草矢の儚3️⃣

草也

草矢の儚 3️⃣


-得度-

 手術の翌年の春先。
 草矢は呼び寄せられる様に、ある女と白蛇を見たあの山寺にいた。
 朽ちた木製の長椅子に、夢に遊ぶ様に安逸に居眠りをする老爺がいる。目覚めたので暫く話すと草矢を自宅に招いた。一晩話した。
 老爺は仏陀の普遍を求めてある宗派から離脱した信念の在野の僧だった。男は越し方のありのままを全て開いた。
 翌日の朝、異形の僧は草矢の得度を許した。
 三ヶ月後に、突然だったが安らかな最期だったと、老爺の夫人からひっそりと知らせがあった。まるで夢幻に似た出来事だ。


-老僧の話-

 大正の盛夏。
五四で大病を患い縁者が失せた、貧乏物書きの宗教研究家にして社会主義者のある男の午睡を前触れもなく訪ねる者があった。
 茫茫として迎え入れると、五〇半ばの江戸小紋で涼やかに壱子と笑み、五〇がらみの竜胆色のワンピースで闊達に丹子と破顔して名乗った。
 男の廃仏毀釈に関する些か危うい一文を地方紙で読んで肝銘したと感謝して、詳しく教えを乞いたいとも言うのであった。
 装いも面もちも違うが、二人ともあからさまに爛熟した肢体だ。
 壱子は柿、丹子は桃の、極みまで熟した風合いで、歯をたてれば薄皮の隠微な汁がたちどころにもしたたる淫蕩な風情だ。異父の姉妹だと言う。

 釈迦の普遍性を求めた異形の僧の父が宗教団体を創り興隆させたが、突発の変死で関係者の軋轢が激しく、教団が存亡の難局だと嘆息するのであった。
 その再建の助力を男に、こもごも、あるべきもない艶な媚態で懇願するのだ。
 男はいささか困惑した。学識上も眼前の流麗な当事者達にも食指は動く。しかし、現下のはかばかしくない健康の躊躇が無念に否定させた。

 男の病状を慈愛の囁きで聞き届けると、二人は快癒させよう、診察しようと各々が急き込む。丹子は看護婦だとも笑む。
男の意思を待たずに姉妹がにわかに立ち上がった。
 姉妹は足踏みの微塵もみせず、微風にそよぐ陽炎の様に衣服をなよやかに払い落とした。巨匠の描きたての油絵から抜け出た芳醇な裸体が艶やかに光る。寂寞たる侘び住まいに万華の大輪が開いた。

 壱子の滑らかなマッサージを受けながら、丹子の問診に答える。
 いつとは知れず、横たわる男の姉が口を吸い、妹がやはり濃厚な唇で下半身を懇ろに独占する。勃起などあれほど諦念していたのに、身体そのものが逸物に変化して脈動の雄叫びが再生した。
 その衝撃を壱子に挿入した。それは、かつて記憶にない絶妙な法悦なのであった。

 次は丹子だと思い目を向けると、女の破顔が崩れ光に溶解した。もしやこの異変は夢ではないかと、もうひとつの意識を取り戻した男は疑念した。そして、愉楽のただ中で、この夢よ頑なに覚めるなと願ったのである。


-光の夢-

 あの時、草矢は夢をみた。突然に現れたそれは、存在しているというよりも、存在感があると述懐するのが正確だろう。
 それは光そのものだった。しかし、確かに何物かが構造されているのである。そして、同質の光に包まれている。光の中に光で作られた物質があるのだ。
光なのに即物的な確かな量感があるのだ。
 そして、視線の様に明晰なある感覚を放射していた。その放射そのものが例えようもない未知の快楽なのだ。
 そして、その漠然とした光の構造は乳房も膣もなく女体である筈もないのに、しかし、紛れもなく女だと訳もなく草矢は直感した。女神だと思い、菩薩か?如来か?と反問した。
 光は無機物なのだから情愛がある筈もない。だから、光で構造されているその女に情欲があるとは思えない。
 しかし、その光は情愛とも情欲とも名状しがたい莫大な熱量を放射しているのである。
 女が揺らぎ笑む。その笑みが夢の全体に広がり男を包みこむ。
 男の懇願に女の笑みがふくよかに同意する。
 男は挿入した。膣とおぼしき空間の窪みが迎えて絡み付くのであった。神秘の官能に男の総身が包み込まれる。
 女は光が踊る様に様々な姿態を繰り広げる。だが微塵も淫靡ではない。しかし、愉楽と悦楽は例えようもないのだ。それは性なのか、精神なのか。精神そのものが性交しているのではないか。
 男は生身のあの女との時間を思った。女との色情のみに終始した快楽には精神がなかった。肉の混成などは無意味で無価値なものであった。
 草矢はこの光の夢の記憶を携えて生きていけるのだと、実に安堵した。


