ふれる
想うこと
「いっつもごめんね」
そう言いながら亜希さんはタオルで髪を拭きながらバスルームから出てきた。
もちろん服は着ている。シャワーで髪を濡らしてきただけだ。
限りなく素肌に近いメイクと濡れた髪がやけに艶っぽくて、僕が男であることと同時に、今彼女の部屋はふたりだけの空間になっていることを強く僕に認識させた。
そのことで少し動揺している僕の心とは裏腹に、亜希さんは手際よく大きめのスタンドミラーとアルテック風のスツールを窓辺に用意している。
「いいえ。僕も亜希さんを練習台みたいにしちゃってすみません」
僕はリュックからハサミとコーム、霧吹きとクロスを取り出す。
彼女はすでにスツールに座って鏡越しに僕を見ていた。
タオルを彼女の首にかけ、その上からクロスをかける。軽く指が1本分入るくらいのとこでとめた。
「苦しくないですか?」
「苦しくないよ。だいぶ様になってきたね。美容師さんっぽいよ」
「まだアシスタントですよ。シャンプーして、ここまでは僕の仕事なんで。いっつもやってる事が様になってなかったらショックです」
霧吹きに水を入れる。空中に3回吹いた。
半年くらい前のこと。
駅前のチェーン店の居酒屋で美容室の先輩と仕事終わりに軽く飲んでいたときだった。
愚痴っぽい先輩だったが、いつも奢ってくれる。
「一人前になったら俺に奢れよ」と、いつも僕の背中を強く叩くので、その時は背中は痛むが僕の財布は全く痛まなかった。
ある程度の話の切れ目を伺って僕はトイレに立った。奢ってもらうので先輩が気分良く飲めるよう、僕も少しは気を使う。
手を洗って席に戻るとき、角から急に女性が現れた。それは亜希さんだった。
彼女は高校のひとつ上の先輩でバスケ部のマネージャーだった。
当時、彼女は校内ではもちろん他校からも噂になるほどの人気で、バスケ部に入部するやつの大半が亜希さん目当てだった。
うちの高校は県内でもそこそこの実力校だった。練習は想像以上にハードなうえに、亜希さんの彼氏はキャプテンの大沢先輩だという話が広まるやいなや、部員は早々に減っていって、結局篩いにかけられ残った部員は、本気でバスケが好きなやつと、厳しい練習に友情と青春を求めている変に熱いやつがほとんどだった。
僕は前者でも後者でもなく、ただ辞めるきっかけとうかタイミングを逃し続けただけで、とくにバスケの才能があったわけでも、熱くなるほど好きというわけでもなかった。
たしかに練習はきつかったけど、じゃあ辞めてほかになにか熱中できるものがあるのかと訊かれると言葉に詰まるほどで、高校生活でなにかやっておかないと自分にも言い訳ができないのではないかという小さなプライドにもならないちっぽけな感情だけで続けていたような気がする。
そのおかげではあるが、僕は亜希さんとだいぶ話が出来るようになっていた。
少なくとも大沢先輩以外のほかの部員よりは会話する機会は多かったと思う。
「亜希さんですよね?」
通路は狭く、彼女の甘い香水と少しだけアルコールの匂いがした。
「え?藤野くん!久しぶり!元気だった?なんかずいぶん雰囲気変わったね。おしゃれになったじゃん」
「今、美容室でアシスタントやってるんです。亜希さんこそいつ東京から帰ってきたんですか?」
彼女は高校を卒業と同時に上京していった。
それは就職のためだと言っていたが詳しい事は誰も聞いていない。大沢先輩とはその数ヶ月前に別れていた。
噂では「芸能事務所にスカウトされた」とか「女優のオーディションに受かった」とか彼女が華やかになっていく偶像だけが大きくなっていた。
みんなはじめはシンデレラのようなサクセスストーリーを彼女に望んでいたが、それぞれ就職や進学するといつしか、妬みのようなどろっとした感情で物を言うようになっていた。
それには社会人になり厳しい現実と向き合ったり、進学して卒業後の不安であったりと要因は様々だったと思う。
しばらくすると深夜のパチンコ番組に亜希さんが出演していたという噂が流れた。
そこから派生して「地方のパチンコ屋のイベント巡業してるらしい」「ギャンブル依存症で借金がすごいらしい」と根も葉もない噂が地元をひとり歩きしていた。気がつけばみんな彼女にシンデレラじゃなく蜜の味を求めていた。
「先月だよ。しばらくこっちで暮らすことにしたんだ」
僕たちが立っている狭い通路を分け入るように女性が通っていって勢いよくトイレのドアを閉めた。
「あ、すみません。先に入られちゃいましたね」
そのあと、驚くほど自然に僕は亜希さんの連絡先を訊いていた。やりとりはあまり憶えていないが彼女の笑顔は憶えている。
「今日はどんな感じにしますか?」
しっとりとしたセミロングの髪が光っていた。
「おもいきってボブにしちゃおうかな。どう思う?」
「似合うと思います」
スライスを取り、ハサミを入れる。
「あ、切っちゃった」
静かな時間が流れる。
ハサミの音と、時折霧吹きの音。
アパートの前を通り過ぎる車の音と、冷蔵庫のモーター音。
「わたしね。深夜番組に出たことあるんだ。お笑い芸人とグラビアアイドルがパチンコするやつ」
僕は鏡越しに亜希さんを見た。目は合わない。
わたしパチンコなんか全然わからないのにね。それでも出る前はいろいろ調べたんだよ。雑誌とかネットとかでね。でも本番になったらなんにも出来なかった。一生懸命やってたことがズレてたんだよね。そういうことじゃなかったみたい。ほら、藤野くんは知ってるでしょ。わたし少しとろくさいっていうか、考えが浅いっていうか。求められてる事が理解できてないんだよね。その時一緒に出たコはその辺が凄く出来るコで、にこにこ笑ってオーバーなリアクションしてたけど、わたしはそれが出来なくって、ディレクターの人に怒られたんだ。それでも笑顔がぎこちなくて、まわりのスタッフさんも呆れてた。それでそのコを見てたら、なんだか圧倒されちゃって。なんていうのかな。なにかわからないけど納得しちゃったんだ。あ、そういうことかって。がんばってもどうしようもない世界ってあるんだなって。はじめからわたしはそういう世界に向いてなかったんだなって。
「前髪はどうしますか?少し厚めに取ったほうが亜希さんっぽいと思いますよ」
耳の奥がズキズキした。
「それでもそのあと2回出たけど、やっぱりなにも出来なくてそれっきり話が来なくなっちゃった」
「知らないことは出来ないし、出来ないことは出来ないですよ。僕だって教えてもらわなきゃ髪は切れないから」
少しだけうつむいたのがわかった。
沈黙が続く。しかしその時間は容認できるものだった。
そして僕は丁寧に亜希さんの髪を切る。その髪には彼女の哲学、神経や感受性、過去や未来が通っている。当然、切れば痛いだろうと思う。だから僕は丁寧に慎重に彼女の髪を切る。出来るだけ優しく、出来るだけ潔く。
「髪切ったらお昼ごはん食べに行こ。近所に美味しい中華料理屋さんがあるの。切ってくれたお礼にご馳走する」
「ありがとう。奢られるのは慣れてるから遠慮はしません」
切った髪の毛が鎖骨についていた。クロスを取り、タオルでその髪の毛を払った。
彼女の襟足は少しクセっぽい。そのことは僕だけが知っている事実のような気がした。
鏡の中の亜希さんと目が合う。
少しの沈黙のあと僕は自分の想いを彼女に告げた。
それは十代の頃から飲み込み続けていた想い。
彼女は少しだけ微笑んだ。
鏡越しのその顔は高校生の時より、憂いを帯びた大人の顔になっていた。
ふれる