唇(と、手)

むずかしいことばかり話す彼の、唇の形が好きだった。赤の他人の、戯言のようにしか聞こえない彼のなまぬるい思想もガバガバの倫理観も、どうでもよくなるくらいには唇の形が好きだった。散々散々しゃべり散らかしたそのあとで小休止のためにストローを加えるその、唇がひらいていく瞬間が好きだ、と何度も思ったし、今もやっぱり、おんなじ気持ちで彼を、彼の唇を、見つめている。
「ねえ、聞いてるの?」
自分の思想を語るのではない、わたしに話しかけるときだけ、彼の口調はいくらかゆっくりになる。それに伴って唇の動きもゆっくりになって、張り付いていた上下がすこしずつ割れていくところだとか、厚めの下唇がちいさく揺れるところとか、スロー再生のようにすべてが目の前でまわる。それがたまらなくて、わたしは必死で彼の口元に食らいつく。「うん?」わたしは彼の話を、聞いていないフリをする。わたしに話しかけるときの慎重な感じの唇が好きだから、何回だって話しかけてもらえるように、でもそれには彼は気がついていなくて、彼はわたしのことを、ちょっと耳が遠いひとだと思っている。そうするとさらに彼の唇の動きは緩慢になっていって、わたしはよろこび、さらに耳は遠くなっていくのだ。
「だからあ、聞いてるの? 話。もしかして、聞こえてなかったりする?」
「聞いてるよ」
誤魔化すように手をひらりと振りながら、やっと答えたわたしに、彼はちょっと安堵したように、すこしうれしそうに、息を吐く。息を吐くときの、ちょっとだけあらわれる隙間に、わたしはまた、言いようのない興奮を覚える。「聞いてるなら、少しくらい、返事してほしいんだけど」ごめんね、きみの話はちょっとむずかしいから。答えながら、意図的にとがらされた、そればかり、やっぱり見ている。目は口ほどにものを言うなんてたぶんほんとうはそんなことはなくて、口は言葉を発することもできれば表情さえ持っていて、すべてはそこにあるのだと思う。わたしは彼の唇を、彼のすべてだと思っていて、だから自分の思想が自分のほとんどを占めるものだと思っている彼とわたしとの間には、埋めようのない隔たりがある。
「飲む?」彼が差し出してきたグラスを受け取って、されるがまま噛まれて情けなくしんなりとしたストローに口をつけた。ストローを支えるため動かした指を、彼が目で追っているのがわかる。ちゅう、とストローで吸い込んだアセロラジュースはすっぱかった。彼の唇が触れたおなじところにわたしのそれがぴったりくっついているという事実に、どうしようもなく身体はあつくなる。汗がじわりと浮かんできて、心臓がおおきく跳ね上がった。いわゆる間接キスひとつにここまで思いいるのは、いまどき中学生でもめずらしいかもしれない。動揺を押し隠すようにアセロラジュースを再度吸い込む。さっきよりもすっぱい。ありがとう、とそれを返そうとしたとき、彼の手が、空っぽだったほうのわたしの手に重なった。顔を上げると、手元にいやに熱っぽい目線を落とした、彼の顔があった。こんなことははじめてで、驚きながらも、手はつめたい、けれど、唇はどうなんだろうとかそんなことばかり考えている。
彼の唇は、上下とも厚めで、口角がすこし上がっているのがかわいくて下から見るとそれが際立ってさらに魅力的になる。彼の唇のはしっこが、微笑むみたいに釣り上がって、彼がわたしの手を両手で包んだ。そのままわたしの手は、意識もないうちに、彼の唇のそばへと運ばれていく。彼の目は相変わらずわたしの手だけを捉えていて、わたしの目は相変わらず彼の唇だけを捉えていて、傍目から見ればあつくるしい夏休みの男女だろうけれど、お互いちょっとずつずれながら、見つめあって、彼の唇がわたしの手の甲に触れた瞬間もそれは変わらなかった。どき、とあからさまな音を立てて胸が鳴る。彼の唇はやわらかくてでもすこしくたびれてかさついていて、思ったよりずっと、あたたかかった。唇がわたしのためにゆっくり動いて、唾液のうごきもはっきりと見える。「好きだよ」珍しく、彼がわかりやすい簡単な言葉で囁いた。そのときの唇の動きは、彼が彼の思想のうちのどんなにむずかしい言葉を語るときのそれよりも、よっぽど魅力的で、かわいくて、わたしも好きだよと彼の唇を見つめた。

唇(と、手)

唇(と、手)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-01

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