草矢の儚5️⃣
草矢の儚5️⃣
-精神病棟-
病棟の診察室で女医の倫子と草矢が椅子で向き合っている。二人きりだ。女医が看護婦を遠ざけたのだ。
「本当に私の事を忘れたの?」草矢が怪訝な表情で眉間にしわを刻んだ。
女が男の手を取って白衣の下の裸の乳房に導いた。男は動揺するばかりなのだ。
「本当に覚えていないんだわ」「記憶障害かもしれない」女はカルテに記入した。向き直って、「大事な診察だから正直に答えるのよ」
「夢精する?」「厭らしい夢をみるでしよ?」「厭らしいって?」「セックスだわ」男が頷くと、「どんな?」「大体はすぐに忘れてしまう」「覚えてるのがあるの?」「何回も同じ夢を見たんだ」「どんな夢なの?」「大滝という滝があるんです」「そこで?」「何をしたの?」「初めてあったばかりの女の人と…」「どんな人?」「光の中にいて顔は判らない」「光?」「そう。白い光に包まれている」「どんな女なの?」「優しくて綺麗な人だけど。光に包まれて…」「顔は判らないの?」「顔はあるんだけど、光に包まれてる」「何をしたの?」「セックス」「射精はするの?」「する」「どこに?」「光の中」「いい気持ちなの?」「凄く」
「その他にセクスした事は?」「ない」「本当なのね?」男が頷いた。
「セクスしたいんでしょ?」「私としたくない?」女が股間に手を伸ばした。
「あなたと私はもうしてるのよ?」「絶対に思い出させてあげるわ」
「倫子って呼んで?」「あの時と同じくするわね。思い出すかも知れないわ」女が抱きついた。豊かな乳房が乱れている。
女の体温が伝わってくる。暫くすると、「いい身体をしてるのね」女の手が男の股間をまさぐる。「若いんだもの」「そんな事ばっかり考えてるんじゃないの?」
諦めた女が、「長い治療になりそうだわ」「明日は晴れそうだから、あの大滝に行ってみようかしら?」「いいわね?」
-蚊-
「他の人はどうしたの?」「みんな帰った」「二人きりなのね」「私。いくつに見える?」「言ってみて?」「二五」「嬉しいわ。2七よ」「あなたみたいな弟がいたら。こんな時にはきっと助けてくれるに違いないわ」「むしゃくしゃする事があって。車を飛ばしてきたの」離れた広場に赤いスポーツカーが停まっていた。
「男だな?」「判るの?」「勘だ」「まるで精神科医みたいだわ」女が二の腕を叩いた。「蚊に刺されたの」みるみるうちに赤い斑点が浮き上がった。男がウィスキーを口に含んで、桃色の肉を舐めた。艶かしく呻いた女が、礼を言いながら、「機転が利くのね?」「しょっぱかったでしょ?」「とっても適切な治療よ」「きっと立派な医師になれるわよ」と、瞳を煌めかせた。
-色情狂-
「さっき、赤いスカートの女とアロハの若い男が滝壺を覗いていたでしょ?」「あの人達の面白い話をしてあげようか?」女が話し始めた。
「何だか胸騒ぎがして後をつけたの」「暫く歩くと、立ち止まって抱き合ったわ」
姿が隠れる藪の小道に入ると、やにわに抱きついた女がキスを求めて舌を絡ませ、「やりたかったの」と動物の様に尻をくねらす。「若くて精悍な貴方が堪らない」と股間を撫でる。「さっきのバスも。朝のバスも衝撃だったわ」「あんな写真、初めてよ。凄かったわ」と言う。「貴方の大胆が大好き」 「朽ちた木に火がついたみたい」「生きる力が湧いたわ」「こんな世の中で結婚も子供も望まないわ」「若い貴方を邪魔する気は毛頭ないもの」「今だけでいいの」「貴方が望むだけでいいの」「子供を産むのが嫌だったから避妊具を入れているのよ。妊娠はしないから安心して」「剃刀負けするから脇毛は剃らない」と、男の問いにも答える。