-原発爆発-

 あの時、大地震と大津波に続いて原発が爆発した。草矢は発狂するかと思うほど怒った。精神のバランスを保つ為に、草矢は異民になり異民の論理を構築して、あの国から分離独立した共和国を創設した。

 草矢が関与した、あるいは伝えられるあの国の国民という形態の本質は自己愛だ。利自愛だ。自己中心主義に相違ない。
 その淫らに狂ったあの国と決別できたのは、男にとっては原発爆発の唯一の恩恵だった。


-終末-

 草矢の性愛は昇華する事なく、女の利自愛と金銭欲に見事に敗戦したのだ。例えば、女の性癖に恒常的に応え女の欲情を余すことなく充足させていたら、女を必ず俘虜に出来ただろうか。そして説諭して情愛への昇華が確認出来ただろうか。

 毎日、丹念に女を洗い足の指や陰核をしゃぶり犬の姿態で情交したら、女は男の意思を受容する僕に変身しただろうか。そして、強欲な利自愛を放棄しただろうか。これこそ陳腐な幻想であろう。
 女は快楽に耽溺しさらに刺激的な未知の享楽の性戯を求めたに違いない。業とはそれほど罪深いものだ。
因業に根差した異常な金銭欲は重篤な精神の病だ。治癒するには人生観を変える程の劇薬がいる。

 釈迦は、我が子を育てる滋養の為に他人の赤子を奪って食う鬼子母神を改心させる為に、彼女の赤子をさらい殺害を示唆して懺悔を迫ったという法話がある。ましてや、法悦などは陶酔をもたらす麻薬の様なもので、劇薬とは対極の概念なのだ。しかし、麻薬はじわじわとその存在すら蝕む。自戒できない女もその命運に従い、破滅の奈落への道を辿らざるを得ないのか。

 永別の最後に、女は男の最初で最後の指摘に答え自らを守銭奴であると認めた。これはある意味では救いだろう。男と別れても、覚醒する日が、もしかしたらあるかも知れない。
 しかし、しばらく後に、男が全く想像だにしなかった女の行状がほぼ明らかになった。それは紛れもなく男をも詐欺の対象とした犯罪だった。女の業は男の世界とは決して交わらないただならぬ地平に放浪していたのだ。

 だからこのエピソードは、あの国に蔓延する自己中心主義者、すなわち強欲な犯罪者の心理分析でもある。
しかし、一人ばかりの女の一部分の構造を分解したところで、あの国の女一般や全国民に通じるものか否かは、男には未だにわからない。
だが自己愛、利自主義が深刻に罪深いのは、古代から普遍的に断定的に確かだ。

 まるで実在する人物をスケッチしたあの様な私小説は書くべきではなかった。極めて後味が悪い。消去したいぐらいだ。
私小説のスタイルか、登場人物か、実在したモデルの人格か、テーマのない致命的欠陥か。何れにしても不快だ。

 これは、原発の爆発で放射能攻撃を受けてあの国から分離独立し、縄文の魂を国是として利自愛を亡国の危険な思想として禁じ、もちろん歴史的に何らの関わりを持たず加虐の象徴の天皇制を採らない、この新生共和国の市民の筆者の偽らざる心象だ。
 物語の最後に、登場した二人が別れて一〇年になると、男の友人である筆者は設定した。
 私達は、あの原発の爆発以来、被爆地のある精神病院の一室で、狂人を装い未だに同居している。
 あの国からあまりに無惨な洗礼を受けた私達は、話し合いを続けながら次第に融合して、今では、私が彼なのか、彼が私なのか、瞭然としない程だ。そして、私達が構築する思想は、あの国の加虐に反撃し壊滅する総量を持つから、服薬などしなくとも私達は正気を保てるのだ。

 その男に託された遺言を書き置こう。
 未だにかの国にあってもはや異国の民となり、今や老後のとば口で終末の原野の未知に佇む、習作の憐れむべき主人公の女に類の幸あれ。


-草矢の儚-

 夢が儚いのか、儚い現実が夢なのか。
 草矢は終には混沌として、宇宙を浮遊する塵の様な気分に陥るのである。
 己の独自を定理するものなどは何もないのではないか。病を得てからが狂気なのか、人一倍に健常だったからこそ、既にその時から精神を病んでいたのか。健康な身体に健全な精神が宿るなどという格言の陳腐さに苦笑してしまう。
 世の中のあらゆる事象が狂気の沙汰の如くに思えてならないのだ。

