優しい雨
そこに行くこと 違うかたち
初夏の雨はまだ冷たく、メイコの踵をしっとりと濡らしていた。
傘を打つ雨音を聞きながらメイコと一年ぶりにこの坂道を並んで歩いた。
彼女と会うとき、雨が多いのは気のせいだろうか。
過去の記憶を辿ってみても、雨音のなかに埋もれるメイコの細い声しか思い出せなかった。
「そんなことないよ。晴れた日だっていっぱいあったでしょ。それは印象の強い記憶に飲み込まれてるだけ。ただ単にイツキの雨の日の記憶が強いだけだよ」
しかしたった今発したその声も初夏の雨のなかに埋もれていることに彼女は気づいていなかった。
この坂道を登るとメイコの家がある。
傾斜のきつい坂道ではないが、登りきった所から見える町の景色は美しかった。左右に立つ並木の間からはオモチャのような家々と鉄塔が立ち、その先には海が見えた。
彼女はこの景色が気に入って七年前にこの家を買った。古い家だったのと立地条件から、驚くほど安い価格で買えたらしい。購入後、自分で修理してペンキを塗ったら、それなりの見栄えになった。
ぼくもこの家に来ると彼女の手伝いをするようになった。屋根を修理したり庭にデッキを作ったり。彼女が出来ないことをぼくが出来る範囲で手伝った。そのせいか、ぼく自身もこの家に愛着が湧いてきて、家がキレイになる度にまるでわが家のように嬉しくなった。
家に到着するとメイコは紅茶を淹れてくれた。それと一緒にレーズンの入ったスコーンを白い食器にのせて持ってきた。開け放った窓からほんのり潮の香りがする。雨はまだしとしとと降っていた。
少し大きめの籐のカウチソファーに並んで座るとメイコは一年間の出来事を話してくれた。
新しい仕事のこと。姉が結婚したこと。近所にパン屋ができたこと。台風が怖かったこと。最近よく遊びに来る猫のこと。
ぼくは相づちを打ちながら彼女の話に聞き入った。
そして大きな変化がなかったことに少しほっとしたが、その反面哀しくもあった。
時計は午後三時を指していた。
「時間なんてあってないようなもの。わたしたちが勝手に決めた概念なんだよ。楽しい時間は早くなるし。嫌な時間は長くなる。だから楽しい気分で嫌な時間を隠せば楽しい時間が長くなるはずなんだよ。きっと」
去年はこのカウチソファーでそんなことを言っていたのを思い出した。
「どこか修理するとこある?」
「大丈夫。今年はないよ。ありがとう」
夕暮れ。ぼくは彼女を抱いた。
火照ったメイコの肌と冷たいぼくの肌。メイコが淹れた熱い紅茶に冷たいミルクを注いだような気分だった。
そこにカスターシュガーを入れるとメイコは甘い声を出した。
ティースプーンで混ぜるようにまぐわうと、部屋は二人の薫りに満たされた。
夕食は白身魚のムニエル。野菜スープとカンパーニュを食べた。
魚も野菜も貰い物だとメイコは言った。
カンパーニュは新しくできた近所のパン屋で買ってきたらしい。
午前中に行かないと売り切れるので家の近くでよかったと目を細めている。
ステレオからはビートルズが流れていた。「アビイロード」はレコード盤でステレオは以前ぼくが彼女にあげた物だった。
イツキがこのステレオ運んで来たときのこと覚えてる?わたしこんな古いの要らないって言ったらイツキがすごく悲しい顔したんだよ。わたしマズいこと言ったなあって思ってたら、無言で設置しだしてサイモン&ガーファンクルかけたでしょ。あの時初めてちゃんとレコード盤ってのを聴いたんだ。パツン、パツンって針の音を聴いたときに何かすごく暖かいっていうか、胸がジンジンするっていうか、とにかく寒い日だったからすごく嬉しくなっちゃって。これ何の曲?って聞いたら『April Come She Will 』って曲だってイツキが教えてくれて。あれ聴くとその時のこと思い出すんだ。
ぼくもその時のことは覚えている。
メイコがステレオが欲しいって言ったからぼくのをあげることになった。まさかこんなにも大きく、しかもレコードだなんて。少しぼくも気が引けたけど、レコード盤を聴いたらきっと喜んでくれるような気がしていた。
話疲れたメイコはいつの間にか眠っていた。
ベッドに入ってからも沢山喋った。
言葉がない時間を惜しむように。
「ここで一緒に暮らそう。もう何処にも行かないで。お願い。もうひとりにしないで」
彼女は泣いていた。
明け方、空が白んでくる少し前。
外から鈴の音がした。
「ちりん、ちりん」
もうそんな時間なんだなと、ぼくはため息をついた。
「ちりん、ちりん」
鈴の音が近づく。
ベッドを降りて窓から外を覗くと黄泉鴉が立っていた。
鴉の羽で出来たボロを頭からすっぽりと被り、長い爪の先で鈴を持っていた。引きずっている網の中には硝子の破片が沢山入っていてキラキラと光っていた。赤…青…緑…紫…
ボロの裾から蟲が地面に落ち、蠢いていた。そこから見える足は鳥のものだった。
ぼくは外に出た。黄泉鴉はすぐそこに居た。
彼は何か喋っていたが、それは耳に届く声ではなく、ぼくの頭の中に直接信号のような感じで送ってくるものだった。
「うん。わかってるよ。もう時間なんだろ?それが君の役目なんだから仕方がない。それと今年で終わりにするよ。もう未練はない。だから連れていってくれ」
黄泉鴉は硝子の破片をひとつ網から取り出してぼくに渡してきた。
それは青い硝子片で、ドロップのようだった。
ぼくは四年前に死んだ。
この坂の下でトラックにはねられたらしい。
メイコの家に行く途中だった。
ぼくは気づかず彷徨っていると黄泉鴉がその事実を教えてくれた。
なぜかぼくの手の中には硝子のビー玉があった。それを彼に渡すと舐めたり突ついたりして硝子の破片が入った網の中にビー玉を入れた。
黄泉鴉はぼくの目の前で鈴を鳴らした。グルグルと渦巻く意識にぼくは気を失った。赤…青…緑…紫…
気がつくと人がいない浜のバス停にいた。
人の気配も生活音も車の音もしなかった。ただ波の音だけが聞こえた。
どうしていいか分からず、しばらくバス停に立っていると一台のバスがやって来た。
ぼくの目の前に止まったバスからメイコが降りてきた。
「なんでだろう。降りたらイツキがいるような気がして」
ぼくはメイコと坂道を登った。
それから年に一度だけ、この時間がやって来る。
でも今年で終わりにしようと思う。
ぼくが居てはメイコが先へ進めない。修理が必要なのは坂の上の家ではなくメイコ自身なのだから。
喋ることも、動くことも出来ないけど彼は生きていた。
わたしは泣きながらイツキに繋がれている延命装置を外した。
イツキがそうしてくれと言っているようだったから。
それはわたしの衝動のようにも思えたし、啓示のようにも思えた。
今まで動かなくなったイツキにいろんな話をした。
新しい仕事。姉の結婚。近所のパン屋。最近よく遊びに来る猫。
反応は無くてもイツキはちゃんと聞いてると感じていたし、聞こえないけど相づちも打っていると感じることが出来た。
でももう辛くて、自分があとちょっとで壊れてしまうのも分かった。
「ごめんね…」と言いながらわたしはイツキの延命装置を外した。
外は雨が降っていた。
あの日からいつも雨のような気がする。晴れた日だってあるのに。
いつからそこにあるんだろう。
青い硝子片が彼の枕元に置いてあった。それはまるでドロップのようだった。
優しい雨