女が漂わす雰囲気から直感で確信しているのだ。その佇まいは肉感過ぎて純真が豪にも感じられないのだ。
 そして、女はある匂いを漂わしていたから、必ずや男がいる筈だとも断定した。少なくとも、あの一時期の蜜月が蘇生した予感は更々もないのだった。
 それにしてもと、男はつくづく溜め息をついた。そうした邪心さえなければ、この女の熟れた身体は男の趣向には最上の貢ぎ物なのだった。

 代謝が悪かった筈の女も、さすがに汗を拭きながら、「手作りお香の販売をしてるのよ」と、自立を誇らしげに言った。「知ってる。インターネットで見た。市長の勝手連の会長に就いているのも見た」「あれはまったく本意じゃなかったの。女子大の同級生に頼み込まれて仕方なかったんだわ。私が政治に関わるなんて、あなたから見たらお笑い草でしょ?」「相も変わらずデラシネだ」「それって?」「根無し草って事だ。よりによって香とは。いかにもだ」「どういう意味なの?」「他意はない。行き着いたのはやはりこうした事だったのかという感想だけだ」
 「仏教の事も書いてあったが?」「みんな京都の本店が作っているの」「そんな半端な姿勢で仏教を語って金を取ってるのか?」「商売なんてみんなそんなものだわ」「呆れたもんだ。やっぱり何にも変わっていないんだな?」「人間なんてそんなに変われる筈がないでしょ?」

 「あなたはどんな風に暮らしてるの?」不器用な笑みを漏らしながら女が話題を変えた。「駄文を書き連ねている」「あなたの事だもの、そうだと思っていたわ」「読みたいわ。読ませて?」

 暫く考えた男が女の携帯に『白日の儚』を送った。女が読み始めた。一〇分もすると携帯を閉じて、かつて知った台所に立って水を飲んだ。
 赤い唇を濡らして、「凄いわ」「良くあんな事が書けるわね?」「厭らしい情欲の女ね?」「モデルはお前だ」「嘘よ。私はあんなんじゃないわ」「自分の事など誰も知らないんだ」女が視線をそらした。自己保身の特徴的な癖なのだった。
 「証明してやろう」と、男が、『瑶子の姿態』を送った。最初の二章を読んで女は携帯を閉じた。「これはその通りだわ」「それにしても身体が変になりそう」「ホントに暑いんだもの」
 この刹那に男はある事を発想して端的に本質に切り込んだ。
 「前にも書いたのを読んだろ?覚えてるか?」「そうだったわね」「『瑶子の陰陽五行』だ」「あれも凄い小説だったわ」「読みながら身体をよじって、興奮してきたと言っただろ?」「そうだったわ」「もう濡れてるって?」「そうよ」「それから何をしたんだ?」「その場で小説を真似て。あなたのをしゃぶったんだわ」
 その時、遠くで雷鳴が鳴り響いた。一気に涼しくなる。蝉時雨が止んだ。すると、みるみるうちに黒雲が覆い始めた。やがて、ポツポツと落ち始めた大きな水滴が、瞬く間に激しい夕立になった。雷鳴が間近に迫ったかと思うと、辺りは真っ暗になり雨が大粒の雹に変わった。稲光が辺りを煌めかせたかと思うと、ひときわ激しく雷鳴がつんざいた。

 ワンピースを脱ぎ払って椅子に座り直した女は、男が想像した通り、窮屈な下着で熟成した肉を締め上げていた。至るところから腐肉が絞り出されている。「網のかかったハムの化け物だ」男が呟いた。「何か言った?」と、もう情交の最中だという風情で女の表情が虚ろになる。
 「私達って。随分したわね?」「一番感じたのはいつだ?」「気仙沼の浜辺のホテルだわ。あそこも壊滅したのよ。テレビで見たもの」「どんな風にした?」「足の指を舐められたわ」「宮城の島も相馬やいわきの浜。バンガローにホテルも。茨城の海も。私達の痕跡がみんな流されてしまったのよ。淫らで煌めく様な懐かしい過去はもうなくなってしまったんだわ」