 ホロコーストで民族廃絶の弾圧に晒されたユダヤ人が、パレスチナ人を塀に閉じ込めている。どちらの民族も神の救済を望んだが、神は未だに現れていない。それどころか、その神の名において、彼らは営営と殺戮しあってきたのである。
 こうして歴史は無慈悲に積み重なり、絶望と希望をないまぜにしながら続いていくのだ。

 あの日、地震と津波が襲来して、翌日に原発が爆発した。忌まわしいあの日のあの時刻とこの地名は世界史に刻印された。
 そして、あの瞬間に、草矢にも、恐怖や絶望、決意、未来に対する姿勢等の激しい情感が立ち上った。
 しかし、激しく去来したあの心の動きは、日々の風雪と共に流れて、次第に稀釈されつつあると思えてならないのだ。いわゆる「風化」だ。他者への批判に気づく前に、真っ先に自意識が風化しているのではないか。
 あの地平に佇み続けなければならない。その為の営為とは何なのか。
 草矢は書き続けるしかなかった。と言うより、あの爆発で、草矢が化学変化したのだ。


ー常陸高原ー

 二〇一一年の盛夏。
 一度見に行っただけで、三日程考えて決めた。常陸高原の中腹の介護付きの施設だ。一〇〇人ほどが暮らし、七割は女性だという。六二歳の草矢は若い方らしい。
 男の部屋は六階建ての五階だ。一人には充分な一Kにバスとトイレがつく。地下には天然温泉の浴場がある。系列の病院と介護会社が近くにある。
 契約時に七〇〇0万の一時金が要る。経費は月額二二万。男の月収は一七万だから、差額の五万は貯蓄から切り崩す。寿命を八五歳として計算した。
 自宅はとりあえずはそのままにして、庭の手入れは業者に任せる事にした。

 引っ越しは全て業者に一任したが、いとも簡単にすんだ。収納家具が三つ。ソファ。一揃いの寝具。洗濯機、冷蔵庫、ラジオとテレビ。そして最低限の台所用品とわずかな衣類だけだ。
 業者の小型車を先導して、携帯電話を持ち車で向かう。

 四時間程で驚くほど簡便に、男は異郷の施設の住人になった。

 盛夏のその日の夕刻。業者にすべてを任せた引っ越しの、それでも簡単な片付けが済むと、閉所が苦手な男は、さっそく地べたが恋しくなった。
 新しい地だから念のためにと杖をついて、エレベーターでホールに降りて外に出た。
 メタセコイヤの並木が南の遠くまで続き、西の山脈から風が吹き降りていた。すぐ目の前に、手入れの行き届いた花壇が広がっている。
 風にたおやかな髪を揺らして、あの女がいたのだ。


-倫子-

 男が小説で書き続けているあの女そのものの豊潤な女だ。豊かな肢体を青い半袖のワンピースで包んで、同系色のエプロンを着けている。
 木製のベンチを見つけて座り煙草に火をつけた男は、幽玄を見る不可思議で見つめている。

 しゃがんだ女は花の間の草取りに夢中だ。つばの広い帽子をかぶっているから表情は判らない。姿勢を変えた女の太股の奥に、青いパンティが暫く覗いた。
 視線を感じたのか、女が顔を上げると大仰に破顔した。初めての挨拶のこぼれる歯が真っ白だ。ふくよかな唇。富士額。三日月眉。大きな瞳。濡れた睫毛。菩薩顔だ。「ルノワールの農婦ではないか」男に懐かしい人と再会した様な安堵感が広がった。
  男に答えて、「ユウナツカムイザクラっていうんです」艶かしいさえずりが返った。「この地方にしか咲かない珍しい花ですよ」「妖しい香りなの」
 杖に視線を向けながら男が、「病気でしゃがめないから」と、残念がると、女が、「可哀想だけど」と、一本を折って、乳房を震わせて立ち上った。

 女が男の脇に座った。石鹸の香りが漂った。数本の濡れた髪が顔に貼り付いている。耳朶のふくよかな肉。しっかりした首すじ。うなじにうっすらと汗が走る。
 軍手を脱いで男に一輪を差し出した。手が触れて柔らかい電流が走った。
 女が甲で汗を拭う仕草が、知性と野生の融合したエロティシズムを醸し出す。
 男の視線が痛いのか、「喉が乾いたわ」と言い残して立ち去った。中背だ。揺れる芳醇な尻を豊かな太股が支えている。奇妙な既視感が男の脳裏をよぎるのだった。