再び歩きながら、「前から好きだったの。あなたの事を考えながら自慰をした事もあるのよ」「今日も客のいない時にしたわ」と、林の中の小道で立ち止まり、「ここならもう大丈夫」と言う。椚の大木の裏に男の手を引き、「誰も来ない。来てもすぐわかるから」と、男に抱きつき艶かしく舌を絡める。尻をくねらせて腰を押し付けながら、「我慢できない」と乾いた息で囁く。下着を脱ぎ払い、「確かめて」と、指を招き入れた。隆起を握りしめ、耳元で「早く入れて」と、男の唾を催促し飲み込みながら言う。女は大木に支えられながら背後からの勃起を狂喜して吸い込んだ。
絶頂の余韻で放心する女に、男がカメラを向けた。「一日中貴方の事を考えていた」「私は今朝のあの一瞬で変わってしまった」「でも今がとっても心地いいの」「すっかり解放された気分だわ」「ようやく戦争が終わったみたい」「戦争をした男は大嫌いよ。軍や天皇は特に嫌いだわ」「あなたはあんな悪夢には関わっていないんだもの」
顔を一〇枚ほど撮った後に、陰毛が淫らに繁茂し精液が溢れる濡れた秘密も撮る。女はバスの中で見たあの写真を真似て、ブラウスをはだけて朝のキスの痕跡が鮮やかに残る乳房を晒し、揉んだりして、痴態を作って応えた。
蝉時雨の小さな神社に着くと、女は祠の狭い縁にバスタオルを広げた。ウィスキーと煙草も出す。男はウィスキーを飲み煙草を吸う。女も真似る。
暫くして、男が写真を撮ろうかと言うと女も同意した。
女が真裸になって、男にも脱げと催促した。男も真裸になった。
女は様々な痴態をカメラに向けて、陶酔の表情を浮かべる。淫豊な尻を割って全てを曝す。亀頭をくわえたり、陰茎をなめ回しながらレンズを見据える。
やがて暮色が迫り、再び堪えきれなくなった女が結合をせがんだ。横たわり膝をたて足を広げて侵入を待つ。接合して陰嚢を陰唇に激しく打ち当て、隆起を出し入れした。女が原始の雌の様に悶える。やがて射精を受けながらしがみついて痙攣し、闇が迫る中ですすり泣いたのだった。
-蛇-
「どう?」「面白かった?」 その時、遠くで雷鳴が鳴り響いた。蝉時雨が止んで一気に風が涼しくなった。すると、みるみるうちに黒雲が覆い始めた。
女が男の肘に合図する。杉の大木の根本で二匹の大きな蛇が絡み合っているのだ。一匹は白蛇だ。「こんなの見るの、初めてだわ」「見た事、ある?」男が首を振ると、「きっと交尾しているのよ」「白いのはこの神社の守り主かしら」「雌なのかもしれないわね」呪文を唱える様に女が言って、煙草をねだった。フィルターを濡らして煙を吐く。乳房が震えた。「気持ち良さそうね」スカーートがめくれて女の太股が露になっている。女がウィスキーをねだった。喉を鳴らして飲み込む。
「蛇って男根の象徴なのよ」「この国って古代からセクスが好きなのよ」「万葉集だって殆どが相問歌でしょ」「古事記は読んだ?」「性の描写が凄いでしょ?」「最初のイザナギとイザナミの所から性交なんだもの」「天皇家は卑猥な性交から始まったのよ」「卑弥呼と弟帝の話は有名よね?異母弟姉よ。古事記や日本書紀には異母や異父の皇室の交わりがいっぱい出てくるのよ。知ってる?」「その関係を基軸にして、夫や妻、恋人を裏切って天皇制を築いていくのよ」「そして桓武天皇が田村麻呂を使ってエミシ、この辺を征服したのよ」「私。天皇制が大嫌いなの。天皇も皇室も嫌いだわ」「今、テレビで義理の弟姉が恋愛して苦悩するドラマが大人気なんでしょ?」「私は一人っ子だからあの感覚が全く理解できないけど。異父と異母を合わせた様な関係でしょ?誰も入れ込めない程の靭帯でしょ?」「あなたはわかる?義理の姉がいたりしてね?」
蛇が離れた。「射精したのかしら?」振り向いた女が唇を舐めた。
やがて、ポツポツと落ち始めた大きな水滴が、瞬く間に激しい夕立になった。
雷鳴が間近に迫ったかと思うと、辺りは真っ暗になり、二人は神社の狭い縁に降り込められた。「凄いわね?」「怖いくらいだわ」「いつもの事だ。暫くしたら止む」
雨が大粒の雹に変わった。稲光が辺りを煌めかせたかと思うと、ひときわ激しく雷鳴がつんざいた。叫声を発して女が抱きついた。豊かな乳房が紊乱を求めている。
女の体温が伝わってくる。暫くすると、「いい身体をしてるのね」「セクス?」「した事ないの?」「ない」「夢精するでしょ?」女の手が男の股間をまさぐる。「若いんだもの?」「そんな事ばっかり考えてるんじゃない?」「本当に初めてなの?」「私とやりたくない?」「教えてあげようかしら?」「もっとしっかり抱いて」「キスしてもいいのよ」
二人はきつく抱き合った。キスをする。全てを女がリードする。暫く舌を絡めた。女が腰をくねらせて股間に股間を擦り付ける。
「固くなってきたわ」「窮屈じゃない?」「解放してあげようかしら?」しゃがみこんだ女がジッパーを下げる。陰茎を引き抜いて含んだ。
「本当に初めてなの?」神社の縁に仰臥した女の裸体が裸の男を迎え入れた。「私が初めての女なのね?」勃起した巨根が滑らかな膣の奥深くに潜入した。「凄いわ」「避妊しているから」「そのまま射精していいのよ」女の言葉が途切れ途切れに、男の記憶から消えていくのであった。
-剃毛-
大学一年の時の盛夏。両足にできた合計六個のできものの切開治療を受けた草矢は、数日後に、ある大学病院の精神科で自ら診察を受けた。
現れた豊満な女医があの倫子だったが、果たして、草矢は認識していたのかどうか。著者すら迷っている始末である。
倫子は一瞥して驚きもせずに、「こんなに暑いのに…」「今時はそんな髪が流行りなの?」「誰だって頭がおかしくなるわよ」「髪を切りなさい」「毛も剃りなさい」と、一気に言い放った。「そうよ。陰毛もよ」卑弥呼の宣託に似せて倫子は診断を下した。
妙に納得した草矢はアパートの近所の床屋で瞬く間に丸坊主にして、飄飄と帰るなり、アパートの風呂で陰毛と脇毛の総てを剃った。すると、草矢は忽ちに爽快な世界の住人となった。あの女医こそ、たぐいまれな名医に違いないと確信した。
二〇代前半の盛夏。ある女の陰毛を剃った。 その女が狂っていたから治療しようとしたのか。単なる痴戯の一つだったのか。
五月に入ると草矢は狂気の到来にいつも怯えた。
-倫子-
戻った女が缶コーヒーを差し出して、「好きでしょ?」と、言った。
男の挨拶に応えて、女は倫子と名乗り、六四歳だと言った。
草矢の生活は劇的に変化した。
草矢は三時に起床して大抵は五枚ほど書く。八時に朝食に向かう。倫子が席を確保して待っている。
食事が済むと倫子は絵を描く。短歌をたしなむ。ストレッチもする。庭の手入れも相変わらず余念がない。女は自分の趣向や時間を大切にしているのだ。
男は一日に七枚ほど書くのだが、殆ど昼前には終える。それ以上の執筆は、満ち足りた充足感が拒否をするのだ。
昼は部屋でコーヒーをたてて甘いものを少し食べる。
午後は庭や館内を天候や体調と談合しながら歩く。ストレッチ教室や句会もある。
女との時間や気分が合えば、時おり二人でドライブに出る。自然の移ろいに浸る。気に入った店でコーヒーを飲む。ひいきの共同浴場につかる事もある。 早い夕食を済ませると、昼の長い療養に耐えてきた身体が安息を求めている。女が訪ねてくる時もある。
倫子は草矢の作品に耽溺して、男の過去を知りたがった。
男の最悪の恥辱は排尿の事だ。その事を女には未だ話していない。
-草矢の容貌-
「儚」後書き
「My favorite things」というアメリカの楽曲があり、ジャズ歌手の伊藤君子が津軽弁で歌う。絶品だが、さらに驚くことに、彼女は淡路島に生まれ育ったのである。そういう人が津軽弁の歌詞を津軽弁で歌う。実にいい。傑作だ。それに倣ってみよう。
-儚の歌-
私の好きなもの
私にはいっぱいある
好きなもの
みんなみんな
大好き
叡知、思索、分析、原理、論理、哲学、知的好奇心の充足
私にはいっぱいある
好きなもの
みんなみんな大好き
でも、私は孤独
準備と楽観、展望、希求、集中
人民、権力の横暴と闘う人
大衆闘争、ロシア革命、反骨の人々、労働者の団結
反逆者、革命家、社会活動家、運動家、冒険家、賢い労働者、善き親、類への信頼
私は孤独
でも、いっぱいいっぱいある好きなもの
みんなみんな
大好き
歴史全般とりわけ古代史、縄文、エミシの歴程、卑弥呼の謎
ダーウィン、マルティンルター、釈迦、孫子、孔子、マルクス、レーニン、吉本隆明、周恩来、勝海舟、アテルイ、伊達政宗、平将門、法然と親鸞、
私にはいっぱいある好きなもの
みんなみんな大好き
ルノワール、モネ、ユトリロ、シャガール、マチス
石田えり、京マチ子、大地喜和子、エリザベステイラー、ソフィアローレン、ジャンギャバン。ジャンポールベルモンド
私にはいっぱいある好きなものみんなみんな大好き
「道」「自転車泥棒」「山猫」「ひまわり」「けんかえれじぃ」「外人部隊」「裏窓」「華麗なる一族」「日本のドン」
菅原文太、三国連太郎、赤木圭一郎
私にはいっぱいある好きなもの
みんなみんな大好き
でも私は孤独
風、海、波、船、汽笛、5月、夏
かぐわしい煙草、土、果樹、陶器とりわけ織部
サングラス、旬の食べ物
私にはいっぱいある好きなもの
みんなみんな大好き
孤独が大好き。
ジャズ、メタセコイヤ、笑顔、ニッカウィスキー、日本の花
宮沢賢治のいくつかの作品、松本清張のいくつかの作品
ニ番手、参謀、黒田官兵衛
スコットランドの独立運動の行方、ヒラリーの政治力
体調の良い日の風呂、私の生涯、初恋、素敵な尻
私にはいっぱいある好きなもの
みんなみんな大好き
でも、そして、私は孤独が大好き
◆そして駄目なもの。
無知、無責任、自己中心者は罪人
反道徳、弱いものいじめ、自堕落、守銭奴、詐欺師、嘘、借金とりわけ子供から借金する親
カルト、一神教
核のすべて
強姦、犯罪者
チンピラ右翼、情の主張、依存する女、占いとそれを信じる人、差別
飛行機、閉所、高所
私小説、曖昧、無気力、リバタリアン、緑色の服、教団、念仏のごとき歌
得体が知れないものすべて
ヌルヌルしたもの、蛇、ネズミ、蛙、爬虫類、両生類
汚ない性器、粗雑な言葉
嘘、死骸
無神経、差別
吉本のお笑いのほとんど、いわゆる情報番組のとんまさ加減
儀礼の欺瞞、観光旅行
原発
-後書きに代えて-
世界の巨匠と称される黒沢明監督、好きではない。評価もしない。だから、むしろ、なぜ評価されるのかが気にかかる。北野武監督も同様。石原裕次郎や三船敏郎など大根としか思えない。宇野重吉も鼻につく。
赤木圭一郎、三国連太郎はいい。菅原文太は絶品だが喜劇にはむかない。沖縄で反戦を語ったあの男こそが、私には広島シリーズの文太に重なるのだ。
勝新太郎が「乱」で黒沢と争ったが原因に興味がある。
こうした私の傾向は単に趣味の問題なのか、あるいは、私自身の何らかの課題なのか、期せずして、何かひとつの「論」に踏み込んでいるのかと、思ったりするのだ。
「華麗なる一族」など、中年の京マチ子はいいが、「羅生門」の彼女には、特別に魅力を感じない。その京も山崎豊子原作でなお光ったのであり、山崎の力は好きだ。「華麗」の月丘夢路もその恩恵を受けたのだろう、いい。
黒沢の最晩年、おそらく遺作だと思うが、「夢」がある。自身の夢を繋ぎ合わせた印象があって、私には理解できないどころか、不快ですらあった。
私は夢はあまりみなかった。しかし、病を得て一変した。毎夜、奇妙怪奇な夢をみるようになったのだ。
そうしたある深夜、その夢は現れた。光りのなかに女神がいる。姿はない。微笑んでいる。感覚で存在を実感しているのだ。私は油絵を描いている。すばらしい出来だ。官能すら感じる。その瞬間、女神がひと筆を入れた。絵がさらに官能を放ち、未だ感じたことのない激しい甘美が私の体を貫いた。もはや何もなくていい、この感覚の記憶があれば生きていけると、確信した。すると、天使が現れ、この女に惚れたなと、言った。そこで目覚めた。それ以来、悪夢にうなされることは少なくなった様な気がする。
私はこの話を映画にする意欲はないし、小説に構成するつもりも全くない。私だけの奥深くに沈澱するだけだ。晩年に、あるいは病気特有の生理現象をいいつらねたところで、特段の意味があるとは私は思わない。専門科学に任せたいのだ。
ビカソの最晩年の性交画や谷崎潤一郎もこの類いだろう。
結局、映画や小説をつくる者がテーマをどこから切り取り、どう向き合うかが根本なのだ。
私小説が嫌いだ。だから近年の私映画ともいうべき邦画の傾向が、自己中心主義を反映しているように思えてならない。小説もしかり。主張を念仏のように絶叫する歌、「思い」を連発した民主党政権、震災時の「絆」や「魂」、今日のへートスピーチ、安倍の精神風土、松下村塾の原点、靖国などすべてが同根に思えてならないのだ。
年寄りよろしく、安直な若者批判や状況を嘆くものではないが、戦後を生きてきた者として、自己中心の傾向がますます増していると実感している。リバタリズムまで行き着いた資本主義が破綻、あるいは修正に至るのか、もはや見届けることもできまいが。
鈴木清順監督、高橋英樹主演の「けんかえれじい」のような青春だった。だから好きだし傑作だと思う。北一輝の影が感じられるのもいい。
成田三樹夫という俳優が演じるヤクザ。インテリ風でいい。建さんなども全く及ばない。往年の文太にも知性が漂ったが。成田はいかにも実在しそうなインテリヤクザなのである。
若い頃、遠戚だという当時評判の親分にスカウトされたことがある。レッドパージで国鉄を追われた男。奥さんの狭い焼鳥屋で一度だけ飲み、口説かれた。「ヤクザも労働組合も上納金で食うんだから同じだ」「経理ができる幹部が欲しい」という。断った。親分が奥さんに飲み代を払っていたのを妙に覚えている。
父の火葬の瞬間、煙突から煙が立ち上ぼり、遺体が自然に化したと実感した。この科学に涙が落ちた。異母弟が笑顔で歩みより意味のないことを言った。成人になって初めて話すこの男の印象が刻字された。義母や叔父など他の者は、みな待合室で談笑していた。
勧められて通夜の夜、ただひとり添い寝した。親戚のおもだった者達と遅くまで話したが、父は話題にならなかった。不思議な葬送であった。
小学四年の時、教師の父が再婚した。妹と父が賛成、多数決だった。以来、妹は馬鹿だと思い、結果してその通りだった。 義母が来て間もなく、ひとつ下の連れ子の女の子、妹三人で風呂に入らされた。教師の馬鹿さ加減で画策したのだろう。私はガキ大将で充分な男だった。夏休みだったのだろう、屈辱で眠れず、翌日、昼の麦畑で泣いた。号泣した。夏の麦畑からヒバリが飛び立った。私の習性はこうしたいくつかの経験からも構成されている。
-典子-
私が児童会長、彼女は副会長。教室で映画鑑賞の時、暗闇の中で座った足の指先が触れ合ったが彼女は避けなかった。その感覚が鮮明に残っているのだ。それ以外の記憶はない。一ニ歳であった。
中学一年の初夏、少女への思いを二人の友達に洩らすと、告白しろと言う。ある日の放課後、少女は友達と二人で自宅に続く田んぼ道を歩いて行く。私達三人は随分と間をあけて追った。最後までその距離はつまらなかった。満開の蓮華草の中を歩く私のためらいは何だったのだろう。
運動会の合同練習だったのか、クラスの違う少女とフォークダンスであわや手をつなぐ状況になった。私は踊りの列から離脱した。中学二年だったろう。
中学三年に少女と同じクラスになった。私の義母が担任。夏休み直前の朝、机に手紙が入っていた。「競って勉強しよう」「先生とも話した」義母のことだ。
彼女が二位、私が三位の成績で、父母が勧める学区外の進学校合格には私は少し点が足りなかった。受験勉強はせず本をよみあさっていた。学区内でいいとも考え、それよりこの狭い世界をいかに抜け出すかを考えていた。
恥ずかしさの反動だったのかもしれない。義母に話したことへの動揺だったのか、怒りだったのか。私は即座に手紙を突き返した。少女の悲しい表情。若いということはこんなつまらないことだったのか、そう思う。少女と話したのは、その時、ただひとことだけなのである。恥ずかしいくらいの言葉だったろう。
「草也と翔子」の恋愛小説をいく通りも構想したが、純白な記憶には及ばない。
この頃、「罪と罰」を何度か読んだ。主人公の女性と少女を重ねていたのかもしれない。
恋というものをいくつかしたのかもしれないが。もてたとか惚れられたとかの実感は全くない。むしろ敬遠されていたのではないか。
二人の子供がありながら離婚した。
ある瞬間に嫌悪されていると感じた。親のこともあり壊したくなかったが、長いいさかいと迷いの末、決意に同意した。
あれほどの修羅を作るほど、なぜ嫌われたのか、不明だし、もはや、探索する意味もない。
素敵な尻がいい。そんな女が一人だけいた。でも、それが別れを阻む要因とはならなかった。
なぜ、尻が好きなのかもわからない。
所詮、ここに至れば、肉体などは精神、もっと言えば思想の入れ物にすぎない。つくずく、そう思う。
では、優しい思想とはと、考える。法然、親鸞はそうだろうと思う。釈迦は、「そう思いたい」
一神教は愛を標榜しながらも矛盾を縫合できない。ニ千年に及ぶユダヤ、キリスト、イスラムの確執が証左だ。ヒンズーもしかり。オウム真理教の破綻は当然の帰結なのだ。
マルクスは優しくあるべき類を仮想した。吉本は大衆の錯誤を許した。
私はといえば、宇宙、地球、生物、ヒトの科学を踏まえ、私の類を仮想しているのだろうか。しかし、こうにも科学が発展の最終段階にたち至った今、うかうかと類の唄を歌う愚かさも認識している。
読み終えた倫子が言った。「典子と私は姉妹なの。私がひとつ上。余り似てないでしょ?あの子は生まれるとすぐに叔母の家に養女に出されたのよ」「『宗派の夢』や『党派の儚』がそこにあるもの…」二人の視線が小さな書棚で交わった。あの子はその本に書かれた通りに生きたのよ」「今も花巻の農場で。元気だわよ」
(続く)
草矢の儚5️⃣