 「身体が変わったな?」「そうかしら?」「ますます淫靡だ」「厭だわ」「何か頼み事があってきたんだろ?正直に言うならすべて受け入れてやる」「言えばホントに許してくれる?」「約束する」「だったら言うわ」「あの人がいっぱい舐めたからよの」「誰だ?」「あなたと別れてから付き合ってた人よ。地震で死んだの。私の部屋の倒れた家具の下敷きになって」「今日来た目的は何だ?」「勿論、あなたとよりを戻したかったのよ」「お金も借りたかったの」「その人は私の部屋で死んだの。だから、みんなばれてしまって。奥さんから訴えられているの。証拠を握られてしまって。敗訴が確実だって。弁護士に言われたんだもの」「証拠って?」「その人と私の写真や動画だわ。あなたともいっぱい撮ったでしょ?」「焼いてくれって頼んでたのに。みんな自宅のパソコンに残ってていたんだわ」「慰謝料がどうしても必要なの」「株で一億儲けたって言ってたでしょ?少しお借りしたいと思ったの」「いくらだ?」「一〇〇〇万でいいんだけど。無理かしら?」「貸してもらえるなら何でもしますから」
 男が大笑いした。「あれは嘘だよ。お前をかついだんだ。確かに一五〇〇万程は儲けたが損失もあったから、今では虎の子の生活費だよ。貸すわけにはいかない」「身体も軽率だが、相変わらず口も軽いんだな」「みんな喋ったら許すって言ったでしょ?」「程度問題だよ。お前には俺への愛を語る資格がないんだ。そんな暇があるなら死んだ愛人でも弔うがいいんだ」「死んだ人は死んだのよ。だったらお仕置きをして頂戴?いっぱいしたでしょ?」「もうゲームオーバーだよ。残念だが原発が爆発して全ては終わったんだ」

 草矢は股間を明らかにした。「これを見ろよ。お前には絶対に勃起しないんだ」「私が特別な手法で快癒させてあげるわ」「無駄な事だ。今日、俺は未だ一度もお前に触れていない。何故だか解るか?」「どうしてなの?」「気味が悪いんだよ」「私が?どうしてなの?」「お前は強欲すぎる。人のものを何でも欲しがる」「誰でもそうじゃないの?欲望は発展の原動力でしょ?本能だし資本主義なんだもの」「欲もほどぼどなら潤滑かも知れないが度が過ぎるんだ」「私が特殊だというの?」「守銭奴だよ」「そうよ。お金は命に次いで大切だもの。離婚して以来、女一人。私はそうして生きてきたのよ。でも、あなたが守銭奴と非難するなら仕方ないわ」「借りた金も返さない」「そうだったわ。それは認めるけど。返そうとは今でも思っているのよ」「お前は詐欺師だ。様々に手をつけた販売は詐欺商法だ。摘発されてるだろ?」「私が加害者だって非難するの?私だって被害者なんだもの。でも、あなたが声高に叱るんなら。そうよ。いっぱい騙したわ。でも、女一人で必死で生きてきたの。みんな、仕方なかったんだわ」「父も母も義母も叔父も妹も、お前も。他の何人かの女も。俺が嫌って避けた者達に共通しているのは俺に金をせびった事だ。邪鬼なんだ」
 「未だ解らないのか?金や身体や、まして性なんて何の意味もないんだ。色即是空だ。こんな事も解らないで香を焚いてるのか?」「お前の身体は相変わらず豊満だ。確かに俺の趣向だよ」「しかし、その凄まじく貪欲な心は醜くすぎる」「改善のしようがない性悪だ。放射能と似ている」「放射能?」「放射能とは決して和合は出来ない」「お前はもう放射能の女なんだよ」


-多層性人格障害- 

 「今度こそ永別なんだから面白い事を教えてやろう。馴染んだ身体の持ち主だから特別にだ。俺にはある女がいるんだ。一六からのつき合いだ。その当時から精神科医だ。その人の診断によると、俺は多層性人格障害という病気で。ある人格になった時だけその女に会いに行く。別な人格の時にはその女の存在すら認識していないという事らしい。その女は俺の女神だ」「今日だって、お前に最初に応対したのはお前が知ってる草矢だったが、途中から別な俺が入れ替わった。あの雷雨が始まった時からだ。お前を脱がせ始めたのはその俺だ」「前の草矢がすっかり飽きてしまって、変わった俺が興味本位でお前に悪戯をしてしまったんだ」「一時はお前を愛した俺の別人格も、お前の心根が俺の女医の様であったなら、必ずや女神として遇したと思う」「これが真実の真髄だ」「解ったら、貧相な迷い子よ。今こそ永訣だ」
 女が初めて唄う悲しい歌の様に言った。「ホントに帰れって言うの?」「私が怖いの?」「道徳に背いて法を犯すって?」「勃起不全はすっかり回復したけど、私とは丸っきりやる気が起きないって?」「あなたが言っているのも、多層人格もみんな嘘でしょ?」「あなたが書いた小説の様に荒唐無稽で巧妙な作り話なんでしょ?」「その証拠が明確にあるのよ。あんなに細微露悪に描写していた私とあなたの性交だって、この最終稿ではすっかり削除してしまったでしょ?」「それはその通りだ」「タブーに挑む、禁忌は許さないって。あの矜持はどこにいったの?」「性などは、とりわけお前と俺の交接などは書きすぎたら醜悪なだけだよ」「あなたは私の何十倍も嘘つきなんだわ」「あなたこそ稀有壮大な詐欺師なんだもの」「二度と来るなって?」「あなた?これってゲームなんでしょ?」「ホントにそうじゃないの?」


(続く)

草矢の儚6️⃣

草矢の儚6️⃣

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-09-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted