パンが食べたい

パンが食べたい

 そのスーツ姿の男は、コンビニにいた。日付の変わったころ。パンコーナーの棚の前で、迷っていた。すると、横から細い手がのびてくる。同じ年ごろの女性が、崎山パンの「ランチパッケージ」を手に取り、レジに向かった。その棚にはもう、ランチパッケージはなかった。

  斉田伸介は、健康機器販売会社に入社し、3年目。仕事もこなれてきたころだ。この日は外回りの営業も一段落し、内勤をしていた。昼休み、マクドナルドでテイクアウトしたハンバーガーとフライドポテトを食べながら、パソコンの画面をのぞいていた。

  目的は、大好物のランチパッケージの新作を調べるためだ。ピーナッツバターやたまごなどの定番から、スパゲティや唐揚げなどバラエティーに富んだものまで、パンに包み込む。食べる時に手を汚さない手軽さと、ふわふわと柔らかい食感が好きだ。世間でも人気があり、ずらりと並んだコンビニの棚は、時間帯をまちがえると、空っぽである。最近は、大学とのコラボが話題だ。

  「新しいの、出てないかなぁ」
 少しウキウキした気分で、検索エンジンに「ランチパッケージ」と打ち込む。すると、関連の検索ワードが、目に 止まった。

「臭素酸カリウム」

 文系人間なので、化学の知識はほとんどないが、「カリウム」という単語には、さすがに違和感を覚えた。「ランチパッケージ」「臭素酸カリウム」 の2語で検索すると、多くのサイトがヒットした。1つをクリックしてみる。

「臭素酸カリウムはかつて、パン生地、魚肉練り製品などの改良材として用いられたが、ラット腎臓における発癌性が指摘され、国によっては使用が禁止・制限されている。イギリスは1990年、ドイツは1993年、中国は2005年、食品への使用を禁止した。WHOは1995年に「臭素酸カリウムの小麦粉処理剤としての使用は容認できない」と結論づけている
。しかし、日本では「安全性が確認できた」として、一部の大手製パン会社が使用している。その会社が崎山パンで、ランチパッケージや食パンに使われている」

  唖然とした。ヨーロッパはもちろん、中国でさえで禁止されている物質が、日本の商品に使われているなんて。日本の商品は、外国のものよりきびしい基準で、より安全だとばかり思っていた。しかも、自分が大好きなランチパッケージに使われているとは。あのふんわりとした食感は、臭素酸カリウムによるものだったのか……。想像するだけで、食べていたフライドポテトを吐きそうになった。
 そのサイトのコメント欄には「大手の企業がこんなことをしているなんて、知らなかった。ショック」「もう崎山パンは買いません」など、否定的な意見が10件以上もあった。
 その日の午後は仕事が手につかず、ミスを繰り返した。「体調でも悪いのか」と、上司からきびしく叱責された。

 残業で、いつものように遅くなり、終電間際の電車に飛び乗った。時間があれば、ラーメン屋にでも寄るが、ないときにはコンビニにお世話になる。これまでいつも買っていたランチパッケージを買おうか、買うまいか、電車の中で考え込んでいた。結局、女性がさらっていったので買わずにすんだ。代わりにすぐ横にあったマーガリンパンを買った。バターよりマーガリンのほうが、植物性の油だから体には安心だ。そのぐらいの常識は、ある。背に腹は変えられない。マーガリンパンとおにぎりで我慢することにした。

 佐々木恵美は、うつむき加減でコンビニに入った。憂鬱だった。目指すところは1つ。パン売り場の棚だ。自社製品の「無添加シリーズ」には見向きもせず、ライバル社のランチパッケージのピーナッツバターを手にした。棚の前にボーっと立っている男がいたが、気にもならなかった。
 小さいころからパンが大好きだった。中でも、崎山パンのランチパッケージはお気に入りだった。週末になると、いつも父親にコンビニに連れて行ってもらい、ピーナッツバターかたまごを買ってもらうのが、楽しみだった。
 高校卒業後、地元の大学に入り、3年生のとき、就職活動で回ったのは、製パン会社のみ。しかし、大本命だった崎山パンの試験では、最終面接で落とされた。その悔しさを、ライバル社の島敷パンの最終面接で訴えた。「第1希望だった崎山パンに落とされました。その悔しさをはらしたい。御社の一員として働かせてください」。深々と頭を下げた。
 会社の幹部は苦笑いをしながら「おいおい、そんなに正直に言う子も少ないなぁ。気に入ったぞ」。その言葉通り、内定をもらった。
 入社1年目、いきなり「対崎山パン戦略室」に配属された。社内でも公表されていない極秘チームだ。消費者アンケートなどをもとに、どうすればライバル社に勝てるかを検討した。ひそかに期待を膨らませていた。大好きだった崎山パンに勝ちたい。好きだった人にふられ、悔しくて「もっといい恋愛をしてやろう」と思う、女心みたいなものかな、と自分なりに心理分析していた。
 しかし、実情はちがった。裏でつけられた名前は「チームNC」。NEGATIVE CAMPAIGNINGの略だ。要するに、崎山パンの悪い評判を広めていこうとするものだった。
 10人のチームの中でも、3人がその担当となった。恵美もその1人。毎日、パソコンを前に、ネット検索をかけ、崎山パンのマイナスイメージを書き込む。そんな、後ろ向きな仕事を割り当てられた。
 この前は、ランチパッケージに含まれる「臭素酸カリウム」について、書かれている記事を見つけた。そこに、主婦のふりをして、書き込みをした。パソコンは5台ほど割り当てられている。多くの人からの意見があるように見せかけるための、会社の苦肉の策だ。
 恵美は、このやり方にどうしても納得がいかなかった。相手の足を引っ張るのではなく、自社で相手を超える商品を開発すればいいのだ。最近売り出し始めた「無添加シリーズ」で、攻勢をかければいいのだ。なぜ、こんな仕事をさせられなければ、ならないのか。
 ただ、その「無添加シリーズ」については、同じ部署の先輩から、衝撃的なうわさ話を聞いた。「無添加シリーズ」は、無添加のため、賞味期限が短い。必然的に売れずに捨てられる量も増える。その分のコストをどこかでカットしないと、小売価格を吊り上げざるをえなくなる。そんな議論の中で、原材料のコストカットが提案されているという。どうやってカットするのか。それは、原材料の中に、密輸されている「闇小麦」を混ぜ込むというのだ。
 確かに、正規ルートではない小麦が出回っているという話は聞いたことがある。しかし、それは畜産用の動物や、ペットフードに使われているといった類の話で、人が安心して食べるものに混ぜるなんて、信じられなかった。
 「臭素酸カリウム」も、問題視されているが、アカウンタビリティ(説明責任)を果たしているという意味では、きちんと消費者に伝えている崎山パンのほうが、誠実な会社に見える。わが社では、その「闇小麦」を使い、「無添加シリーズ」として販売するというのだ。すでに市場に出回っているという話も聞いた。

 いつものように、終電近くになり、コンビニに寄った。いつもなら自社製品を買うが、きょうはそんな気分には、到底なれなかった。久しぶりに、ランチパッケージを買って食べた。なつかしい味がした。明日、久しぶりに実家に電話しようと、思った。

 伸介は、深夜の情報番組を見ながら、マーガリンパンを口にしていた。ふと気になって、パソコンに向かう。ネットで、マーガリンを検索してみた。すると、動かしていた口が止まった。「マーガリンとトランス脂肪酸」という記事を見つけたのだ。
 「マーガリンは、植物性油を水素によって『水添』することによって、固体にします。その際、トランス脂肪酸という発がん性のおそれがある物質が生まれます。特に、業務用のマーガリンには、多く含まれており、分子の構成はプラスチックに似ています。いわば、プラスチックを食べているといっても過言ではありません。マクドナルドの油にも多く使われていて、フライドポテトは多量のトランス脂肪酸を含みます」
 伸介の頭の中は真っ白だった。もう何も食べたくない、と思った。
 そうだ。最近、島敷パンが売り出している「無添加シリーズ」を試してみよう。安全をお金で買う時代になったのだ。もう、背に腹は変えられない。

パンが食べたい

パンが食べたい

伸介はいつものように、コンビニのパン売り場にいた。しかし、いつものように大好きなパンを手に取る気になれなかった。それは、衝撃的な情報に遭遇してしまったからだ。食の安全をめぐる短編。製パン業界からのクレームは、一切受け付けません!

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-14

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