-女医-

 草矢は煙草に火をつけ様とした。一陣の風がマッチの火を吹き消す。後ろ姿の女の裸を想像した。
 その男の脳裡を、霧から湧き上がった様な記憶が、瞬間的に覆った。

 「これも診察のうちなんだから正直に答えるのよ」憮然とする草矢に、「街を歩いていて、すれ違った女の人の裸を想像した事、ない?」ロールシャッハテストが済むと、豊満な女医が尋ねた。

 一九六六年の盛夏。草矢は高校二年の夏休みに、父親にある精神病院に連れていかれた。
 父親の殺害を妄想したり、柱時計の秒針の音が耳について不眠に悩み、混沌とした不安に苛まれたりしていた。父親はそのただならぬ様子からノイローゼと疑ったのだ。

 その三〇歳程の豊潤な女医に、草矢が言い放った。「先生の裸なら見えるよ」「先生も俺の裸を想像してるんだろ?」女医はたいして驚きもせずに、赤い唇を舐めながら、「随分と不良なのね」足を組み替えると、女の太股の奥は、男の視線の総てを吸収してしまう陰湿な暗闇だ。
 「これくらいなら狂ってはいないわ」「でも、急進性の軽い躁ね」「記憶障害の疑いもあるみたいだし」と、カルテの記載を済ませると、後ろに控えていた父親に、「ほっとくと本格的な躁鬱病が懸念されます。念のために、数日の検査入院をして詳しく診察しましょうか?」「詳細なカウンセリングをして、懇切に治療しますから」「完治させますよ」立て続けに承認を強要する。
 父親が同意をすると、「四、五日、先生と付き合ってみない?。とっても楽になれるわよ」と、男の手に柔らかい感触を重ね合わせて、白衣の胸を緩やかに波打たせながらささやいた。


-雷鳴-

 その前年の盛夏。高校一年の夏休みの草矢は、伝説の大滝の滝壺で数人と泳いでいた。

 夕方には男が一人になった。男は家には帰りたくなかった。父親は出張でいない。義母は何も言わない。この陽気なら野宿も苦にはならない。煙草もウィスキーも大分残っている。近くの辺鄙な雑貨屋にはパンやソーセージもある。男はその様にして幾度も放浪していた。
 何よりも、今は姿は見えないが、青いワンピースの豊満な女が、滝のかたわらに建つ神社から男を見ていたのが気になっていた。滝壺の崖に立つと、神社の縁に腰掛けた女のスカートの中が丸見えなのだった。女がわざと見せているのではないかと男は思った。悪童達が囃し立てていた。
 「ほら。また足を組み直した」「中、見えたな?」「見えた。紫だ」「あんなの見てたら固くなってきた」「俺もだ」「幾つだろう?」「二五位か?」「こんなところに一人で?」「色気違いか?」「あの赤い車に乗ってきたんだ」「金たまを見せてやれ」「俺か?」「女が股を触ったぞ」「やりたいのかな?」「もう濡れてるんだ」

 悪童達がちりじりになり一人になった草矢が淫らな誘惑に引き寄せられる様に階段を登りきると、そこは神社の粗末な拝殿だ。女の姿はなかった。男は僅かに失望した。もしかしてと思って裏手に廻ると、女がいた。
 挨拶もせずに再び拝殿に戻って、戸惑いを沈めさせて煙草に火をつけた。と、「随分と不良なのね」と、女の湿った声が追いかけてきたのだった。

 甘酸っぱい香りを漂わして、女は縁に腰を下ろして足を組んだ。
 「滝の高さはどれくらいあるの?」「一〇メートル」「怖くない?」「直ぐに慣れる」「水遊びは好きなの?」「高校の水泳部だ」「やっぱりね」「いい身体だもの」「何年?」「一年」「一五歳?」「一六」「身長は?」「一七八」「立派だわ」「ずうっと見てたのよ」「知ってた」「私を見て何をいってたの?」「厭らしい言葉を叫んでいたわね?」「パンツを脱いだ子がいたわ」「もう陰毛が生えてるのね?」

 女の視線がまとわりつく。草矢がウィスキーの瓶を取り出した。キャップで飲むのを見つめながら、「ほんとに無頼なのね?」「滝壺は深いの?」「深い」「どれくらい?」「底はない」「どういう事なの?」「どこかで川と繋がってるんだ」「魚はいるの?」「巨大な鯉が主だ」「どれくらいなの?」「人を飲み込むんだ」男が話し始めた。


(続く)

草矢の儚3️⃣

草矢の儚3️⃣

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-09-02

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